2016年台湾総統選挙・立法委員選挙の分析
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東京外国語大学
小笠原 欣幸 |
本稿は,2016年2月5日に開催された日本台湾学会定例研究会での報告原稿を加筆 修正したものである。当日は,若林正丈氏の司会のもと小笠原が2016年台湾総統 ・立法委員選挙について報告し,松田康博氏と伊藤信悟氏がコメントを行った。 |
はじめに 第1節 地殻変動
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国民党の歴史的役割の終焉 |
はじめに
今回の選挙から何が読み取れるのか,選挙結果の数字をベースに,選挙に集中して報告する。馬英九政権が不人気であることは議論の前提とし,その原因について今回は扱わない。馬政権期の中台関係と政治経済要因に関しても別途論じる予定なのでここでは触れない。 第1節 地殻変動 1.歴史的選挙 今回の選挙は「歴史的選挙」であったと位置づけたい。「歴史的」の意味は二つある。 第一に,国会の過半数を初めて民進党が握ったことである。日本メディアでは「八年ぶりの民進党政権」,「三度目の政権交代」という位置づけが多く,間違いではないが十分ではない。陳水扁政権はやりたい法律を通すことができなかった。半大統領制という台湾の政治制度に則すれば,実質的に今回が初めての政権交代となる。 第二に,今回の敗北で中国国民党の歴史的役割が終了する。国民党は戦後台湾を支配・統治してきた一強政党としての役割を終え,今後は三分の一政党に向かうであろう。また,勢力の弱まった国民党は,中国共産党と連携しながら台湾の選挙を戦っていく政党にならざるを得ない。中国共産党と対峙して中華民国を守るという,蔣介石以来の国民党の歴史的役割は終了する。 2.変わる風景 2016年1月16日に投開票が行われた台湾の総統選挙で,民進党の蔡英文主席が56%の得票率をあげ,国民党の朱立倫主席の31%,親民党の宋楚瑜主席の13%を大きく引き離して当選した。民進党・蔡英文の勝利は,2014年の統一地方選挙で発生した「地殻変動」の結果である。陳水扁時代は緑陣営と藍陣営の勢力比は長らく「45:55」であった。現場を見ると,この10ポイントの差というのは非常に大きく,民進党にとって高く厚い壁となっていた。 この比率が,まず2014年地方選挙で「55:45」に逆転し,次に「45」の内部がガタガタになる変化が発生した。これは「液状化」と呼べるかもしれない。その結果,朱立倫の得票率は大きく落ち込み,蔡英文の得票率との対比では「56:31」となった。 図1は2012年と16年の総統選挙の各候補の得票数を示すが,奥(2012年)と手前(16年)のグラフの形状を見れば,視覚的に「地形が変わった」ことが感じられる。
同時に行なわれた立法委員選挙でも民進党が圧勝し,全113議席の過半数を大きく上回る68議席を獲得した。図2のように立法院の各党の議席数の推移を見ても変化の大きさは明らかだ。 (出所) 中央選挙委員会資料を参照し筆者作成 立法院の議席数は日本メディアでも報じられているので,各党の議席数を意識している人は多いはずだ。しかし,選挙区の各党の「得票率」を意識している人はほとんどいないのではないか。日本の国会議員選挙の報道では,議席数だけでなく「得票率」も見るのが一般的だ。だが,今回の台湾の立法委員選挙の選挙区の各党の得票率を,日本メディアは報じていない。これは,総統選挙と立法委員選挙のダブル選挙であったため,紙面スペースの都合と二つの選挙の混同を避けるため,議席数のみ報じたためのようである。だが,得票率のデータが示されていないので,民進党が選挙区でいったいどれくらいの差で勝ったのかがわかりにくい。
そこで,表1の選挙区の各党得票率の推移を見ていただきたい。2012年と16年を比較すると,国民党は9.4㌽の大幅な低下であるが,民進党はわずか0.6㌽増にとどまっている。そのため,今回は「民進党が勝ったのではなく,国民党が負けたのだ」と見る人がいるかもしれないが,それは不十分な見方である。民進党は,緑陣営の他の候補者を応援する戦術をとったので,それを見なければならない。表2は筆者が集計した緑・藍両陣営の得票率である。陣営は次のように分類した。
その結果,緑陣営は民進党単独の45.1%ではなく,54.0%の支持を集めたことがわかった。国民党と選挙協力したのは新党だけで,藍陣営の得票率は両者合わせて39.3%である。親民党も,新しく登場した民国党も,国民党に対抗して候補を立てたので,藍陣営ではなく「その他」になる。興味深いのは,実態もはっきりしない諸派の候補や泡沫候補が予想外に票を増やし,「その他」が6.7%に達したことである。 民進党は緑陣営を束ねることで選挙区で圧倒的な優位を作り出し,国民党の堅い支持基盤を切り崩した。「その他」の得票率7%は,国民党の足元から票が流れていったことを意味する。小選挙区制での「54:39」という差は「べらぼうな差」を意味する。今回,選挙区では「緑陣営54:藍陣営39:その他7」という新しい勢力比が出現した。つまり,新しい現実が登場したのである。
