アルタイ・オリアンハイの宴の歌
Feast Songs of Altai-Urianhai: Local Identity and National Identity

上村 明(東京外国語大学大学院)
KAMIMURA Akira (Graduate School, Tokyo University of Foreign Studies)


0.はじめに
 モンゴル人にとって、歌(дуу)はわれわれが考える以上に重要な意味を持っているらしい。それは彼らの社交の手段であり教養でもある*1。モンゴル人にとって、歌がどのような意味を持ち、どのような社会的機能をもって来たか、モンゴル国の西部モンゴル・アルタイ地方に住むオリアンハイ(Урианхай)のひとびとの歌について、参与観察と彼らの会話の中にあらわれた「歌」に関する言及の記録によって明らかにしたい。

 現在人口統計などでモンゴル国のモンゴル系住民は、 "ястан" と呼ばれるエスニック・グループに分類されている。オリアンハイもそのひとつである。モンゴル国最大の "ястан" であるハルハが人口の78.8%を占めるに対し、オリアンハイは1%を占めるに過ぎないマイノリティーである*2。
 この "ястан" という分類は、事実上清代における行政区分での帰属を基準にしている。
 乾隆20年(1755年)乾隆帝はすべてのオリアンハイを服属させたとして、これをタンヌ、アルタイ、アルタンノールの3部にわけ、アルタイ・オリアンハイを7旗に編成した。アルタイ地方のオリアンハイを意味する「アルタイ・オリアンハイ(Altai-yin Uriyangqai)」が、明確な輪郭を持った集団を指すものとして用いられ始めるのはこの時からである。
 光緒33年(1907年)清朝は外モンゴルおよびホブドにおいて増大しつつあったロシアの影響からアルタイ地方の権益を守るため、ホブド・アルタイ分治を行う。これによりアルタイ・オリアンハイ七旗は、ホブド參贊大臣直轄からアルタイ承化寺におかれた弁事大臣の管轄下に移った。
 1911年のボクド・ハーンの独立宣言の後、旗長(總管)たちはボグド・ハーンに忠誠を誓い公(gung)の地位とその世襲の権利を保証される。そしてアルタイ・オリアンハイ七旗はドゥルベト右翼ウネン・ゾリグト・ハン部に編入される。
 しかしこの帰属は一貫したものではなかった。アルタイ・オリアンハイ右翼旗に属していた人々は、現在の中国新疆省青河市の周辺を中心として遊牧していたのを1913年ボクト・ハーンの軍隊によってホブド側に連れて来られたという経緯があったし、旗長たちの多くも中国側からの強力な働きかけやその後の人民革命への反発によって国境を越え中国領に逃亡してしまう。中国新疆での相次ぐ争乱もホブド邊疆のオリアンハイの帰属を不安定なものにしていた。
 こうしたことから、モンゴル人民政府は1938年までアルタイ・オリアンハイに対して徴兵を実施しなかった。これは彼らに対するハルハの不信の表れであった。
 1938年、小ホラル議員でホブド・アイマクの検事であったОнын Чулууの指導のもとにホブドにおける行政組織の刷新が行われる*3。50年代からは牧畜のネグデル化が開始される。こうして政治的にも経済的にもアルタイ・オリアンハイは社会主義近代国家であるモンゴル人民共和国に強力に統合されていくことになる。
 ほかの国々の近代化の例にもれず、モンゴル人民共和国でも国家の近代化とは「民族国家」への新しい帰属意識を形成していくことでもあった。このことは実質的に、オリアンハイが言語・習慣において、「標準」とされるハルハに文化的に統合されていくことを意味する。この過程においておおきな役割を果たしたのは、もちろん通信交通、マスメディア、学校制度、徴兵制などである。このような制度や媒体は70年代には整備され普及していた*4。
 「国家の近代化」は人々の生活や意識を国家規模で同質化する大きな圧力として現われる。モンゴル国のマイノリティーがそれをどのように受け入れてきたか、アルタイ・オリアンハイで歌われる「歌」の意味を考えることによって、このような変容の過程をも明らかにしたい。

