「画像」における時間

一つの「絵」(画像)として提示されたものは、ちょうど写真がそうであるように、時間の流れの中から一瞬を切り取ったものであるようにも見えます。「物語――シークエンスの幻想」をテーマとする論文集『物語について』(W.J.T.ミッチェル編)の中で、ネルソン・グッドマンは絵画における時間と物語の問題を扱っていますが、その中で、絵画におけるさまざまな時間の表現のされ方のタイプを例示しています。

最初にピーテル・ブリューゲル(父)の『サウロの回心』を取り上げ、そのダイナミックな物語性にもかかわらず、この絵が「一瞬の静止した状態」であることを強調しています。

BRUEGEL 1
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「ピーテル・ブリューゲルによる≪サウロの回心≫は一つの物語を語っているが、その語り方が非常に強引なので、絵の中には文字通り動いているものはなにもないのだということや、絵のどの部分も他の部分より時間的に先行していることはないということ、そして画面上にはっきりと示されているものは起きている行為ではなく一瞬の静止した状態なのであるということを、われわれは忘れがちである。語りにおいても画面上に語られている事柄においても、時間が経過することはない。つまり絵画とは無時間的なお話なのであって、出来事のシークエンスも語りのシークエンスもないのである。」(ネルソン・グッドマン「ねじ曲げられた話」、『物語について』平凡社、172-173頁)

キリスト教徒を迫害するためにダマスコに向かうサウロ(のちのパウロ)が天からの光に打たれて地に倒れ、イエスの声を聞くという有名な場面(「使徒言行録」第9章)を描いたこの絵は、同じ題材をあつかった他の多くの絵とは異なり、主人公であるはずのサウロは彼を取り囲む従者たちに、絵の中でほとんど埋もれたかのようであり、また天からの光も描かれてはいないのですが、それでもなお(あるいはそれだからこそ)、この物語を知るわれわれにとって、この場面の前と後を生き生きと感じさせるような躍動感をともなっています。そういった時間的な継起をともなった一連の出来事をこの絵が感じさせるからこそ、上の引用でグッドマンは、「その語り方が非常に強引なので、絵の中には文字通り動いているものはなにもないのだということや、絵のどの部分も他の部分より時間的に先行していることはないということ、そして画面上にはっきりと示されているものは起きている行為ではなく一瞬の静止した状態なのであるということを、われわれは忘れがちである」と強調しているわけです。

グッドマンは、この後、絵画において時間的な流れが明確に示されている例を提示していくのですが、それらの絵を対照的に浮き上がらせるために、ここで静止的な絵画を提示しているように思えます。しかし、この絵で描かれている情景は、例えば写真で取ったように、純粋にある一瞬だけの状況を切り取ったものである必要はないのです。「使徒言行録」で語られていることがすべて真実であったとしても、少なくとも、ブリューゲルがこの絵を描くために構成した場面は一つのフィクションですから、そこに「ほんとうの」時間の流れを云々するのは無意味であるようにも思えるかもしれませんが、ここで強調したいことは、この「一瞬の静止した状態」の典型であるような画像であってさえも、絵画の場合には(写真とちがって)異なった時間の像を同じ平面上に並べて描き出すことは可能であるということです。例えば、この絵が仮に実際の状況を映し出したものであったとして、ここにいるたくさんの従者たちも、純粋にある一瞬のうちにその空間に占めていた位置にいるものである必要はないわけです。

同じ大ブリューゲルの「ゴルゴダの丘への行進」では、画面の前方に位置する悲嘆にくれるマリアと、やはりよく見なければ分からないほどに小さく描かれてはいるものの、画面の中央で十字架を担いながら倒れるイエスの姿、そして馬に乗った役人たちやその他非常に多くの人々が、同一の瞬間に空間的にその場所を占めていたと考えることもできなくはありませんが、無理にそう考える必要もないでしょう。ある程度の幅を持った時間の流れが、一つの絵の中でとりあえず同時的なものとして提示されてはいますが、逆に言えば、そのように異なった時間が提示されているがゆえに、一つの画像ではあってもそこに時間的な流れをともなった物語を見る人は感じ取ることができるのではないでしょうか。


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(以上、Wolfgang Stechow, 『BRUEGEL』(日本語版)、美術出版社、1980年(第七版)による)

一つの絵において異なった時間が提示され、それによって物語の信仰を見て取ることができるものとして、西洋であれば例えば、「キリストの生涯」を描いたものとか、日本では「聖徳太子絵伝」をあげることができます。グッドマンによれば、「西洋では、絵画による物語は、続き漫画も含んで、左から右に進む傾向があり、東洋では右から左である」(p.173-175) ということですが、そういった絵画においては、同じ平面において、異なる時間、異なる空間が存在して、その一連の絵のグループを視線がたどることによって物語が成立するということになります。グッドマンは、「聖徳太子絵伝」(法隆寺・東京国立博物館所蔵)における時間的な流れを次のように図示しています。

こういった「絵図」、あるいはさまざまな「巻物」は、絵画が一つの物語を形成している顕著な例であるように見えますが、しかしそれはむしろ逆で、先に物語があって、その時間性を絵画の同一平面上に取り込もうとしたためにあのような、不自然な(つまり、同じ平面上に異なった空間と時間が並べられるような)描かれ方となったといえます。巻物という形態は、そもそも線状性をともなう「文字」の特性にしたがったものであり、絵巻物とはその意味でも、テクストがあってはじめて形成されるような媒体であると考えられます。


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