3.三つの票の動き ここで,選挙民が,①立法院選挙区,③総統選挙,②立法院比例区の三票をどう投じ分けたのかを分析してみたい。添付資料1 「2016 年総統選挙・立法委員選挙 選挙区・比例区 各党得票率と3 種の票の動き」 を見れば,票の動きの全体像を把握できる。筆者が独自に集計したところ,台湾の選挙民は,やはり伝統的な緑・藍の枠組みが強いことが分かった。政党構造の多元化・多様化がいわれ,いろいろな政党が出てきたが,緑と藍に分類すると投票行動は高い比率で一致する。特に,②の総統候補得票率と③の比例区の政党票は見事なほど一致している。 緑陣営は①②③がほぼ一致し,蔡英文・民進党の求心力が強いことがわかる。①の選挙区の藍陣営と②の蔡英文の得票との間で,差し引き約2㌽の移動がある。これが,「総統は蔡英文に入れるが,選挙区では国民党候補に」という分裂投票である。国民党は①の選挙区で非民進党の票を固めることができず,獲得した39%すら②の朱立倫に集中させることができず,6㌽が宋楚瑜に,2㌽が蔡英文に流れた。選挙区の国民党の票は,③の比例区ではさらに分散した。 選挙区の諸派・無党籍の候補者は,これまでの選挙なら合計しても1%程度なのが通例であったが,今回は「その他」の得票率が増えた。その意味は何であろうか。国民党のベテラン現職が必死で戦い「助けてください」と訴えている選挙区で,小政党・泡沫候補に投票する人たちは,国民党の候補が落選しても構わないと思って票を投じた。国民党支持者の国民党離れがいかに深刻かを物語る。 4.泛藍陣営は存在するのか? 朱立倫の得票率31%と宋楚瑜の得票率13%を足して「泛藍陣営44%」と語る論者がいる。つまり,蔡と朱の「56:31」の比率より「差が小さい」と言いたいわけだが,宋楚瑜・親民党に投票した人すべてが泛藍陣営支持者ととらえることはできない。宋楚瑜が今回出馬しなかったとしたら,蔡60%:朱40%という比率になったのではないかと推測する。 今回宋楚瑜は中間派に的を絞った選挙戦をした。過去の国民党の強権的統治について謝り,自分の顔に泥を塗って「自分は汚れていた」とアピールした。選挙戦では,国民党でも民進党でもない立場を訴え支持を得た。選挙区の親民党の候補者たちも同じで,彼らの国民党批判は厳しかった。 宋楚瑜は老獪な政治家なので今後国民党に合流しないとは限らないが,今回宋楚瑜に投票した人が全員宋について行くとは考えられない。宋楚瑜が得た13%は,従来型の泛藍陣営支持者と,国民党にも民進党にも飽き足らない「第三勢力」的支持者とが混じりあったもので,両者の比率は大雑把にいって半半くらいではなかろうか。国民党の同盟政党は新党だけであり,国民党と親民党を足して泛藍という概念はすでに成り立たなくなっている。 第2節 地方の票の動き 1.県市別の票の動き 表3で,県市別の蔡英文と朱立倫の得票率上位5県市,および,前回と比較しての得票率変動幅の上位5県市を整理した(各候補の県市別得票状況の詳細は添付資料2 「2016年総統選挙県市別各候補得票率」 参照)。 蔡英文の得票率上位5県市は,台南市,嘉義県,屏東県,雲林県,高雄市で民進党の支持が強い県市,朱立倫の得票率上位5県市は,連江県,金門県,花蓮県,台東県,苗栗県で国民党の支持が強い県市であり,この構造は以前と同じである。しかし,国民党の票の流出が著しい。離島を除けば朱立倫が50%を越えた県市はない。 次に,2012年選挙と比べた蔡英文の得票率の増加幅を見る。蔡英文の得票率は4年前と比べて10.5㌽上昇したが,県市別の上昇幅の標準偏差は1.86で,ばらつきが少ない。その中であえて増加幅の比較にこだわれば,増加幅が最大なのは台北市で,以下,苗栗県,新竹市,新竹県,基隆市と続く。つまり,蔡英文は全県市で得票率をまんべんなく伸ばしたが,国民党の支持基盤での増加幅が,より大きいといえる。 朱立倫の得票率は2012年選挙の馬英九の得票率と比べて20.6㌽減少した。県市別の減少幅の標準偏差は3.58で,ばらつきは蔡英文の変化幅のばらつきより大きい。これは宋楚瑜の得票率の上昇幅のばらつきと連動している。朱立倫の得票率の減少幅が最大なのは新竹県で,以下,苗栗県,新竹市,基隆市,金門県と続く。客家の人口比率が比較的高い新竹県市と苗栗県の国民党の支持基盤が,蔡英文に切り込まれ,宋楚瑜に揺さぶられた,といえる。
2.六都の票の動き 次に,六都(台北,新北,桃園,台中,台南,高雄の6つ直轄市)における蔡英文と朱立倫の得票率を2014年統一地方選挙の市長選挙と比較してみる(表4)。 国民党の支持基盤が非常に強かった台北市で,蔡英文は52.0%の票を得た。2014年選挙の際,柯文哲が57.2%の得票率で台北市長に当選したが,柯の得票の何割が民進党の票なのか議論があった。蔡英文の得票数は柯文哲の得票数の88.7%に相当する。柯文哲は,独特の選挙戦により台北市の国民党の支持基盤を切り裂き,従来の緑陣営の票に加え,大量の無党派の票を掘り起こし,緑・無党派・反国民党連合を構築したのだが,蔡英文はその88.7%を固めることに成功した。朱立倫の台北市での得票率37.5%は,2014年台北市長選挙での連勝文の得票率40.8%より低い。 新北市は朱立倫の地元であるが,そこで朱立倫の得票率は33.3%に沈んだ。朱立倫の得票率は2012年の馬英九と比べて台湾全体で20.6㌽のマイナスであるが,新北市でのマイナスは20.4㌽で,全国平均と同じである。14年市長選挙での自身の得票率と比べても16.8㌽のマイナスである。つまり,朱立倫は自分のお膝元で国民党の退潮に抗する個人的影響力をまったく発揮できなかったことになる。新北市の攻防は,台湾最大の人口を擁することと朱立倫の地元であることの二点で特に重要であったが,蔡英文の圧勝に終わった。新北市については,このあとの投票率の議論でも取り上げる。
14年地方選挙の最大のサプライズは,桃園市長選挙での民進党の勝利であった。その時の鄭文燦の得票率は51.0%であった。今回蔡英文は全く同じ51.0%の得票率をあげた。六都の中で2012年の馬英九の得票率と比較して朱立倫の得票率の減少幅が最大なのが桃園市である。馬の得票率57.2%に対し朱の得票率は34.4%では,22.8㌽の減少である。また,朱の得票率は,14年市長選挙での呉志楊の得票率48.0%より13.6㌽も低い。朱立倫は桃園の出身で桃園県長を8年務めたが形無しである。桃園市の立法委員選挙区6議席のうち民進党が推薦も含め4議席を取ったことと合わせると,民進党が弱かった桃園市で民進党の支持が安定しつつあることを示す。 台中市は14年市長選挙で林佳龍が57.1%の得票率をあげて胡志強を破った。林佳龍の当選は予想されていたが,得票率がここまで伸びたのはサプライズであった。今回蔡英文は55.0%の得票率を確保し,民進党が台中市で基盤を固めつつあることを示した。 台南市と高雄市での蔡英文の得票率は,14年市長選挙での賴清德,陳菊の得票率と比べてそれぞれ約5㌽低いが,十分な水準を達成している。