アメリカ研究U(講義)

 

 

講義題目
テーマ
授業のねらい
授業方法
参考文献
評価方法
レポートをどう書くか

 

講義題目

ラテンアメリカの都市と下層民

 

テーマ

19世紀後半以降現在にいたる都市化過程の中で、ラテンアメリカの都市下層民がいかに創出されてきたのか。彼らがどのような社会関係を編み上げ、どのような文化を創り出してきたのか。また国家や支配層とどのような関係を取り結んできたのか。これらの諸点をテーマに、南米チリの事例を中心に検討します。

 

授業のねらい

この講義での最大のねらいは、資料を読み込む中で意味あるデータを取りだし、収集し、それを内的な連関性を持った一つの全体へと組み上げていく能力を訓練することにあります。つまり、上に掲げたテーマそれ自体というよりも(このテーマ自体について学ぶことはもちろんですが)、資料の分析、データの抽出、論点の発見、データの総合という、諸君が将来いかなる分野に進もうとも必ずや必要とされるはずの基本的能力を訓練することです。つまり、

(1) 日本語、外国語を問わず、あるテーマに関するデータ、資料、文献を検索、収集する能力

(2) 日本語や外国語を問わず、資料、文献を深く読み取り、理解する能力

(3) あるテーマについて、総合的観点から位置づけ、かつ、具体的な諸側面に関しても分析を加えることができる能力

(4) 論理的で明晰な文章によって問題を論じることができる能力。

一言で言えば、(日本語と外国語でもって)読み、書き、話す能力を身につけていく訓練です。

こうした訓練を行いながら、参加者それぞれが自分の目で資料を読むことを通じて、概説書などから得られるのとは異なったラテンアメリカ近現代史像をみずから描き出すよう試みよう、というのがこの授業のねらいです。

 

授業方法

1997年度、最初にこの講義を担当したときには、教師が一方的に語る純然たる講義方式で授業をすすめました。だが1年間やってみて、この方式では、毎回講義ノートを作成する教師の苦労に見合っただけの成果が出せないことがはっきりしました。

というのも、一方的に話を聞く、というスタイルは、受講者に強烈な問題意識と関心がある場合を除いて(こうした場合にはきわめて意味あるスタイルです)効果がきわめて少ないということをあらためて認識させられたからです。

そのことはレポートにはっきりと出ました。まず、1学期のレポート提出で落伍者が多数出ました。1学期の終了時にかなりの量の資料を渡し、それを読んでそこから自分で問題点を引き出してそれをレポートをまとめることを求めたのですが、学生諸君は毎回の授業では受け身的であるにもかかわらず、突然、主体的に関わることを要請されて対応できなかったのです。また、渡された資料ではなく、日本語で書かれた参考文献を適当にまとめたレポートも目立ちました。こうした傾向は、大学教育全般においてきわめて広く見られる現象であり、小生はそこにはきわめて重大な問題が潜んでいると考えています(「大学教育への提言」)。

講義を受け身的に聞いて講義内容をひたすらノートに取り、学期末には講義ノート(コピーも含む)と数冊の文献を適当に切り張りしたレポートを提出してパス、というよくあるパターンをくり返していては学生に本当の学力はつかないでしょう。

そう考えて、1998年度からは授業のやり方を大きく転換しました。純然たる講義方式から、講義と演習をミックスさせたやり方へ、です。

ただし、これまたよくあるやり方もとりませんでした。すなわち、1学期は講義、2学期は学生の発表と称して、学生が毎回交代で自分の選んだテーマについて調べたことを発表する、というあの形式です。小生はこうしたやり方にも批判的でした。レポート同様、参考文献を適当にまとめた(切り張りした)「研究発表」になることが目に見えているからです。

小生は、毎回の授業と学期末のレポートをもっと有機的に連関させるやり方はないだろうかと考えました。1年目の講義では、毎回の講義と学期末、学年末のレポートが切断されていました。ふだんの授業は受け身でいて、レポートを書くときになって突然主体的に考えることを要求されたわけですから。そこで、毎回の授業で訓練を積み重ね、それを最終レポートへと連続的につなげていくやり方をとることにしました。

具体的には次のように進めます。

毎回、次の週の授業で検討する資料を配ります。資料は、それぞれの時期に新聞、雑誌に掲載された記事や評論、あるいは自治体や団体が出した報告書などのいわば生の資料です。受講者は、この資料を読んで、次回の授業までに、以下の点について文章化したレポートを用意します。

