本稿は,アジ研『ワールド・トレンド』2000年7月号に掲載されたものです。小笠原 欣幸

2000年台湾総統選挙
―― 国民党統治の終結 ――

2000年3月18日,長かった選挙戦に幕が降りた。投票率82.7%という数字が示すように,大いに盛り上がりかつ緊迫した選挙であった。李登輝総統の後継を目指した与党中国国民党の連戰候補が惨敗し,野党民主進歩党の陳水扁候補が当選した。李登輝総統が進めた民主化は政権交代となって結実し,50年間にわたる中国国民党の台湾統治に終止符が打たれた。選挙の争点は,国内改革,中台関係,族群(エスニック・グループ),アイデンティティの問題であったが,一票にかける希望と不安,熱気と緊張が交錯する実に難しい選挙であった。

投票日の夜勝利宣言を行い,歓声に包まれる
陳水扁総統当選人と呂秀蓮副総統当選人。
(2000.3.18 台北市民生東路にて,筆者撮影)

●選挙の構図 ― 三候補の争い

台湾を実効支配する中華民国の大統領を選ぶ総統選挙には,5人の人物が立候補した。政権与党である国民党から連戰(副総統,63歳)最大野党民進党から陳水扁(前台北市長,49歳)野党新党からは李敖(作家,62歳)さらに国民党を除名された宋楚瑜(前台湾省長,58歳)と民進党を離党した許信良(前党主席,58歳)が無所属で立候補した。このうち許信良の立候補は,民進党内で陳水扁との公認争いに敗れたためで,ブームを作ることはできなかった。また新党は,存在意義を示すために候補を擁立したが,当初から宋楚瑜の応援役を任じ,李登輝批判と陳水扁批判に集中した特異な選挙運動を展開した。選挙は残り3候補の争いであった。
連戰は,中国大陸で生まれた本省人という特殊な経歴を持つ。連戰の父親連震東は,蒋介石率いる国民党政権の中枢を歩み,連戰本人も党国体制の中で順調に昇進し,交通大臣,外務大臣,台湾省主席,行政院長を歴任した。このため連戰は,本省人にも外省人にも幅広い人脈を擁している。李登輝政権においてはナンバー2の地位にあり,早くから後継候補と見なされてきた。しかし,李登輝率いる国民党は,平和的な体制変革(民主化と台湾化)という偉業を推進したものの,国民党長期支配の負の遺産である金権腐敗問題(黒金)とならず者の政治参入(黒道)はかえって深刻化し,民衆の批判が高まっていた。連戰は,国民党の権力・金・組織と共に,この重荷を背負わねばならなかった。
宋楚瑜は,蒋介石と共に中国大陸から台湾に渡ってきた外省人で,蒋経國時代に頭角を現したが,その後国民党秘書長として李登輝の民主化を支え,党内の序列では李登輝,連戰に次ぐ第3位の実力者にのし上ってきた。1994年12月には台湾省長に当選し,台湾のほぼ全土をカバーする巨大な地方自治体の行政権力を握り,連戰を上回る支持基盤を構築した。1996年末の国家発展会議で,李登輝派と連戰派が行政効率の向上を掲げて中央政府と重複する台湾省政府の廃止を提案したが,これは宋の追い落としも狙ったものだと見られている。以後宋は,李登輝・連戰の主流派に対抗する党内非主流派となっていた。
宋楚瑜は,基層の民衆と接点のない中央政府の官僚型政治家と異なり,ロー・ポリティクスを徹底重視し,地方の公共建設に力を入れ,民衆の支持を得た。勤勉で大衆的なイメージの定着している宋を退けたことで,逆に李登輝の評判が下がった。宋は省長の4年の任期を終えてポストを失ったが,主流派に追い落とされた省長として,かえって同情が集まる結果となった。宋は国民党支配体制の出自ながら,巧妙にも国民党の黒金問題から距離を置くことができたのである。
それでも李登輝は,台湾省政府を凍結する憲法改正を成しとげ台湾化をまた一歩前に進め,1998年の台北市長選挙では「新台湾人論」を掲げて馬英九を当選させるなど,その威信は揺るぎないように見えた。李登輝は周辺を側近で固め,党内の権力基盤は政権発足以来最も固くなっていた。宋派の封じ込めにも成功し,党代表大会で連戰を総統候補にすることに何の障害もないように見えた。
一方,民進党の陳水扁は,台北市長選挙で落選し決断を迫られた。台北市長の再選に成功していたなら,陳は恐らく2000年総統選挙には出馬しなかったであろう。陳は年齢からして2004年でも決して遅くはなかった。陳の出馬決定の要因は,市長選の落選で活動の場を失ったこともあるが,何よりも落選の経緯が,本人も支持者も納得できなかったことが大きい。
陳水扁は,台北市の交通問題の改善や風俗取締り,市職員の綱紀粛正などで辣腕をふるい市長としての実績をあげていたから,本来なら再選されて不思議はなかった。この市長選挙では,現職の陳水扁(本省人)に国民党の馬英九(外省人)さらに外省人主体の新党の王建セン(外省人)が挑戦するという構図で,陳が逃げ切れる展開であった。しかし,台北市の外省人有権者は,陳の再選を阻止しようとして特異な投票行動である「棄王保馬」(王候補の支持者が王候補を棄て,馬候補を逆転当選させる)を行なった。これは,市民として市長の実績を冷静に判断した結果というよりは,本省人を嫌う外省人の族群意識に基づく投票行動であった。陳の支持者はしてやられたという思いを抱き,それは台北市以外のミン南系本省人にも共有された。彼らは熱心に,総統選挙への出馬を陳に促した。台湾意識の強い有権者には,自分たちの族群を代表する陳水扁が傷つけられたことを見過ごすことはできないという気持ちがあった。
しかし,ミン南系本省人といってもその政治意識は一様ではない。台湾を統治してきた中華民国体制を受け入れる度合いや,台湾の国家アイデンティティ,台湾人意識にも濃淡がある。民進党の支持者は大半がミン南系本省人であり,選挙活動も彼らの言語である台湾語が使われることが多いが,族群意識が強く出過ぎることは選挙のマイナスになる。というのは,族群構成が複雑な台湾で多数派のミン南系本省人が突出すれば,他の族群を刺激し社会的緊張を招くので,ミン南系本省人の中間層が離反するからである。