朱立倫の得票率はそれぞれ22.0%と26.0%で,3割を大きく下回った。ちなみに,全県市で朱立倫の得票率が最も低かったのがこの台南市の22.0%である。人口の多い直轄市でこの得票率は全体への影響が大きい。 第3節 投票率 1.投票率の議論 総統選挙の投票率は,図3のように2000年の82.7%をピークに徐々に低下し,前回2012年は74.4%であった。今回,そこから8㌽下落し,66.3%となった。 「国民党は支持者が投票に行かなかったから負けた」という説が台湾メディアでよく登場している。投票率は確かに大きく下落した。しかし,「投票率が高ければ国民党は勝てた」あるいは「次回投票率が上がれば国民党は勝てる」と考えるのは誤りである。 投票率の議論は一見科学的であるが,実は想像の領域の話なので,負けた陣営にとっては投票率の議論は候補者の資質や党の路線の本質的問題から「目をそらす」便利な材料となる。これを持ち出すことで支持者の希望をつなぐ効果が期待できる。2012年選挙で蔡英文が負けた時,民進党関係者が「(民進党の票田の)中南部で投票率が低かったので蔡英文が負けた」と語り,支持者も「そうだ,そうだ」となったのが一例である。今回中南部でも投票率が下がったが,蔡英文は圧勝している。 (出所) 中央選挙委員会資料を参照し筆者作成 2.投票率と票差のシミュレーション 「投票率が高ければ国民党は勝てた」と信じる人のために,国民党に好意的な条件で,投票率と票差の関係をシミュレーションしてみたい。「投票しなかった選挙民は国民党の支持者が多いに違いない」と考えている人がいるので,棄権した選挙民の支持傾向を「蔡英文4割,朱立倫6割,宋楚瑜0割」と想定し,投票率が1%上がるごとの得票数を試算したのが[シミュレーション1]である。図4のように,投票率がどれほど上がっても朱は蔡に追いつけない。「朱立倫6割」というのは朱の得票率31%の倍の支持であり,ほとんどありえない想定であるが,それを使ってシミュレーションしても差が少し縮まるだけだ。 次に,朱が蔡に追いつくためにはどのような想定が必要かと考えたのが[シミュレーション2]である。棄権した選挙民の支持傾向を「蔡英文2割,朱立倫8割,宋楚瑜0割」と想定すると,投票率93%で朱が蔡を追い越す。しかし,これはありえない想定である。結局,どれだけ国民党に好意的にシミュレーションしても,選挙民数1800万人の中での300万票差は絶対的な差であり,投票率は関係ない。 (出所) 筆者作成 3.投票率と得票数との関係 投票率と得票数との関係は複雑であり,一概に論じない方がよい。この複雑さは2014年地方選挙で示されているのに,単純化した議論が少なくない。投票率と国民党の得票数との関係について2014年新北市長選挙の事例がよく挙げられる。「投票率が下がったから朱立倫の得票数も減ってもう少しで負けるところだった」という議論で,これはよく持ち出される。ところが同じ2014年選挙で,桃園市長選挙,基隆市長選挙は投票率が上がって国民党候補が負けている。このことを論じる人は少ない。 新北市の事例は興味深いので,さらに掘り下げたい。図5は,新北市の市長選挙と総統選挙における投票率と国民党候補の得票数とを示したものである。2010年の朱立倫,2012年の馬英九,そして2014年の朱立倫の三回については,確かに「投票率が上がれば国民党の得票数も伸びて,投票率が下がれば国民党の得票数も下がる」という相関関係が認められる。しかし,今回の2016年総統選挙では,2014年市長選挙と比べて投票率は上がったが朱立倫の得票数は減った。この二回については,国民党の得票数は,「投票率が下がったら下がり,投票率が上がっても下がる」という状況と言わざるを得ない。 このように投票率と得票数との関係は複雑であり,決めてかからない方がよい。選挙区レベルでは投票率の増減は大きな影響を及ぼすので,注意深く観察することが必要である。 (出所) 中央選挙委員会資料を参照し筆者作成 第4節 選挙戦の推移 選挙戦全体を振り返ってみると,図6のTVBS民意調査の各候補の支持率の推移を見てわかるように蔡英文が終始優勢に選挙戦を進めた。 (出所) TVBS民意調査を参照し筆者作成 1.序盤戦 2014年統一地方選挙後,「国民党の負けと決まったわけではない」,「国民党の底力はこんなものではない」といった声が聞かれたが,たいていは現場を見ていない人たちの希望的観測であった。国民党の迷走は地殻変動の結果であって,「迷走したから国民党がダメになった」わけではない。 国民党は,北部の軍人・公務員・教員の支持者および中南部の地方派閥という二つの支持基盤がガタガタになった。にもかかわらず党内は実力者らの駆け引きで身動きがとれない状況に陥った。だから,朱立倫は総統選挙に出ないという決断をした。朱立倫は,王金平を総統選に出させようとしていた。自分は党主席として力を温存し,立法委員選挙で議席をできるだけ守り,同時に総統選挙敗北後に馬英九,王金平,呉敦義ら実力者をまとめて厄介払いし,自分の思惑で党改革を進めて2020年に出馬するつもりであった。 しかし,洪秀柱がそのシナリオをめちゃくちゃにした。実力者が誰も出馬しない予備選挙で,洪秀柱が要件を満たし国民党の公認候補となった。 2.「立法院は国民党過半数」の神話 立法委員選挙については,小選挙区制と議席配分の偏りにより「国民党に有利」であると長らく考えられてきたので,当初は,仮に国民党が総統選挙で負けても立法院は国民党が過半数を維持するという見方が多かった。しかし,これは個々の選挙区事情を見ないで信じ込んでいたところが大きい。 選挙戦が始まる4月から6月にかけて,選挙区に問題を抱える国民党の現職議員らが次々に不出馬を表明した。翁重鈞,張嘉郡,鄭汝芬,黄昭順,楊應雄,謝國樑,蔡正元,林鴻池らである。後に,鄭汝芬のみ翻意し出馬(落選),黄昭順は比例区名簿に載った。 国民党の総統候補洪秀柱の支持率が上がらない中,選挙区の国民党候補は自分の生き残りのため洪秀柱・国民党の看板を表に出さない動きが広がった。