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著者の若林正丈は,日本における台湾政治研究の第一人者であり,『台湾抗日運動史研究』(研文出版, 1983年),『台湾―分裂国家と民主化』(東京大学出版会,1992年)など10冊の著書および多数の論文を発表している。著者若林は,自身の研究だけではなく,日本における台湾研究の発展に取り組んだ人物であり,日本台湾学会の設立(1998年)に尽力し,その初代理事長を務めた。本書は,第二次世界大戦後から今日に至る台湾の政治を「中華民国台湾化」という概念で把握したもので,著者の30年に及ぶ台湾政治研究の集大成と呼べる大著である。 本書は,台湾政治の構造と変化が緻密に記述されているが,単なる出来事の記述ではなく,著者が台湾の複雑な政治のプロセスを丹念に概念化していく作業が記述されている。著者は,歴史学,政治学,社会学,国際関係論のアプローチを駆使し,それぞれの分野での研究成果を検討し,主題にじっくりと向き合い,時には周りをぐるぐると周旋し,時には行きつ戻りつしながら,しだいに核心に向かって収斂していくという方法論をとっている。本書は,本文だけで400ページを超え,著者の深い論考が反映された文章は,一般の読者にはとっつきにくいし,台湾政治にかなり詳しくなければ最初から最後まで読み通すことは難しいかもしれない。しかし,決して散漫な印象を与えないのは,確固とした議論の筋があるからであろう。 本書の構成と内容 本書は序章と終章を加えて10の章から成る。序章と終章を除いて,各章の内容を簡単に紹介しておく。
「中華民国台湾化」とは,著者若林が提起した概念である。著者の言う「中華民国台湾化」は,@政権エリートの台湾化,A政治権力の正統性の台湾化,B国民統合イデオロギーの台湾化,C国家体制の台湾化,の4つの角度から論証されている。議論の時間軸は,蒋介石から,蒋経国,李登輝,そして陳水扁の在任期に至る。議論の平面は,政権,政治体制,そして政治共同体へと及び,それぞれが「中華民国台湾化」のプロセスにおいてどのような役割を果たしたのかが豊富な資料を用いて明らかにされている。しかし,著者は,「中華民国台湾化」が台湾ナショナリズムの路線に乗ってストレートに進んだと認識しているわけではない。「変容し躊躇するアイデンティティ」という用語が示しているように,台湾政治の諸アクターが歴史の必然と偶然の中で格闘し辿りついたのが「中華民国台湾化」であり,総体として苦悩と苦境の中にあるという認識を示す。 さて,本書の学術的価値は疑いないが,課題についても触れておきたい。本書は「中華民国台湾化」を上位概念とし,「遷占者国家」,「72年体制」,「最小綱領的民主体制」,「台湾ナショナリズムの最小綱領と最大綱領」など様々なサブ概念が次々と提示される。台湾政治を理解する上で役に立つ概念であっても,それらを消化できない読者にはかえってわかりにくくなることもある。 評者は,「台湾ナショナリズムの最小綱領と最大綱領」という概念区分には疑問を持っている。著者のこの概念化では最小綱領と最大綱領がシームレスになってしまい,両者を隔てる壁が低くなる嫌いがある。民主化後の台湾政治を見る上で欠かせないのは,台湾ナショナリズムと中国ナショナリズムの間の中間地帯である。評者は,このイデオロギーの中間地帯を独自のカテゴリーでとらえる必要があると考えている(評者はこれを「台湾アイデンティティ」と呼んでいる)。著者の概念を用いれば,最小綱領から最大綱領へという民進党の動きはよく理解できるが,台湾の選挙民全体では,最大綱領への歩みにブレーキがかかったことが必ずしもわかりよいものとはならない。 評者が指摘したいもう一点は,民主化後の政党政治の展開についてである。筆者は,ナショナリズム,エスノポリティクスの観点から分析しているが,評者は,その二つに加えて,地方政治の視点を挙げておきたい。台湾の各県市において,複数の集団(地方派閥)による政治資源をめぐる争いが選挙を通じてなされているが,これは中央レベルの争いに通じるというのが評者の考えである。この視点は,陳水扁という政治家,民進党という政党を理解する上でも有効であろう。 むろん,1冊の本が現代台湾政治のすべてをカバーすることはできないし,著者自身も,政治経済学的アプローチ,社会運動の視点が欠けていることを「あとがき」で触れている。評者の指摘は,著者の研究に触発されて出てくる次の段階の研究課題であり,本書の評価に影響するものではない。 研究活動の拠点を日本に置く著者が早い段階で「中華民国台湾化」の仮説を提示し本書でそれを論証したことは,著者の非凡な才能を示すが,それだけではなく,日本において台湾政治研究を行うことに伴う有利な要因もあった。台湾においては,一定の期間台湾ナショナリズムを研究することに制約があった。中国においては,国家の対台湾政策から外れる台湾政治研究はやはり制約がある。著者は,若手研究者の時分から訪台を繰り返し,時の政治家から街の人まで,そして,日本語の得意な高齢者から北京語の得意な若者まで幅広い人々との交流で培った現地体験の蓄積がある。このことが,長い時間軸と広い視野による研究を可能にしたのであろう。本書は,2008年度のアジア太平洋賞大賞を受賞した。日本の台湾研究の水準の高さを示す本書が,早期に英語,中国に翻訳されることを望みたい。 (2009年4月記) |
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