●序盤戦 ― 宋楚瑜のリード

序盤戦の台風の目は宋楚瑜であった。陳水扁も連戰も,宋のあおりを受けて支持率は低迷した。宋は省長として台湾各地を隈なく視察し地方の公共建設に尽力した実績が広く評価され,各種の民意調査では圧倒的な強さを見せた。宋は自信を深め無所属での立候補を決断した。こうして国民党は分裂選挙に突入した。宋の強みは,外省人の支持だけではなく,同じく少数派に属する客家と先住民,さらには多数派ミン南系本省人の一部(特に都市部に住む高学歴層および国民党の地方派系と中堅幹部)にも支持を広げたことである。宋は,従来の外省人主体の新党をはるかに上回る大きなブームを巻き起こしていた。
李登輝の誤算は,国民党が連戰を公認候補として決定し党組織を引き締めれば,宋に流出した票は取り返せると考えていたことだ。しかし宋の支持率は下がる気配もなく,李登輝にあせりの色が見えてきた。9月に入り,李登輝はついに自ら宋攻撃の先頭に立った。李登輝は,省長時代の宋が省政府の金をばらまいて民心をたぶらかしたと激しく批判し,宋のことを「提籃假燒金」(台湾語で,籃に紙銭を入れて廟へお参りにいくふりをして男に会いに行く浮気女という意味)に喩えた。李登輝のこの発言は,本省人は外省人に騙されるなということを台湾語で表現したものである。李登輝の意を受けた総統府秘書室主任の蘇志誠も再三感情的な言葉で宋を攻撃した。こうして族群感情が刺激され,選挙戦の温度が上がってきた。外省人はますます李登輝への反感を強めた。途中大地震に見舞われ選挙戦は一個月ほど中断したが,再開されたらやはり宋が支持率トップであった。
さて,3候補の政策はどのようなものであったのだろうか。ポイントは中台関係の安定と国内改革の両立であった。陳水扁が国内改革の決意と能力を有していることは多くの人が認めるところであったが,陳が当選した場合,国内改革と中台関係の両面で大きな変化が生じることに,少なからぬ人が不安を感じていた。このため陳陣営は,新中間路線と称して台湾独立色を薄め,政権交代による黒金改革を訴えることに努力を集中したが,なかなか支持率の上昇に結びつかなかった。
連戰は,4年前の李登輝と同じく「安全カード」と改革の決意を強調したが,黒金問題を連がどの程度改革できるかは大いに疑問視されていた。しかも,李登輝の「二国論」に中国が激しく反発している状況では,国民党に任せておけば台湾は安全だという「安全カード」の効果も薄れていた。結局,李総統の「二国論」から距離を置き中台関係改善の意欲を示し,国民党の金権腐敗体質を厳しく批判する宋楚瑜が,政策パッケージの面でも有利な位置を占めていた。宋は,副総統候補に南部の高雄出身で台湾意識の強い張昭雄を指名し,族群のバランスと超党派をアピールした。

