敷居を越える――都市の形象たちにおける「想起(Eingedenken)」

1.遊歩

ある都市の中を歩くということは、異なる時間や空間が層をなして織り込まれたさまざまな形象を身体で感じ取り、その記憶や意味連関の重層的なテクスチャーの中へと入り込んでゆくことである。「街道を歩いてゆくか、飛行機でそのうえを飛ぶかによって、街道の発揮する力は異なる。同様に、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクストの発揮する力は異なる。空を飛ぶ者に見えるのは、道が風景のなかを進んでゆくさまだけであり、彼の目には、道はまわりの地勢と同じ法則に従って繰り広げられてゆく。道を歩いてゆく者だけが、道の支配力を知る。そして、飛行者にとっては単に伸べ広がった平野にすぎない、まさにあの地形に、道が号令をかけて、遠景や、見晴らし台や、林間の空き地や、すばらしい眺望を、道の曲がりくねりごとに呼び出すさまは、ちょうど指揮官が兵士たちを前線から召喚するのに似ているが、そうしたさまを経験するのも、歩いてゆく者だけである。同じように、書き写されたテクストだけが、それに取り組む者の魂に号令をかけるのであり、それに対し、単なる読者は、自分の内面の新しい眺めを決して知ることがない。そうした眺めをテクストは、つまり密になってはまた疎らになる内面の原始林を通るあの道は、切り開くはずなのだ。」 1) テクストを上空から俯瞰するのではなく、そのうちに沈潜して、言葉の林の中でしっとりと濡れた小道を踏みしめながらそれらの木々の一つ一つに触れ、ある言葉がその地勢の中で他の言葉たちとどのような連関のうちにあり、どのような支配圏をもっているかを感じ取る、というきわめて触感的な経験は、都市に対しては、おそらくテクストに対する以上に稀なものなのではなかろうか。都市の中を歩くということは、そこで出会う建物、あるいはその特定の一部、看板、ショウウィンドウ、街路といった形象たち、またそういった形象たちによって形作られる都市全体の空間的存在のうちに重層化された歴史を感じ取ること、それらの形象たちの支配圏を身体で感じ取ることである。少なくとも、文字によって書かれた都市――『ベルリンの幼年時代』や『一方通行路』のベルリン、ボードレールを通じて、パサージュを通じて描き出そうとしていたパリ――は、ベンヤミンにとってそのような都市とテクストへの、あるいはさらにそこに重ね合わされた歴史や構造性への触感的な沈潜そのものである。

確かにベンヤミンのようなアレゴリカーのまなざしは、都市の形象たちを、都市のうちに配されたアレゴリーとしてとらえる。つまり、それ自体特定の事物でありながら、あるまったく別な事物を指し示し、それによって異なる意味連関をもつものとして。その意味の重層性には異なった時代が織り込まれ、そのようにして一つの形象のうちに歴史が空間化されたものとして。他の事物とは切り離され、基本的には断片として存在するものとして。しかしながら、ある構造的な布置・星座(Konstellation)の中へとあらたに組み込まれることによって、再びある一つの全体像の形成に与り、そのようにして救済されることを待ち望むものとして。 2) ベンヤミンにとって、ボードレールが韻文のテクストのうちに定着させた「近代」のパリの像は――とりわけ、バロックの廃墟に見られる瓦礫の断片のような「脆さ・かよわさ」を通じて――「古典古代」と重なり合っている。「メリヨンについて論じながら、ボードレールは近代に熱中している。しかし彼が熱中しているのは、近代の中の古典古代の相貌である。というのも、メリヨンにおいても古典古代と近代が相互に浸透し合っているからだ。また、メリヨンにおいてもこのディゾルヴの形式、すなわちアレゴリーが見まがいようもなく立ち現れているからだ。」3) ベンヤミンが「ディゾルヴ(Uberblendung)」という映画のタームを用いて表現しようとした、アレゴリーにおける形象・イメージの二重性は、彼が都市の中の事物をとらえるときのまなざしにおいて決定的なものである。ベンヤミンにとってアレゴリーは、弁証法的な両極を一つの空間的形象のうちに重ね合わせているというその「二義性」のゆえに、新たな段階への「転換」を可能にする力を胚胎するものである。『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』によってベンヤミンが提示しようとしたのは、このようなアレゴリー――「近代」の都市パリの具体的形象であるとともに、ボードレールの詩の中に現れるアレゴリーでもある――がどのような革命的起爆力を秘めているかであった。ベンヤミンはそこで、革命的な力を帯びた言葉(アレゴリー)を都市のうちに/詩のうちに配する「プッチスト」としてボードレールを描き出すが、4) ここにもまた言葉と都市の際立って美しいアナロジーを見ることができる。

あるいはまた、このようなアレゴリカーのまなざしは、ある個人の記憶(さらには「集団的記憶」にまで敷衍されることにもなるが)における二重性となってテクストのうちに定着する。そういったまなざしは、ベンヤミン自身の幼年時代の記憶を直接の素材とする『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』において見られるだけではない。『一方通行路』の中で一九二〇年代半ばのベンヤミンがとらえた、アレゴリー的な標題によって示される同時代の都市の形象たちは、しばしばベンヤミンの深く埋められた記憶がそのまま形象化されたもののようでもある。

私たちの人生という家が建てられるに際して行われた儀式を、私たちはとうの昔に忘れてしまっている。だがこの家が攻撃されようとするとき、そして敵の爆弾がすでに落ちてきているとき、ぼろぼろになった奇妙な古物がひとつ残らず、それらの爆弾によって、土台の中に露わにされてくるではないか。すべては呪文とともに埋められ、犠牲として捧げられたのではなかったか。あの下のほうは、なんと身の毛もよだつような珍品陳列室であることか。そこでは、最も日常的なものに、いちばん深い竪穴がとっておかれている。ある絶望の夜、夢の中で私は、もう何十年も消息を知らず、この間、思い出すこともほとんどなかった学校時代の最初の級友と、友情を、そして兄弟のような愛情を、嵐のごとく、新たに結んだ。だが目覚めたとき、はっきりと分かった――絶望が爆発のように白日のもとに晒したのは、この人の遺骸だったのであり、それが塗り込められていたのは、将来ここに住む者が、いかなる点においても彼に似ないようにするためだった、ということを。5)