1.宴―酒と歌―
 オリアンハイで歌が歌われる「場」としてまず連想されるのは、結婚式や子供の断髪式での宴である。もちろんそれ以外の「場」でも歌は口ずさまれたり歌われる。たとえば訪問客に酒がふるまわれる時や車や馬で複数の人間が移動する時にも歌は観察される。しかし、これらの「場」は上記の宴にくらべて何かしら「場」の要素に欠けた不完全な「場」であって、いわば正式な「場」とみなされるのは上にあげた宴といえる。これらの宴では、長期間準備がなされ、多数の人間があつまり時には数日にもわたって歌が歌われる。宴で歌ってはならない歌もあるが、宴が歌の最も重要な場であるということを否定するものではない。

 宴の事例としてホブド・アイマクのドート・ソムで1993年8月22日に筆者の観察した結婚式の例をあげよう。

 朝7時、ソムの中心から花嫁らを乗せて来たトラックは新しいゲルの戸口に横づけされた。トラックのドアから戸口までの地面に白いフェルトが敷かれる。トラックに乗って来た人たちはこの上を通りゲルに入る前に差し出された乳を飲む。
 ゲルのホイモル(奥の上座)にはソファ代わりのベッドが置いてあり、年取った親戚縁者や花婿の両親が座っている。その両脇のアブタル(箪笥)には写真の入った額が立て掛けられている。
 ゲルの入口を見てストーブの右側に男たちが、左側に女たちが座っている。ゲルに入って来た男たちはまずホイモルに進み出て老人たちに挨拶をし嗅ぎ煙草入れを交換する。
 花嫁はそれからストーブでお茶を煮る。これは花嫁の新居での最初の仕事である。
 花嫁はこのお茶をホイモルに座った老人たちを初めとして客のひとりひとりにふるまう。お茶のつぎにはあらかじめ用意されていた肉うどんの入ったバケツがストーブにかけられふるまわれた。うどんの次は花婿がアルヒ(ヤクの乳から作った蒸留酒、時によってはモンゴル・ウォッカの場合もある)を茶碗に注ぎながらひとりひとりに飲ませて回る。同じように乳がふるまわれるが、茶碗の下には10トゥグルク札が重ねられている。そして食事のおわったものにまたお茶が配られる。うどんと茶は客ひとりひとりに茶碗が行き渡るように配慮されるが、アルヒと乳はひとつの茶碗でひとりずつ給仕される。
 みんなの食事が終わりアルヒもなんべんか回わると、найрын ахлагчと呼ばれる宴会の取り仕切り役がおもむろに歌を歌い出す。出だしの一節をひとりで歌うとそれについてみんながいっせいに歌い出す。一曲が終わるとまた誰かひとりが出だしの一節を歌い、みんながそれに唱和する。
 初めのうちは一曲が終わると次の歌を誰かが歌い出すまでに間が開くが、酒がさらに何度かまわると間があくこともなくなる。
 こうしてしばらく歌が続くと、新郎新婦がホイモルの目上の人たちや新郎の両親家族に布地などの贈り物を手渡しはじめる。この時両親たちに歌が捧げられる。これを“ая барих”と呼ぶ。
 花婿の親の家にいた人々もみんな入って来て一同そろうと、目上の縁者が新しいゲルの "garaats"(ハルハの тооно )から伸びたひもにハダク(絹の布)を結びつける。こうしてこのゲルとそこで生活しようとしている2人がひとつの社会的単位となったことが認められる。
 ゲルの"garaats"から結ばれたロープにハダクが結びつけられると、今度は両親、目上の近親者が布地、酒などの贈り物を新郎新婦に手渡し、両方の頬にキス(ソнсэх)して祝福する。他のものも順番に祝いの言葉を言い、贈り物を新郎新婦に手渡したり席から立ち上がってオニ(屋根棒)にお札をはさみ込む。
 祝いの言葉は、ごく簡単に"Сайн айл болоорой!"(よき家になれ)というものもいるし、贈り物を手に持ち一同に向かって長々とユルール(祝詞)を述べてから新郎新婦に向き直り手渡すものもいる。その合間にも何度も茶碗がまわってきて歌が唱和される。
 これで儀式の主要部分はおおかた終わり、花嫁側の人間はトラックの乗って帰って行った。

