ベンツやフォルクスワーゲンの輸入基地となりトヨタの輸出基地もあって地方財政は潤ったが、あまりの特徴のなさゆえに、国際規格の体育館やリゾート施設を作って何とかそれでも外人選手がときどき新幹線ホームに降り立つようにした、非現実的なまでにニュートラルな地方都市が、森の石松の遠州とジュリアナ以上のフーゾクで知られる名古屋との間にある。かつては「吉田通れば千姫が招く」と街道筋で歌われ、徳川家のささいな政略の人身御供となって、豊川沿いのローレライに化身した家康の孫娘が、この特性のない街にもある種妖艶な呪いを漂わせていたらしいのだが(ほんとうは千姫がいたのはここではない)、今では住民の自足度において全国一、二を争うというけっこうな栄誉をいただく街になってしまった。


 その豊橋(旧名吉田)から信州辰野に向かう飯田線に乗って小一時間、鳥居強右衛門 (スネエモン)の殉死と織田の鉄砲隊で名高い古戦場のある長篠から、今度は支線の田口線に乗り換えて、夏ならば時折沿線の山頂の古木に雷が落ちるのを見ることもできる南設楽 (シタラ)の山あいを抜けると、終点の町田口に着く。そこからブニュユルの『昇天峠』もかくやと思わせる山道をたどり、二山ばかり越えたところで、土地では「名倉平野」と呼ばれて稲作もできる、猫の額ほどの盆地に出るが、その先をもうひとつ山間に入ったところに、その昔稲橋と武節という村が合併して安易に名づけられた稲武という町がある。山柿からつくる柿羊典と、幕末に表街道を避けてここを抜け道にした志士たちが、土地の郷士に一夜の宿を求めて宿賃代わりに置いていったという書(西郷隆盛、榎本武揚等々の掛け軸がいくつもある)だけが名物の、北設楽山中のこの町が「私の貧乏時代」の舞台である。


 実は正確にはここでもない。そこから歩いて二十分ばかり川沿いを入ったところに山形(サンギョウ)と呼ばれる四戸ばかりの集落がある。私が生まれたころ、両親はその一軒の農家の庭先にある、納屋の屋根裏に間借りしていた。


 私の「貧乏」はそのときから始まる。戦争からまだ何年も経っておらず、父は職もなく村の代用教員になり、母は出産の三日目から当番で村の雪かきに出た。というのは、この村に名古星から一日数本のバスがくるのだが、十二月に川に張った氷が春まで融けず、その上に雪が降り積もるので、道と川とが見分けがつかなくなってしまう。さすがの氷もバスまでは支えられない。そこで村人が交代で雪かきに出て、道のありかを教えるのだ。母は生後間もない私を背負って雪かきに出たという。私が色が黒いのは、このときの雪やけのせいなのだそうだ。まっ白の明るい世界が、出迎えのあいさつに、無垢の子供のはだを黒く染めたのだ。


 おむつの洗濯も川の氷を割ってするしかない。ところが猛烈に寒い。急いで洗ったおむつは手早く絞って伸ばさないと、凍ってビリビリ破れてしまうという。父親の家は祖父の愚かな道楽で破産しており、母親の実家も、家業を継いだ兄がラパウル帰りで衰弱したままあまり働けず、なんとか工面したぼろ布で作ったおむつが十枚ほどしかなかったので、この洗濯がたいへんだったという。そのせいか、私はおむつ離れが早かった。


 ちょうどその頃、父親がご多聞にもれず肺病に罹った。名古屋の近くの大府というところに療養所があって、三か月そこに入院することになった。本人はいっぱしのデカダン気取りでいたからまんざらでもなかったようだが、当時の給料が六千円、そのうち三千円をサナトリウムに送って、母子三人(姉がいる)ひと月を三千円で過ごさねばならない。母は二人の子供を抱えてそうとう大変だったようだ。食事といえば味噌雑炊、近所からのもらいものや、わずかに取れる野菜を毎日つぎ足して、一度煮ると四、五日はこれを食べ続ける。母親も栄養がつかないので母乳が出ず、腹をすかした私をだまして寝かしつけるため、毎夜カククリ粉を湯がいて食べさせたという。だからわずかに一枚あるこの頃の私の写真を見ると、おそらく生涯でいちばん満ち足りていた時ではないかと思わせるほど、丸々と太っている。デンブン太りと言うのだそうだ。


 それから一家は東栄町先林(センバシ)というところに移った。井戸つきで、土間に六畳ひと間の杉皮葺きの家だ。それでも道の向こう側がさといも畑で、朝の葉におく露が美しかった。その頃一三号台風といってこの地方では有名な台風が三河山間部を直撃した。板の上に杉の樹皮を敷いて竹で止め、その上に石をのせただけのいい加減な屋根だから、雨漏りで家じゅうは水浸し、親たちは雨戸のないガラス戸を夜通し風とたたかって抑え続けて、なんとか家の崩壊をくいとめた。台風一過の朝には、ふだんは目が回るぐらい深い谷を流れている振草川の水かさが急に増し、戦橋(これもセンバシと読む)あたりに迷い出た鯉がとれて町内に配られた。その他にはろくなものを食ぺた覚えがない。


 その後一家は転居を重ねやがて豊橋に定住するようになり、それにつれて暮らしぶりは上向いて、日本の中産階級の周辺あたりにはぶら下がっていたように思う。そしてそれ以降ほんとうの貧乏は経験していないような気がする。いちばんの貧乏は幼い子供のときにした。それに較べると物心ついてからの貧乏はたいしたことではない。けれども子供のときは、言葉を口にし始める幼児が、「ママ」が日本語か英語かなどということにまったく頓着しないように、貧乏か裕福かを気にするわけではない。腹をすかせれば泣き声をあげ、ロに何か含ませてもらえば機嫌がよくなるだけの話で、よその赤ん坊が森永の粉ミルクを飲んでいるのに、それに較ぺるとカタクリ粉の自分はなんとみじめかなどという考えは浮かばない。子供は、一粒の米に無限の味わいを知り、一滴の水にも酩酊するすべを知るエピキュリアンなのだ。ただ、そんな無頓着な子供をみて不欄だと思い、たまには粉ミルクを飲ませてやれたらとか、おむつぐらいは不自由させたくないとか、味噌汁に油揚げぐらいは入れてやりたいと、歯がゆい思いに涙するのは親だけなのだ。そういう意味では、私は少しは人に自漫できるぐらい貧乏だったと思うが、じっさいには貧乏を知らないといったほうがいい。歴史と、主観的な体験とはまったく次元の違うものなのだから。

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