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書評:若林正丈著『台湾の政治―中華民国台湾化の戦後史』



東京外国語大学
小笠原 欣幸


人間文化研究機構 『日本当代中国研究2009』 掲載
 著者の若林正丈は,日本における台湾政治研究の第一人者であり,『台湾抗日運動史研究』(研文出版, 1983年),『台湾―分裂国家と民主化』(東京大学出版会,1992年)など10冊の著書および多数の論文を発表している。著者若林は,自身の研究だけではなく,日本における台湾研究の発展に取り組んだ人物であり,日本台湾学会の設立(1998年)に尽力し,その初代理事長を務めた。本書は,第二次世界大戦後から今日に至る台湾の政治を「中華民国台湾化」という概念で把握したもので,著者の30年に及ぶ台湾政治研究の集大成と呼べる大著である。
 本書は,台湾政治の構造と変化が緻密に記述されているが,単なる出来事の記述ではなく,著者が台湾の複雑な政治のプロセスを丹念に概念化していく作業が記述されている。著者は,歴史学,政治学,社会学,国際関係論のアプローチを駆使し,それぞれの分野での研究成果を検討し,主題にじっくりと向き合い,時には周りをぐるぐると周旋し,時には行きつ戻りつしながら,しだいに核心に向かって収斂していくという方法論をとっている。本書は,本文だけで400ページを超え,著者の深い論考が反映された文章は,一般の読者にはとっつきにくいし,台湾政治にかなり詳しくなければ最初から最後まで読み通すことは難しいかもしれない。しかし,決して散漫な印象を与えないのは,確固とした議論の筋があるからであろう。

本書の構成と内容

 本書は序章と終章を加えて10の章から成る。序章と終章を除いて,各章の内容を簡単に紹介しておく。
  • 序章 現代台湾政治への視座
  • 第1章 多重族群社会としての台湾―歴史的前提
    清朝統治期および日本植民地期の社会構造を検討し,台湾を多重族群社会と位置づける。中華民国の統治により本省人−外省人の住民カテゴリーの族群化が始まったこと,そして,1947年の2・28事件が台湾ナショナリズムの歴史的起源となったことが明らかにされる。
  • 第2章 戦後台湾国家と多重族群社会の再編―初期条件
    著者は,以前の研究で戦後台湾国家としての「中華民国」を党国体制として整理していたが,@アメリカのインフォーマルな帝国の一員,A正統中国国家,B遷占者国家(settler state)の三つの視点で捉え直す。より複合的な視点を提示することで,戦後台湾国家の構造がより緻密に把握されている。
  • 第3章 不条理の亢進と体制手直し―起動過程
    この章では,台湾の外部過程と内部過程の連動が分析される。外部においては,米中関係の転換によって台湾の国際政治上の位置を規定する「72年体制」が形成されたとする。内部においては,蒋経国による体制の手直しが進行したが,その一方で台湾ナショナリズムが登場し,党外運動が民進党の結成に至る。著者は,蒋経国の手直しは外部正統性の欠損を内部正統性の強化で補填しようとしたものと解釈するが,それは限定的な民主化,息継ぎに過ぎないとし,蒋経国に積極的評価は与えない。
  • 第4章 民主体制の設置―「憲政改革」の第一段階
    本章は,李登輝が進めた民主化の施策を李登輝の権力闘争と絡めて検討する。この時期の憲政改革の成否は「中華民国台湾化」のプロセスの中でも重要な分水嶺となる。民主化とともに戦後台湾国家の正統性の基盤が台湾化し,「中華民国」の国家が型くずれを起こした,というのが著者の結論である。
  • 第5章 主権国家への指向と民主体制の苦悩―「憲政改革」の第二段階
    本章では,台湾式半大統領制の問題,台湾の政党政治の問題がその根本から論じられる。1990年代,「中華民国」は「台湾大」の国家に向かい,「中国国家」という枠組みの形骸化がいっそう進んだ。しかし,その国際認知は期待通りには得られなかった。また,統治能力の強化も思うようには進まなかったと著者は結論付ける。
  • 第6章 ナショナリズム政党制の形成と展開
    本章では,台湾ナショナリズムの起源と発展のプロセスが検討される。著者は,台湾ナショナリズムの中にいくつかの系譜があることを示し,族群とナショナリズムの重なり,ナショナリズムに対応した政党再編成のプロセス,主要選挙の対決の構図,投票行動を分析し,台湾の選挙におけるエスノポリティクスを検討する。ここでは,「台湾ナショナリズムの最大綱領と最小綱領」という著者独自の概念が提示される。最後に著者は,2008年総統選挙において馬英九と国民党が「台湾ナショナリズムの最小綱領」を受け入れざるを得ないところまで追い込まれたとして,「陳水扁はイデオロギーに勝って政治競争に敗れた」という解釈を示す。
  • 第7章 多文化主義の浮上
    台湾住民のナショナル・アイデンティティの歴史的形成過程と今日の様態が論じられる本章は,著者の台湾政治研究の幅の広さを示している。著者は,社会学的アプローチで本省人と外省人との関係,原住民と漢族との関係を整理し,族群和解の試みを,その困難性も意識しながら丹念に論じる。著者は,多文化主義をベースとする台湾住民のナショナル・アイデンティティが現在進行形で形成されていることを明らかにする。
  • 第8章 七二年体制の軋み
    この章では,国際関係論のアプローチで,台湾,中国,アメリカのトライアングル関係の変化が論じられる。外部では冷戦の終焉と中国の台頭があり,内部では台湾ナショナリズムの台頭があった。李登輝の「二国論」および陳水扁の「一辺一国論」という流れが米中の協調により押さえ込まれるに至ったプロセスが明らかにされる。
  • 終章 中華民国台湾化と台湾海峡の平和

