オイラド、おいらど、衛拉特 厄魯特、Oirad, Baruun Mongol

 モンゴル国西部(1989年統計17万0991人、ただしフブスグルのオリアンハイ人を含む)、および中国新疆に住むモンゴル系の人々(1990年統計13万7740人、ただしチャハル人を含む)。

 13世紀初め、フブスグル湖西岸から今のトゥバの地にあったオイラドの首領の1人クトカ・ベキは、チンギスの「森の民」征服に貢献し、オイラド4千戸の統治を任されるとともに、チンギス家との密接な婚姻関係を築いた。元朝が崩壊した後、全モンゴルを支配下に置いたオイラドの指導者トゴンの子エセンは、1453年自ら大元ハーンの位についたが、翌年部下に殺され、オイラド人は西北モンゴルに退いた。16世紀、チンギスの父系子孫が支配する東モンゴルが統一されると、今度は東モンゴルからのオイラド人に対する征服活動が始められた。17世紀初めには、オイラド人は東モンゴルのハルハ右翼のアルタン・ハーンに税を納めていた。このころオイラド人は、アルタイ山脈と現在の新疆北部にかけての地域に移り、チンギスの弟カサルの子孫が首領のホショード部と、ケレードのオン・ハンの子孫が首領のトルゴード部が加わり、エセンの子孫でチョロス姓の首領を持つジュンガル部とドゥルブド部とともに四(ルビで「ドゥルブン」)オイラドと呼ばれるようになっていた。オイラドでは内紛が絶えず、1630年ごろトルゴード部はヴォルガ河畔に移住した。

 内モンゴルが清に服属すると、危機感を持ったハルハとオイラドの同盟が1640年成立したが、1688年オイラドの覇権を握ったジュンガル部のガルダンがハルハに侵入、漠南に避難したハルハの首領たちは1691年清朝へ服属する。これを受けて1696年清の康熙帝はモンゴルに親征しガルダンを敗走させた。ジュンガル部は、西方のカザフなどにも征服活動を行い、強大な国家を築いたが、1755年内紛に乗じた清軍により崩壊した。その後の反乱に乾隆帝は徹底した掃討を行い、天然痘の流行もあって、ジュンガルの本拠地イリ地方に住民はほぼいなくなった。このため、帝政ロシアの圧迫を受けていたヴォルガ河畔のトルゴード部は、1771年イリに戻り清朝に服属した。この時ヴォルガ川西岸に残ったのが、カルムィク人である。

 17世紀から18世紀半ばのオイラドは、農業開発が進められ、トド文字が作られ僧ザヤ・パンディタが独自の著作活動を行うなど、政治面だけでなく宗教・文化的にも東モンゴルに対抗する中心を形成しつつあった。またダライラマとの関係が深く、グーシ・ハーンのホショード部は、ダライラマ五世の要請により1637年青海地方を制圧し移住した。彼とガルダンのハーンの称号はダライラマの宗教的権威に基づいていた。

 清朝は服属したオイラドを盟旗制度に組織し、首領たちをそれぞれの領民の旗長に任じ、身分に応じて爵位を与え世襲をゆるした。19世紀末、清のホブド参賛大臣の管轄下に、ドゥルブド16旗(その内ホイド2旗、バヤド11旗)、ザハチン2旗、アルタイ・オリアンハイ7旗、新トルゴード2旗、新ホショード1旗、ウールド、ミャンガド各1旗があった。現代のモンゴル国のエスニック分類では、これにドゥルブド旗に属したウズベク起原と言われるホトンをつけ加え、ホイドをドゥルブドに、ホショードをトルゴードに含めている。同じく新疆には、イリ将軍管轄下にトルゴード10旗、ホショード3旗、ウールド4旗があった。

 1911年清朝の崩壊によって、ハルハでは活仏ボグド(聖なる)・ハーンを立てモンゴル国の独立を宣言する。翌1912年ボグドの使者が至ると、ドゥルブドなどオイラドの領主たちは相次いでボグドに服属した。モンゴル国軍はホブド地方を占領し、1907年にホブドより分離されていたアルタイ辺境へと進軍するが、東半分を勢力下においただけで中国軍にはばまれた。このため、アルタイ辺境のアルタイ・オリアンハイ、トルゴード、ホショード各旗の半分と新疆の各旗は中国に属することになった。1921年成立したモンゴル人民政府は、オイラド各部を少数部族と位置づけ特別の配慮をしたが、30年代初めに起こった僧たちの反乱と国外逃亡の波はモンゴル全国に波及した。

 オイラドの言語は、一般にモンゴル語オイラド方言として分類されている。主な生業は他のモンゴル人と共通の「五畜」を対象とする遊牧だが、山岳地帯が多いため夏高山の草地を利用し秋ふもとに下る移動パターンをとる。また中央アジア起源の灌漑農業により大麦などの穀物を作っていた。文化面ではトルゴードの『ジャンガル』に代表される英雄叙事詩がさかんに語り継がれてきた。また相撲や舞踊なども東モンゴルと異なる特徴を持つが、これら言語・風俗習慣は、教育制度、徴兵制、マスメディアの普及によって、モンゴル国ではハルハに急速に同化されつつある。新疆では、漢、ウイグル、カザフ人との混住によって3・4言語使用者の割合が高い一方、トド文字の使用をやめモンゴル文字の使用を一般化する運動など、他の地域のモンゴル人との文化的な結びつきも強めている。このため、モンゴル国、新疆とも「オイラド人」より「西モンゴル人」(新疆ではチャハル人を含む)が広く用いられるようになっている。

カルムィク、ドゥルブド、バヤド、トルゴード、ホショード、ザハチン、ウールド、ミャンガド、オリアンハイ、ホトン、ハルハ、チャハル

劉維新(主編)『新疆民族辞典』新疆人民出版社,1995.
Монгол улсын угсаатны зvй 2, Улаанбаатар 1995.

上村 明

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