1930年におけるアルタイ・オリアンハイの新疆への「集団逃亡」について

上村 明



[発表要旨]
 アルタイ・オリアンハイ(ウリヤンハイ)は、清朝において七旗に編成され科布多参賛大臣の管轄下にあった。ボグド・ハーンの独立宣言後彼らはモンゴル国に帰属する。しかし1930年の旧右翼大臣旗をはじめとして新疆に集団で脱出する事件が相次いで起こる。
これまでこの事件はもっぱら「左翼偏向」をきっかけに旧封建領主たちの起こした階級闘争の一コマとして捉えられていたが、革命史の枠組みをカッコに入れオリアンハイ内部からの視点で見ると別の側面が見えてくる。
 発表者がモンゴル国立歴史文書館や聞き取り調査で得た資料によれば、旧右翼大臣旗のひとびとは、長年新疆側のチンゲル川で狩猟・耕作などを行って来た。耕作はモンゴル国に帰属した後もすくなくとも1927年までは行われていた。当時のひとびとの意識は、国境よりも自分たちの生活圏を重視するものであった。彼らの生活圏は気候条件の異なるアルタイ山脈の東側と西側にまたがり、それを季節や生業の重点によって使い分けていた。そのどちらも必要で欠けてはならないものだった。国境はその真ん中に引かれた。
 1934年、新疆内の政情不安や雪害によって困窮していた彼らは、モンゴルに侵入したカザフ盗賊団の討伐のため新疆に進出したデミド将軍のモンゴル軍によってにモンゴル領に連れ戻される。
帰還した彼らにはカザフ盗賊団から没収した家畜の分与、兵役の免除、税の軽減措置などの優遇措置が与えられる。
この事件をきっかけにアルタイ・オリアンハイのモンゴル人民共和国への帰属は決定的なものとなった。国境の警備が固められ、アルタイへの道が断たれることによって、アルタイ・オリアンハイの生業における農耕と狩猟の比重が減り、牧畜の比重が増した。さらにネグデル化によって個人の農耕はすべて姿を消した。これは生業における「ハルハ化」と言える。

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