フリー素材柚莉湖♪風と樹と空と♪ 2017年11月18日

台湾政党政治の始動―オポジションと党国体制

若林科研シンポジウム記録
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日時:2017年11月18日13:00-18:00
場所:早稲田大学3号館404号室
司会:佐藤 幸人(アジア経済研究所)
報告:小笠原 欣幸(東京外国語大学)
   若林 正丈 (早稲田大学)
   岸川 毅 (上智大学)
   家永 真幸 (東京医科歯科大学)
   田上 智宜 (大阪大学)
   松田 康博 (東京大学)
   松本 充豊 (京都女子大学)
コメンテーター:薛 化元(政治大学文学院院長・台湾史研究所教授)
   林 泉忠(中央研究院近代史研究所副研究員)
記録:星 純子


 2017年11月18日、早稲田大学台湾研究所・日本台湾学会共催で「台湾政党政治の始動-オポジションと党国体制」と題するシンポジウムが開催された。科研基盤研究(B)(代表:若林正丈)の2期6年にわたる台湾政党政治形成過程の研究成果が科研メンバーによって報告された。
 まず、小笠原欣幸(東京外国語大学)は「若林科研6年間の活動報告」と題する報告を行った。科研第1期「台湾政治における反対党の誕生―国際体制・孤立国家・市民社会とナショナリズム」において党国体制におけるオポジションの形成過程、および第2期「台湾政治体制移行期の民主進歩党―『改革型』民主化とナショナリズムの相克」において、民主化の過程の中で民進党が果たした役割と制約に焦点を当てた。そして資料収集(文献、インタビュー)およびその内容、分析作業とその結果、研究アプローチの強化などの具体的手法について説明した。
 若林正丈(早稲田大学)は「オポジションから入る-戒厳令下台湾政治研究こと始め」と題して、元々台湾歴史研究を志した報告者がどのように激動する台湾現代政治研究へと移っていったかを報告した。若林は1982、3年ごろの林洋港内政部長の「3%の戒厳令」発言など台湾政治の激動に触れ、人的交流から各地の選挙観察、康寧祥落選、「自決」をめぐる問題などを実際に見てきた経験をふまえ、歴史研究から現代政治にシフトしたのは確かに泥縄式であるが、しかし自在にシフトしていく効用を語った。
 岸川毅(上智大学)は「『行政院立法局』から『台湾の立法院』へ」と題して、民主化の中で制度を「作り上げる」側面を持つ議会について報告した。国民党による一党支配型権威主義的統制が強化され、議員任期の無期限延長の中で議員の老齢化が進むと、立法院は派閥闘争の場から行政院の出す法案を成立させる機関(行政院立法局)になっていた。しかし69年には非改選の補充議員、73年より増加定員選挙で当選した議員の行動と組織戦略を分析すると、議会の変化が見られる。これらの議員はまず頻繁に発言し、万年議員を呼び出す。そして86年選挙以後は発言や乱闘だけでなく実際の立法や法改正を求めていく。
 一方、70年代に国民党議員はあまり発言が見られないものの、80年代はさかんに発言し始め、中には党国体制を批判する国民党議員も出現した。そして立法院長らの仲介役も重要な役割を果たしながら、80年代後半には乱闘について暗黙の了解も成立し、どれほど乱闘していても最後は与野党が合わせて法改正を行うなど実質的な議論が行われるようになっていったことが示された。
 家永真幸(東京医科歯科大学)は「党外雑誌が存在しえた社会的文脈(1975-86年)」と題して、「党外」の言論空間の中でも選挙と異なり、台湾語・台湾人の身体性を伴わない政論雑誌が盛り上がった文脈について、流通・消費の側面も加えながら報告した。国民党中央常務委員会の記録からは、「党外雑誌」の取り締まりは同委員会が国内問題としてトップで処理するのではなく警備総部が日常業務として書店や発行者に発禁処分を出すことで対応していた。ただし、外交部の公開文書の中には北米の台湾独立運動への警戒の文脈で、「党外雑誌」に着目しており、「党外雑誌」は統戦工作の一環として当局が認識していた可能性がある。
