1998年度 インターネット講座

メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程

第4回講義 註

註1
アルバート・B. ロードの『物語詩の歌い手』(Albert B. Lord, The Singer of Tales, Cambridge Mass: Harvard University Press, 1960)がとくにあげられている。また、この研究に先行するミルマン・パリーのホメロス研究も言及されている。両方とも、後に述べるオングの研究の基盤ともなっている。
註2
『グーテンベルクの銀河系』では、イニスについて例えば次のように言及されている。「イニスはまた、なぜ印刷技術がナショナリズムを発生させても部族主義を発生させなかったかを説明する。また、なぜ印刷技術が、印刷技術があって初めて存在しうるような価格体系や市場を生みだすか、ということも説明する。要するに、ハロルド・イニスはメディア技術の<諸形式>の中に潜在しているような文化変容の<過程>を最初に掘り当てることに成功した人であった。本書は彼の業績を説明するための脚注のようなものであるといえよう。」(p.79)
「ナショナリズムと印刷という問題はたいへんに複雑な問題であり、それを持ち出すとなると全巻を領してしまうおそれがあるので、いままで持ち出すのを控えていたのである。だがいろいろな経験の分野における様々な問題についての同じような括り取り方に接してきた現在、このきわめて複雑な問題に手をつけるための準備が整ったといえよう。この点について本書が行おうとしていることは、ハロルド・イニスが述べている次の短い言葉の注釈を書くことであるといえよう。「印刷の発見の影響は一六,一七世紀の野蛮な宗教戦争の中にあらわれていた。権力をコミュニケーション産業へ使用することによって、各民族語の成立、ナショナリズムの勃興、革命、そして二〇世紀における新型の野蛮な暴力の行使が促進された。」 (…) だがやがて彼はメディアがもつ構成的な力、それを使用する人間にそれがもつ書前提をいつのまにやら押しつけてしまうメディアの力に気づき、その後はメディアと文化の相互作用を記録し始めたのである。「二つの国をつなぐ橋が同時にそれらを隔てるものになる矛盾にも似て、伝達手段における改良は相互理解をいよいよ困難にさせることにも資するのである。電信は言葉の縮約を強要し、そのために英語とアメリカ英語との差異はますます大きくなっていった。アングロサクソン世界において膨大な領域をしめる小説世界の例を取れば、いわゆるベストセラーの作品の中には新聞や映画やら字をの影響が色濃くあらわれている。また、お互いのあいだでのコミュニケーションの可能性をほとんど欠如した特殊な読者層というものが、そうした影響のもとに生まれたのである。」ここでイニスは文字形式と非文字形式とのあいだの相互作用をもの慣れた調子で語っている。これに先立つ話題、すなわち民族語の印刷技術による成立と、軍事的ナショナリズム国家の勃興との相互関係を語ったときにように、彼はこの問題もまさに自家薬籠中のものとしているのだ。」(p.329-330)(イニスからの引用 はそれぞれ『コミュニケーションの偏向』から)
註3
オングの著作について、例えば、次のように言及されています。「オング神父の手になるルネッサンスに関する諸発見は、神父の『ラメ――方法の確立と対話の衰退』をはじめとするおびただしい論文に詳しく著されているが、その全てがグーテンベルク技術がもたらしたさまざまな結果を研究しようとするものにとっては直接の関わりを持っている。特に中世後期の論理学と哲学に対して視覚化が果たした役割に関する神父の考察は、この際われわれの関心そのものなのだ。なぜなら、視覚化と経験の数量化はいわば双子の関係にあるからである。(…) 以下はオング神父の『ラメ――方法の確立と対話の衰退』からの言葉である。印刷の発明は語を空間関係の表現に大規模に使用してゆく傾向を招いた。そのために論理や弁証法を量的に扱う方向へ向けて一団と圧力がかかったのだが、そうした思考はすでに長いこと中世のスコラ派の学芸のきわだった特色となっていたのであった… 論理が数量的な、もしくは疑似数量的な扱いを受け、記憶装置として返信、どんどん消費されていったのが、ラメの方法の注目すべき特色だろう。写本文化は視覚的知識を大規模には複製できなかった。また非視覚型の思考過程を図式に表そうとする衝動は印刷文化に比べてはるかに弱かった。(…) 数量化はすでに示したように表音アルファベットに内在する作用であり、非視覚的な諸関係および実在を、視覚的関係へと翻訳する営みを意味する。」(『グーテンベルクの銀河系』p.243-244) 
「新しい印刷文化の箇条書き的方式によって分割され、物質のレヴェルにまで還元されるのは人間に限られない。オング神父は『ラメの方法と商業精神』のなかで次のように指摘する。本の生産に用いられた大量生産方式のために、本を思想の伝達の道具である言葉の容器というよりも、物品として考えることが可能になったし、またそう考えることが必要になったのだった。本はますます製品として、そして売り捌かれるべき商品としてみなされるようになった。生きている人間の言葉である語はある意味で物象化された。活版印刷が行われる以前ですら、中世の唯名論者たちによって言葉の物象化は始まっていた。(…) オング神父のいうように、ラメの項目別による箇条書き的アプローチと分類による視覚的方法が印刷工程に似ていても驚くべきことではないのである。神父はいう。「それはわれわれに印刷工程それ自体を想起させる。つまり、語が活字として印刷の型枠の中に押し込められるのとまったく同じやり方で、取り扱う対象も空間の中に押し込められた部品から成り立っているという仮定の下に、対象に組織構造を押しつける。」 この視覚的、連続的、画一的、線形的なるものの圧倒的な冷笑としての印刷は、一六世紀の人間の感受性の中に影響を与えないではおかなかった。(…)印刷の登場とともにたちまち社会の第一線に飛び出した、新しい「活字人間」については、やや後になって、個人主義とナショナリズムとの関連において詳しく論ぜられよう。ここでは印刷が耐えず、より鮮明度の高い視覚化に向かって進みながら、分離説くわけによって「応用」知識の諸観念を構造化していったやり方だけを、われわれの関心事としておこう。オング神父の言葉によれば、「視覚的表現が次第に洗練されて、手の込んだものになる過程は、もちろんラメ主義者の書き物に限られなかった。それは印刷技術の進化過程の一部であったのである。つまり、印刷の使用外貨に最初の音との連想から遠く隔たり、ますます音を空間中の<物>として扱いはじめるかを、はっきりと示す進化過程であった。」」(『グーテンベルクの銀河系』p.266-267)
註4
吉見俊哉『メディア時代の文化社会学』は、オングの見解を的確に要約している。(p.54-58参照)
註5
「電子的コミュニケーションを充分考察するには、社会的相互行為の新しい形態における言語的次元を解明することができるような理論が必要である。この目的への一つのステップとして、私は除法様式の概念を提出している。「情報様式」という擁護は、マルクスの生産様式に関する理論から影響を受けたものである。『ドイツ・イデオロギー』その他で、マルクスは生産様式の概念を二つの方法で喚起している。すなわち、(1)過去を(生産の手段や関係の結びつきをことにする)生産様式の諸変異体Variantsとして分割し、区分する歴史的カテゴリーとして。そして、(2)アルチュセールの言い方を借りれば「最終進級における決定」として経済活動を特権化する資本主義時代の隠喩として、である。情報様式ということによって、私は同じように、この場合は歴史がシンボル交換の構造における諸変異体によって区分されることと、だが、現在の文化は「情報」に特定のフェティッシュ的な重要性を与えていることとを示唆している。」(『情報様式論』p.10-11) 

第4回講義に戻る