「データ」とは何か
拾い上げるべき意味ある「データ」とは何かは、最初のうちはなかなか分からないでしょう。そこで、「データ」とは何かについて簡単に説明しておきます。
われわれが資料に用いている文字資料は、その筆者が「現実」を前にして「意味」があると判断したことを言葉で表現したものです。あまりにも当たり前のことですが、資料を読むときにしばしば忘れてしまうのは、これら資料が「現実」をそのままの形で再現したものでは決してない、という点です。
混沌とした「現実」の世界と「言葉」の世界の間には決定的な溝があります。この混沌とした「現実」は常に混沌としたままで存在しているだけです。どのような文章であろうと、この「現実」を再現などはしていません。たとえ「現実」を描写したものであっても、それは常に特定の視点から、言葉によって概念化されたものでしかありません。その際、筆者の視点から見て「意味あるもの」とされた現象が拾い上げられ、概念によって整理され秩序づけられているわけです。
これを言い換えれば、テキストの中に何か「客観的な事実」がころがっているわけではない、ということです。テキストが提示しているのは、そのテキストを書いた人が「主観的に」「意味あるもの」と考えて、言葉によって切り出した「表象」以外のなにものでもありません。結局のところ、われわれが「データ」として拾い上げるものも、「事実」なのではなく「表象」であるということです。別の表現をすれば、「表象」こそが、われわれがテキストから拾い集める「事実」なのだと言ってもよいでしょう。
一つ例を挙げましょう。次の文は「事実」でしょうか。
昭和20年に戦争がおわった。(1)
ほとんどすべての人は、「事実に決まっているではないか」と答えるしょう。では次の文はどうでしょうか。
昭和20年まで戦争がつづいた。(2)
前の文と比べて見て下さい。どちらが「事実」でしょうか。「どちらも事実だ。同じことを別の表現で述べたに過ぎないではないか」という声が聞こえてきそうです。
では次の文はどうでしょうか。
昭和20年に平和が回復した。(3)
そしてさらに次の文はどうですか。
昭和20年から戦後がはじまった。(4)
この4つの文をもう一度読み比べてみてください。
因みにこれらの例は、佐藤信夫『レトリックの記号論』(講談社学術文庫)の96ページからとってきたものです。佐藤さんは、この例を挙げながら、いずれの文も「同じ事実に言及している」と述べた後で、「同じ事実を正しく言語化しても、それぞれの表現の意味は同じではない。観察者の視点の数だけ異なる報告あるいは記号化のしかたがあるわけで、重要な点は、しばしば私たちが単純に事実だと思いこんでいるものごとがじつはすでに記号化されているというところにある」と論じています。
小生は「同じ事実を正しく言語化した」という表現にいささかひっかかりを感じますが、ここで述べられていることは、大方、上で小生がやや抽象的な形で述べたことと同じです。一見、「事実」そのものを忠実に述べたように見える (1) の文でさえも、他の文と比べる中で、ある特定の視点からの観察者(すなわちこの文を書いた人)による報告であることが分かるでしょう。
それゆえに文字資料を読むときには、「何が書かれているか」という点と同時に「どのように書かれているか」ということにも注意することが必要であることが了解できると思います。
こうした意味での「データ」を私たちは資料から拾い上げていきます。そのときに
(1) どのような基準で
(2) 何を拾い上げていけばいいのか
という問題に諸君は突き当たるはずです。
これはちょうどゴミの山から何か価値あるものを見つけだす作業にも例えられるでしょう。長年にわたって歴史が吐き出してきた膨大な紙くずの山。その中から私たちにとって価値あるものを見つけだす作業です。言うまでもなく、価値あるものを見つけだすのは私たちの「眼」です。価値あるものとクズとを見分けることができる「眼」。膨大な資料を前にし、「データ」を見つけだす作業に取り組むときにわれわれが感じるのは、物事を見る自分の「眼」が試されている、という感覚です。そうしたとき、自分はもっと勉強して、広い知識をもっともっと吸収し、さまざまな見方を身につけ、感性を鋭く磨いていかなければ、と感じるはずです。一言で言えば、もっと勉強しなくては、という気持ちになります。生の資料と向き合うことのメリットの一つは、こうした気持ちを自分の中にかき立ててくれることにあると言ってもいいと思います。
