オリアンハイ、おりあんはい(うりやんはい)、烏梁海、Urianhai, Uriyangkhai, Tuva
Soyon, Monchog

 清代の行政組織であるタンヌ・オリアンハイ部とアルタイ・オリアンハイ部に属していた人々の子孫で、現在モンゴル国西部のバヤンウルギー、ホブド両県とフブスグル県、中国の新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州アルタイ地区などに住む人々を指す。モンゴル国に2万3478人(1989年)、中国新疆に約4200人(1982年)がいる。モンゴル語を第1言語とする人々とトゥバ語を第1言語にする人々がおり、前者をモンゴル・オリアンハイ人、後者をトゥバ・オリアンハイ人と呼んで区別することもある。後者の自称はトゥバ人である。

 13-4世紀、狩猟民の「森のオリアンハイ」と、遊牧を主な生業とするモンゴル系の「オリアンハイ」の2種があったとされ、後者はチンギスの陵墓を守った。16世紀には、オリアンハイは統一モンゴル国の万戸の1として現れるが、反乱を起こしその民は分散させられた。これらオリアンハイや明代に現れるオリアンハイ三衛と現在のオリアンハイ人との関係について定説はない。17世紀オリアンハイ人は、ハルハのホトゴイト部か西モンゴルのジュンガル部に従っていたが、18世紀半ばまでに清朝に服属した。清朝は彼らを1)現在のロシア連邦トゥバ共和国からフブスグル湖地方、2)アルタイ山脈地方、3)現在のロシア連邦アルタイ共和国に居住するものの3部に分け、それぞれをタンヌ・オリアンハイ部、アルタイ・オリアンハイ部、アルタイノール・オリアンハイ部と名づけて旗と佐に編成し、外モンゴルに駐在するウリヤスタイ将軍とホブド参賛大臣の管轄下に置いた。清朝にとってオリアンハイ人とはモンゴル西北辺境の森林地帯で狩猟をよくする人々の総称であったらしく彼らから毛皮税を徴収していた。また文書行政はモンゴル文と満州文によって行われていた。この行政組織の枠組みの中で、宗教・住居・衣服・習慣におけるモンゴル人との共通性などオリアンハイのエスニシティは形成されていったといえる。ただしトゥバ・オリアンハイ人にはトナカイ飼養民(ツァータン)もいる。

 清に帰属したオリアンハイ地域には、北からロシアも勢力を伸ばしていた。アルタイノール・オリアンハイは同治3年(1864年)清とロシアとの国境画定によってロシア領となった。残りの2部は1911年外モンゴルが独立宣言をするとこれに加わるが、間もなくフブスグル湖地方を除くタンヌ・オリアンハイはモンゴルからの分離を決め、1914年ロシアによって保護領とされた。今日のトゥバ共和国である。トゥバの帰属をめぐるロシアと中国の対立、いわゆる「オリアンハイ問題」のオリアンハイ辺境とは、清代のタンヌ・オリアンハイ地方を指す。ロシアの支配下に入った上の2つのオリアンハイ人には、民族名としてそれぞれアルタイ人、トゥバ人が与えられた。またモンゴル国のフブスグル湖西岸のモンゴル語を第1言語とするオリアンハイ人には、現在ダルハト人というエスニック名がつけられている。

 アルタイ・オリアンハイ部では18世紀後半からカザフ人の侵入を受け西から東へと牧地を圧迫された。1911年モンゴル国が独立を宣言し、1913年露中宣言により中国とモンゴルのおおよその国境が決まると、この部は中国とモンゴル国とに分断された。カザフ人の流入は今世紀になってさらに増え、モンゴル人民共和国では6・70年代牧地不足のため多くの人々が中部地方に移住した。モンゴル国バヤンウルギー県、中国新疆では今日カザフ人が圧倒的多数者となり、ほとんどのオリアンハイ人はカザフ語も話す。清代のアルタイ・オリアンハイ7旗のうちトゥバ語が話されていたのは3旗で、白ソヨン旗、黒ソヨン旗、フフ・モンチョク旗の通称で呼ばれていた。現在でもモンゴル国西部と中国新疆ではトゥバ・オリアンハイ人に対する他称としてソヨン、モンチョクが用いられる。その多くがモンゴル語、カザフ語も話す三言語使用者である。

 主な生業はウマ、ウシ(ヤクを含む)、ラクダ、ヒツジ、ヤギの「五畜」を対象とする遊牧だが、高地が多いためヤクとヤギの比重が大きい。またタルバガやシカ、野生のヤギ・ヒツジなどの猟が広く行われ、冬の猟にはスキーも用いられた。大麦などの穀物が作られたほか、フブスグル湖周辺ではサケ科の魚の網漁も行われてきた。宗教ではチベット仏教とともにシャマンが現在も活動をしている。また「山の主」信仰が色濃く残っており、古い要素を持つとされる芸能の諸ジャンルが伝えられているのも特徴である。モンゴル国においては、社会主義時代、文化・社会的に「発達の遅れた」人々と位置づけられてきた自らを、むしろモンゴルの「原型」あるいは基層文化を受け継ぐものとして位置付け、英雄叙事詩の語りなど「伝統文化」を再評価する運動が民主化以降起こってきている。

ダルハド、ツァータン、オイラド、トゥバ、アルタイ

Монгол улсын угсаатны зvй 2-3, Улаанбаатар, 1995,1996.
何星亮「阿勒泰烏梁海社会歴史述略」『中央民族学院学報』(1988:1).

上村 明

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