1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第12回講義 註

註0a
後から述べることになりますが、ヴァネヴァー・ブッシュの「メメックス」という、ハイパーテクストの胚芽となったシステムにしても、人間の脳における連想、記憶・思考の連鎖をそのモデルとして考えられたものであり、また、そういった仕方に基づいた文学作品(たとえば、プルースト『失われた時を求めて』、ジョイス『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』など)も「ハイパーテクスト的」といわれているわけですから、その意味で、ハイパーテクストが本性的に技術と結合しているとは限らないともいえます。しかし、実際にハイパーテクストが展開していく過程は、やはり技術の展開の過程といってよいでしょう。
註1
Literary Machinesは1981年に自費出版された後、いくつかの改訂を重ねているが、1991年、Mindful Pressから出版された版も、現在は絶版中の模様。アスキー出版による1994年の日本語訳はおそらく現在でも入手可能と思われる。
 テッド・ネルソンは1997年4月から1999年3月まで、慶応大学藤沢キャンパスの客員教授であり、そこにホームページをもっている。現在(1999年3月)、慶応大学藤沢キャンパスのテッド・ネルソン・ホームページ上において( http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/)、Jfaxというソフトウェアで読み込むことのできる第1章から第3章まで(最も重要な部分)がオンラインで入手できる(無料)。これらのファイルを読み込むためのJfaxもこのホームページから無料でダウンロードできる。
 ネルソン自身については、たとえば、ハワード・ラインゴールド『思考のための道具』パーソナルメディア、1987、第14章でもおおまかなプロフィールを見ることができる。その他、「ハイパーテクスト関連リンク」参照。
註2
Project Xanadu についても、註1にあげたと同じテッド・ネルソン・ホームページに本人による解説がある。その他の、Xanaduについてのサイトは、「ハイパーテクスト関連リンク」参照。
註3
ブッシュのプロフィールについては、例えば、註1にもあげた『思考のための道具』第9章でも少しだけ述べられている。
その他、「ハイパーテクスト関連リンク」参照。
註4
また、『リテラリーマシン』の中でメメックスについて次のように言及している。  

メメックスは、書かれたものなら何でも保存できる出版システムであった。そして、ブッシュ自身が<道筋(トレール)>と呼んだリンク情報を、個々の新しいユーザーが付け加えられるように考えられていた。道筋は、すでに保存された資料同士を関連づけたり、より明確にしたりする目的で使われるものだ。
 ブッシュは正しかったのだと私は考えている。だからこの本は、メメックスを新しい電子的な形態で説明し、世界に対して提案するものである。(『リテラリーマシン』邦訳、p.63)

註5
http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/XU/XuPageKeio.html 参照。
註5b
George P. Landow, What's a Critic to Du?: Critical Theory in the Age of Hypertext. In: George P. Landow (ed.), Hyper/Text/Theory. Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1994. pp.2-3.
註6
テッド・ネルソン『リテラリーマシン』p.42。テクスト理論の延長上に位置づけられたハイパーテクストの理論を語る上で欠かすことのできない、ジョージ・P・ランドウ『ハイパーテクスト』でも、ハイパーテクストの規定としてこの箇所が引用されている。こちらの日本語の方が、私にとってはよりイメージを明確に伝えるものと思われるので、そこからも以下に重引したい。

「“ハイパーテクスト”という語で私が意図しているのは、非順序的なエクリチュール――分岐し、読者に選択肢を与え、インタラクティブな画面で読まれるのがもっともよい読み方であるようなテクストのことである。一般に受け止められているように、これはリンクで結びつけられたテクスト群のことであり、このリンクが読者に異なった経路を与えてくれるのだ。」(邦訳、ジャストシステム、pp.11-12)

註7
テッド・ネルソン『リテラリーマシーン』p.90「システム」、p.142「文献のパラダイム」
註8
ネルソンの言う「文献」がもつ、旧来のテクストの性格については、例えば次のような言葉にも見て取ることができます。  

「文献」という言葉を用いたからといって、<文学>や革表紙の本のことをいっているのではない。<科学文献>とか、「文献にあたりましたか?」など、大学院で聞かれる決まり文句と同じく、広い意味が込められている。
 文献とは<関連し合った著作物のシステム>である。これは私たちが定義したのではなく、発見済みの事実である。著作物はほとんどすべてが何らかの文献の一部である。
 この相互関連は、痕跡的なものをのぞけば紙の上には存在しないものである。人々はこの相互関連を見すごしがちだ。他人を見ても、その人を取り巻く社会や文化を見落とすように、個々の文書は目に入っても、文献としての見方を欠いてしまいがちなのである。
 ひとの読み書きのやり方は、この相互関連に強く基づいている。
 ひとは記事を読むとき、こう自問する、「前にどこかで似たような記事を見たなあ? あ、そうだ...」こうして以前見た関連するものが想起される。(『リテラリーマシン』p.142)

