クリステヴァの<間テクスト性>についての引用

クリステヴァが「間テクスト性」(あるいは他の関連概念)についてふれているいくつかの重要な箇所を以下に列挙します。

テクストの概念 (...) それ故、テクストとは、端的な情報を目指す伝達的な言葉(パロル)を、先行の、もしくは共時的な、多種の言表類型と関連づけることによって、言語(ラング)の秩序を配分し直す超-言語的装置である、と定義しておく。したがって、テクストは一種の生産性なのである。その意味はこうである――(1) テクストが位置する場たる言語(ラング)と、テクストとの関係は分配替え(破壊=構築)的である。だから、純言語学的というよりもむしろ、論理学的・数学的なカテゴリーを通して、テクストに接近することができる。(2) テクストは諸種のテクストの相互置換であり、テクスト間相互関連性 [間テクスト性] (inter-textualitee)である。すなわち、一テクストの空間においては、他の諸テクストから取られた多様な言表が交差し、かつ相互に中和し合うことになる。(『テクストとしての小説』谷口勇訳、国文社、1985年、p.18)

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イデオロギー素としてのテクストの概念 記号学の問題の一つは、旧来の修辞学的なジャンル区分をテクストの類型学で置き換えることにある。言い換えれば、テクストのさまざまな組織を、これら組織の一部をなしていると同時に、これら組織も今度は逆にその一部になってもいる一般的テクスト(文化)の中に鋳千都受けることによって、それら組織の特性を定義することにあろう。所与のテクスト組織(記号論的実践)と、もろもろの言表(要素連続)との交差を、イデオロギー素と呼んでもよかろう。ちなみに、所与のテクスト組織はその空間の中に諸々の言表を消化吸収したり、あるいは、外部の諸テクスト(記号論的実践)の空間の中で諸々の言表を参照したりする。イデオロギー素とは、相互テクスト的 [間テクスト的] 機能なのであって(この機能の“具体化された姿”はかくて楠との構造のさまざまなレヴェルにおいて読みとれる)、また、そういう機能は各テクストの全行程に及んでおり、それぞれのテクストに各自の歴史的・社会的座標を授けているのである。この場合、分析の後で行う説明的=解釈的なやい方は問題にならない。したがって、あらかじめ“言語学的”所産として“既知”のものを、“イデオロギー的”所産として“説明する”ようなことはしない。あるテクストを一つのイデオロギー素として受け入れるならば、記号学の方法自体も定まる。すなわち、記号学はテクストをテクスト間相互関連性 [間テクスト性] として研究するのであるから、それを社会および歴史(という各テクスト)のなかで考究することになる。一テクストのイデオロギー素は炉のようなものである。このなかで、認識力に富む理性は、もろもろの言表(テクストをこれらに還元することは不可能である)が一つの総体(テクスト)へ変換するという事実や、同じく、歴史的・社会的テクストの中へのこの総体性のさまざまな組み込まれ方をも把握するのである。(『テクストとしての小説』pp.18-19)

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 <小説の言表>の概念 小説の言表とは、言述のさまざまな立場(作者、“作中人物”、等)が表現されるための手段をなす言述切片のことである。それは一続きの文として現れることもあれば、一つの段落として現れることも可能であり、その特徴は発話(パロル)の場がユニークであるという点である。
 テクストとしてみた場合、小説とは、その中に多様な言表の痕跡が総合されているのを読みとることができるような、一つの記号論的実践なのである。
 筆者に言わせれば、小説の言表は最小の要素連続(最終的に確定された単位)ではない。それは、操作の諸変項とでも呼べそうなものを結びつけている(むしろ、成り立たせている)、一つの操作、一つの動きなのである。(...) 意味論的な要素連続を括弧の中に入れることにより、それらを組織している論理学的写像が取り出されるし、こうして、われわれは超-切片的レヴェルに身を置くことになる。
 こういう超-切片的レヴェルに従属するところから、小説の言表は小説という生産物全体の内部でつなぎ止められるのである。だから、小説の言表を研究すれば、まず、それらの累計額ができあがるだろうし、第二段階では、それら言表の小説外的由来を探究することが目標となろう。その段階になって初めて、小説というものを全体および/またはイデオロギー素として定義することが可能となろう。言い換えれば、小説外的テクスト総体(Te)に基づいて定義された関数がある値を帯びるのは、小説というテクスト総体(Tr)においてなのである。小説のイデオロギー素とは、Teに基づいて定義され、かつTrにおいて値を帯びる、まさしくこのテクスト間相互関連的 [間テクスト的](inter-textuelle) 関数のことなのである。(『テクストとしての小説』pp.20-21)