 「党外雑誌」の流通量は5万部から最多の美麗島で10万部ほどであったが、読者(多くは都市の中産階級)にとっては雑誌や禁書を買う消費行為が「党外」を支えるものとして認識され、発禁処分を受けてもそれがかえって「面白い雑誌」として保証されるという認識が読者に存在した。また、当時出版物の流通体制が整備されたことも「党外雑誌」の存在を支えた。このように、「党外雑誌」は台湾の民主化との因果関係を論じる難しさはあるが、特殊な環境下で発生した再現不可能な現象であることを指摘した。
 田上智宜(大阪大学)は「民主化運動期における自由主義知識人と台湾主体性言説」と題して、オポジションの中心にはいないが政府を批判する自由主義知識人に焦点を当てて報告した。「党外」が80年代に台頭するとき、中国出身の自由主義知識人はどのように「党外」に対峙したのかを『中国論壇』を中心に検討した。彼らの中心的メディアであった『中国論壇』は一般人民には理解されにくい学術的な内容であり、一般社会への影響力は低かったが、知識人の集まりとして機能していた。同誌では70年代以来の「党外」の動きには同情的な論調はなく、台湾主体性言説に関する言論は80年代初期に批判的な形で出現する。
 しかし、80年代中期の康寧祥批判の時期になると台湾主体性言説が登場する。1987年の戒厳令解除前後は台湾主体性言説について本格的な議論が行われた。中でも戦後生まれの若い世代が『中国論壇』に入っていくと世代間の認識差も浮上するが、学術性を備えた台湾主体性言説は受け入れられた。しかし、最終的にアイデンティティ問題が先鋭化すると『中国論壇』に集まる知識人、特に古い世代の知識人は受け入れられずに学術分析に戻ったことを指摘した。
 休憩をはさんで、松田康博(東京大学)は「体制維持と民主化をめぐる中国国民党内の議論」と題し、中国国民党中央常務委員会(中常会)会議記録を用いて体制維持と民主化をめぐる国民党内の議論について報告した。同記録によると、美麗島事件直前には中常会の雰囲気は通常通りで、事件直後も話題にあがらなかった。その沈黙からは、蒋経国に危機感はあるものの美麗島事件は次々と党外人士が逮捕される日常の法律案件と認識されており、脅威とは考えず情報統制で乗り切る、また美麗島事件の担当は警備総部なのであって党中央はそうしたダーティー・ワークには関わらない、という認識が見られる。
 しかし、林義雄事件のインパクト、および、アメリカの圧力で軍事法廷の公開に至り、蒋経国はかなり危機感を強め、中国大陸に対する反共のイメージが汚れることも心配した。そこで新聞局長宋楚瑜が体制内の自己洗脳とも言うべき世論調査を行うが、そのような情報統制には限界も露呈された。かくして蒋経国は1980年選挙で公正公開の選挙を主張し(でも選挙には勝つよう要求する)、選挙後には不正行為が少なくて成功だったと総括して以前横行していた不正行為にも慎重になった。今後は中壢事件あたりから含めて国民党と「党外」の両方から分析を進める必要があるとの課題も報告内で示された。
 松本充豊(京都女子大学)は「台湾の権威主義体制と野党」と題して、比較政治制度論から権威主義体制下の野党について議論を整理し、民進党の形成期に権威主義体制期の選挙制度と執政制度が「党外」の発展と民進党の結成をいかに規定したのかを報告した。まず、権威主義体制の政治制度は中選挙区制中心の選挙制度であることから雑居的な「党外」にとって有利に働いた。次に執政制度は大統領制に比べて議会や議会内の政党の存在が重要であり、また立法院は争点明示機能を持つ「アリーナ議会」なので、目立つパフォーマンスに走る党外議員が出現した。
 この状況下で「党外」は雑居的な特徴を帯びたまま結党するが、派閥の存続を可能にしたのは中選挙区制であった。1992年の選挙で当選者数が増えると、M+1理論により派閥はさらに多元化した。次に、民進党の「派閥共治」党内ルールが選挙制度と執政制度にいかに規定されているかをみると、国民党への対抗、同党との差別化、複数の党内派閥の存在、党内対立を選挙に持ち込まないために民主的方式が採用されていることが分かった。また、合議制や党要職が短期間で定期改選されるのは、主要派閥が党内資源を分有し、党の一体性を保つ「派閥共治」ための制度であるといえる。一方で、立法院党団の高い自律性も形成された。