都市の中でごく普通に目にする「半地下(Souterrain)」――外から見ると、多くの場合、街路に面して足元付近(内部では天井付近)に採光窓をもつ住居の下層部分――が、この短いテクストの標題として、『一方通行路』の中で取り上げられる他の多くの形象たちとともに、それ自体としては都市の風景の中の一つとしてこの場所に収まっている。そのようなものとして、Souterrainという文字ではなく、その写真がそこに収まっていてもかまわないだろう。その形象・イメージが指し示しているのは、自殺した学生時代の親友の記憶、その衝撃のために文字通り地下に埋められたものの、あるとき「爆撃」によって白日のもとに晒されることとなった記憶である。あるいは、意識という表層部分の地下に埋めるという行為とそれを何かのはずみで掘り起こす行為そのものの構造性、そしてそういった行為の上にまさに建てられた生活という構造性そのものといったほうがよいかもしれない。そのイメージは、単なる個人の記憶を越えて、このテクストを読む者――この形象を通じてそれが指し示す記憶・忘却そのものへとたどり着く者――を震撼させる。それは、この形象によって表象されるものが、単に特定の個人の体験に関わるだけでなく、ある構造性そのものの像となっているからである。ベンヤミンがベルリンの市街で出会うさまざまな形象は、それぞれ断片として何の脈絡もなく存在しながら、このように記憶のなかで連鎖していく。あるいはまたそういった記憶の連関とともに、例えば「ガソリンスタンド」や「公認会計士」といった小編に見られるように、都市の形象たちはベンヤミンのとらえるメディアのパラダイム転換の理論連関とも意味の重層性をもって共振し合い、ある新たな像へと組み込まれていくことになるのである。 6)

2.敷居

アレゴリーとしての(あるいはアレゴリーが配された)「近代」の都市に埋もれた「古典古代」を二重写しのように浮かび上がらせるにせよ、忘れ去られた記憶を地下から呼び起こすにせよ、ベンヤミンにとって都市を歩くという行為は、時間や記憶の地層のうちに埋められたある歴史的形象を掘り起こす、いわば考古学的なまなざしをともなっている。しかし、都市をとらえるベンヤミンの視線には、こういった形象・イメージのいわば同時的・垂直的な二重性だけでなく、この二重性に関わるもうひとつ別の、ある根本的な思考様式を認めることができる。それは、ある展開の中での、異なる領域へのいわば水平的な移行である。ベンヤミンのテクストには、これら同時的な二重性の境界、および展開の中での異なる段階の間の境界――これらをベンヤミンはしばしば「敷居(Schwelle)」という言葉で呼んでいる――を越えることをめぐる、きわめて細やかな感受性をともなった反省が支配している。(この小論は、都市について語るベンヤミンのテクストの、アレゴリーをめぐる思考連関、記憶をめぐる思考連関、「敷居」をめぐる思考連関、そして歴史をめぐる思考連関を結びつける試みと位置づけることができるだろう。 )7)

ベンヤミンは、例えば『凱旋行進と凱旋門』と題されたフェルディナント・ノアクの論文からインスピレーションを得て、8) 凱旋門を「祭儀的意義」をもち、「通過儀礼」が行われる場としてとらえていく。「門は、敷居という経験領域からさらに発展して、そのアーチをくぐる人物までも変えるにいたる。帰国してきた軍司令官がローマの凱旋門をくぐれば、凱旋将軍ができ上がるというわけである。」 9) ここで問題となっているのは、例えばノアクが彼の論文の中で意図したような、凱旋門の歴史的機能ではなく、都市の中に、ある異なる世界に通ずる入り口となる場所が存在するということ、異なる世界に足を踏み入れるというある根本的な経験の場が、凱旋門といった特別な意義を持つ建築物に限らず、あらゆる門や入り口あるいは階段の始まりといった、都市の中の具体的形象となって現れているということである。「夢の中を別とすれば、それぞれの都市においてほど境界という現象がそれ本来の姿で経験されうる場所はほかにない。(…)境界は敷居のように街路の上を走っている。そこからは、虚空へ一歩踏み出してしまったときのように、ある新たな区域が始まるのである。まるで、見えていなかった低い階段に足を踏み出してしまいでもしたかのように。」10) 都市の中で境界の機能を持つそれらの形象は、多くの場合――実際、建物の敷居がそうであるように――まさにそのような空間的形態によって特徴づけられるものとなっているだろう。しかし、そういった境界を越えることによる変化は、日常的な経験の中に埋没することによって、おそらくほとんどそのようなものとして意識されることはない。というよりも、それはその境界が本来意図している空間的機能の変化として、自明なものと受け取られることになるのだろう。扉は、ある建築物において異なる空間機能の間の境界をなすものであり、それを通ってゆくことにより異なる機能・意味を持つ空間に入り込んでゆく。しかし、ベンヤミンにとって敷居を越えるということは、そういった単純な空間的移動、異なる機能連関を持つ空間への移動を表しているだけではなく、むしろある異なる層へと入り込んでゆくこと、われわれが今ここにいると感じ、その意味で「現実」ととらえているこの世界とは異なる世界へと入り込んでゆくことに重なり合っている。

その異なる世界は、空間的な比喩としては――前の引用で下に降りてゆく階段によって現されていたように――しばしば、われわれのこの世界の「下」にあるもの、そしてその意味で光の届かない暗い世界としてイメージされている。「古代ギリシアでは、黄泉の国(Unterwelt)に通じているいくつかの場所があるとされていた。覚醒時のわれわれの存在にしても、そのさまざまな秘密の場所から黄泉の国へと道が通じている一つの大地、夢が流れ込んでくるまったく人目につかない場所に満ちた一つの大地のようなものである。われわれはそうした場所の傍らを毎日それとも知らず通りすぎているのだが、しかしひとたび眠りが襲ってくると、そうした場所を取り戻そうとあわてて手探りし、暗い道に紛れ込む。町の家々の作りなす迷宮は、白昼についていえば、意識に似ている。」 11) 敷居は、『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』においては「近代」のパリに埋もれた(まさに「地下的・冥界的(chthonisch)」12) という言葉によって言い表されている)「古典古代」の相貌を浮かび上がらせることの、そして昼間の意識の下に埋められた隠れた記憶を掘り起こすことの、いわば秘密の入り口である。二つの世界の重ね合わせ、異なる世界の発掘は、敷居を越えることによって初めて可能となる。白昼の意識において――つまりわれわれの「現実」感覚において――とらえられる都市に対して、昼のあいだは意識の「下」に隠された、いわば夢の中の都市が重なり合うように存在する。「夢――それは一九世紀の根源史(Urgeschichte)について証言してくれるような発掘が行われる大地である。」 13) それはまた「目覚め」を待つ都市でもあるのだが、その意味においても「近代」のパリが「夢の都市」と呼ばれることになる。