「総統選挙では蔡英文に投票してもよいから立法委員選挙では自分に」という分裂投票を促す選挙戦術が少なくない選挙区で広がったが,これは候補者にとってはよいが,国民党にとってはダメージが大きい。このような選挙戦術を続ければ,方便であるとわかっていても,「国民党は薄汚れた政党,だから隠したいのだ」という印象が徐々に広がる。 秋以降,ようやく多くの人が国民党の過半数割れを意識するようになり,国民党はついに「洪秀柱降ろし」,つまり選挙戦の途中での候補のすげ替えに踏み切るが,朱立倫になっても選挙情勢は変わらなかった。この時点で,当初から言われていた激戦区は民進党優勢区に変わり,国民党が安泰と思われた選挙区が激戦区になっていった。 3.中盤戦 11月初めに中台トップ会談という選挙戦を通じて最大のサプライズが発生した。これで国民党が巻き返すと期待した人もいたが,選挙への影響はほとんどなかった。会談の前後,馬英九にスポットライトがあたり,候補者の朱立倫がかすんでしまい,朱立倫の訪米も目立たなかった。結果として馬習会談は朱立倫の選挙にはマイナスとなったのではないか。 馬総統が会談の意義を力説したが,中台トップ会談はすぐに話題にならなくなった。国民党のある立法委員候補者は,「馬習会談よりも(直後に発生した)パリ同時多発テロの方が選挙民の関心が高かった」という象徴的な言葉を語った。 朱立倫は副総統候補,比例区名簿でさらに躓いた。副総統候補に指名された王如玄は,軍人家族向け住宅の売買で利ざやを稼いでいたことが発覚し,強い批判を受け,謝罪に追い込まれた。国民党の立法委員選挙比例区名簿は,地方派閥を背景とする政治家が並んでいたため,これも批判を浴びた。 4.終盤戦
Facebookなどを通じて東京にいながら台湾各地の選挙活動を観察することができる。投票1週間前,候補者の選挙活動が最後の山場を迎えた。各地の動きから,蔡英文の求心力がまったく衰えていないことが確認できた。1枚の写真をあげたい。 右上段は,投票1週間前,雨の中雲林県虎尾での蔡英文の選挙集会に集まった人々の写真である。1月の台湾で雨が降ると非常に寒く,野外の集会では足場も悪い。しかも夜となれば条件はさらに悪いが,約1万人の支持者が集まり大盛況であった。民進党の牙城の雲林県での支持者の静かな熱気が感じられる。 筆者が撮影した写真2枚も見ていただきたい。右中段は,投票日前々日の桃園市郊外の蔡英文の野外集会の写真である。暗くてわかりにくいが,約2万人の人で会場はいっぱいであった。鄭文燦市長が民進党公認および推薦の立法委員候補6人を紹介したところに蔡英文が到着し,大変な盛り上がりであった。 一方,右下段は,4年前の投票日前日の桃園市郊外の室内体育館での写真である。約1万人集まり一見盛況に見えるが,よく見ると空席があり,支持者の気勢もどことなく盛り上がりを欠いた。野外と室内の違いはあるが,同じ桃園市で撮った写真からも今回の蔡英文・民進党への支持の強さがうかがわれる。 5.周子瑜事件の影響 (1) 選挙活動が無事に終了した1月15日22時以降,台湾出身で韓国で活躍する16歳の女性アイドル周子瑜の「謝罪」の映像がテレビ・ネットで,一斉に,そして一晩中繰り返し流された。発端は,周子瑜が中華民国の国旗を振るシーンが放映されたことである。それを見た中国のネットユーザーが批判を殺到させ,あわてた韓国のマネージメント会社が周子瑜に謝罪させ,事件となった。 TVBSは,投票後の1月18-19日に行なった民意調査をもとに,「投票した民衆の4%が周子瑜事件のために投票に行くことを決めた,これは50万票に相当する」と報じた(「TVBS民調:周子瑜至少催出50萬票」『TVBS新聞』2016年1月20日 http://news.tvbs.com.tw/politics/news-636079/)。周子瑜事件の政治的影響は間違いなく大きい。しかし,選挙にどう影響したのかは,慎重に議論する必要がある。この民意調査のデータをもう少し掘り下げて検討したい(添付資料3 「TVBS民意調査 周子瑜事件の影響」 を参照)。 TVBS民意調査は,まず「投票に行くことを決めた日はいつか?」を聞いた。その回答は,「当日8%,前日3%,1週間以内6%,1か月以内7%,3か月以内5%,半年以内3%,半年以前57%,わからない/答えない11%」であった(添付資料3の表2)。さらに,「当日,前日,1週間以内」と答えた人に「この事件が最終的に投票に行くと決めた原因であったか?」と聞いている。その結果,「そうです」が23%,「そうではない」が74%,「わからない」が3%であった。ここで「そうです」と答えた23%が,「投票した民衆の4%,約50万人」であったとしている。 この調査では,「投票に行った」と回答した人の投票先は「朱17%,蔡51%,宋8%,答えない23%」である。「朱17%」という回答は,実際の朱の得票率31%より14㌽も低い。台湾人は負けた候補に入れたことを他人に言いたくないので,国民党であろうと民進党であろうと負けた候補に投票したと回答する人の比率は毎回低い。この点で,投票行動を分析するデータとしては不完全ということになるが,それはさておき議論を進めたい。 TVBS民調は,それぞれの候補者に投じた人の中で,「当日,前日,1週間以内に投票に行くことを決めた人」の比率は示しているが,「当日,前日,1週間以内に投票に行くことを決めた人」の投票先の比率は公開していない。そこで,添付資料3の「作業2,3」のように,TVBSが公開したデータのクロス計算を分解し,「当日」投票に行くことを決めた人,「前日」投票に行くことを決めた人,「1週間以内」に投票に行くことを決めた人,それぞれの投票先の比率を計算した。 その結果,「当日,前日,1週間以内に投票に行くことを決めた人」の投票先は「朱17%,蔡48%,宋14%,答えない21%」であることが解読できた(添付資料3の「作業4」)。TVBS民調は,このグループが事件の影響があったグループとしているのだが,これを「投票に行った」と回答した人の投票先「朱17%,蔡51%,宋8%,答えない23%」と比較すると,朱はまったく同じ,蔡は3㌽低いが基本的にはあまり変わらず,宋が6㌽高いという結果になる。