(1) 資料の中で「さわり」となると考える個所(複数可)を筆写する。

(2) 同個所を日本語に翻訳する。

(3) その個所についてコメントする。

この作業は、資料の中から各人が「さわり」だと思った部分、すなわち「意味がある」と思った部分を抜き出す作業です。言い換えれば、資料の中から「事実」(データ)を選び出し、収集する作業です。これは、歴史家などの研究者がやっている研究方法と基本的に同じです。これらの研究者たちも、一次資料(史料)を読んで、その中から自分にとって意味があると思われるデータを抽出しているのです。

その際、大事なことは、そのデータにコメントを付けることです。なぜ自分はこのデータを意味あるものと考えたのか、それを明確にするためにコメントを付けるのです。最初は、「何となく面白そうだから」というコメントでも構いません。むしろ、この「何となく面白そう」なデータは片っ端から抽出、収集しておくことを勧めます。そして同時に、なんで「面白そう」なのかも常に考える習慣をつける。

やってみると分かりますが、これはなかなか難しい作業です。資料を読んで「意味ある」データを選び出すためには、そう判断できるだけの「眼」を自分が持っていなくてはいけない。豊かなデータが埋まっている資料であっても、「眼」を持たないと貧しいデータしか引き出せないことになります。だから、資料と相対するときにはいつも自分の「眼」が試されていると言っていいのです。

さて、授業では、それぞれが準備したレポートに基づいて議論が行われます。資料のどの部分を、なぜ選んだのか。それを私が進行役を務めながら参加者が一人一人説明しながら出し合います。その際、必要に応じて私の方から、時代背景や、資料の性格や、基本的な史実について解説を加えることもあります。受講者の側では自分の読んだ資料をより深く理解したいと思う気持ちがありますから、こうした解説をただ受け身的に聞くということもありません。それだけ講義も有効なものになるというわけです。

こうした作業を毎時間繰り返し、データを積み重ねて行きます。そして、学期末には、めいめいがこれらのデータを一つの意味ある全体図へと組み上げたレポートを提出してもらいます。

ほぼすべての学生諸君にとってこうした作業は初めての経験でしょうから、1学期の最後に提出してもらうレポートには色々な欠陥を含んでいるのが普通です。レポートは私がコメントをつけて2学期最初の時間に返却します。そして2学期の授業を通じてさらにデータを蓄積し、学年末に最終レポートを提出します。今度は1学期のレポートの蓄積と経験がありますから、1回目よりもずっとよいレポートが書けるはずです。ただ、この時点まで授業についてこれていればの話ですが。

なお、毎回のレポート、学期末のレポート作成にはコンピュータを利用することを強く勧めます。

よく原稿は手書きで書いて、それを清書するときに初めてワープロに向かう学生がいますが、ワープロは清書機ではありません。データを入力し、加工し、論理をもった文章へと組み上げていくためにこそ用いるべき機械です。

 

評価方法

そういうわけで、最終的な評価はこの最終レポートによって行います。出席はとりませんし、義務でもありませんが、今まで述べてきたことからも明らかなように、毎回レポートを準備し、授業に参加しない限り合格点のつくレポートは書けないでしょう。

因みに、1999年度は当初20めいほどのエントリーがありましたが、ゴールにたどり着いたのは5名だけでした。

 

 

参考文献

◇歴史学の方法

・二宮宏之  『全体を見る眼と歴史家たち』 木鐸社 1986年

・二宮宏之 『歴史学再考』 日本エディタースクール出版部 1994年

・網野善彦 『日本の歴史をよみなおす』 筑摩書房 1991年

 

◇都市と都市民衆

・歴史学研究会編 『19世紀民衆の世界』 (シリーズ「南北アメリカの500年」第3巻) 青木書店 1993年

・成田龍一編 『都市と民衆』 吉川弘文館

・中川清 『日本の都市下層』 勁草書房 1985年

・ルイ・シュヴァリエ 『労働階級と危険な階級』 みすず書房 1993年

・喜安朗 『パリの聖月曜日―十九世紀都市騒乱の舞台裏』 平凡社 1982年

 

◇ラテンアメリカ史 ・加茂雄三 『ラテンアメリカの独立』 講談社

・大井邦明 加茂雄三 『ラテンアメリカ』 朝日新聞社 1992年

・後藤政子 『新現代のラテンアメリカ』 時事通信社 1993年

 

◇ラテンアメリカの都市と社会

・国元伊代 乗浩子 『ラテンアメリカの都市と社会』 弘文堂 1991年

 

◇論文執筆の手引き

・中尾浩、伊藤直哉『人文系論文作法』 夏目書房 1998年

・木下是雄『理科系の作文技術』中公新書 1981年