ヴィンフリート・メニングハウスは、ベンヤミンのパリやベルリンについての著作だけでなく、それらに比べれば比較的省みられることのない短い旅行記についても、「敷居」の感覚がいかにベンヤミンの思考を貫いているかを強調している。「一度ベンヤミンの敷居の強迫観念(オブセッション)に対して注意が研ぎ澄まされると、それは彼の他の都市観相学を見ても同じように目を惹く。」14) この「オブセッション」はベンヤミンのテクストのいたるところに浸透している。いったんベンヤミンの敷居に対する感覚を身体で感じ取ったならば、門、扉、敷居、階段といった明らかにひとつの境界を形づくる形象がテクストの中に現れてきたときだけでなく、例えばロッジア、電話、クリスマスツリーなど都市の中で出会うごく普通の物たち、あるいは朝食を食べること、病気になること、動物に触れることといった日常的な経験にベンヤミンのテクストの中で出会うたびごとに、それらがいかに深く「敷居」をめぐる連関のうちに組み込まれ描かれているかを確認することになるだろう。さらには「敷居」が、そういった都市の中の事物や経験を離れて、例えば「目覚めと眠りの間にある敷居」(『シュルレアリスム』)、15) 「世界審判という敷居」(『カール・クラウス』) 16) として、ベンヤミンの思考形式の中に深い根を下ろしているさまに出会うことになるだろう。境界をめぐる思考連関がとりわけ都市について語るテクストにおいて問題となってくるのは、いうまでもなく都市空間こそが、境界という本来的には空間的な形式の集中的に現象する場所であり、「夢の中を別とすれば、それぞれの都市においてほど境界という現象がそれ本来の姿で経験されうる場所はほかにない」からである。

このことは、シュルレアリスム論やクラウス論に見られるように、「敷居」が二つの意味世界の間の論理的な構造関係の境界として現れる場合にもその痕跡を残している。ベンヤミンがゲーテの『親和力』を語るにせよ、カール・クラウスについて語るにせよ、カフカについて語るにせよ、17) そこに現れる「敷居」によって隔てられる二つの世界の論理的な構造関係は――敷居が一つの具体的な空間的形象である以上自明のことかもしれないが――空間的なイメージの比喩によって語られることになる。というよりも、アクセントを置き換えて考えるほうがふさわしいだろう。ベンヤミンにおいて決定的であるのは、異なる層の論理的な構造関係をその表現のうちにどのように配置しているかということである。ベンヤミンがまさに都市について語るテクストの中で述べているように、「考えられた通りに表現された真理ほど貧しいものはない」。18) 都市の中のさまざまな形象、都市空間の中の敷居は、そういった構造関係にかかわるアレゴリーとして配置されている。といってもそれは、都市の中の形象がある論理的関係の中で単に比喩像として機能しているということではない。形象は、それ自体とは別の意味連関を同時に指し示すアレゴリーとして本来的に二重の意味連関の層にかかわり、また、罪の連関にとらわれたアレゴリーとして、時間性が空間化された「自然史」として、それ自体、いわば次の層において「救済」されることを志向している。 19) その意味において都市空間は、ベンヤミンの思考形式そのものの表現でもあるのだ。

そういった都市の形象の中で、敷居は論理的な構造関係を支える形式に直接関わっている。その意味で、ベンヤミンが敷居をめぐる思考形式に対して「敷居学(Schwellenkunde)」 20) という名称を与えていることは、――もちろんきわめて奇異な名称ではあるけれども――もっともなことであるともいえる。『パサージュ論』においてベンヤミンが「敷居学」という言葉を直接用いている箇所でふれられているのは、ゴーティエの著作からの、それ自体としてはごく些細なものとも見える引用にすぎない。「ある歩く哲学者によれば、パリで、歩く人と馬車に乗る人との間には、ステップに足が掛かるか掛からないか、それだけの差しかないのである。ああ! ステップ!……それは、ある国から別の国への、貧困から豪奢への、呑気な暮らしから気の張る生活への出発点であり、無に等しい人からすべてであるような人への橋渡しである。問題は、そこに足を置くことだ。」21) ここでも、二つの世界の境界に関するごく日常的に観察される現象が理論的考察のための出発点に置かれているわけだが、ベンヤミンが、一貫してある理論的枠組みに従いながらも、このように現象そのものの提示を彼の表現のスタイルとしているのは、もちろん現象の世界の中で断片として存在する形象たちをアレゴリーとして新たに布置するという彼の思考の方法に由来する。しかし、そのことによって同時に目指されているのは、そのようにしてこの現象の世界、空間性・時間性によって規定されるこの「歴史」の世界、堕罪によって罪の連関にあるこの世界を――ベンヤミンにとってアレゴリーはそういった罪の連関が形象化されたものでもある――理念の世界のうちに、いわば無空間的・無時間的な神の世界のうちに救済することである。

敷居を越えることの二つの形式連関をもう一度確認しておこう。ひとつはアレゴリーがそれ本来の事物としての意味とともに、別な意味を指し示すという「二義性」である。このことは都市の中の形象における意味の重層性として現れる。そのようにして「近代」のパリの姿は「古典古代」に重ねあわされる。ボードレールにとっての、そしてベンヤミンにとってのアレゴリーであり、「脆さ」「かよわさ」によって特徴づけられる「白鳥」や、22) ユゴーがとらえた「凱旋門」、メリヨンがエッチングで描き出した「ポン・ヌフ」は、この二つの世界の橋渡しとなる形象といってよいだろう。あるいはまた、都市は夢の世界――覚醒時には意識の下に埋められた世界――とも重ねあわされている。その世界に降りて行く敷居は都市の中にいくつかあるのだが、「われわれはそうした場所の傍らを毎日それとも知らず通りすぎている」。『一方通行路』や『ベルリンの幼年時代』のいくつかの小編に描かれているのは、そのような敷居を越える経験である。