ここから周子瑜事件が選挙に与えた影響を読み取ることは難しい。 第5節 選挙区の現場 1.立法委員選挙の両党候補者の得票率 今回立法委員選挙の全73選挙区において,民進党は60名,国民党は72名の公認候補を立て,民進党は49名,国民党は20名が当選した。両党の得票率についてはすでに論じたので,個々の候補者の得票率の概況を整理しておきたい。 表5と表6は,民進党と国民党の公認候補の得票率上位10名を並べたものである。両党の候補者全員の得票率一覧は添付資料4 「民進党と国民党の選挙区候補の得票率」 で整理した。民進党は地盤の台南,高雄,屏東,嘉義,雲林の選挙区を中心に高得票率が多数出ているが,第10位に台東県の劉櫂豪が入っていることにも注目しておきたい。 劉櫂豪は,前回は国民党が分裂したことによる三つ巴の戦いを制して当選したのだが,今回は国民党候補との一対一の戦いで当選した。小選挙区制度が導入された10年前は,台東選挙区は国民党の鉄票区で,民進党候補が当選するとは想像すらできなかった。民進党の影響力の線が屏東から台北までの西部だけでなく,基隆から台東までの東部にまでつながり,台湾をぐるりと回ったことになる。 民進党は公認候補60名のうち,実に44名が得票率50%を超えている。その中で得票率60%を超えたのは16名,その中で得票率70%を超えたのが6名いる。一方,国民党は公認候補72名のうち,連江県の陳雪生を除くと,得票率が60%を超えた候補者はいないし,50%を超えた候補者も7名だけである。国民党は実に33名が得票率40%以下である。 民進党の当選者で得票率が最も低いのは基隆市の蔡適應(56位),新竹市の柯建銘(57)である。どちらも小政党の候補者が一定の票を得たため当選ラインが下がったが,集票能力が低いわけではない。
2.民進党躍進の象徴的当選者 今回の立法委員選挙での民進党の躍進を象徴する当選者として,台北市1区の呉思瑤,新北市1区の呂孫綾,花蓮県選挙区の蕭美琴の三人をあげたい。これらは民進党が国民党の厚い壁を破った象徴的事例で,興味深いことに三人とも女性である。 台北市1区は国民党の強固な地盤で,特に軍公教関係の深藍の支持基盤があり,加えて現職の丁守中には実績・知名度があり,民進党にとって非常に厳しい選挙区であった。民進党は,そこに実力のある市議員を立て正面から挑んだ。台北市での民進党の公認候補は二名だけで,もう一人の姚文智は再選が堅い現職であったので,民進党は呉思瑤の選挙に全力で取り組むことができた。呉は50.8%対43.8%で初当選を果たした。 新北市1区も国民党の支持基盤が強く,現職は実績・知名度がある呉育昇で,ここも民進党にとって非常に厳しい選挙区で,普通に戦っては勝ち目がなかった。しかし,呉育昇は立法院で馬政権を支える中心的役割を果たしたことと,過去の個人スキャンダルが繰り返し取り上げられたためイメージが低下していた。民進党はそこを逃さず,27歳の大学院生の呂孫綾を立てる奇策に出た。その策略が当たり,呂孫綾は53.3%対40.9%の大差で初当選を果たした。 花蓮県選挙区では蕭美琴が53.8%対43.6%で現職の王廷升を破った。花蓮県は民進党にとって「不毛の地」で,前回2012年の民進党候補の得票率はわずか25.9%であった。蕭美琴は2010年の補欠選挙に出馬したが王廷升に敗れ,2012年に比例区で立法委員に当選した。しかし,蕭美琴は補選敗北以来選挙区活動を続け,それが評価されたのである。これは奇跡的当選といってよい。蕭美琴についてはすぐ後でもう一度取り上げる。 民進党は2012年立法委員選挙で国民党から奪った議席を,今回の選挙で一つも落としていない。2008年以降の補欠選挙で獲得した議席の多くも守っている。要するに,民進党は,一度獲得した選挙区を自分の地盤に変えていく能力に長けている。選挙区の事情はそれぞれなので一概には言えないが,民進党の新たな当選者は今後4年間与党の立法委員として選挙区経営にあたり個人的基盤を固めることが予想できる。 3.分裂投票 「分裂投票」というのは一人の有権者が異なる政党の候補者に票を投じる投票行動のことで,日本語では「ねじれ投票」といった方がわかりやすいかもしれない。これと対抗する概念が,一人の有権者が同じ政党の候補者に票を投じる「一致投票」である。台湾では前回2012年選挙から総統選挙と立法委員選挙が同日投票となり,「総統選挙は蔡英文に入れるから選挙区も民進党の候補に入れる」といった投票行動が「同日選挙効果」として論じられる。 台湾の議論では分裂投票の概念が広く使われ,総統選挙と立法委員選挙の選挙区と比例区の三票の投票先に異なる政党があれば分裂投票と見なされる傾向がある。例えば,選挙区で民進党候補,比例区で時代力量に入れるのも分裂投票と見なされる傾向があるが,本稿では,図7のように総統選挙では蔡英文に入れるが選挙区では国民党の候補に入れるといったように選挙区選挙と総統選挙で藍緑の垣根を超えた投票行動を「分裂投票」と定義して議論する。 (出所) 筆者作成 選挙区ごとの分裂投票の実態を把握するため,全選挙区での立法委員候補の得票率とその選挙区における総統候補の得票率を対比させる作業を行なった。その結果は,添付資料5 「73選挙区における民進党と国民党の立法委員候補得票率と総統候補得票率」 で整理した。立法委員候補の得票率がその党の総統候補の得票率を上回っている場合もあるし,下回っている場合もある。 表7は,立法委員選挙の各選挙区における民進党の公認候補の得票率から蔡英文の得票率を引いて,差が大きい方から順に上位10名を並べたものである。表8は,同様に,立法委員選挙の各選挙区における国民党の公認候補の得票率から朱立倫の得票率を引いて,差が大きい方から順に上位10名を並べたものである。この差が大きいということは立法委員選挙の候補者が自党の総統候補より多くの票を得たのであるから,票を上積みする何らかの個人的要因があることを意味する。
