これは要旨です。本文(中国語)はこちらです。小笠原 欣幸
台灣總統大選中的「宋楚瑜現像」之研究

「 宋 楚 瑜 現 象 」(要旨)

前言:「現象」の始まり

1998年12月20日,宋楚瑜は台湾省長の任期を満了し,省政府職員に見送られ中興新村をあとにした。宋楚瑜は1994年12月の台湾省長選挙で56.2%の支持を得て民進党の陳定南候補(38.7%)を退け,民選の初代台湾省長に就任した。しかし1997年の第四次憲法改正により台湾省が簡素化され,台湾省長と省議会を廃止することが決まり,宋楚瑜は政治的舞台を失う格好になったのである。
この同じ12月は立法院選挙と台北高雄市長選挙が行なわれ,国民党は立法院で安定多数を確保し,台北でも馬英九を当選させ底力を見せつけた。李登輝総統は,「新台灣人論」を提起し,台北市長選挙を勝利に導き得意満面であった。1994年民選が実施された台湾省長,台北市長,高雄市長に当選した,宋楚瑜,陳水扁,呉敦義の三人は台湾政界の新世代指導者として注目されていたが,その三人が奇しくもこぞって退任となった。政治の権力の中心は依然として李登輝であり,一年三ヶ月後の総統選挙も李登輝中心に展開していくはずであった。
ところがこの頃から,宋楚瑜は,総統選挙への出馬を一度も口にしていないにもかかわらず,各種の民意調査で支持率が最も高い人物となったのである。当初,宋楚瑜の高支持率は,李登輝・連戰派に追い落とされた前省長への同情によるものとみなされ,一過性のものと考えられていた。李登輝派は,さまざまな分野で宋楚瑜の影響力をそぐ手を打っていた。1999年2月新会期を迎えた立法院では,宋楚瑜に近い劉松藩を院長からひきずりおろし,李登輝派の王金平に代えた。宋楚瑜のメディア戦略の中心であった台視テレビではやはり宋楚瑜派の李祖源総経理が更迭され,以後台視テレビで宋楚瑜が取り上げられる比率は大きく低下した。
また一部立法委員や一般党員から,総統候補に連戰,副総統候補に宋楚瑜という「連宋配」を求める声が上がっていたが,李登輝派は基層の動きをほぼ完全に封じ込めた。宋楚瑜の陣営内には国民党との決定的対決を避けて連宋配を模索するとの考えもあったが,その可能性も閉ざされ四月のある時期宋楚瑜は身動きがとれない状態であった。李登輝・連戰の主流派は反乱の押さえ込みにほぼ成功したように見えた。
にもかかわらず宋楚瑜の支持率は断然トップで,民進党の陳水扁にも国民党の連戰にも大差をつけていた。以来,ほぼ一年間,金銭スキャンダルが発覚する99年12月まで,トップを走り続けた。一時的な高支持率は珍しいことではないが,それが数ヶ月も持続し,しかも下落の兆候がまったく見えなかった。追い落とされた前省長への同情というだけでは説明のつかない現象が発生していたのだ。この事態を指して「宋楚瑜現象」という用語を最初に使ったのは新竹市長の蔡仁堅である。
宋楚瑜の高支持率をめぐっては台湾でも論議され,総統選挙のプロセスで重要な位置を占めていることが指摘されたが,いまだ十分解明されていない。民進党系の論者は「宋楚瑜現象」を軽視する傾向があった。呂秀蓮は宋楚瑜を支持している人は「白痴」であると発言し,それ以上の探求をしなかった。中山大学の陳茂雄教授は,宋の支持母体は旧国民党勢力,連戦の支持母体が新国民党勢力だとして,連戦が台湾意識の票源をもち宋が旧国民党の票源を擁有していると分析しているが(自由時報99.7.2),この分析では「宋楚瑜現象」を把握することはできない。最終的に宋楚瑜の得票率は36.84%に達し,当選こそしなかったが「宋楚瑜現象」が空虚な人気だけではなかったことは投票結果からみてもわかる。「宋楚瑜現象」は,総統選挙および台湾政治の特質を理解する重要な手がかりを提示している。本稿では「宋楚瑜現象」を,(1)政治のスタイル,(2)台湾の政治文化,(3)政策パッケージ,(4)支持層の四つの視点から考察してみる。

