冷戦が終結し、以後グローバル化と呼ばれる事態が加速してゆく節目ともなった湾岸戦争のさなかに、フランスで心臓移植手術を受けたひとりの哲学者がいた。それ以後彼は他人の心臓とともに生きている。哲学とは基本的に観念に関わる営みである。その哲学を生業とする者にとって、心臓移植とは重大だがひとつの病気の治療に止まるものなのだろうか。他人の心臓で生きていても、「考える私(コギト)」は不変なのだろうか。たしかにこの哲学者ジャン=リュック・ナンシーは、移植を受けた後も仕事を続け、同じ名前で著作を発表し続けている。そして人びとは彼を「同じ」ジャン=リュック・ナンシーとして受けとめている。

 その彼が手術後一〇年にしてはじめて、移植体験とそして「他人の心臓によって」生きるという事態について書いた。それも、人生のエピソードを振り返る回顧的なエッセーとしてではなく、ある雑誌の「外国人問題」特集のために書いたのだ。

 『侵入者』と題されたこのテクスト(以文社刊、二〇〇〇年)で、ナンシーは自分の身に起きた複雑な重層的「侵入」という事態について語っている。まず、自分の心臓が機能不全に陥って、自身の身体のなかの「異物」となる。そこで外部から他人の心臓を受け入れることになるのだが、これは同時に「招かれざる客」であり、身体はその「自己性」を保つため「侵入者」を排除しようとする。だがこの「侵入者」は、まさに身体の生存に不可欠だからこそ「招かれた」のであり、「私の」身体が生き続けるためにはこの「侵入者」を排除するのではなく、逆に排除しようとする力を、つまりは「私の」免疫作用の方を抑制しなければならない。言いかえれば「私の」身体の「自己性」を、あるいは「固有性」を希薄にしなければならないということだ。

 けれどもそれは、他の「侵入者」たちに対する「私の」身体の障壁を低くすることでもある。そのため「私の」身体は、多くの感染症にさらされるというリスクを負うことになる。そればかりか、免疫作用が正常に働いているときには休眠状態にある体内の「異物」たちが、コントロールの緩和をよいことに活性化しはじめ、それがまたやっかいな疾病を引き起こすようになる。こうして「私の」身体は、「侵入者」たちの入り混じる舞台となる。そればかりでなく、そうしたすべてのファクターの作用を調整し、移植を受けた者の生命を維持してゆくために、不断の検査と医学的介入が欠かせなくなり、「私の」身体はほとんど「外部」の組織(医療機関)の管理下に置かれるようになる。

 そうなるともはや、身体は「私」に固有のものではなく、また「私」が「私」である根拠もなくなってしまう。「私」の意識はこの身体の生命持続に依存しているのだが、この身体はもはやその「固有性」を希薄化することなしに存続しえないからだ。「私」はただ、「私のもの」ではなくなる身体で演じられる複合化のドラマに、みずから深く感化されながら立ち会う、出来事の慎ましい(というのは、事態を統御する力をもたないから)証人であるほかないのだ。

 これは国境という壁が低くなったグローバル化の時代の国家や国民が抱える問題を、免疫といった生理学的現象に託した隠喩なのだろうか。だとしたらそれは、社会を有機体に喩える危険な政治的腹話術のようなものなのだろうか。

 だが、ことはそれほど単純ではない。というのはそもそも生物学で言われる「免疫」とは、もともとニュートラルな自然科学の概念なのではなく、教会と世俗権力との間で免税を享受する権利状態を示すために使われていた、いわば行政用語を流用してできたものだからだ。つまり生理(生命)現象の方が実は行政用語で記述され理解されているのだ。だとしたら、その生理現象の記述が、政治的事象の語り方とすぐに親和してしまうのは当然のことと言わねばならない。

 それよりもむしろ、ナンシーの経験の記述に、ひとつの国の歴史を編む(書く)ということのアレゴリーを読むことができる。「自国」の歴史を編むことは、他国の歴史を語ることとは違う。それはいずれにせよ「われわれ」の来歴を紡ぎだし、「われわれ」に内実を与えることになる。そしてそれがとりわけ「国民国家」の内的要請だった。けれども、諸々の制度や人や文物の移入が臓器移植のようなものだとすれば、そしてとりわけ日本が近代において体験した一連の出来事がひとつの社会システムの受けた根本的な「移植」だったとすれば、そこに語りうる「歴史」とは、「他者の心臓と共に生きる」この「身体」の出来事が、もはやけっして「私のもの」や「固有なもの」には回収できないことを身をもって知る、「移植後」の「私」の証言のようであるほかないだろう。

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