こういったアレゴリーにおける意味の重層性に対して、敷居を越えることの持つもう一つの連関は、まさにアレゴリーの展開に関わっている。ある理念的でユートピア的な世界を起点としながらも、そこからの離反による否定性の状態を経て、根源的な状態と結びついたある新しい到達点へといたる、という三段階的な思考のあり方は、ベンヤミンにおいては、理念論(プラトン、ライプニッツ)、ユダヤ神学、歴史哲学、そして三〇年代にはマルクス主義といった、それぞれ基本的には三段階的な展開としてとらえられる思考が複合的に重なり合って形成されている。23) そこではわれわれのこの世界は、(ベンヤミンの場合、単なる「衰亡の時代」とみなされるのではないにせよ)否定性の徴を帯びた段階として位置づけられることになる。それぞれが完全性・全体としての理念の断片であるにすぎない、この世界におけるさまざまな現象として存在しているものは、同時に、堕罪によって神のもとから追放され罪の連関につきまとわれた被造物でもある。この現象の世界における事物のうち、とりわけアレゴリーは、文化史的にもキリスト教にとっての異教的なものを含むことによって、また始原のユートピア的言語の直接性から離反し、記号的にある別のものを意味するという「言語精神の堕罪」 24) のうちにあることによって、何重にも罪の圏内にとらわれているのだが、他方で、それ自体とともに別のものを意味するというまさにその特質(「二義性」)によって、アレゴリーは同時に救済の連関のうちにとらえられることにもなる。というのも、アレゴリーはその空間的形象のうちに本来的な存在と記号的な意味連関(本来性からの離反としての堕罪)という弁証法的な両極を含み持つことによって、ある新たな段階をそれ自体志向しているからだ。弁証法的な両極として位置づけられているアレゴリーの二義性はまた、本来性からの「滅び・衰退」という時間的過程がいわば凝縮され(このことが「かよわさ」「脆さ」となって現れる)、アレゴリーのうちに空間化されたものでもある。ベンヤミンが「自然史(Naturgeschichte)」と呼ぶ、「自然」の空間のうちに「歴史」の時間の流れがいわば凝固した形象(アレゴリー)のあり方は、無時間的・無空間的な神の世界から追放され、時間と空間という形式の中で事物が存在していくこの「歴史」の世界にありながら、この罪の世界のうちにある被造物が再び神の世界の中に救済されることを志向しているのである。

こういった展開において、図式的には三つの審級が考えられている以上、そこには二つの敷居が存在することになるだろう。一つは、理念の世界、神の世界からわれわれのこの世界へと越える途上にある敷居であり――例えば「言語精神の堕罪」や、神学的・歴史哲学的連関におけるアレゴリーの成立、広い意味での「神話」の連関の誕生――、そしてもう一つはわれわれのこの世界からの救済の連関に関わるものである。ベンヤミンが、言語の堕罪の連関、『暴力批判論』や『ドイツ悲劇の根源』で神話の連関について語るとき、あるいはアレゴリーを特徴的な表現様式とした一七世紀のドイツ・バロックの世界、一九世紀「高度資本主義」のパリにおける商品世界について語るとき、あるいは夢の迷宮に重ね合わされた都市、記憶の中の都市について語るとき、彼はわれわれのこの現象の世界、「歴史」のうちにある世界、罪にとらわれた世界がどのような世界であるのかを語りつつ、つねにこの二つの敷居のそれぞれの彼方を念頭においているといってよいだろう。こういった二つの敷居のうち、二〇年代後半以降のベンヤミンのテクストにおいてアクセントが置かれているのは――先にあげた「覚醒と眠りの間にある敷居」や「世界審判という敷居」にしてもそうだが――特に後者の、救済に関わる敷居であるように思われる。というのも、もともとわれわれにとって問題となるのは、一つには、この現象の世界、歴史の世界、罪の世界のうちにあるわれわれ被造物が、どのようにして救済された世界のうちにもたらされることになるかということだからである。しかしそれとともに、ユダヤ主義にとって本来描くことのできない救済された後のヴィジョンが――例えばカフカにおいては、この歪められ不潔さに満ちた世界の中で、救済を求めながらも、それはさらに極端に歪められ、ずらされて、限りなく引き延ばされてゆくのに対して――この時代にベンヤミンがとったマルクス主義的方向と重ね合わされることによって、その方向での一定度の比較的明確な像を結んでゆくことになるからだ。

都市を語るベンヤミンのテクストの中に現れる「敷居」は(明示的でないものも含めて)、このようにして、しばしば「目覚め」と呼ばれるような、マルクス主義的色彩を帯びた「救済」に結びついている。しかし、そうであるとするならば、その敷居は、われわれが「そうした場所の傍らを毎日それとも知らず通りすぎている」として、それに気づいたときにも、(意味の重層性に関わる場合は別として)二つの世界の間を自由に行き来できるような場所となるわけではない。ベンヤミンのまなざしにおいては「パサージュ」がまさに「通過儀礼(rites de passages)」の場として映っていたように、25) 異なる世界への入り口は、その「敷居」を越えた最初の瞬間にのみ感じられるものなのかもしれない。ちょうどベンヤミンが、少年期にシナゴーグでの礼拝に遅れたとき、取り残され遅れてしまったという絶望的な感情につづく、紐帯から解き放たれた快感によって「性の目覚め」を感じたときのように。26)

しかし、その境界が都市の中である空間的形態をとるとすれば、ベンヤミンにとって、何をもってそれは「敷居」と呼ばれるような境界を越える形式の場となりうるのか。門、扉、敷居などは、社会的・文化的に意味分節された異なる空間間の境界を形成する形象として、もともとその機能にふさわしい空間的形態をとって都市のうちに存在している。そのため、なぜそれらの形象が「敷居」となりうるのかという問いは、自明のことがらに向けられた問いのようにしか見えないかもしれない。しかし、例えば玄関の呼び鈴が鳴るということがひとつの「敷居」を形成し、27) さらにいえばそれがこの現象の世界の中から越え出てゆくものにつながっているとすれば、時間・空間を分割するそのベルの音は、この現象の世界の中で他の現象たちとどのように異なっているのだろうか。あるいは、ある事物が重層的な意味・イメージの結節点になるとすれば、その事物はどのような点においてこのわれわれの世界の中の他の事物と異なっていることになるのだろうか。

3.想起 (Eingedenken)