遊説の合間に記者団に囲まれ「李総統は棄連保扁」
と語る宋楚瑜候補。
(2000.3.14 嘉義県太保市にて,筆者撮影)

●中盤戦 ― 金銭スキャンダル

宋楚瑜リードの展開を崩したのが,金銭スキャンダルの発覚であった。12月9日,国民党立法委員が,宋の息子の口座で巨額の資金が取引されていることを暴露した。国税当局と監察院が調査に乗り出し,宋の疑惑資金は総額11億台湾元(日本円約40億円)に上ることが明らかになった。これは政治に金がかかる台湾でも破天荒な金額であった。このスキャンダルで,庶民的で清廉潔白な政治家というイメージが傷つき,宋の支持率は下降線をたどったが,票の流出先は,攻撃を仕掛けた国民党の思惑とは異なり,連ではなく陳であった。こうして,年末には3候補横並び状態ながらも陳がごく僅かにリードする展開となった。
この時期の陳の支持率の上昇は,宋が金銭スキャンダルで信用を落としたことが最大の要因ではあるが,民進党の側で,黄信介元主席の死去と美麗島事件20周年の各種のイベントを通じ,党の原点に立ち返る契機があったことも見逃せない。陳陣営は,党内各派の思惑がばらばらの状態でちぐはぐな選挙戦を余儀なくされていたが,しだいに結束を強め,民進党籍の県市長らの応援活動も活発になり選挙キャンペーンが軌道に乗った。各地の募金食事会はどこも盛況で,国民党に対抗するだけの豊富な選挙資金が集まった。
陳水扁陣営の情宣部門は,陳側近の羅文嘉が掌握し,抑圧されてきた本省人の悲情に訴えかけるのではなく,明るいムードで政権交代を呼びかける「快楽・希望」がキャンペーンの基調となった。国民党の古い体質や金権への不満感情と台湾主流意識とを巧妙に結びつけ,アイドルを売り出す手法で陳水扁グッズを次々とヒットさせ,学生や若者層,さらには投票権のない高校生や子供の間にまで陳水扁ブームを引き起こした。終盤戦,陳水扁の選挙集会には,陳の小旗を持った高校生が「阿扁,当選!」と叫んだり,小学生が親の手を引いて陳の集会に向かう光景が各地で見られた。
金銭スキャンダルの拡大につれて宋陣営は勢いを失いつつあったが,1月27日,選対本部の設立に合わせて,前立法院長の劉松藩と前法務大臣廖正豪が陣営に加わり,宋は選挙戦線に踏み留まることができた。宋本人の説明はあいまいで納得のいくものではなかったが,金銭スキャンダルの影響は日に日に低下していった。これほどの大スキャンダルが致命傷にならなかったのにはいくつかの要因がある。一つには,国民党が宋を横領罪で告訴したことで事件は司法捜査を待つ段階に入ったことがあり,また一つには,政治迫害説が広がったことが挙げられる。2月21日,台中地方裁判所が,関連企業の係争中の財務問題に関連して劉松藩の家宅捜索を行なった。そのタイミングが,劉が宋の支援に踏み切った直後であっただけに国民党の政治迫害ではないかとの憶測を呼び,宋の金銭スキャンダルも,国民党の宋に対する政治迫害の一環との見方が広がった。またこのスキャンダルは,宋個人の問題ではなく国民党の金権体質の問題と見る人が少なくなかったため,宋から離れた支持は陳に向かうか,さもなくばまた宋に戻るしかなかった。さらに,族群感情の高まりと中国の介入により選挙戦の熱気と緊張が一気に高まり,金銭スキャンダルの重要性が相対的に低下した。

