月刊『言語』1997年10月号 Vol.26, No.11
特集 アジアの言語事情 モンゴル

上村 明





 モンゴル国はロシアと中国にはさまれた内陸国である。モンゴル系の言語を話す人たちは、中国の内モンゴルや新疆、ロシアのブリヤートなどに、モンゴル国の人口約250万をはるかに越える数が住んでいるが、モンゴル語を唯一の公用語としているのはモンゴル国だけである。モンゴル国憲法第8条第1項には、「モンゴル語を国家の公用語とする」規定がある。

マスメディアの言語
 現在モンゴル国の人口の4分の3は遊牧をやめ、ウランバートル、ダルハン、エルデネトなどの都市や県(アイマグ)や郡(ソム)の中心の定住地に住んでいる。かれらの一番身近なメディアは有線ラジオだ。アパートなら各部屋の壁にかけられていたり、ゲルなら明かりとりの天窓を支える柱にくくりつけられていて、つけっぱなしになっている。放送はモスクワ発信のものもふくめてすべてモンゴル語で行われている。モンゴル国の標準語はこのアナウンサーのしゃべるモンゴル語といってよい。
モンゴル国の標準語は最大のエスニック集団ハルハのモンゴル語を基礎としている。ハルハ以外のモンゴル語を話す集団はとくに西モンゴルにおおく、かれらは西モンゴル諸方言を話してきたが、現在ではハルハ方言化が進んでいる。西モンゴル方言復権の動きは、ごく一部の詩人の創作活動にかいま見られるだけだ。
 いっぽう遊牧民の主なメディアは新聞である。民主化以後の経済混乱が起こる前には週に2・3回各家庭に馬やオートバイで配達されていた。いまでは定期的に届けられることはまれになったが、遊牧民の主要な情報源であることには変わりがない。もっとも読まれる前に紙巻き煙草の巻き紙として、煙になって消えてしまうことも多い。

民族主義と文字政策
現在モンゴル語を書き表わすのに使われている文字は、モンゴル語にあってロシア語にない2つの母音を表わす2文字を加えたロシア文字である。このロシア文字の採用は、1941年に決定され1946年からすべての出版物に対して実施された。
民主化以後、モンゴルが社会主義の看板をおろそうとしたとき、旧ソ連の押しつけたこのロシア文字も廃止して、チンギス・ハーンの採用したモンゴル文字を使おうという声が高まった。国会でもモンゴル文字の公用文字化が正式に決定された。その後の経済的な混乱のなかで、実施は21世紀以降に先送りされ、最近ではその声もほとんど聞かれなくなった。
例外的にモンゴル文字が採用されたのはパスポートだ。新しいパスポートは英語とモンゴル文字で書かれていて、自分のパスポートに何が書かれてあるか読めないモンゴル人は多い。新パスポートはモンゴル国がロシアから自立していることをシンボリックに主張しているのである。

外国語教育
もうひとつのマスメディアのテレビでは、ずっとモンゴル語とロシア番組のチャンネルが共存してきた。現在ではロシアの放送のほかにNCCやNHK、チャンネル・フランスが吹き替えなしで流されている。
このようなロシア語いっぺんとうからの脱皮は、外国語教育にもあらわれている。
現在旧西側諸国の言語の学習熱はおどろくほどである。民主化以後にできた私立大学は外国語教育を売り物にしているところが多い。ウランバートルのいくつかの10年制学校(モンゴルで一般的な8-17才までの初等中等教育一貫学校)では、英語・フランス語・ドイツ語・日本語などを教えている。これらの学校に入るには試験があって、英語・日本語など人気のあるコースの競争率はかなり高い。
このような言語学習ブームの加熱は、日本をはじめとする外国からの援助がモンゴルに大量に注ぎ込まれる中で、外国人とのパイプのある者だけが経済的な特権を得ることができるモンゴル国の現在の状況を端的に反映している。