『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』は、ベンヤミンが記憶をめぐる理論についてもっとも集中的に取り上げたテクストの一つであるが、ここで現れる「想起(Eingedenken)」 28) という特殊な概念は、アレゴリーの理論連関を通じて、密やかに「敷居」の理論連関につながってゆく。『いくつかのモティーフ』は、ボードレールの『悪の華』が、それまでの抒情詩受容におけるものとはまったく変化した読者の経験の構造、つまり「大工業時代の不毛で眩惑的な経験」 29) に対応したものであるという前提のもとに、『悪の華』をそういった新たな経験の構造(「ショック体験」)において成立した抒情詩として分析していく。 30) しかし、こういった論の展開を基本的にもちつつも、『いくつかのモティーフ』は、「ショック体験」に対置される「伝統」や「経験」31) の連関が、単に乗り越えられるべきものとして片付けられてしまうのではなく、むしろ「ショック体験」に対する補完的な要素として、『悪の華』での詩人の経験のうちにともに組み込まれていくという側面ももっている。この側面、つまり「伝統」「経験」の連関が『悪の華』のうちに組み込まれていくことに関わっているのが、Eingedenkenである。ベンヤミンは『悪の華』の最初の部分をなす「憂鬱と理想(Spleen et ideal)」という標題について、「理想は想起(Eingedenken)の力を授け、それに対し憂鬱(スプリーン)は秒の群れを招集する」32) という解釈を与えているが、それはまさに右に述べたような「経験」 と「ショック体験」の対置的な関係に対応している。

『悪の華』を構成するとされるこれら二つの要素のうち、「経験」「想起(Eingedenken)」に関わるものをベンヤミンは「万物照応(コレスポンダンス)」と関連づけている。「万物照応(コレスポンダンス)」について触れている箇所でベンヤミンが特に強調していることはまず、いわば原初的な自然と言葉の中でさまざまな感覚が相互に響きあうものとして描かれた「万物照応(コレスポンダンス)」が、「礼拝的(kultisch)」な要素を含むものであること、そして(「体験」ではなく)「伝統」の領域に結びつく「経験」の概念に関わるということである。(このことは、ベンヤミンの概念配置以前に、そのようなものとして理解することができるだろう。)ボードレールのソネット〈万物照応(コレスポンダンス)〉のうち最初の八行をテクストのうちに引用した後、ベンヤミンは次のように続ける。「ボードレールが万物照応(コレスポンダンス)ということで考えていたのは、危機に対して確固たるものであろうとする、ひとつの経験であったと言ってよい。この経験は、礼拝的なものの領域においてのみ存在しうる。」33) ここで言及されている「危機」とは、従来の抒情詩がそれによって存立の基盤を失ってゆくことになった「大工業時代」、「群集」の時代の状況、ボードレールが「近代人としてその証人となった崩壊」(I, 638) であるであるが、「万物照応(コレスポンダンス)」は、そのような「近代」の「体験」を前にして、それとは反対に深く「伝統」と「経験」の領域、そしてまた「礼拝的」な領域に根ざしたものと位置づけられている。ちなみに、『いくつかのモティーフ』における「経験」と「体験」という対概念は、『複製技術時代の芸術作品』における「アウラ」の連関と非アウラ的な断片性(「モンタージュ」)という対置関係に重なり合っており、いうまでもなく「礼拝的」という言葉はその連関にもつながっている。複製技術論は、基本的には「技術的複製可能性の時代」における芸術と知覚のあり方に焦点を定めながらも、「アウラ」を単に過去のものとして切り捨てるのではなく、むしろ「アウラ」への強い想いをつねに見え隠れさせている。それとちょうど同じように、『いくつかのモティーフ』でも、基本的には「ショック体験」によって成立するような新しい抒情詩のあり方を示しながらも、それを一方とする両極が――「憂鬱(スプリーン)と理想」という標題を自分自身の概念配置の場に組み替えることによって――ボードレールの世界を構成していることをベンヤミンは強調しているのである。

「万物照応(コレスポンダンス)」という詩的体験が「アウラ」の連関に結びつくものであるということは理解されやすい事柄であるにせよ、しかしそれがなぜ「想起(Eingedenken)」と結びつくのか。このことはベンヤミンの歴史や時間をめぐる思考と関わっている。ベンヤミンは、「ボードレールにおいて時は奇妙な仕方で分割されており、ただ少数の特異な日々のみが姿を現すのです。それは重要な意味をもつ日々です」というプルーストの言葉を引用した後、34) 次のように続けている。「この重要な意味をもつ日々(bedeutende Tage)というのは、ジュヴェールの言葉で言えば、完成する時の日々である。それは想起(Eingedenken)の日々である。そこにはいかなる体験のしるしもない。この日々は、その他の日々と結びついてはいない。むしろ時から突出している。それらの日々の内容をなすものを、ボードレールは万物照応(コレスポンダンス)という概念に定着した。この概念は〈現代の美〉の概念とじかに隣り合っている。」 35) 『歴史の概念について』での「均質で空虚な時間」や「歴史の連続」への批判によって知られているように、ベンヤミンはこの現象の世界における単なる時間の流れ、そしてその意味での歴史(「純粋な歴史」)のうちに何の救済の可能性も見ていない。救済への「跳躍」の可能性を秘めているのは、この単なる時間の流れのうちに存在しながらも、いわば時間・歴史を一点に凝縮したかのような瞬間(「現在時(Jetztzeit)」)や空間的形象(「自然史」)である。ベンヤミンがプルーストの言葉において反応した「重要な意味をもつ日々」、そしてそれを言い換えた「想起(Eingedenken)の日々」とは、まさにそのような歴史・時間が凝縮された瞬間である。ボードレールにおいて「時は奇妙な仕方で分割されて」いるというプルーストの言葉に対して、ベンヤミンが特別な注意を向ける場合、彼が意図しているのは、ある時間の流れを単に切り分けるということでは決してなく、単なる時間の進行の中で、例えば(プルーストが言及しているように)「もしも、ある宵」という詩の言葉となって現れ出てくるような「重要な意味をもつ(bedeutend)」瞬間、他の均質に流れる時間から突出して存在する瞬間があるということである。「想起(Eingedenken)」とは、こういった単なる時間の流れ、「純粋な歴史」において突出した特別な瞬間として存在する「重要な意味をもつ日々」が、現象の世界、歴史の世界となる以前の理念の世界、神の世界を指し示すことそのものと考えることができるだろう。「万物照応(コレスポンダンス)は想起(Eingedenken)のデータである。それは歴史的(historisch)なデータではなく、前史(Vorgeschichte)のデータである。」 36) 時間の流れやある展開においては過去のもの、それ以前の事象へと立ち帰る行為としての「想起(Eingedenken)」によって想い起こされているもの(=「データ」、「それらの日々の内容をなすもの」)は、「万物照応(コレスポンダンス)」という詩的体験のなかで感じ取られたいわば原初的な自然と言葉の世界である。しかし、それはこの単なる時間の流れの中の世界、「歴史的(historisch)」な世界におけるある特定の過去ではなく、まさに「歴史」の「前」にある世界である。しかし、「想起(Eingedenken)」はただ単にそういった根源を想い起こす行為であるだけではなく、そのような根源を指し示すものとして歴史の世界のうちに突出して存在する瞬間という断片、あるいは「歴史哲学テーゼ」の表現によるならば、「歴史の連続を打ち砕いて取り出した」ような「現在時(Jetztzeit)」 37)の断片を引用し、 ――「後史」となるものへと――新たに構成する歴史の行為なのである。だからこそ、ベンヤミンにとって「歴史は構成の対象」であり、そしてその意味において、「重要な意味をもつ日々」が「完成する日々」と言い換えられているのである。