●終盤戦 ― 連戰陣営の戦術的失敗

2月21日,中国政府は台湾問題に関する基本的立場をまとめた白書を発表し,台湾に対し武力行使の可能性をちらつかせ,統一を前提とする政治協議に早急に応じるよう強く求めてきた。この白書の発表を合図に,中国は台湾政策担当者らの発言を通じて選挙に介入し,陳水扁の当選は許さないとする姿勢を鮮明にした。中国の圧力に対し,陳水扁陣営は過剰反応を避け冷静に対処した。動きがあったのは連戰陣営であった。4年前の総統選挙で国民党を離党し無所属で立候補した陳履安が,長い沈黙を破って突然連戰支持を表明した。陳履安は李登輝に反対する非主流派の一員で,前回総統選挙では約10%の票を獲得していた。陳履安は,連戰支持を表明しただけではなく連戰の選挙の方向に影響を与えようとした。陳履安は中国の白書発表を受けて,連戰に「二国論」の放棄を求めた。連戰は首を縦には振らなかったが,非主流派の票を念頭に置いてあいまいな姿勢をとり,陳履安の支持を盛んに宣伝した。
連戰は台湾意識の強い李登輝の後継者を任じながら,側近幹部は外省人が中心であった。このことは,連戰の支持基盤がむしろ広いことを意味するとされていたが,選挙が緊迫するにつれ矛盾が表面化してきた。連の苦戦の原因の一つは,国民党の組織票である眷村(退役軍人らの居住区)や軍など外省人票を宋楚瑜に食われていたことであった。連戰の選対本部は外省人の票を取り戻しにいこうとして,外省人寄りのスタンスを取った。連陣営からは李登輝を邪魔者扱いするようなオフレコ発言が出たり,陳履安に口説かれる形で非主流派への歩み寄りを見せたりした。終盤戦でこの傾向はさらに強まった。蒋経國の息子(故人)の嫁を選挙活動に使ったり,蒋経國時代の長老らを登場させたり,投票日の直前には宋美齡(故蒋介石夫人)が連戰を支持しているという手紙を発表するなど,李登輝の国民党から離れ,歴史を逆行しているような印象を与えた。こうしたことが,李登輝がいるからこそ国民党を支持してきた本省人支持者の離反を引き起こした。陳陣営は,李登輝路線を継承するのは連ではなく陳水扁であるとアピールし「棄連保扁」を誘い出そうとしていた。
国民党が最も批判されている黒金黒道問題でも,連戰陣営は大きな失敗をした。2月25日,台湾最南端の屏東県で連戰が黒金の象徴と言える伍澤元,羅福助(共に無所属の立法委員)と同じ演壇に立ってあいさつをした。こうした議員らの票をあてにした,まさになりふり構わない票固めであったが,黒金問題に取り組むという公約はまやかしであると宣言するに等しかった。伍澤元は汚職で起訴され2審で懲役15年の判決を受け,現在も係争中の人物である。羅福助は暴力団の出身で,黒金黒道が議論される際常に名前が挙がる人物である。連戰のこのような姿勢は,後述するように黒金問題を真剣に考えていた李遠哲中央研究院長の行動にも影響を与えた。
連陣営が劣勢を挽回する切り札としたのが,ネガティヴ・キャンペーンの展開であった。テレビ,新聞での選挙広告はすさまじかった。台湾の地上波テレビは4局あるが,そのうち台視,中視,華視の3局は国民党の影響下にあり,民視のみが民進党に近い。連陣営はこの3局を使って,拙劣なネガティヴ・キャンペーンを延々と行なった。3局は国民党の指示により陳と宋のコマーシャルを締め出し,ゴールデンタイムのコマーシャル枠は連陣営が借り切り,通常の商業広告もほとんど流れない異様な状態であった。新聞でも,資金力にものをいわせ大量の選挙広告を流し続けた。例えば3月7日付け『自由時報』は全16頁のうち連の全面広告が2頁,半面広告が2頁掲載された。投票日直前2週間はほとんどこのような状態であった。しかもその内容は大部分が陳と宋を攻撃するネガティヴなもので,特に陳の当選は戦争を招くという広告は水準が低かった。これは明らかにやりすぎであり,「民主先生」の誉れ高き李登輝と「優質な民主政治」を唱える連戰の信用度をかえって低下させた。