 報告の最後に、民進党は政権を握っているときは政府と与党議員との足並みの乱れが生じやすい反面、党の路線転換が比較的容易であり、路線対立も党内で完結しやすい。①民進党の歴史的正統性、②権威主義体制下での発展により培われた経験の蓄積、③分裂抑制的な政党組織という特徴が民進党の政党としての「強さ」をもたらしているという指摘も加えられた。
 コメンテーターの薛化元(政治大学)は、若林報告に対し、中国民主党結成運動は反対党の歴史の中でどのように位置づけられるのか、先行研究では中国民主党組党運動では外省人エリートの役割が大きいとされているが、何春木、蘇秋鎮ら台湾人の役割など様々な動きもあったのではないかというコメントを行った。岸川報告については、国民党が本土派の抑圧だけでなく県を越えた国民党政治家の抑圧や、国泰信託など企業グループの抑圧についても見るべきだとコメントした。家永報告については、自分も「党外雑誌」の筆者であったことに触れながら、72年体制の中で「党外雑誌」のおかれた状況を論じる必要性を提起した。
 田上報告については、自由主義知識人の定義や範囲に関する疑問を提起し、中国論壇以外の投稿も見る必要性を指摘した。松田報告については、美麗島大審にたいして蒋経国の別の見方を提示する別資料の存在を指摘するとともに、中常会の機能が低下している可能性や海外(AITなど)の影響力も見る必要があると指摘した。また、蒋経国が言った「生存」とは何かという疑問も提出した。松本報告については、このような中選挙区において民進党の派閥は通常一人しか支持しないので、多くの資源は得られないのではというコメントがあった。
 もう一人のコメンテーター、林泉忠(中央研究院)は、最初に「戦後台湾政治史における『国家化』とその影響」と題して発言し、蒋介石時代に「国家化」が進んでいたことが台湾の国家意識の形成に重要であったことを指摘した。続いて、報告全体へのコメントに移り、若林科研の研究はオポジションの研究から民進党研究、さらに現在の民進党を理解するのに役立つと位置づけ、オーラル・ヒストリーの収集も評価した。そして科研全体の課題として、保釣運動参加者や夏潮など中国寄りのオポジションについても研究の必要性を提起した。
 個別報告へのコメントとしては、田上報告には自由主義知識人の定義、70、80年代の自由主義知識人と「党外」の関係性、台湾独立を主張しないなら党外「穏健派」ということの妥当性などを疑問視し、丁寧な類型化が必要だとコメントした。松田報告については、自分が昔インタビューした李煥によると、蒋経国は美麗島事件について「沈思」していた、蒋経国は色々台湾のために建設してきたのに、なぜ台湾人は不満なのかと考えていたのだという。それについて他の資料から補強する可能性を質問した。岸川報告については、国民党の70年代からの台湾青年登用政策の成功・失敗にふれ、国民党の本土派と「党外」の違いについて質問した。
 以上の報告に対して、フロアからは、蒋経国や中常会の沈黙に関する解釈の問題、林義雄へのインタビューをしていないこと、小選挙区になった後も民進党内に派閥があること、予備選挙に注目する必要、国民党の本土派と民進党穏健派との協力があったこと、蒋経国や国民党の側からの研究の必要性、などが指摘された。
 最後に研究代表の若林があいさつし、自分が同時代と思っていたことがあっという間に歴史になったことに当惑しつつ、これを消化したいという思いで研究プロジェクトを始めたこと、検証可能なファクツがそろってきてしだいに学問的な研究に発展してきたことを回顧した。
 当シンポジウムは専門的なテーマであるにもかかわらず約70名の参加者があり、関心の高さがうかがえた。研究の途上であり中間報告という位置づけであったが、日本における台湾政治研究の一定の水準が示されたといえる。今後、インタビュー記録の刊行そして完成した研究論文の刊行に期待したい。

【当日の写真】





シンポジウム・ポスター
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