こういった「前史」を「想起」するモティーフを、ベンヤミンは〈万物照応(コレスポンダンス)〉と並んで〈前世の生〉と題されたソネットのうちにも見ている。このソネットのほうがその題名自体によってさらにはっきりと「想起」の対象を指し示しているかもしれない。「祝祭日を重大で意味深いものにするのは、前世の生との出会いである。」祝祭日もまちがいなくある伝統の連関を指し示すものであるが、これも暦の中で他の日々とは異なった「重要な意味をもつ日々」であり、その意味で歴史の構成の対象となる。「歴史の連続性を打ち砕いてこじ開けようとする意識は、行動の瞬間にある革命的な階級に特有のものである。フランス大革命は新しい暦を導入した。一つの暦が始まるその最初の一日は、歴史の低速度撮影という意味合いを担っている。そして、祝祭の日――それは想起(Eingedenken)の日にほかならない――として繰り返し回帰するのも、根本的には、これと同じ日なのだ。」38) 「暦」は、一年の時間の流れを均質に分ける思考につながっているようにも見える。しかし、ベンヤミンにとって(時間を均質に分ける「時計」に対して)暦はむしろ「重要な意味をもつ日々」が現れる場なのである。「暦は、ヨーロッパでは百年来というもの、もはやどんなかすかな痕跡すら感じさせることもないかに見えるある歴史意識の、その記念碑なのである。」

先の引用の中でもう一つ興味深いのは、「歴史の低速度撮影」への言及であるが、このこともまさに「重要な意味をもつ日々」としての「想起(Eingedenken)の日々」の特質にかかわっている。低速度撮影を行ったフィルムを映写すると、実際の時間の流れよりも速い速度で人物が動き、事物が変転してゆくが、このタイムスパンをきわめて長いものにするならば、そこでは歴史の推移がきわめて短い時間のうちに凝縮されているかのように感じることになるだろう。『パサージュ論』には次のようなメモが残されている。「パリの市街地図から一本の刺激的な映画を作り出すことができるのではあるまいか。パリのさまざまな姿をその時間的な順序に従って展開していくことによって、街路や目抜き通りやパサージュや広場のここ数世紀における動きを三〇分という時間に凝縮することによってそれができるのではあるまいか。それに、遊歩者が行っていることも、まさにこれ以外のなにものでないのである。」39) 単なる時間の流れの中に「重要な意味をもつ日々」や「現在時(Jetztzeit)」として存在する特別な瞬間は、ちょうど「自然史」が「歴史」という時間性の「自然」という空間性への凝縮であるように、歴史の時間の流れが一点に凝縮した瞬間である。このように考えるとき、時間の流れの中に突出して存在する「重要な意味をもつ日々」とならんで、この歴史の世界の単なる空間の広がりの中に、いわば「重要な意味をもつ場所(bedeutende Orte)」として存在する空間的形象を考えることもできるだろう。それがまさに「自然史」としてこの世界のうちに存在するアレゴリー的形象である。ベンヤミンにとっての「敷居」とは、彼の歴史主義批判における表現を転用するならば、いわば「均質で空虚な空間」のうちに、つまり「空間の連続」によって特徴づけられる場のうちに存在する「重要な意味をもつ場所」の一つであるともいってよいだろう。

とはいえ、われわれはむしろはじめからこの空間を均質なものとしてとらえていたわけではなく、時間の流れにおける「暦」と同様に、もともと「重要な意味をもつ」ものによって世界をとらえていたといったほうがよいかもしれない。「時計」によって時間を均質な流れとして等分に計測する技術が進展し、それによってわれわれの思考のあり方がますます「時間の強迫観念(オブセッション)」 40) によって規定されていったと同じように、「地図」における空間表現も、人間の自然な空間表象に従ったもの(表象された距離・方向による絵地図)から、厳密に数値化され、例えば緯度と経度によってあらゆる地点を等質に指し示すことのできるシステムへと転換してゆくことにより、われわれが世界をどのように思い描くかが大きく変貌してきた。ベンヤミンが『第二帝政期のパリ』や『パサージュ論』でも言及している、パリの番号制住所表記の導入もこういった世界把握の転換の一端を示している。ベンヤミンは『ドイツ悲劇の根源』で概念的分節化に基づく哲学的思考を批判し、アレゴリーとして根源を指し示しつつ非連続的に存在する断片の構成という思考のあり方を方法論的に提起しているが、彼がベルリンやパリなどの都市を描く際に試みている歴史および空間の叙述のあり方は、まさにそういったアレゴリー的思考の圏内にある。