連戰候補の台北市選対本部設立集会。連戰が
演説中だが後ろの方はあまり聞いていない。
(2000.2.13 台北市政府前にて,筆者撮影)

●棄保効果

投票一週間前の3月10日,李遠哲中央研究院長が陳水扁支持を表明し,選挙情勢は大きく動いた。李遠哲院長は台湾を代表する知識人であり,その動向は無党派層に影響を与えた。陳陣営は,11日に台中市,12日には高雄市で10万人規模の大集会を成功させ,さらに,許文龍(奇美実業会長),張榮發(長榮グループ会長),施振榮(エイサー会長),殷h(台湾高鉄会長)ら著名な企業家の支持も取りつけた。陳水扁が一歩抜け出したことで,反民進党勢力に危機感が高まった。焦点は,反民進党勢力が票を集中できるかどうかであった。連と宋のどちらの支持率が上なのか最後の民意調査でもはっきりとした差はついていなかった。選挙の専門家は,このように2位と3位の差がほとんどない状況では,戦術的投票(3位の候補の票を2位の候補に投じて逆転をねらう投票行動)をしようにも,有権者はどちらの候補に票を集中させてよいのか判断できず,戦術的投票は大規模には発生しないと見ていた。
李登輝本人は最後まで連支援で動いていたが,李登輝と近い実業家が陳支持に転じたことで,李登輝が陰で「棄連保扁」をしているという憶測が広がった。宋はこの状況を盛んに利用し,李登輝はすでに連を棄てた,陳の当選を阻止できるのは連ではなく宋だという「棄連保宋」キャンペーンを強力に推進した。一方,連陣営は11日に台北市で大パレードを展開し,その動員力を見せつけようとした。確かに出発地点の台北市政府前から仁愛路は数万人の人で埋まったが,折あしく途中から豪雨となり,国民党によって組織動員された参加者は,脱走兵のごとく途中で戦線離脱した。パレード終点の中正記念堂で連戰と馬英九台北市長が演説した時には聴衆はわずか千人程度で,支持者の熱意が低いことが露呈された。
この集会に限らず,連戰の選挙集会は組織動員によって一定の人数は集まるが,真剣なのは会場前列の人たちだけで,後ろの方では,国民党要人の演説もそっちのけでおしゃべりに興じるか,早く終わらないかという表情でいるのが普通であった。連戰の到着を待たずに帰ってしまう参加者も少なくなかった。こうした熱気の低さは陳や宋の選挙集会とはあまりにも対照的であった。連陣営が頼りにしていたのは国民党の組織動員力で,多くの人が,最後には国民党の金と組織の力で連が逆転すると見ていた。しかし動員されて連の集会の現場を見た人々は熱気の低さを肌で感じ取り,その情報は口コミで広がっていった。「王様は裸」であることが徐々に知れ渡った。国民党は盛んに連の追い上げを宣伝したが,逆にデマ情報を流していると受け止められる始末であった。
終盤戦,支持基盤が崩れなかった宋楚瑜に追い風が吹き「棄連保宋」の流れが発生した。投票3日前の3月15日,宋陣営は台北市の中正紀念堂で5万人規模の大集会を成功させた。一方,宋の激しい追い上げを見て,こんどは,連支持者のうち,外省人を嫌う族群意識の強い本省人有権者が「棄連保扁」の投票行動を取ることになった。選挙戦の行方はまさに緊迫した状態になった。これだけですでに過熱状態であったが,追い討ちをかけるかのように,3月13日に株価の暴落,15日に中国の朱鎔基首相の強硬発言が加わった。
陳陣営は朱鎔基発言後も動揺することはなく,中国は台湾の選挙について発言する資格はないとして,冷静ではあるが毅然とした態度を取った。宋陣営は,陳水扁の当選は中台関係の危機を招くとしながらも「台湾人民はいかなる形の武力脅迫も受け入れない」として,中国の介入にはやはり反対の姿勢を明確にした。連陣営は,陳が当選すれば戦争になるとして,中国と一緒になって陳攻撃に集中した。1996年の総統選挙で,ミサイルで威嚇されながらも台湾の尊厳を守った李登輝の国民党とは違う国民党であった。
陳水扁の当選阻止を意図した朱鎔基発言に対し,台湾人の反応は大きく2つに分かれた。北部では不安感が広まったものの陳の票は崩れず,連から宋へ票が移動した。南部では,憤りを感じた人々が陳に票を集中させた。中国と一緒になって陳を攻撃をした連には票はほとんど行かなかった。最後の土壇場で「棄連保扁」と「棄連保宋」の2つの台風が発生し,国民党の台湾統治に終止符を打ったのである。