表7でわかるように,民進党で最大の分裂投票を引き起こしたのは台東県選挙区の劉櫂豪である。すでに論じたように劉の得票率64.2%自体が十分「すごい」が,蔡英文の得票率を実に25.8㌽も上回った。これは驚異的集票能力と言ってよい。2位は花蓮県選挙区の蕭美琴で,蔡英文の得票率を16.8㌽上回った。 台東県と花蓮県は原住民選挙民の比率が比較的高く,かつ,原住民選挙民の国民党支持の比率も比較的高い。その原住民選挙民が立法委員選挙では別の選挙区になることに注意しなければならないが,それにしても蔡英文は台湾全体で人気を巻き起こした候補者であり,その蔡英文の得票率を少しでも上回る得票率をあげれば「すごい」ことになる。しかも,台東県と花蓮県は民進党が極端に弱かった県で,ここで支持拡大に成功した劉櫂豪と蕭美琴の個人的能力は「すごい」としか言いようがない。 表8は,国民党で分裂投票を引き起こした上位10名である。まず,選挙区の候補者の得票率が朱立倫の得票率を大きく上回っていることに気がつく。前回2012年の分裂投票の最高値は嘉義県1区の翁重鈞の11.46㌽であったことからすると,今回は相場がいきなり上昇した感がある。これは,朱立倫の得票率があまりに低かったので必然的に分裂投票の規模が拡大したという解釈が可能である。しかし,国民党への大逆風の中で票を維持した候補者個人の要因も重要である。 次に気がつくのは,上位10名の中に台中・彰化・南投の中部3県市が多いことである。1位の王恵美は彰化県,2位3位の許淑華と馬文君は南投県,5位6位7位の江啟臣,盧秀燕,顏寬恒は台中市で,上位10名のうち6名が中部3県市に集中し,しかも6名とも当選している。このうち,台中市5区の盧秀燕以外は,いずれも地方派閥・地方政治家族出身で自分の後援会票を持っている。4位の林江釧(嘉義県1区),8位の王進士(屏東県2区),9位の張鎔麒(雲林県1区) も同様の背景を持つが当選はできなかった。 盧秀燕の得票率は51.5%にとどまったが,相手の台聯の候補は得票率が40.0%で,とても強力とはいえない候補である。盧秀燕の支持基盤は軍公教の深藍が中心で,この構造は今回得票率を下げた北部のベテラン国民党候補と同じである。さらに,同選挙区では信心希望聯盟という新しい小政党が候補を立て,国民党の一部支持者の票が流出した。しかし,盧秀燕は,北部で落選した他の国民党現職と異なり,地元での評価とイメージがよかったので,それが分裂投票で生き残れた要因であろう。 筆者は投票前,個々の選挙区での蔡英文の予想得票率を計算し,総統選挙は蔡英文に入れるから選挙区も民進党の候補に入れる投票行動,すなわち「同日選挙効果」が広範囲に発生し,長年選挙区サービスをやってきた国民党のベテラン議員があちらこちらで落選する事態になると予想したのだが,中部ではあまり当てはまらなかった。 4.時代力量の選挙区での得票状況 今回の立法委員選挙で,新しく登場した時代力量がブームを巻き起こし,選挙区で三名,比例区で二名当選した。選挙区はいずれも国民党の支持基盤が非常に強かったところである。表9は,選挙区で当選した時代力量の候補者三名の得票率と同選挙区における蔡英文の得票率との比較である。いずれも完全な一対一ではなく泡沫候補が出ているので,比較には注意が必要であるが,三選挙区とも蔡英文の得票率が過半数を上回り,時代力量の候補も蔡の得票率にかなり近づいていることがわかる。
これら三候補はいずれも知名度が高く,困難な選挙区で闘うその選挙活動が注目を集めた。時代力量のブームはこれら三候補の健闘によるところが大きいが,それは蔡英文とのタイアップによってもたらされたと言えるであろう。つまり,選挙区でほとんど基盤のなかった三候補は蔡英文人気を利用する方法を選び,蔡英文・民進党の側も時代力量の声望の引き上げに手を貸した結果,三候補の支持率が上がってきて時代力量ブームが広がったのである。 時代力量は「ひまわり学生運動」を契機として登場した新政党であるが,これと出自が似ている緑党社民党聯盟(緑社盟)も議席獲得を目指した。時代力量が民進党と連携する道を選んだのに対し,緑社盟は民進党と連携しない道を選んだ。緑社盟の范雲候補の事例を見たい。范雲は台北市6区で出馬し,民進党は公認候補を立てず范雲を推薦した。同選挙区で蔡英文の得票率は47.0%,范雲の得票率は35.4%であった。蔡の得票率は高いとはいえないが,范雲の得票率は蔡より11.6㌽も低い。 民進党と連携する道を選んだ時代力量は,蔡英文・民進党の支持者の票をほぼ全面的に固めることができたが,民進党と連携しない道を選んだ緑社盟にはそれはできなかった。蔡英文・民進党の支持者は,よく吟味して投票している。この経験は選挙後の第三勢力の動きにも影響を与えるであろう。 5.周子瑜事件の影響 (2) 周子瑜事件の選挙への影響について,先ほどは選挙後の民意調査を元に検討したが,台中市の選挙区の情況からさらに検討してみたい。時代力量の三候補がいずれも国民党の支持基盤が強い選挙区で予想以上の票を集めて当選したので,周子瑜事件が時代力量の三候補の当選に影響を与えたとする解釈がでてきた。 周子瑜事件は投票日前日の夜10時以降,ネットとテレビで拡散したので,その情報は台湾全体に比較的均等に及んだと考えられる。時代力量の候補が,台北市,新北市だけでなく台中市でも当選したのはその証とも考えられる。 ところが洪慈庸が当選した台中市第3選挙区の隣の同市第2選挙区と第8選挙区では国民党候補が勝っている。台中市のこれら三選挙区の国民党候補(楊瓊瓔,顏寬恒,江啟臣)は地方派閥をバックにし,選挙区サービスを売りにする似たタイプの候補である。図8のように,これら三選挙区は旧台中市を取り囲むように連なっていて,社会構造も若干の違いはあるがそれほど大きな差があるわけではない。蔡英文の得票率は,第2選挙区が55.24%,第3選挙区が56.46%,第8選挙区が56.28%で,ほぼ同じである。 「周子瑜事件の影響で洪慈庸が勝った」というなら,隣の選挙区で民進党の陳世凱,謝志忠が勝てなかったことの説明が難しくなる。洪慈庸の当選は,時代力量が周子瑜事件に関係なくブームを作りだしていたからと解釈した方が適切ではないだろうか。また,周子瑜事件が北部の選挙区で国民党が票を減らした原因とする見方があるが,それだとやはり台中市の状況の説明が難しくなる。このように選挙区の情況から見ても周子瑜事件の影響ははっきりしない。 ここであげた選挙後の調査と選挙区の状況の二つの論点は,周子瑜事件の選挙への影響を否定するものではないが,選挙との関係はかなり複雑で,さらなる検証が必要である。周子瑜事件の政治的影響については最後に触れる。 (出所) 筆者作成 第6節 二大政党は一強一中へ 1.民進党の勝因