「憂鬱(スプリーン)と理想」という標題のうちにベンヤミンが読み取ったボードレールの『悪の華』の二つの構成要素のうち、これまで「理想」に関係づけられた「想起(Eingedenken)」のコンテクストのみを追ってきた。しかし、『悪の華』の基本的な方向を規定しているのはもちろんそういったアウラ的な連関ではなく、反対に「アウラの凋落」、「ショック体験」によって特徴づけられるような「現代の美」の連関、「理想」と対置される「憂鬱(スプリーン)」の連関である。 41) 「秒の群れを招集する」憂鬱(スプリーン)とは、時計によって刻まれる均質な時間のなかに、つまりこの世の生のうちにとらわれているという慰めのなさに起因するものである。つまり「理想」が、この時間性の支配する世界の中で、いわば時間が凝縮した「重要な意味をもつ時間」・「重要な意味をもつ場所」において、「想起(Eingedenken)」によって指し示されるものであるのに対して、「憂鬱(スプリーン)」はこの世界の時間性そのものにかかわっているといえる。だからこそ、「ボードレールが〈憂鬱(スプリーン)〉と〈前世の生〉において、真の歴史的経験の引き裂かれた二つの部分を手にしているとすれば」 42) ということばによって、「憂鬱(スプリーン)」と「理想」のあいだの両極的な時間性のあり方が言い表されることになるのである。このように「憂鬱(スプリーン)と理想」は本来対極的な関係であるにもかかわらず、ベンヤミンは「憂鬱(スプリーン)」を次のように位置づけている。「憂鬱(スプリーン)においては時間が物化される。一分一分が人間を雪片のように被ってゆく。この時間は、無意思的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)の時間と同様、歴史を持たない。しかし憂鬱(スプリーン)においては時間感覚が不自然に鋭敏になる。一秒ごとに、そのショックを受け止めるために、意識が動員される。/時間の計算は持続性よりも均等性を重んじるが、それでもやはり自分の中に異質で目立つ断片を残しておかずにはいられない。」43) つまり、「憂鬱(スプリーン)」においても「想起(Eingedenken)の日々」と同様に、秒を刻んでゆく均質な時間のなかで「物化され」、「雪片」のように堆積し、「異質で目立つ断片」となるような、時間の空間的形象への凝縮が生じてゆくということなのである。この物化された時間は、無時間的な「理想」と結びついている「無意思的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)の時間」と同じように、均質な時間の流れの中に存在しつつも、いわば凝固することによって流れなくなってしまった(「歴史を持たない(geschichtslos)」)時間である。そのような時間性が空間化した形象とは、ベンヤミンにとって、歴史の世界のうちに「自然史」として存在するアレゴリーにほかならない。ということは、「憂鬱(スプリーン)」の中で時間の流れから析出したものは、「想起の日々」として、「重要な意味をもつ日々」として、時間の流れから突出したものと同じなのだろうか。少なくともベンヤミンの把握に従うかぎり、〈憂鬱(スプリーン)〉や〈空虚を好む心〉と〈万物照応(コレスポンダンス)〉や〈前世の生〉が、対照的な性格を示していることは明らかである。このように対照的な詩のうちに、時間が凝縮した空間的・時間的形象という特質が同じように位置づけられてゆくことになるのは、アレゴリーがもともと有している両極性に由来する。アレゴリーは一方で、それ自体「根源」、「前史」を指し示すものとして、この歴史の世界の中で救済の可能性を秘めた形象となって存在している。しかし他方では、堕罪によって神の世界からこの歴史の世界へと放逐され、あくまでも罪の連関に囚われた形象でもある。「憂鬱(スプリーン)と理想」はつまり、この歴史の世界と理念の世界の対置関係を指し示すとともに、アレゴリーの両極的な位置づけの表現ともなっているということができるだろう。

この二つの側面は、互いを前提としつつ、ベンヤミンのテクストの中でさまざまなヴァリエーションとなって姿を現している。ボードレール論の連関において「憂鬱(スプリーン)」が、例えばブランキやニーチェにおける永遠回帰のテーマにかかわりながら、「新しいもの」であり、かつ「つねに同じもの」である「商品」の世界を扱うことによって、このわれわれの世界――歴史の世界、現象の世界、罪の連関にある世界――に焦点を当てているのに対して、「理想」という言葉をとってここで現れたもう一つの要素は、そういった歴史の「前」の根源的な世界につながってゆくことによって、この歴史の世界から救済された、歴史の「後」の神の世界をも指し示している。「想起(Eingedenken)」というきわめて特殊な言葉は、それが用いられるコンテクスト(物語論、プルーストの記憶論、歴史概念等)によってさまざまな色合いを帯びることになるが、この概念を根本的に規定しているのは――物語論や記憶論の異なるコンテクストにおいても「想起(Eingedenken)」の連関で「礼拝(Kult)」や「祝祭日」が共通して言及されているように――なによりもこれが根源を指し示していることである。しかしながら、そのことを前提としつつも、『歴史の概念について』では「想起(Eingedenken)」におけるアクセントは、むしろ「後史」へと向かう救済の連関に置かれているように見える。

時間がその胎内に何を宿しているのかを時間から聞きだした占師たちは、間違いなく、時間を均質なものとしても空虚なものとしても経験してはいなかった。このことをありありと脳裡に思い描ける者はおそらく、過ぎ去った時間が想起(Eingedenken)のなかでどのように経験されたかについても、はっきりとわかることだろう。つまり、まったく同じようにである。周知のように、未来を探ることはユダヤ人には禁じられていた。律法と祈祷は、その代わりに彼らに想起(Eingedenken)を教えている。占師に予言を求める人びとが囚われている未来の魔力から、想起はユダヤ人を解放した。しかしそれだからといって、ユダヤ人にとって未来が、均質で空虚な時間になったわけではやはりなかった。というのも、未来のどの瞬間も、メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある小さな門だったのだ。(補遺B)44)

ショーレムはこのテーゼに言及する際に、ベンヤミンの「メシア的理念」がエルンスト・ブロッホに由来すると考えることほど誤ったことはないと述べながら、この「メシア的理念」と並ぶユダヤ的カテゴリーとして「想起(Eingedenken)の理念」をあげている。 45) ブロッホからの影響を否定するショーレムの言葉が「想起(Eingedenken)」までも念頭に置いたものであるかはともかくとして、ベンヤミンにおけるこの概念は明ら かに、過去のものの中に潜む未来を指し示す力であり、かつ人間的なものと神的なものとの神秘的合一の場でもあるブロッホの「想起(Eingedenken)」の概念ときわめて密接な関係にあるといえるだろう。46) ベンヤミンは『パサージュ論』の初期の草稿の中で「目覚め」を「想起(Eingedenken)の弁証法的、コペルニクス的転換」と位置づける言葉の後にブロッホの名を記しているが、47) その「コペルニクス的転換」についてベンヤミンは次のように説明している。「歴史を見るにあたってのコペルニクス的転換とはこうである。つまり、これまで「既在」(das ≫Gewesene≪) は固定点とみなされ、現在は、手探りしながら認識をこの固定点へと導こうと努めているとみなされてきた。いまやこの関係は逆転され、既在が弁証法的転換の場に、覚醒した意識の突然の出現の場になるべきなのである。政治が歴史に対する優位をもつようになる。さまざまな事実的なことがらは、たったいまわれわれにふりかかったものとなる。そして、その事実的なものを確認することは想起(Erinnerung)の仕事である。実際、目覚めとは、こうした想起(Erinnern)のもっとも模範的なケース、つまり、われわれがもっとも身近なもの、もっとも月並みなもの、もっとも自明なものを想起する(erinnern)ことに成功するようなケースである。」 48) ここではErinnerungとEingedenkenは実質的にほぼ同じ意味を持つものとして用いられているが(これについては後で再びふれる)、とりあえずそのことを前提としていえば、ここでの「コペルニクス的転換」は二つの事柄をさしているといえるだろう。一つは、過去のある出来事(「既在」)はこれまで変わることのない事実としてとらえられ、われわれの認識は過去の事実に遡ることしかなかったのに対して、新しい歴史意識においては、その過去の出来事はそのような「固定点」ではなく、むしろ認識が転換する場となるということ、そしてもうひとつは、現在のわれわれの認識は過去に向かうのではなく、その出来事がとらえられている今現在という時点で、その出来事において認識の転換が起こることによって、われわれの認識はむしろ未来へと向かうことになるということである。「過ぎ去ったことがらを歴史的なものとして明確に言表するということは、それを〈実際にあった通りに〉認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起(Erinnerung)を捉えることを意味する」 49) という「歴史哲学テーゼ」の中の一節は、この意味において理解することができるだろう。