「中国は台湾の選挙に介入する資格はない」
と語る陳水扁候補。(2000.3.8 台北市陳水扁
選対本部にて,毎日新聞近藤伸二氏撮影)

●投票結果

《表》2000年総統選挙結果
候補者
陳水扁
宋楚瑜
連戦
許信良
李敖
得票数4,977,7374,664,9322,925,51379,42916,782
得票率
39.3%
36.8%
23.1%
0.6%
0.1%
(有権者数 15,462,625人,投票率 82.7%)

《グラフ》民進党の得票数の推移

陳水扁は39.3%の得票率で当選した。宋楚瑜は36.8%,連戰は23.1%であった(表参照)。民進党以外の候補を便宜的に汎国民党として一括し,4年前の選挙と得票数を比較してみると,今回民進党の陳水扁が,前回の棄権層と新しい有権者からも票を掘り起こしたことが見て取れる(グラフ参照)。投票結果を地理的に見ると,人口密集地帯である台湾島西部では,南部諸県市が陳,中部以北が宋という構図になった。交通が不便でインフラ整備が遅れている東部や離島,さらには震災地区でも宋は高い得票率を挙げた。族群の観点から見ると,陳の強い地区はいずれもミン南系本省人の多い地区で,宋の強い場所は,外省人,客家,先住民が比較的多く住む地区である。
今回の総統選挙では,族群の違いによる投票行動の分裂が顕著であった。これは,選挙戦の展開を通じて族群意識が刺激されたためである。だが,族群だけを見ていたのでは投票行動の実態は把握できない。台湾を50年間支配してきた中華民国体制を違和感なく受け入れているか,あるいは反感を感じるかも,投票行動の重要な分かれ目であった。前者は宋楚瑜に,後者は陳水扁に票を投じた。これは台湾の国民党統治が作り出した根本的矛盾である。李登輝は中華民国の台湾化によって両者をかろうじて束ねていた。そして李登輝以外,それをできる人物はいなかったのである。ただし,ここで言う「中華民国意識」とは教条主義的なものではなく,台湾優先意識,台湾主体意識とある程度折り合いをつけたものである。それゆえ「中華民国意識」の強い人の間でさえ,中国の主張する「一国二制度」を支持する人はほとんどいない。
投票にあたっては人々の様々な思いが交錯した。候補者の好感度,族群意識,アイデンティティ,現実的な将来展望,家族友人の支持傾向,中国の圧力など,一人一人の頭の中で何重もの考慮がなされ一票が投じられた。恐らくどのような計量学的手法を用いても,この一票に込められた台湾人の感情を計量的に分析することはできないであろう。 連戰の敗因は,金権腐敗問題が深刻化し,国民党にその改革を任せることはできないと多くの人が判断したからである。国民党の分裂は確かに大きな要因である。だが同時に,宋楚瑜が国民党の腐敗を徹底批判し,国民党政権を終結させる機運を作り出したことは見逃せない。これは陳水扁一人あるいは民進党だけではなしえなかったことだ。
結果として連戰の票は大きく落ち込んだのだが,選挙の構図が最初からこうであったわけではない。国民党は権力を過信し自滅した。連戰本人は手堅い安定した政治家で,情緒的な宋楚瑜や発言がぶれる陳水扁より有利な要素もあったのだが,選挙戦の緊張と興奮,そして台湾社会の大きなうねりが平時型指導者(行政官僚型政治家)連戰を押し流したと言える。