民進党の「地方での勢力拡大と豊富な人材」も勝因である。地方における民進党の支持基盤拡大は長期的トレンドであり,一時的な「風」による浮揚ではない。中堅・若手の人材の豊富さは,国民党に対する長期的優位をもたらした。 加えて,「公民運動との連携」にも注目すべきである。この数年,台湾社会では様々な市民活動が展開されているが,民進党との関係は微妙である。中でも最大の運動となった「ひまわり学生運動」は,潜在的には民進党をも含む既成政党・既成政治全般を否定するエネルギーを持っていた。民進党の中枢では「ひまわり学生運動の成果を独り占めすべきではない」という判断が働き,時代力量のような新政党,あるいは柯文哲の潮流に連なるような無党籍候補に選挙区を明け渡し,それらの候補を支援する選挙戦略をたてた。 確かにそれらの選挙区は民進党にとって当選の見込みが薄い選挙区であったが,候補を立てないことへの党内の不満や出馬したいという人を押さえこんでの高度な策略であった。こうして,民進党は緑陣営を結集させ,選挙区で国民党に対する圧倒的優位を作り出すことに成功したのだが,それ以上に大きな意義は,「ひまわり学生運動」のような公民運動を政治の力に転化されたことであろう。 さらに,蔡英文の指導力が確立され党内がまとまったこと,中間派を取り込む「現状維持」の路線を選択したことも重要である。選挙戦の戦い方は,総統選挙も立法委員選挙も非常に巧妙であった。筆者は4年前に,「蔡英文は駆け引きに弱い」と評したが,それは撤回したい。蔡英文はこの4年の間に政治的手腕を磨き,「ずる賢さ」も身につけた。 2.国民党は前途多難 一方,国民党は,①地盤,②資金,③路線,④人材,のどれをとっても再起が非常に難しい。
国民党の支持基盤の重要な柱である北部の軍人・公務員・教員の支持者,および,中南部の地方派閥のどちらもガタガタになった。2014年と16年の2回の選挙で,地殻変動が発生し,国民党陣営は「45:55」の少数派に転落,そして,「45」の中も「液状化」し,選挙区では「54:39:7」という新たな現実が登場した。 ②資 金 国民党は巨額の党資産を擁していると言われるが,それはストック(土地,建物,投資会社)のことであり,表で使えるキャッシュ・フロー(現金流量)は減っている。党職員は大幅にリストラされ,選挙区の現場でも以前ほど金が回っていない。今後,民進党・時代力量が「不当党資産処理条例」および「政党法」を立法院で可決させることが予想される。国民党の党資産が完全に解体されるわけではないが,選挙区経営・選挙に使えるキャッシュはいま以上に減る。これまで金でつながっていた人脈にも影響が出て,「金の切れ目が縁の切れ目」となる事例が出てくるであろう。 ③路 線 馬英九は,2008年に国民党の「台湾化」を唱えて選挙に勝利したが,習近平との駆け引きの果てに「台湾化」も「中華民国擁護」も後退した。党内は,中国ナショナリズムへの回帰によって党勢の立て直しを主張する深藍勢力と,台湾色を強めることで党勢の立て直しを主張する本土派勢力とに割れている。洪秀柱がパンドラの箱を開けたので,この対立が収まらなくなった。党員の構造的要因により前者の主張の方が,支持が多い。 それは台湾アイデンティティが強まった台湾社会の潮流から外れる。朱立倫のような深藍でも本土派でもない党内中間派にとっては非常にやっかいな問題で,路線問題は糊塗するしかない。他方,中国ナショナリズムを源流とする国民党の存在理由が消滅するわけではない。国民党は過半数を超える勢力には復帰できないが,三分の一政党としては存続できる中途半端な状況になるであろう。 ④人 材 国民党は中堅世代以下の人材の層が薄い。実力者は60歳以上に偏り,50歳代で全国的知名度と実力を備えた人材は朱立倫しかいない。馬英九により抜擢された若手は,それぞれトラブルや壁にぶつかり目立たなくなってしまった。2年後の統一地方選挙で,六都で勝てる候補が見当たらない。 それに対し民進党は,蔡英文の次のリーダー候補として,賴清德(台南市長,56歳)がいるし,その次には2014年に当選した林佳龍(台中市長,51歳),鄭文燦(桃園市長,48歳),その次には林右昌(基隆市長,44歳),林智堅(新竹市長,40歳)らが控えている。さらに今回の選挙で,地方に根をおろし活動してきた県議・市議あがりの人材が立法委員に多く当選した。民進党は今後20年くらい人材に困らないであろう。 3.2018年統一地方選挙の見通し 台湾政治について10年後,20年後のことを見通すのは困難であるが,2年後であれば比較的予想しやすい。2018年11月には,また統一地方選挙が行なわれる。そこで22県市の県市長選挙が行なわれるが,影響が大きいのは六都である。2年後には両党の候補者も決まり選挙戦は本格化しているであろう。六都の市長選挙の見通しを簡単に紹介したい。 台南市の賴清德市長と高雄市の陳菊市長は,2期8年の任期を終える。民進党は誰が後継候補になっても圧勝する。民進党は有力者が多すぎて公認候補を決める予備選挙でもめるであろうが,高雄市長の公認候補になれなかった楊秋興が民進党を飛び出て失敗した事例が関係者の教訓となっており,分裂には至らないであろう。国民党は候補者を探すのに苦労する。 桃園市の鄭文燦はサプライズで市長に当選したが,政治手腕に対する評価は党内で高い。今回桃園市の6議席のうち推薦も含め4議席を取ったのは鄭市長の功績が大きい。国民党の候補は前回落選した呉志楊であろうが,立法委員選挙の結果から見ても復帰は難しいであろう。桃園市は鄭文燦再選の流れと見てよい。 台中市の林佳龍の市政はいろいろトラブルがあり,予算もなかなか通らなかった。