今年がテレビ放送開始の五〇年目に当たっていることもあるのだろう、最近ときおり戦争中のドキュメンタリー・フィルムを見る機会がある。そのなかには沖縄戦の記録もある。激しい戦闘の繰り広げられた戦場、破壊され尽くした町、火炎放射器で焼かれる森、そして壕の中から襤褸をまとって出てくる住民たち、米兵の差し出す水を無表情にただ全身を震わせながら受け取る子供、そして収容所の生活。たいていは米軍が撮った記録だが、沖縄戦当時の様子の一端をうかがうことができる。

 沖縄戦にまつわるそんなドキュメンタリーのなかで、「琉球弧を記録する会」が製作した『島クトゥバで語る戦世』は、きわめて独特の趣をもっている。もちろんそれは出来事の記録ではなく、体験者たちの五〇年後のいわゆる証言である。けれどもまた、単に証言というひとことでは片付かない、別の生々しさをこのドキュメンタリーはもっている。

 百人を越える話者たちがいる。たしにか、それぞれの人が体験した沖縄戦の細部が語られる。けれどもそれだけでない。語られること以前に映し出されるのはまず、この人たちが「その後」の半世紀を生きてきた、そして生きて語っているというそのことである。その半世紀が並大抵の月日ではなく、それぞれの人にとって生き延びるための格闘の歳月だっただろうことは、想像するに余りある。うれしいとき、うまいものを食べるとき、怪我や病気に倒れて食べ物もないまま死んでいった身近な人たちを思い出す、そういう五〇年がある。家族を失い、友だちを失い、多くの死と島の崩壊を見て、その廃墟を生きてきた、命を抱いてきた、そういう年月がある。この人びとが語りだす「イクサ世」は、その五〇年のいのちに洗われている。

 とはいえまた、淡々と語られてさえ、半世紀前の記憶は生々しい。それはまるで、体を変形するまでに深く刻まれた生傷が、癒えてもなお痛ましい痕をとどめているように、くっきりとした輪郭を浮かべて語り出されるのである。癒えてなお消えることのない深い傷からことばが溢れるようにして、それぞれの人の体験がいま語り出される。このフィルムはそういう「現在」のことばと語りのドキュメンタリーである。そして、それが「島クトゥバ」で語られる以外にないというのも当然のことだろう。そのクトゥバは、島の人たちがそこに生まれ、それを話すことで人となり、家族やシマの人たちと心を通わせ、それを通して生を営んできた、日々のいのちの通い路なのだから。

 その人たちが語り出すのは、沖縄戦という出来事の記憶ではなく、かれらが生き延びた「イクサ世」のことだ。ここで語りを引き受けている人びとは、アメリカ軍が撮った記録フィルムのなかに、自分や自分の身内を見つけることもあるだろうし、あるいは写っているのが見知らぬ他人であっても、そこにほとんど自分の姿を認めずにはいられないだろう。あれは自分だ、自分もそうだった、と。けれどもそこに写っているのは、猛烈な戦火で破壊され尽くした土地に生き残った、悲惨な群集でしかない。それは米軍やジャーナリストが撮った無名の人びとであり、取材や記録の対象である。そのように写っているのは、恐怖や警戒心というより、それ以上に、あまりに凄惨な日々を生き延びることで精神を磨耗させ、疲労と飢えとでほとんど無表情になって、ただわずかに生理的に震えるだけの、そんな人びとの姿である。

 その人びとが、この記録に撮られた日々をどんなふうに生き延びていたのか、あるいは死んでいったのか、公式の記録では表情を閉ざした「もの言わぬ」群集が、何を思って生きてきたのか、それをついこの間のことのように語りだす。砲弾で人がバタバタと死に、死に切れない兵隊の首を落として死なせてやったり、膨れ上がった死体も見慣れ、瀕死で飢えと乾きにうめく人びとの傍らも過ぎてゆく。それは明日の自分かもしれないと。「死と隣り合わせ」という表現があるが、むしろ死はあたりを覆っており、いつ自分もそれに呑みこまれるかわからない。そしてもはや生と死とはほとんど区別がなく、境界の敷居はかぎりなく低く、死の恐怖は生の極限的な災厄のなかで摩滅している。ナチのダハウ収容所から生還したダビッド・ルーセは、ほとんど最初のものとなった強制収容所の報告を「われらの死の日々」と題したが、「イクサ世」とは、沖縄に生れた人びとが逃れるすべもなく投げ込まれた「われらの死の日々」のことなのだ。