 上の事例に見られるように、宴は儀礼から分離した存在ではない。宴の中で儀礼は進行する。そして歌は宴の欠かせぬ要素として宴と儀礼の進行に係わる。宴の始まりを告げるのも歌であるし、両親をはじめとする年長者に対して贈り物とともに捧げられるのも歌である。
 今日は伝統*5として意識されるだけになったが、1970年代前半までは、宴の始まりの歌、“ая барих”の際に歌われる歌、宴の終わりに歌われる歌がそれぞれ決まっていた*6。現在でも前者2つは特に意識して選曲されている。
 宴での歌の歌い方で特に注意を引くのは、「出だしの一節をひとりで歌うとそれについてみんながいっせいに歌い出す。一曲が終わるとまた誰かひとりが出だしの一節を歌い、みんながそれに唱和する」という斉唱のスタイルである。
 このスタイルはまた一つの茶碗でみんなが酒を飲むというスタイルと対になっている。酒は歌が歌われる場の重要な要素なので、まず酒がどのような役割を宴においてはたしているか考えてみよう。

1.1 宴と酒

"Дуу хуургソй бол найр найр бишээ
Дугараа сセнгソй бол наргиан наргиан бишээ"
「歌や音楽がなければ、宴は宴ではない。
 順に飲む酒がなければ、楽しみは楽しみではない。」
と言われるように、酒は歌と並ぶ宴に欠かせない構成要素の一つである*7。正式な宴でなくても歌が歌われる時、酒が飲まれていることがほとんどである。
 酔っぱらいが、他人を傷つけたりからんだりすることは、“агсан тавих”といって非難されるが、酩酊による単なる感情の吐露が非難の対象とされたり人格的な欠点とみなされることはない。しらふの状態で露わにできない感情を開放できる酩酊はいわば抑圧された感情のアジールである。酩酊による感情の開放を単に生理的なものとして扱うことはできない。
 私は酒に酔った人間が、“Би архи уучихлаа. Болно уу? Болно биз дээ.(オレ酒飲んじゃった。いいだろう。いいよなあ。)”と言うのを何度も聞いた。これは酔っぱらいの言う決まり文句である。この言葉は、飲酒の許可をたずねているのではもちろんない。感情の開放という日常的倫理への侵犯と酩酊での許容という二重拘束をよく表現した言葉なのである。酔った時くらい感情のままに振る舞って大声を出したりするのを許してくれよ、見逃してくれよというわけだ。
 しかし宴においては、酒も不可欠な要素として組み込まれているので、参加者が勝手に酒を飲み酩酊することはできない。一度酒がまわって来たらまた一巡して自分のところに給仕がまわって来るのを待たなければならない。酒の飲み方にも枠がはめられていて、宴の席が無礼講になってしまうことはない。
 もちろん酒によって感情が高ぶりけんかが起きるのはいつものことである。が、それは宴の行われているゲルの外でのことであり、宴の席でそのような気配が見えると“найрын ахалагч”が立ち上がり酒は適度に飲むようにと釘をさしたり、タガの外れた酔っぱらいは帰らせてしまう。
 宴はこのように、酩酊による感情の高揚と、酒の給仕の方法や“найрын ахалагч”による統制という、開放と抑制との微妙なバランスの上に成り立っていると言える。