党内に雑音も多い。国民党の候補は,今回再選された盧秀燕か,江啟臣か,あるいは落選した楊瓊瓔あたりであろうが,いずれも台中市全体で支持を広げるのに難があり,勝つのは容易ではない。台中市も最終的には林佳龍再選の流れになるであろう。 台北市の柯文哲は,失言も多いし,市政で問題が多発している。しかし,本人の注目度はものすごく高い。選挙の1週間前の1月9日,柯文哲は自転車で台北から高雄まで一日で走り切るというイベントを敢行した。これがネットのライブ中継,新聞・テレビの報道を通じて,ものすごい関心を引きつけた。3分にまとめた記録ビデオはFacebookで再生が270万回を超え,けたが違う。 (https://www.facebook.com/DoctorKoWJ/videos/698927783542538/) 柯文哲は第三勢力を標榜し民進党とつかず離れずの距離を保っているが,市議会を考えると民進党との決裂はあり得ない。無所属の柯文哲が民進党と連合して再選を目指す枠組みは変わらない。柯文哲は,個々の言動で強い批判を招きながらも在任中一定の人気を維持した石原慎太郎元東京都知事や橋下徹前大阪市長のような特質を有している。失言や市政のトラブルが多々あってもこれだけの人気・注目を保っているので,あと2年半はこのままいくであろう。国民党には柯文哲に勝てる候補が見当たらない。 4.最大の注目は新北市 今回の総統選挙で,朱立倫は新北市で大きく得票を下げた。朱立倫は,新北市長の職務を長期休暇して総統選挙に出馬し,落選後はそのまま市長職に復帰した。これは「計算通り」であるが,こうした潔さに欠けた行動もあり,新北市での朱立倫評価は下がった。その後継候補が市長選挙で勝つのは難しいであろう。 また,選挙戦をサポートする新北市選出立法委員は,図9のように,選挙前の国民党10人,民進党2人が完全に逆転し,民進党+時代力量の緑陣営10人,国民党2人となった。これも国民党に不利な要因である。 (出所) 中央選挙委員会資料を参照し筆者作成 六都の選挙戦はいずれも山あり谷ありで,緑陣営の候補者も持ち上げられたりたたかれたりするし,一本調子ではいかないであろう。しかし,国民党は巻き返すどころか六都全部失う可能性の方が高い。他の県市でローカルな事情で国民党が民進党から取り返すところが一つ二つ出る可能性はあるが,流れを変えるには至らないであろう。 5.2020年総統選挙 2016年選挙が終わったばかりで気が早いが,2020年総統選挙も簡単に展望してみたい。2020年,民進党は蔡英文が再選を目指す。国民党は朱立倫しかいない。他に誰が出ても非常に厳しい戦いになる。国民党は,路線をめぐっての内部の主導権争いが続き,資金力を失い,人が去っていくであろう。 国民党の選挙情勢は地方から見て非常に厳しい。地方選挙をすべてまとめて「統一地方選挙」(台湾では「九合一」選挙と呼ばれる)にしたのは馬英九政権である。総統選挙とほぼ同じ選挙民が総統選挙の1年数か月前に票を投じることのインパクトは各方面とも必ずしも計算できていなかったであろう。統一地方選挙は「前哨戦」どころか「前半戦」くらいの重要性を持つようになった。その時勢いのある方に有利になる制度がつくられたのである。 そして,いま論じたように,2018年11月の統一地方選挙で国民党は再び大敗する可能性が高い。そこから2020年の総統選挙まで1年と2か月,長くとも1年4か月しかない。ここでスイング(鐘擺)を起こすことは難しい。今回と同じドミノ(骨牌)の流れになると見た方が合理的である。 立法委員選挙では,民進党はいったん議席を奪えばそれを自分の地盤にするのがうまい。今回激戦区であった選挙区のいくつかは,次回までに民進党安泰の選挙区となっているであろう。民進党は,数議席落としてもまだ過半数割り込みまで余裕がある。 政党間の競争という台北からのマクロの観点で見ても,2020年は,民進党,および,時代力量と柯文哲を含む第三勢力が,「国民党の復活を許さない」を合言葉に一致するはずだ。そこで国民党が三分の一政党に沈んだのを確認して,民進党と第三勢力との本格的な競合が始まる。 むすび 国民党の歴史的役割の終焉 国民党は,民主化後も維持してきた一強政党としての地位を2014年統一地方選挙と2016年総統選挙・立法委員選挙により失い,中政党となった。今後勢力を多少回復したりさらに失ったりというスイングはあるが,過半数を超える大政党への復帰は困難である。蔡英文政権への不満は必ず出るが,その受け皿は国民党ではなく,第三勢力の小政党・諸派になるであろう。 中国国民党は中国共産党に対抗し台湾において中華民国を守り発展させてきたが,馬英九政権第二期にその役割が変質した。昨年11月の中台首脳会談がそれを証明した。国際メディアが世界に向け報道した両者の冒頭発言の場面で,馬英九氏が習近平氏に対して語ったのは「一つの中国」だけであって,「自分たちがいう一つの中国とは中華民国である」を意味する「それぞれが述べ合う」という用語を言わなかった。これにより,今後日本メディアを含む国際メディアは,「92年コンセンサス」とは中国が主張してきた「一つの中国原則を確認した」ものとみなす。これは馬総統の対中政策の最大の失敗である。 国民党は選挙になると中華民国国旗を持ち出すが,周子瑜事件によってその立場が空洞化していることが知れ渡った。馬政権の終わりに発生した周子瑜事件は,馬政権の対中政策が中華民国防衛の責務をおろそかにしてきたことを劇的な形で証明した。これも国民党が中国共産党と連携することを選んだ帰結である。国民党は,今後は中国の豊富な影響力・資金力に頼って台湾の選挙を戦う党へと変化していくであろう。 2016年選挙は,二大政党間の「スイング」ではなく「台湾政党政治の構造を変えた選挙」である。実質的に初めての政権交代をもたらし,戦後台湾を支配・統治してきた国民党の一強政党の役割を終了させた「歴史的選挙」である。また,「ひまわり学生運動」などの公民運動が政治の力に転化された選挙でもあった。
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