「ドグマ人類学」という、聞いただけで誰も寄りつかないような名前を自分の学問につけて、一見反時代的に見えながらきわめてアクチュアルな仕事をしているフランスの法学者がいる。ピエール・ルジャンドルと言う。この人の仕事は一風変わっているのと、ひねくれてラジカルであるために、なかなか普通の知の流通の回路に乗らず、長い間一般の注目を引くことがなかった。けれども、グローバル化によって西洋的スタンダードとその他の諸文化の摩擦を引き起こし、その一方でウルトラ・モダンと形容しうる諸社会が随所で原理的な問題に遭遇するようになった現在、そこにある一貫した視座をもたらすかれの仕事は、ようやく注目されつつある。

 かれはもともとは中世法制史の専門家で、西ローマ帝国滅亡後の西洋で何世紀も経て復活した古代ローマ法が、いかにしてキリスト教ヨーロッパの屋台骨を形成するに至ったかといった問題を扱っていた。そしてかれは、通常はキリスト教中世の絶頂期とみなされているこの時期に、後の「近代」を生み出し推進する知的かつ制度的装置が作られたと考えるようになった。つまり神学と法学(合理的世俗知)、教皇権と皇帝権(王権)の分離と、それに伴う「真理」と「理性」の新しい組立、「国家と法」の組織化、等々である。要するにキリスト教世界の「世俗化」といわれる現象がここで準備されたということだ。

 「政教分離」はそこに端を発し、世界の「なぜ?」に答える根拠の言説(神学)は、世界を「いかに?」という管理運営の言説(法学、やがて経済学、社会学等々)と分離され、後者が「根拠」との結びつきをもたない合理的言説として、言いかえればどこにでも使える普遍的知ないしは制度として、やがて世界中に輸出されることになる。そうしていたるところで人間と社会は「管理運営」の対象となり、今では「マネージメント」があらゆる社会に推奨される組織原理となっている。そこで根拠を提供する役割を担っているのが、神に代わってすべてを知るという任務を帯びた科学である。われれわは西洋由来の諸原理が普遍的なものとして広まったそういう世界に生きているのだが、ルジャンドルはそれこそが西洋固有の「ドグマ的構成」なのだと言う。

 「ドグマ」という語はいかにも印象が悪い。というのも、まさにそれは近代の合理性が排除の対象としてきたもので、合理的だということは「ドグマ」から解放されることと同義だからだ。そう近代は教えてきた。だがルジャンドルは、「ドグマ」という語を原義に立ち戻って洗い直し、ニュートラルに用いている。簡単に言えばそれは、そう受けとるしかないもの、証明を受けつけず、ただ反復されることで真理として機能するものをいう。だからそれは科学の真理とは相容れない。けれどもドグマ的な関係は、ことばが通用するという単純な事実のうちにも貫かれている。あるいは、言語そのものがドグマ的に成立っている。ある種の動物を「イヌ」と呼ぶのはなぜか、その根拠を誰も説明できない。言語学はそのことを「記号の恣意性」と言うが、根拠がないからといって、それを勝手に変えることはできない。その動物は日本語では「イヌ」と呼ばれており、それに従わなければ話が通じ合わなくなる。つまり無根拠な決まりだが、それを「ドグマ的」と言うのだ。

 この「ドグマ的」関係は、ことばで生存を組織する存在たる人間の「組立」にとって必須のものだとルジャンドルは考える。さらにかれは、人間を抽象的な個としてではなく、相次ぐ世代継承によって再生産されてゆく「話す種」として考えようとする。そこで重要になるのは、生まれた者が言語の秩序に参入することで人間的な主体、つまり「話す主体」になってゆくプロセスとそこに働くメカニズムだ。そのプロセスをかれは「主体の制定」と表現するが、そこにはすでに人類学で言う「禁止」(殺人と近親姦の禁止)に集約される基本的な規範的構成が含まれている。ことばを通じたこの主体形成のプロセスが「ドグマ的構成」に支えられており、その構成は言語だけでなく、イメージや儀礼、神話、さらにはその社会的演出といったものと切り離せない。そしてこの構造は、人間という「種」のそのつどの形成と継承にとって不可欠のもので、それはどんな社会でも、ウルトラ・モダンの現代でも変わらないとかれは言う。だからたとえば現代の広告はエンブレムと、アイドルのライブはローマ教皇の登壇と同じ視点から考察される。

 いま触れた二つの局面、つまり西洋的組織化の諸原理とそれが世界化したことの諸効果の解明、そして「話す動物」としての人間の成立ちの論理の解明、それがルジャンドルの仕事の二つの軸になっている。後者の局面が「ドグマ的観点」から人間を捉え直すということであり、キリスト教中世に編制され、近代世界を準備してやがて世界化してゆく西洋的な人間と社会の組織原理の総体は、「種」の存続に必要な規範的原理に従って、ことばによって主体や社会を組織する、そのひとつのヴァージョンだと見なされるのである。

 すべてを説明する余裕はないが、ここには西洋的諸原理に関する徹底した相対化の視線がある。ルジャンドルの発想の根底には、かつて六〇年代にアフリカで国際機関のために働いた経験があるが、現在のグローバル化によってさまざまなレヴェル(経済、政治、文化、軍事)で引き起こされている諸問題に、かれはこのときすでに遭遇していたのである。だからかれの仕事は、グローバル化に関する根底的な批判を含んでいる。また、民主主義や世俗的合理性の前提とされている「政教分離」が、キリスト教西洋の固有の制度的産物だと考えると、現在論じられている「宗教と政治」といった問題は、その設問からして問い直さなければならなくなる。そればかりではなく、現在の先進諸国といわれるところで共通に起こっている諸問題、社会の制度的崩壊やテクノロジーの長足の進展が人間のあり方にもたらしているやっかいな諸問題(脳死、安楽死、生殖医療、クローン技術など)についても、その場の便宜によって調整することを「倫理」と呼ぶような対応とはまったく違った観点から、根本の問題がどこにあるかを考え直させる。

 その仕事の骨格を示したのが今回翻訳した『ドグマ人類学総説』である。根本からものごとを考えることを厭わない人びとにとっては、きわめて刺激に満ちたものだと信じている。(了)

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