 上にあげた事例の後で起こった次のようなエピソードは、このバランスが失われた場合宴が成り立たなくなることをよく示している。

 宴もたけなわ、私の2人右となりに座っていたバトソーリが突然泣き出した。「みんな楽しそうにやっているが、オレの気持ちは誰もわかっちゃくれない。みんなはここに住んで楽しくやっているが、オレだけひとり遠くにいる。オレは毎朝、山の上に登り、両親のいる方をどうしているかと双眼鏡で見るんだ。この気持ちは誰もわかってくれない」と叫んでオイオイ泣き出した。
 驚いたのは、そこにいたみんなの反応だった。大の男が声をあげて泣き出したのだから笑い出すのだろうと思っていると、みんな目に涙を浮かべ、いっしょに泣きはじめるものもいる。
 ツォクトー(найрын ахалагч)がめでたい席で泣くのはよくないとたしなめるが、泣いたまま。弟のバンダーがバトソーリを抱いて顔にキスしなだめる。
 しばらくそんな状態があって、誰かが気を取り直したように歌の出だしを歌い出して、宴がまた続けられた。
 家に帰って来て女主人のムンフーにこの話をすると彼女も笑わず、「お前も泣けばよかったじゃないか。とにかく早く帰ってきてよかった。長くいたら何が起こっていたか分からなかった。」と言う。
 次の日、あの後やはりけんかが起こったと聞く。
(人名はすべて仮名)

 このエピソードは、ひとりの参加者の感情の高揚がカタストロフ的な地点を越えて崩壊してしまった例である。当時彼は結婚式が行われた場所から10キロほどのところに妻の両親たちとホト・アイルを組んでいた。あとでこの時のことをたずねると「オレは泣き上戸なんだ」とケロリとしていた。これは「大の男」にも感情の開放が許容され、それが珍しくないことも示している。またこの感情の崩壊が宴の場全体に波及したことは、出席者の間に共通の感情が発生していたということも示している。この時父母の歌が歌われ、その歌の喚起する感情が宴の場の全員に共有されていたのである。
 以上の例から、酒によって感情を抑制しながら開放し、それを歌によって共通の形に成型する宴のしくみが見えて来る。これは、その「場」にいるものが共通したカタルシスを味わう仕掛けである。私は「酒を飲む時には、言葉はいらない。ただよい歌を歌えばよい」という言葉も聞いた。酒の場にロゴスはともすれば争いを導く。歌を歌えばパトスを共有できるのだ。
 70年代までの宴では上のエピソードのように感情が過度に高揚しないように、歌の合間に様々なゲームが行われていたという*8。
 感情の共有というと、一つの歌を全員で歌い、一つの茶碗から酒を飲むという表層的な仕掛けがまず目に映るが、その背後にある感情のコントロールのいっそう複雑な社会・文化的なメカニズムに注目しなければならない。
 つぎにアルタイ・オリアンハイの宴で歌われる歌の歌詞を見ることでどのような感情がうまれうるか考えて見よう。

1.2 宴の歌
 現在アルタイ・オリアンハイの宴で歌われる歌は、ラジオなどでよく聞かれる“зохиолын дуу”と呼ばれる60年代以降に創作された歌がほとんどである。しかも、父母、特に母の歌の割合が非常に高い。宴の歌い出しの歌、“ая барих”の歌は、そのほとんどが母の歌といってよい。
 Сампилдэндэвによれば、伝統的な結婚式では儀礼の中心部分が終わるまでは、"айзам дуу"と呼ばれる特別なオルティン・ドーだけが歌われ、ボギノ・ドーは歌ってはならなかった*9、また"айзам дуу"の内容は「夏の豊かな季節」「その土地の自然、山や川の美しさ」「父母の恩」「馬の素晴らしさ」を歌ったものであった*10という。アルタイ・オリアンハイのオルティン・ドーについても、このことは当てはまる。
 母の歌はこのような伝統的な歌のテーマを部分的に引き継いでいると言える。