本書の特徴

 「中華民国台湾化」とは,著者若林が提起した概念である。著者の言う「中華民国台湾化」は,@政権エリートの台湾化,A政治権力の正統性の台湾化,B国民統合イデオロギーの台湾化,C国家体制の台湾化,の4つの角度から論証されている。議論の時間軸は,蒋介石から,蒋経国,李登輝,そして陳水扁の在任期に至る。議論の平面は,政権,政治体制,そして政治共同体へと及び,それぞれが「中華民国台湾化」のプロセスにおいてどのような役割を果たしたのかが豊富な資料を用いて明らかにされている。しかし,著者は,「中華民国台湾化」が台湾ナショナリズムの路線に乗ってストレートに進んだと認識しているわけではない。「変容し躊躇するアイデンティティ」という用語が示しているように,台湾政治の諸アクターが歴史の必然と偶然の中で格闘し辿りついたのが「中華民国台湾化」であり,総体として苦悩と苦境の中にあるという認識を示す。
 さて,本書の学術的価値は疑いないが,課題についても触れておきたい。本書は「中華民国台湾化」を上位概念とし,「遷占者国家」,「72年体制」,「最小綱領的民主体制」,「台湾ナショナリズムの最小綱領と最大綱領」など様々なサブ概念が次々と提示される。台湾政治を理解する上で役に立つ概念であっても,それらを消化できない読者にはかえってわかりにくくなることもある。
 評者は,「台湾ナショナリズムの最小綱領と最大綱領」という概念区分には疑問を持っている。著者のこの概念化では最小綱領と最大綱領がシームレスになってしまい,両者を隔てる壁が低くなる嫌いがある。民主化後の台湾政治を見る上で欠かせないのは,台湾ナショナリズムと中国ナショナリズムの間の中間地帯である。評者は,このイデオロギーの中間地帯を独自のカテゴリーでとらえる必要があると考えている(評者はこれを「台湾アイデンティティ」と呼んでいる)。著者の概念を用いれば,最小綱領から最大綱領へという民進党の動きはよく理解できるが,台湾の選挙民全体では,最大綱領への歩みにブレーキがかかったことが必ずしもわかりよいものとはならない。
 評者が指摘したいもう一点は,民主化後の政党政治の展開についてである。筆者は,ナショナリズム,エスノポリティクスの観点から分析しているが,評者は,その二つに加えて,地方政治の視点を挙げておきたい。台湾の各県市において,複数の集団(地方派閥)による政治資源をめぐる争いが選挙を通じてなされているが,これは中央レベルの争いに通じるというのが評者の考えである。この視点は,陳水扁という政治家,民進党という政党を理解する上でも有効であろう。
 むろん,1冊の本が現代台湾政治のすべてをカバーすることはできないし,著者自身も,政治経済学的アプローチ,社会運動の視点が欠けていることを「あとがき」で触れている。評者の指摘は,著者の研究に触発されて出てくる次の段階の研究課題であり,本書の評価に影響するものではない。
 研究活動の拠点を日本に置く著者が早い段階で「中華民国台湾化」の仮説を提示し本書でそれを論証したことは,著者の非凡な才能を示すが,それだけではなく,日本において台湾政治研究を行うことに伴う有利な要因もあった。台湾においては,一定の期間台湾ナショナリズムを研究することに制約があった。中国においては,国家の対台湾政策から外れる台湾政治研究はやはり制約がある。著者は,若手研究者の時分から訪台を繰り返し,時の政治家から街の人まで,そして,日本語の得意な高齢者から北京語の得意な若者まで幅広い人々との交流で培った現地体験の蓄積がある。このことが,長い時間軸と広い視野による研究を可能にしたのであろう。本書は,2008年度のアジア太平洋賞大賞を受賞した。日本の台湾研究の水準の高さを示す本書が,早期に英語,中国に翻訳されることを望みたい。

(2009年4月記) 

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