術語常設委員会
 モンゴル国はロシアと中国にはさまれた人口の少ない国なので、近代化に必要な科学用語の導入と言語の独立性の維持という問題を同時に解決するため、格段の努力を払ってきたといってよい。
 学術・技術用語を定める「術語常設委員会」は、典籍研究所(現在のモンゴル国科学アカデミーの前身、1921年11月創設)の附属として1924年に設立された。
 その目的は、おもにロシアから入ってくる学術・技術用語に対応するモンゴル語用語を制定することにあったが、一方でモンゴル語の語彙の可能性を最大限に発掘しようというねらいもあった。『術語委員会会報』はこの委員会が発行している科学技術・学問の各分野のモンゴル語の用語集だが、おおくの技術用語集にまじって「モンゴル・ロシア・ラテン・チベット・中国語植物名辞典」(『会報No.89-90』1972年)のようにモンゴルの伝統的な学問を媒体してきたチベット語とモンゴル語、また中国語の語彙をヨーロッパの学術語彙に接続させる試みのものもある。
 この「術語常設委員会」は、新体制後の1996年に新しい規則が定められ、教育大臣を委員長とする21人の委員会として再スタートした。90年以前の活動との最大の違いは、新しい委員会がおもに英語からの学術・技術用語の翻訳にその目的をおいていることだ。もうひとつのこの委員会の大きな役目は、現在改定が進んでいる法体系における新しい法律用語の制定である。

少数言語
 モンゴル国の公用語をモンゴル語と定めた憲法第8条には、第2項があり「本条第1項の規定は、住民のうち異なる言語を話す少数民族が自言語によって教育を受け、話し、文化・芸術・科学的活動を行なう権利を侵害するものではない」と定めている。
 現在モンゴル国でモンゴル系以外のひとびとの割合は約10%と見積もられている。うち最大のエスニック集団はカザフで、1995年現在全人口の4%を占める。1989年の調査では5.9%だったのが4%に減少したのは、民主化以後多くのカザフ人がカザフスタンに移住して行ったからである。もともと現在のモンゴル国の領土にカザフが新疆からやってきたのは前世紀の終わりから今世紀の初めであり、移住が本格的になったのは1940年に「カザフとオリアンハイ(ウリヤンハイ)の県」としてバヤン=ウルギー県が設置されてからである。1940年設置当時この県の人口は、52%をカザフ人以外が占めていた。それが1989年には、ほかの集団がモンゴル中部へ移住したこともあって80%を越えるまでになった。
 モンゴル国の最も西に位置するバヤン=ウルギー県に住む住民のほとんどはモンゴル語とカザフ語の両方を自由に話す。遊牧民の家には家畜をさがしてほかの遊牧民がひんぱんにやって来る。モンゴル人の家にカザフ人が来たりすると、ひとつの会話の流れのなかでモンゴル語(オリアンハイ方言)の会話とカザフ語の会話が自然にいれかわる。
 バヤン=ウルギー県では、両方の言語で教育が行なわれている。カザフ語の新聞雑誌も発行されている。学校教育は基本的にモンゴル語学校とカザフ語学校の2本だてになっていてどちらに通ってもよい。しかし、バヤン=ウルギー県にはカザフ語学校の教師養成の学校しか高等教育を受けるところがないので、それ以外の専門知識を身につけるにはウランバートルに行かなければならない。モンゴル国の高等教育はモンゴル語で行なわれるから、カザフ語学校出身者には不利だ。カザフスタンに留学するという選択もあるが、カザフスタンではロシア語での講義が多い。
 バヤン=ウルギー県は、カザフ人が移住してくる前はオリアンハイ(ウリヤンハイ)の土地だった。オリアンハイには、モンゴル語オリアンハイ方言を話す人々とトゥバ語を話すトゥバ・オリアンハイがいる。バヤン=ウルギー県は「カザフ人とオリアンハイ人の県」として設置されたにもかかわらず、自言語による教育の権利はカザフ人にだけ与えられ、トゥバ語を話すオリアンハイ人には与えられなかった。
 モンゴル国のトゥバ・オリアンハイでおもにドイツ語で著作する作家のチナーギーン・ガルサン氏によれば、現在モンゴル国には4―5万人のトゥバ・オリアンハイがいる。だが、長年のさまざまな差別政策の結果、トゥバ語を話すのはそのうちの4―5千人にすぎないという。しかし1992年には彼の出身地ツェンゲル郡に待望のトゥバ語学校が設立された。
 

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