1.2.1 70年代以前の宴の歌
 70年代以前には、しかし今日伝統的と認識されているアルタイ・オリアンハイのオルティン・ドーが宴の歌の大半を占め、宴も終わりに近づいてから創作曲が歌われていた程度だったと言う。特に重要な位置を占める宴の歌い出しの歌や“ая барих”の歌には、限られた歌だけが選択されていた。
 例えば、"ая барих"にふさわしい歌として、"Баян цагаан нутаг(豊かなる白きふるさと)"がある*11。
 その歌詞は、
豊かなる白きふるさとよ
誇るべき素晴らしき夏営地に
年長のかたがたよ
ごゆるりとたのしみなされ

野にまいた穀物の上物
あなたがたに捧げた御酒の上物を
年長のかたがたよ
ごゆるりとたのしみなされ
・・・・・・・・・・・(Ганболд1991а)
と始まり類似の内容の節が表現を変えて続く。
 この歌は、結婚式で新郎と新郎側の何人かが新婦を迎えに行ったとき新婦の家で行われる宴の最初に歌われる歌でもある。
 宴の歌い初めにはこの歌のほか"Гурвалжин их Алтай(三角の大いなるアルタイ)" も歌われた。"лэмж буян(至福)"は、アルタイ・オリアンハイの宴の歌の筆頭であり*12、宴の終わりに歌われる〆の歌であった。
 この歌は、
至福によりめぐり会ったごとく
まことに有徳の年長者たちよ
あなたがたの名声を
範としてよろこび歌いたり、われら

青々とした夏のはじめの月に
かっこうのさえずるごとく
貴き年長者あなたがたの名声に
高らかによろこび歌いたり、われら

水多き泉の中より
マルゴー(蓮?)の花が咲き出るごとく
真に年長者あなたがたの名声を
たたえよろこび歌いたり、われら

竹生う湖の中しまに
妙なる雁のつどいたるごとく
福ある年長者あなたがたの名声に
つどいよろこび歌いたり、われら

乳海のただなかに
須弥山のそびえたるごとき
おそれおおき年長者あなたがたの名声に
拝しよろこび歌いたり、われら

アラヤ・ダリの祝福をうけし
すべての衆生が
平和に楽しむように
あー、かくなれかし(Ганболд1993)
という歌詞をもつ。
 この歌と"Баян цагаан нутаг"は、「あなたがたの名声を/範としてよろこび歌いたり、われら」「年長のかたがたよ/ごゆるりとたのしみなされ」と年長者に捧げられている。
 宴の始めに歌われるもうひとつの歌、"Гурвалжин их Алтай"は、
三方に恵みの
三角の大いなるアルタイ
三人いっしょにいれば
よろこび大きアルタイ

四方に恵みの
四角の大いなるアルタイ
四人いっしょにいれば
よろこび大きアルタイ

・・・・・・・・・・・(Ганболд1991а)
と五方、六方とつづいて十までアルタイがたたえられる。同時に「いっしょにいれば/よろこび大き」と、宴にひとびとが集ったことを寿ぐ内容である。
 これら3つの歌は、その歌の歌われる場自体に言及していることで共通している。宴が「よろこび歌い」、「ゆるりとたのしむ」ものであり、「よろこび大きい」ものであることが歌われている。それと同時に、この宴の場を「ふるさとの誇るべき素晴らしき夏営地」や「アルタイ」のふもと、また「乳海のただなかに須弥山のそびえる」世界という大きなスケールの空間に重ねていく。いわば宴というミクロな宇宙の「よろこび」をマクロな宇宙の「よろこび」に同心円的に拡大して行こうとする類感的な意図が込められている。
1.2.2 創作歌謡―母の歌
 いっぽう現在宴で歌われている歌のテーマで最も多いのは、上で述べたとおり母の歌である。私が宴の歌い出しや"Ая барих"の歌として、もっともよく聞いたのは"Миний ээж(私の母)"である。この歌はА.Дандий−Ядамの作詞、Э.Чойдогの作曲で創作年代ははっきりしないが70年代以降の作とされている。この歌は、ホブド出身の歌手Цэрэндолгорが歌って広まった全国的に有名な歌である。また内モンゴルの歌手テンゲルも歌っている"Ээж минь"(作詞Ч.Дагвадорж、作曲С.Цэрэнчимэд)も人気がありひとつの宴で2回3回と歌われる。