(1) 政治のスタイル

宋楚瑜とはどういう政治家かなのか,その経歴から次の三つの政治家像が浮かび上がる。(a)蒋経國時代に頭角を現した外省人政治家。(b)国民党幹部として李登輝政権を支え初期の民主化を推進。(c)台湾省長として地方政治で活躍。このうち(c)の台湾省長の経験が最も強いインパクトを持っている。
省政府はもともと大中国における省自治政府を前提に設計されているので,小さな内閣と呼びうる機能を備えていた。宋楚瑜は,これまで眠っていた省政府を率いて,台湾各地を隈なく視察し,災害対策,道路などのインフラ整備,農漁業などの地域産業の重視など民衆の生活に密着する分野で手腕を発揮した。道路の補修など地域の切実な要望については直接自分で確認をするという細やかさも見せた。宋楚瑜が提示したのは,小さい政府・責任所在の明確な「執行チーム」で,住民からはかなりの支持を得ていた。
一方,これまでの国民党の統治においては,その権威主義統治構造の特異性により,本省人中心の地方が軽視されてきた。統治者集団と被統治者集団との間には明確な距離が存在していた。李登輝の民主化は確かに統治者集団のメンバーを入れ替え台湾化を進めたが,その距離は容易には縮小せず,李登輝民主化の限界となっていた。李登輝政治が“ハイポリティクス”を重視し,台湾の定位,憲法体制,両岸関係,積極外交などに集中する傾向があったのにたいし,宋楚瑜は“ローポリティクス”を徹底して重視した。宋楚瑜はその党国体制の出自ながら,国民党統治のスタイルにオルタナティヴを提示したのである。宋楚瑜の格言の一つが“All politics is local.”であることは非常に示唆的である。

(2) 台湾の政治文化

宋楚瑜がここまで成功した理由としては,台湾政治文化の構造的要因を見なければならない。まず第一に,台湾の政治社会においては,家父長的政治家観が広く浸透している。台湾の民衆は,自分たちと喜怒哀楽を共にし,義理人情を大切にし,自分たちを肯定してくれる政治家を望んでいる。当然そのような政治家は清廉で正直でなければならない。宋楚瑜は,ごく自然に,額に汗して働く人々を激励し,事故や災害に遭った人々を慰め,不遇の人にも家族的関心を示し,このような政治家観に見事に合致していることを示した。
第二に,台湾の政治社会においては,人治思想が根強い。台湾では制度よりも人に頼る思想が強く,自分が政治の主人公だという意識が希薄である。時間のかかる制度的救済や構造的対策より指導者の鶴の一声に期待する傾向が強い。一部の有権者は,自分の安全や利益を,法律や制度によって守ろうとするのではなく,地方派系のボス政治家の庇護に頼ったりする。地方派系が強い基盤を持つのもこのためである。民衆は宋楚瑜の一つ一つの言動に関心を示すが,慎重な検討が必要な構造改革・制度改革にはそれほど関心はない。民衆の期待を一身に集め,対応の早さと行動力を売り物にする宋楚瑜はこの要素にも合致する。
第三の要因は,台湾の民衆の間に造反情緒が存在することである。これはポピュリズムと呼ぶことも可能であり,本格的な反体制思想とは別のものである。外来政権の統治を経験してきた台湾の民衆は,支配者に恭順することで自己保持を図る術を知っている。それと同時に支配者のイデオロギーとは異なる独自の世界観の中に生きるたくましも身につけている。民衆の意識の中には矛盾する思考様式が存在する。一方では政治的権威にたいする恭順とあこがれがあり,一方では反感があるのだが,自分らの生存を危険にさらす反体制運動には警戒を示す。また,集団間の利益関係に非常に敏感で,優位を占めようとする集団にたいして反発を示す。
李登輝は国民党主席でありながら国民党の権威である外省人長老とそのイデオロギーに挑戦することで支持を得た。しかし李登輝は国民党の権力を掌握したことで自分が国民党エスタブリッシュメントの代表となった。宋楚瑜は台湾省長として中央政府の地方軽視を攻撃し喝采を浴びた。そして李登輝と決裂してからは,「国民党高層」を批判したり揶揄することで民衆の共感を得た。宋楚瑜の「高層」批判は擬似的反体制的言動であるから,保守的な民衆は安心して拍手を送ることができる。