註9
Ted Nelson Home Pageからリンクされている、Project Xanadu Home Page内にある、Project Xanadu のページからの引用。(http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/XU/XuPageKeio.html)
註10
テッド・ネルソンは「ザナドゥ・ハイパーテクスト・システムの概要」として、次のような項目を列挙しています。(『リテラリーマシン』第3章 pp.214-215)
本文で述べたものは、これらのうちの重要ないくつかのものです。(第2章で取り上げられているもの) 「ザナドゥ」の構想については、彼のホームページ内の「XANADU STRUCTURE」(http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/XU/xanastrux.html)でも、くわしく述べられています。
註11
邦訳の『リテラリーマシン』では、序文でもふれられているように(p.21)、もともと「インクルージョン」の語が使用されているところでも、「トランスクルージョン」に置き換えられて訳されています。
 著書『情報の未来』(The Future of Information) は、テッド・ネルソンのホームページ上のMY WRITINGSのページから、JFAX形式の画像ファイルとして、全頁をダウンロードできます。(http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/
註12
http://www.sfc.keio.ac.jp/~ted/XU/XuPageKeio.html 参照。
註13
例えば、次のような回想を行っている。
「大学時代、私は論文などの執筆に利用するためにファイルカードを蓄積し始めたのだが、すぐ手に負えなくなってしまった。カードの一枚一枚が同時にたくさんの場所に収納される必要があった。複数の文章の途中に張り付け、しかも別々に書き直す必要があった。文章と文章のあいだに留まって、前後を関連づけておく必要もあった。紙による保管方法はすべて、関連づけのためには制約が大きすぎ、アイデアのほんとうの構造を見えなくしてしまうために、役立たなかった。」『リテラリーマシン』p.90
註14
ジョージ・P・ランドウ『ハイパーテクスト 活字とコンピュータが出会うとき』若島正・板倉厳一郎・河田学訳、ジャストシステム、1996年。
(George P. Landow, Hypertext: the convergence of contemporary critical theory and technology. Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1992)
註15
George P. Landow, What's a Critic to Du?: Critical Theory in the Age of Hypertext. In: George P. Landow (ed.), Hyper/Text/Theory. Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1994. p.1.
註16
1983年『テロス』(Telos, vol.16, no.55, Spring, 1983, p.205)(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳、河出書房新社、1992、訳者による「解説にかえて」p.515からの重引)
註17
マーク・テイラー『さまよう ポストモダンの非/神学』井筒豊子訳、岩波書店、1991年、pp.3-4。(Marc C. Taylor, ERRING. A Postmodern A/theology. Chicago: The University of Chicago Press, 1984.)
(邦訳では、訳者による挿入や特殊な記号が頻繁に使われているが、ここでは割愛した)
註18
ロラン・バルト『S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析』沢崎浩平訳、みすず書房、1981年(第2刷)、p.8。(Roland Barthes: S/Z, essai, Collection <Tel Quel> aux Editions du Seuil, 1970.)
註19
西川直子『クリステヴァ』(現代思想の冒険者たち30)講談社、1999、p.397。
註20
現代批評理論とハイパーテクストとの親近性の問題についてはランドウにかなり依拠していると見られるJ. D. ボルター『ライティングスペース』でも、こういった扱いがされています。

 テクストの相互間駅は現在しばしば「相互テクスト性(intertexuality)」[間テクスト性]と呼ばれている。ジョナサン・カラーの説明によると、「文学作品は自立的な存在者、<有機的全体>と見なされるべきではなくて、相互テクスト的[間テクスト的]な構築と見なすべきである。これは具体的には他のテクストとの関係においてのみ意味があるシークエンスや、引用やパロディーや論駁や、一般に改変といったものなどである。あるテクストが読めるのは別のテクストとの連関においてのみであり、これが可能になるのはある文化における語りの空間に生気を吹き込むようなコードによってである」(Culler)。印刷された書物や手書きの写本によってテクストを有機的な全体、つまり他のすべてのテクストから物理的に区別され、それゆえ独立した意味の統一体と見なす考え方が育ってきた。これに対して電子空間はテクストの独立性よりもむしろ連関を強調することで、参照指示と暗示の可能性を新たなるものに書き換えてしまう。電子テクストではある一つのパッセージが別のパッセージを参照しているだけでなく、テクストが折れ曲がってどんな二つのパッセージでも一緒にして隣合わせて読者に提示することができる。また、あるテクスト型のテクストを暗示するだけでなく、別のテクストの中に入り込んできて一つの視覚的な相互的テクストとして読者の目の前に現れることも可能である。相互テクスト的[間テクスト的]な関係は印刷の中でも至るところで生じている。それは小説やゴシック・ロマンスや大衆雑誌や百科全書や文法書や辞書などにおいても生じている。しかし、電子空間によってそれまでのいかなるメディアにも可能でなかったような仕方で相互テクスト性[間テクスト性]を視覚化することが可能となるのである。(J. D. ボルター『ライティングスペース』黒崎政男・下野正俊・伊古田理訳、産業図書、1994、pp.287-288; Jay David Bolter, Writing Space. The Computer, Hypertext and the History of Writing. Lawrence Erlbaum Associates, Inc., 1991)

註21
ウンベルト・エーコ「本vsコンピュータはニセの対立だ――本の未来と解放された社会」、『本とコンピュータ』7、1999年冬号、pp.36-45. この文章は『本の未来』(The Future of the Book, University of California Press, 1996)の「あとがき」ということで、『本とコンピュータ』でのタイトルは、ここで自由につけられたもののようにも見えます。
ちなみに、エーコがユーゴのこの箇所を取り上げているのは、そこで言及されているマクルーハンだけでなく、J. D. Bolterの『ライティング・スペース』の冒頭に対する批判も込められているように思わます。
註22
ここでは取り上げることができませんでしたが、ハイパーテクストをめぐる論議において、ジョイスの『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』、プルーストの『失われた時を求めて』などの作品は、ハイパーテクスト的な特質を顕著にもつテクストとしてしばしば言及されています。
ちなみに、Kathleen L. Amenによるハイパーテクスト間連のサイトに含まれる Hypertext−Webliography のページで、James Joyce Centre, Marcel Proust などにリンクが張られています。
http://www.smart1.net/amens/hyper/webl.html
註23
瀧沢武「楽観的ハイパーテクスト論に異議あり――本をどのように読むか」、『本とコンピュータ』7、1999年冬号、pp.64-71.
註24
土田知則・神郡悦子・伊藤直哉『現代文学理論 テクスト・読み・世界』新曜社、1996年、p.251。

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