しかしこれらの箇所で、ErinnerungとEingedenkenがしばしばあまり一貫性のないまま用いられているように見えることが、われわれ読者を混乱させる。例えば、「コペルニクス的転換」を説明するテクストに続くパサージュ論の断片には、「既在を夢の想起(Traumerinnerung)において経験すること! ――ということはつまり、想起(Erinnerung)と目覚めはきわめて密接な関係にある。すなわち、目覚めは想起(Eingedenken)の弁証法的、コペルニクス的転換なのである」 50) という表現も見られるが、ここでも二つの言葉はほとんど言い換えのように用いられている。このことはおそらく次のように考えることができるのではないだろうか。ベンヤミンの思考がいかに神学、理念論、歴史哲学さらにはマルクス主義の理論的バックグラウンドによって支えられたものであれ、彼が直接の対象として取り上げているのは、『パサージュ論』にせよ、ベルリンを語るテクストにせよ、この世界の中のごく日常的な事物である。Erinnerungというごく日常的な言葉は、まずそのような日常的な経験を指し示している。このErinnerungは、過去のある出来事を思い出す行為そのものであるとともに、また思い出された内容(記憶)でもある。そのような記憶としてのErinnerungは、過去の出来事を思い出すという行為によって獲得することのできるものであるが、そのようにして手にしたErinnerungは、現在のうちにあるわれわれにとってある時間的な流れが凝縮された像、「それが認識可能な〈いま〉、稲妻のようにひらめく過去の像」51) として存在する。「夢の想起(Traumerinnerung)」とは「既在」と同様に、現在のうちにあるわれわれが手にしている像なのである。その像においてある認識の転換が起こるとき、過去に生じた出来事は、「たったいまわれわれにふりかかったもの」として、現在のわれわれにとって新たな様相を呈する。こういった意味において、Erinnerungも転換を遂げた認識によって未来を志向する特質を持つことになるのだが、基本的には日常的な行為として過去を「思い出すこと」にアクセントが置かれているといえるだろう。またそれとともに、「思い出されたもの」がこの日常の時間の世界のうちに析出することでもある。

それに対して、Eingedenkenは単なる日常的な過去の出来事ではなく――「祝祭日」がベンヤミンにとってそのようなものとして考えられていたように――ある根源的な事態に遡及する。また、Eingedenkenは思い出される内容そのものではなく、ある「重要な意味をもつ」日々や空間的形象が指し示す「根源」につながろうとする行為である。ベンヤミンにとってそのような「過ぎ去ったものへの虎の跳躍」 52) は、「歴史の連続を打ち砕いて取り出す」こと、つまりこの歴史の世界からの救済となるがゆえに、Eingedenkenという言葉において(例えば先に引用した『歴史の概念について』のテーゼ補遺Bに見られるように)「前史」の連関にある「根源」よりもむしろ「後史」へといたるための「救済」にアクセントが置かれることにもなりうる。『いくつかのモティーフ』では、このEingedenkenの概念はまずプルーストの記憶理論との連関において現れるため、彼の「無意思的記憶(メモワール・アンヴォロンテール)」と結びつけて理解されるかもしれない。しかし、「無意思的」であるという記憶の様式そのものがEingedenkenを規定しているのではない。「無意思的」であることが問題となるのは、そのような記憶が――「万物照応(コレスポンダンス)」における体験や「前世の生」の記憶がまさにそうであるように――ある無時間的な「根源」の領域に関わるものであるからだ。先に引用した「歴史哲学テーゼ」補遺Bの異稿で、ベンヤミンはEingedenkenを「歴史についての神学的観念の精髄」53) と位置づけているが、彼にとって記憶をめぐる連関、それとともに都市を語る連関の根幹にあるのは、あくまでもユダヤ神学的な歴史哲学なのである。

そういった「根源」や「救済」の連関は、繰り返すことになるが、例えば「われわれがもっとも身近なもの、もっとも月並みなもの、もっとも自明なものを想起すること」といったきわめて日常的なできごとのうちに宿されている。そうした想起のもっとも模範的なケースとされる「目覚め」や、その前段階としての「眠り」や「夢」も、比喩であると同時にそのような日常的な出来事そのものでもある。同じように、きわめて日常的な都市の中の事物のうちに、「根源」へと遡及することによって救済を指し示す連関が宿されている。異なる二つの世界の境界としての「敷居」は、事実的なもの、現象的なものと神学的なもの、歴史哲学的なものとが重なり合う場であると同時に、「メシアがそれを潜り抜けてやってくる可能性のある小さな門」として、都市の中の空間をそれと知られることなく満たしている。54) 過ぎ去ったものが現在のうちに凝固した夢の像、記憶の像――意志的に甦らせたもの、そして意識のはるか奥底である無時間的なものにつながっているもの――は、こういった小さな門である。記憶の像となって、あるいはその物質性そのものによって過去の時間を現在のうちに宿している都市の形象たちも、こういった小さな門である。都市の中を歩くということは、これらの門を通じてつながっている異なる世界をかすかに予感しつつ、それらの世界が織りなすテクスチュアの中に入り込んでゆくことである。