そうした「眼」を養うための勉強は各人の努力に委ねることとして、ここでは一つ「データ」収集のための秘訣をお教えしましょう。それは、自分が「面白い」と思ったものを「データ」として拾い上げる、ということです。ただ一口に「面白い」といってもその中身はさまざまでしょうが、たとえば、「へー、こんなことがあるんだ」、「ふうーん、この人はこんな風に見ているんだ」といった形で、今まで自分がもっていた通念に反するような「データ」などは特に「面白い」データです。
ただ気を付けて下さい。そんなとき、「変な考えだ」とか「妙な見方だ」とかいった形で、すなわち、2000年の今の時点で支配的となっている価値観でもって評価してしまう、ということはくれぐれもしないように。歴史の中に、現代の価値意識をストレートに持ち込んで、歴史を裁断してもなんの意味ありません。そうではなく、なぜこうした「妙な」考え方、見方がその当時にはあったのかを考えてみることが必要です。というのも、そうした「データ」を数多く収集し、集積していく中で明らかになっていくのは、その当時の人々の物の見方、考え方であるからです。
ちょっと、先走りしすぎました。ともかく、「面白い」と自分が思った箇所はすべて「データ」として拾い出すことがまずやるべき作業です。
そのときに、なぜ「面白い」と思ったのかを必ずメモしておきましょう。実はこのメモをちゃんととっていることが、あとで効いてきます。
さて、このような作業を通じて、自分にとって意味があると思われるデータがだんだんと集まってくることでしょう。ある程度データが集まったら、今度はこれらのデータを並べてみて、データ相互の関連を考えます。そしてそれらのデータを、ちょうどジグゾーパズルのように一つのまとまりのある「絵」に組み上げていくのです。
ただジグゾーパズルと異なるところもあります。
第一に、一つ一つのピース(=データ)の形が人によって必ずしも同じではありません。読み手は資料(テキスト)を読んで、その資料からあるまとまった意味を持つと考える事項をデータとして切り取ってくるわけですが、その際、人によって意味の読み取り方が異なるために、データの切り取り方も異なってくるからです。そのためデータの形そのものが、人によって異なってくるのです。
第二に、欠けているピースがたくさんあることです。われわれが手にしているのは、歴史の断片・痕跡に過ぎません。歴史的現実のきわめて限定された側面のみが文字で記録されただけですし、さらにそうした記録の多くが途中で消滅しています。しかもわれわれが利用するのは、そうやって残された資料のそのまたほんの一部分です。したがって、まとまりのある絵に組み上げるには、推論を働かせることによってその空隙をうめていかなければなりません。ちょうど考古学において、発掘で見つかったほんのわずかの破片から、もとの壷全体を復元しなければならないようなものです。
ただ、この壷の例はいささか不正確です。というのも、本当のところは、復元すべき壷の本来の形などというものはもともと存在しないからです。この点は実は「歴史とは何か」という問題にストレートにつながっていくいささか厄介な点なのですが、結論だけ言ってしまえば、壷の形は「復元する」(この表現も実は不正確です)人の数だけあるのです。ジグゾーパズルの例に戻せば、実際のジグゾーパズルとは違って「正解」が一つだけとは限りません。ピース一つ一つの形は人によって違いますし、空隙をうめていく推論の働かせ方も人によって違います。その結果、組み上げた絵もそれぞれ人によって異なってくるのです。したがって、こうして組み上げた絵は、組み上げた人独自の「作品」となります。それは「主観」と「客観」のいわば中間に浮遊しているものです。
要するに、レポートでは、こうした「作品」を作って欲しいということです。上に書いたところからも明らかなように、こうした作品には二つの要素が必ず含まれていなければなりません。資料と、それを読む人の目です。そのどちらか一方が欠けてもだめなのです。
別の言い方をしましょう。レポートでは、自分が文献や資料をどのように読んだのか、それをどのように解釈したのか、どのようなデータを有意味と判断して選択したのか、それらのデータをどのようにして意味ある全体へと組み上げていったのか、そのプロセスを報告するつもりで書いてごらんなさい。その際に役立つのが、「データ」収集の際につけた自分のコメントです。
なお、講義の内容も資料として利用してくれて結構です。高橋は授業でああ言ったが、自分はこの資料をこう読んだ、といった形でどんどん批判的に利用して下さい。ただ、くれぐれも講義ノートの引き写しだけはしないように。