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それゆえに、今日では、テクストは科学、社会、政治をつらぬく手直しの作業が行われる――実践され、提示される領土となっている。文学のテクストは今日では、言説としての、科学、イデオロギー、政治の表面を突き抜けて、それらをつきあわせ、広げ、鋳直すことを目指している。テクストは、多元的で、時に多言語的で、たいていは多声的(ポリフォニック)(テクストが連結する言表のタイプはさまざまなのだから)であって、ある結晶の形跡(グラフィック)を現在かしているのである。その結晶とは、無限の中のある一定の点、つまり歴史の中でこの無限が絡まりつく現在の点において捉えられた意味産出の働きにほかならない。(『記号の解体学 セメイオチケ1』原田邦夫訳、せりか書房、1983年、p.17)

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言語における詩的機能を空間的に把握しようとするなら、まずもって、意味素集合と詩的シークエンスのさまざまな操作が実現されてゆくテクスト空間の三つの次元を明確にしなければならない。その三つの次元とは、書く主体、その受け手、外部のテクスト(対話における三つの要素)である。したがって、言葉のあり方は次のように定義される。(a) 水平的に見れば、テクストにおける言葉は、書く主体とその受け手との両方に属している。(b) 垂直的に見れば、テクストにおける言葉は、それに先立つあるいは同時点の文学資料の全体へと向けられている。
 しかし、書物の言説の宇宙においては、受け手はもっぱら言説それ自体としてそこに含まれている。したがって、受け手は、作家が自分自身のテクストを書くときに照合するあの別な言説(別な書物)と融合している。それゆえ、水平の軸(主体−受け手)と垂直の軸(テクスト−コンテクスト)は合致しているのであって、その結果一つの重要なことが明らかになる。それは、言葉(テクスト)はいくつもの言葉(テクスト)の交錯であり、そこには少なくとももう一つの言葉(テクスト)が読みとれる、ということである。それにバフチーンはこの二つの軸を、それぞれ対話および対立するものの併存と呼ぶのであるが、明確には区別していない。しかし、この厳密さの欠如は、むしろバフチーンによって文学理論の中に初めて導入された発見を示している。すなわち、どのようなテクストも様々な引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もう一つの別なテクストの吸収と変形に他ならないという発見である。相互主体性という考え方に代わって、相互テクスト性 [間テクスト性] という考え方が定着する。そして詩的言語は少なくとも二重のものとして読みとられる。
 このように、テクストの最小単位としての言葉のあり方は、構造モデルを文化的(歴史的)環境に結びつける媒介項であると同時に、通時態を共時態(文学構造)に変換する調整項でもあることがわかる。このあり方という観念自体によって、言葉に広がりが生じる。つまり言葉は対話を交わしている意味要素の集合としてあるいは対立しながら併存している要素の集合として、三つの次元(主体−受け手−コンテクスト)において機能している。それゆえ、文学記号論の課題は、テクストの群が交わす対話空間おなかでの言葉の(シークエンスの)さまざまな結合の仕方に対応する形式表現を見いだすことになるであろう。(『セメイオチケ1』pp.60-61)

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われわれは、これに第三の「手法」をつけ加える必要がある。ある記号体系からもう一つの記号体系への移行である。この移行が行われるときに力点移動と圧縮がそこに結びつくからといって、それだけが操作の全体だということにはならない。その上に定立をもたらす措定の変形がつけ加えられる。古い措定が破壊され、もう一つの措定が形成されるのだ。新しい一味mたいけいが同じ意味素材をもって作られることがある。たとえば、言語において、語りからテクストへの移行がなされることがある。しかし、それが異なる意味素材から借用されることもまたあり得る。(...) 相互テクスト性 [間テクスト性] という用語は、ある(ないしいくつかの)記号体系からもう一つの記号体系への転移を表す。しかしこの用語が往々にして、あるテクストの「典拠の研究」というありきたりの意味に受け取られてきたことを考えると、われわれはそれに替えて転移=措定移行(transposition)という用語を選ぶ。(『詩的言語の革命』原田邦夫訳、勁草書房、1991年、p.55-56)