(3) 政策パッケージ

(a)両岸関係の安定と国内改革の両立
国民党統治の行き詰まりは様々な分野で感じ取られ,民衆の改革への期待は高まっている。その一方,台湾の民衆は両岸関係の緊張にも非常に敏感である。陳水扁候補の改革への熱意と力量は多くの人が認めるところであるが,両岸関係の緊張が予想されるだけに躊躇する支持者もでてくる。宋楚瑜は両岸政策では李登輝の二国論から距離を置き,安定と改革推進という選択を提示した。これは陳水扁の新中間路線が目指していた方向とほぼ同じであるが,台独志向のイメージが消えないためなかなか到達できないでいた。李登輝・連戰は96年総統選挙でこの路線を確立したように見えたが,その後の改革の足取りは停滞し,また李登輝の両岸政策は必ずしも安全を意味しないと認識されるようになった。
宋楚瑜が二国論を支持しなかったことで,台湾の主権独立の地位が売り渡されるのではないかという本省人の感情的な反発を引き起こした。しかし,台湾問題を国際問題としてとらえるなど,宋楚瑜の発想は中国の政策から大きく異なっている。宋楚瑜を支持する本省人らは,これを中国との交渉の空間を広げる意図によるものと解釈していたが,その背後には,李登輝時代に主権独立国家としての台湾の定位がある程度固まったことで,台湾はもやは売り渡されることはないという自信も見られる。新党の支持者が宋楚瑜を支持しているので宋楚瑜を統一派寄りと見る見解があるが,彼らは外省人であることと反李登輝だから宋楚瑜を支持しているのであって,宋楚瑜自身は新党向けの政策は出していないことに注意する必要がある。

(b)地方の公共建設重視
台湾経済が急速な経済成長を成し遂げたことで,都市部と農村との格差が拡大し,地方はどこでも取り残されているという危機感が強まっている。宋楚瑜は地方建設を優先課題としているので,これは地方にとっては宋楚瑜に期待する大きな政策的要因である。その傾向は,交通が不便でインフラ建設が立ち遅れている東部や山間部や離島でとりわけ顕著である。大地震で被害を受けた震災地区で宋楚瑜の支持率が高かったことは,地方の公共建設という宋楚瑜の政策イメージがいかに浸透していたかを現している。

(c)超党派の政治
国民党を除名された宋楚瑜はすぐには政党結成には動かず,「超党派」のスローガンを掲げた。その内容は必ずしも明確にはならなかったが,行政府の長が選民から直接信託を受け,議会は相対的に比重が低下した行政府主導型をイメージしていると考えられる。これは,民衆の中にある既成政党への失望感情を刺激し,新しい統治形態への期待をかきたてた。
宋楚瑜は蒋経國時代に新聞局長を務め,美麗島事件では抑圧者の役割を演じ,また台湾語の番組放送を制限するなどして党外運動家から敵視されてきた。そのため94年の省長選挙では民進党支持者から激しい敵意を向けられた。省議会でも民進党議員の質問責めにあったりしたが,当選後は意外にも,民進党籍の県長・市長にたいしも分け隔てのない態度で臨んだ。宋楚瑜は補助金の配分にあたって地元の県市長や議長らの顔を立てるやりかたをとり,そのため省政府と県市政府との関係はおおむね良好であった。この経験が,党派を超えた効率的な行政の展開という宋楚瑜の主張に一定の根拠を与えた。「超党派」のスローガンは,民主化後の政党の駆け引きやいがみ合いに飽き飽きしていた有権者の期待を集めたのである。「超党派」はまた,台湾の社会的文脈においては族群を超越するというメッセージも込められているので,客家や原住民の支持を集める要因にもなっている。