●今後の展望

選挙後,陳水扁は新しい行政院長に国防大臣の唐飛を指名した。軍人,外省人,国民党員という身分を持つ唐飛の起用は,敗戦ショックで混乱している国民党に追い討ちをかけ,かつ,選挙中表面化した族群感情を融和し,民進党に違和感を持つ軍の忠誠も確保する政治的によく考えられた一手であった。陳は,かつて敵対した外省人の代表的人物であるハオ柏村(元行政院長)や趙少康(元立法委員)を訪ね,族群融和の挨拶回りを精力的に行なっている。このように陳水扁は,立法院ではなお国民党が過半数を擁するというねじれ現象を「全民政府」という看板で乗り切るつもりだ。台湾人は,族群や国家アイデンティティへのこだわりが強いものの,一方で実務的な思考様式も強く,現実を受け入れるために心理的調整をする術を心得ている。選挙から一個月後の民意調査で,陳水扁への満足度が67%に達しているのはその現れである。
一方,国民党は歴史的役割を終えたと見てよい。国民党は総統選挙で敗れたとはいえ,立法院での優位を活かして政局に影響力を行使することも可能であった。しかし国民党は,党本部前の騒ぎに煽られ情勢分析をする余裕をなくし,感情的に李登輝を党主席から辞任させ,態勢立て直しの機会を自ら絶った。李登輝に即時辞任を迫ったグループと李登輝擁護派との亀裂は深く,党の内部はばらばらである。外からは,選挙後宋楚瑜が結党した親民党に揺さぶられるであろう。国民党が求心力を持つことはもうないであろう。
陳水扁は当選後,中国に対しても柔軟な姿勢を打ち出している。台湾独立を主張する人たちにとって「独立」の内実は中国国民党の支配からの独立である。長く困難な歩みを経てようやくその目的を達成した今,中国を挑発するような冒険に出て政権を失うようなことはしないであろう。陳を支持している台湾企業も,中国との交流拡大に積極的である。台湾人が中国に反感を募らせる原因は,中国が台湾の主体性を認めず武力行使の脅迫を続けているからである。中国は台湾にとって「遠い親戚,近い隣人」(呂秀蓮副総統)であり,敵対の対象ではない。中国が「太陽政策」に転じれば,経済協力の拡大や国家連合など中台の関係について双方のプラスになる議論が開始できるであろうが,中国が「北風政策」を変更する兆候は今のところ見えない。中国が「一つの中国」原則で解決を急ごうとすると,中国・台湾双方の世論が硬化し危険な状況になるであろう。
台湾は民主主義体制に移行してまだ10年ほどしか経っていないが,自分たちが国家の指導者を選ぶのだという意識がすでに定着している。指導者の鶴の一声で後継者を決めたり,派閥のボスの根回しで後継者が決まるような政治構造とは異なる。台湾の有権者は政治改革を求め,あきらめたり無関心になるのではなく,「党を換え人を換え試してみる」という知恵を示した。政権交代は,李登輝総統が進めてきた民主化と台湾化が実を結んだ証である。

(おがさわら よしゆき/東京外国語大学外国語学部助教授 1999年4月11日から2000年3月31日まで,国立政治大学中山研究所客員研究員として台北市に滞在)


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