 細いあぜ道を必死で逃げ、踏み外したら死体になる。それに道はあちこちで寸断されている。そんな「死の日々」がどんなふうだったか、砲弾や機銃掃射のなかをどんなふうに逃げたのか、ガマの中で何が起きていたのか、どんな無残な死を見てきたのか、語る人びとは日付や時刻まで克明に覚えている。けれども、それがいま語りうるものであるためには、体に刻まれた記憶が五〇年のいのちに洗われる必要があったことだろう。ここにあるのは文字どおり「黄泉がえり」の語りだからである。

 これは、同じように四〇年近く後の証言だけで構成された『ショアー』などともまったく違う性質のものだ。そこにはいかなる告発の意図も、出来事や犠牲の神聖化の意図もない。ただ、ひとりのオバアが、「そこにいた者でないとわからない」と、いかなる拒絶のそぶりもなくふとつぶやくだけである。「黄泉がえり」の語りは、あくまで生きていての語りであって、生死の境が消える「黄泉」の体験そのものではない。

 とはいえもちろん、オバアやオジイの語りが「イクサ世」について教えてくれることは少なくない。集団「自決」を生き延びた人びともいる。チビチリガマを最初に出て米軍に保護されたというオバアは、そのときの様子を語っている。中国戦線で日本軍の看護婦だった娘が、日本軍のやることを見てきていて、若い娘は生きていたらみんな強姦されて殺される、と言ったために、娘のいる何家族かが「自決」し、それが壕内に伝染したとか、アメリカ軍のビラを「読んではいけない」という規制が強かった、という話だ。オバアたちの話はそれだけだが、聞く者はそれで多くのことを理解する。日本軍の例から、軍隊や戦争がどういうものと考えられていたかがわかるし、人びとが戦争についてまったく教えられていなかったということもわかる。もちろん当時アメリカ軍の司令官は、対日戦に関してもはや戦闘員と非戦闘員の区別はないと公然と言っていたが(無差別空襲をやっていたから)、捕虜や非戦闘員の扱いに関する国際条約はそれでも有効だったのだ。結局、「集団自決」に極まったように、住民が軍隊以上に戦争状況に極限まで拘束されるという沖縄の「死の日々」、つまり「イクサ世」は、日本国家によって作られた状況だったということだ。

 だがこの「証言」をどう聞くかは、聞く者の側の問題である。それに、この語りは何かの「役に立つ」証言でさえない。背中に深い傷を負って生き延び、その後半世紀を生きてきたオバアが、この記録のために「イクサ世」の話をし、それを語ることでようやく生きていてよかったと思えるようになった、と言いながら、かの女の人生そのものの印であるような、背中を大きくえぐる傷をカメラの前にさらす、そのような「黄泉がえり」のためにこそ、このフィルムは撮られている。

 思い出されるのは、戦争直後、多くの人びとが肉親を失い、無一物の悲嘆のなかで途方に暮れているとき、家々を回って陽気な芸を披露したという小那覇舞天の話である。その振舞いに、舞天の弟子筋の照屋林助は、四人に一人が死んだというなら、三人生き残ったことを喜べ、生き残ったものには生あることを喜んで明るく生きる務めがある、そういう鼓舞の思いを読み取っている。この思いこそが、多くのドキュメンタリーを見て沖縄戦の一端を知っていても、「イクサ世」を知らないわれわれにはけっして手の届かないものだろう。恐怖と悲惨と極限の飢えと疲労のなかで「かれらの死の日々」を生き、そうして無数の骸を胸に抱いて生き延びた人びとだけが、そう考え、そう思って生きる務めを(というより権利を)もっている。その人びとの長い生き延びの生のなかに、悲惨な死を死んでいった多くの人びとの記憶が生きており、死はその記憶のうちで生と区別されていない。まるでいつも「黄泉」がいのちのうちに抱えられているかのように。そしてその生が、「黄泉」に取り残されていた生が、いま救い出されてこの「語りの記録」のなかに甦る。

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