(4) 宋楚瑜の支持層

宋楚瑜の支持層は大きくわけて四つある。@改革を熱望する高学歴で都市部に住む本省人。A地方派系および国民党中堅幹部。B新党を支持する外省人。C弱小族群に属する客家と原住民。これら四つの集団は異質で相互のつながりはほとんどない。これらを束ねたことで宋楚瑜の票源は大きく広がった。新党との違いもここにある。しかしこれらの集団をどうのように束ねたのか。宋楚瑜の政治手腕が傑出していることは大きな要素であるが,それだけではない。これらの集団は,50年間台湾を統治してきた「中華民国体制」を違和感なく受け入れているという共通点がある。この接着剤によって束ねることが可能になったのである。ただしその「中華民国体制」は教条的なものではなく,現実への適応を認めるプラグマティックなもので,「実務的中華民国体制」と呼びうるものである。これらの人々は,李登輝の民主化を受け入れるが李登輝ほどの思い入れはなく,李登輝の「独裁」傾向の方が気になり,行政効率の向上を求めるが台湾省の廃止には心理的抵抗を感じる人々である。
地方派系が改革を支持するというのは悪い冗談のように聞こえるが,地方派系が直面している閉塞感にも注意する必要がある。民主化後,地方派系は中央に進出できるようになり活動の舞台が広まったが,その一方,地方利益の範囲が民進党の躍進と地方財政の悪化により先細りしていくという危機感を抱いている。黒道と結託した従来の権力維持のやり方にたいしても世論の批判が高まっていて,これまでのように国民党中央との関係を維持しているだけでは将来の展望が開けてこない状況におかれている。旧来の国民党統治の打破を求める機運は,地方派系と国民党中堅幹部の間にも広まっているのである。
新党の支持者はそのほとんどが宋楚瑜支持にまわり,宋の選挙キャンペーンにとって非常に有利な要素であった。彼らは「実務的中華民国体制」という共通項があった以外は,宋楚瑜からまったく相手にされなかった。宋楚瑜はどんなに冷遇しても新党の支持者は必ず自分に投票することを知っていたので,李登輝批判以外はたいしたリップサービスをしていない。「外省人は外省人の候補に投票せよ」というような族群意識を煽動するような選挙運動はしていない。一方の連戰は,宋との対抗上外省人の票を取りにいこうとして,李登輝路線から大きく脱線し,自分の選挙キャンペーンを混乱させてしまった。
客家と原住民は弱小族群に属しているという意識から多数派であるミン南系本省人に警戒感を抱いている。国民党統治のスタイルに不満を持っていても民進党の支持に回りにくいのはこのためである。宋楚瑜はそのことを十分意識して客家と原住民の支持者を大事にしてきた。人口の少ない山間部にも盛んに足を運び,また客家語や原住民の言語も覚えるなどの努力をして住民を喜ばせた。こうして宋楚瑜は外省人でありながら,ミン南系本省人,客家,原住民と,族群を超える支持を集めることに成功したのである。

(5)「宋楚瑜現象」の効果

12月9日国民党の楊吉雄立委が宋の金銭スキャンダルを暴露したことで,清廉な政治家というイメージが傷つき「宋楚瑜現象」は一歩後退した。有力三候補の支持率が横並びとなり,総統選挙の行方は混迷を深めた。投票が近づいてきた2月,宋楚瑜がアメリカに家族名義で不動産を所有しているという憶測を否定した直後に,その存在が暴露され,宋の信用度はさらに傷ついた。宋楚瑜は選挙戦から脱落するかどうかの瀬戸際に追い込まれた。このあと選挙戦は異常な興奮と緊張につつまれ,棄保効果が発生した。結局,上記のような固有のイメージと固有の支持者を持つ宋楚瑜は,「棄」てらることはなく「保」の効果をものにしたのである。
陳水扁の当選は保守勢力が分裂したからにすぎないという指摘があるが,ただの分裂選挙であれば公認候補が最後に抜け出す可能性は十分あったであろうし,タイプの異なる保守系候補者が新たな票を掘り起こして保守票がかえって増えることもありえたであろう。宋楚瑜の選挙キャンペーンは,単に国民党の票源を分散させたのではなく,国民党の政権党としての道徳的根拠と組織力神話を掘り崩していった。劉松藩,廖正豪が加わりその破壊力はさらに強まった。「宋楚瑜現象」は,陳水扁と民進党だけでは決してできなかったであろうことを実現させた。「宋楚瑜現象」とは「変天」にたいする民衆の不安や心理的抵抗を吹き飛ばし,“natural party of government”としての国民党を解体していくプロセスそのものであったのである。

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