 "Миний ээж"の歌詞はつぎのようなものである。
乳の匂いのしみ込んだ
私が髪を切らない幼いころ
懐かしい子守り歌のメロディーを
やさしく歌ってくれた
私の母は素晴らしい母
絹のように柔らかな母
間違ったことには厳しい母
老いてもなお元気な母
息子を一人前にと
私を育てるため
季節の節目ごとに
乳を撒いて祈った母
繰り返し
どんな息子を産んだのか
お母さん、見てください
どんな人間になったのか
母国よ、見てください
繰り返し

 ここには、自分を育ててくれた母の恩が歌われている。やさしいが間違ったことには厳しいという母のイメージは、"Ээж минь"にも現われるように、典型的な母の理想像である。
 重要なのは、最後の節の2、4行目で、「母」と「母国」がパラレルに置かれていることである。上のような母のイメージが母国にも重ねられている。
 この歌に比べて歌われる頻度は低いが、"Миний нутгийн бараа(わが故郷のすがた)"(作詞Ш.Сソрэнжав,作曲Д.баттセмセр)でも、節を越えてやはり「母」と「故郷」がパラレルに置かれている。

遠くより輝いて
純白のゲルが見える
一度の人生に定められた
わが故郷のすがた

羊のむれに並んで
新しい白いゲルが見える
乳を撒いて私を送り出した
わが母のすみか

高き天と肩をならべて
雲たなびく青き山が見える
絶えず夢に見た
わが故郷のすがた

 第1節と第3節の最後の行の「わが故郷のすがた」と第2節の最後の行の「わが母のすみか」が対置されている。
 「母」と自然の情景とくに故郷の情景を重ね合わせる歌詞は、伝統的な歌と現代の創作歌謡との両方に多い。"Ээж минь"もこのようなレトリックを持つ歌である。
 この歌の歌詞は、
靄かかる灰色のこの世に
子守り歌を歌って育ててくれた わが母よ
間違ったこと、正しいことを
さとして育ててくれた わが母よ
遠く思えば
そとに霞んで見える
雁の群れが鳴けば
あなたの姿に呼びかけたくなる、呼びかけたくなる

・・・・・
と、2つの節が一組となって、やはり類似のテーマが繰り返される。
 アルタイ・オリアンハイのオルティン・ドーの中にも、この渡り鳥の鳴き声を聞き母を思うという同じモチーフを持つ歌が見られる。
 "нмセ голын эхэн"(南の川の源)では

南の川の源で
やつがしらが鳴く
その声の美しさに
おかあさん、あなたを思う
思われて思われてならない
この世の理
・・・・・(Ганболд1991а)
と歌われる。

 このように、“Миний ээж”に見られる母:母国というパラレルは、モンゴル歌謡に広く用いられている母:故郷というパラレルを土台にしていると考えることが出来る。
 この歌は非常に象徴的な歌であるといえる。

1.2.3 文化政策と創作歌謡
 いうまでもなく「母国」というのは近代的な概念である。1921年の人民革命までの歌謡では、ハンガイやアルタイといったローカルな地名は歌われても、「母国」という言葉はおろか「モンゴル」という言葉さえ歌の歌詞にのることはなかった。
 「母国」という言葉が歌詞や題名に登場するのは、Лувсан хуурчがЦ.Цэдэнжавの"Эх орон дуу"(母国の歌)という詩に曲をつけているのが出版されているかぎりでは最初である。この歌の成立年代もはっきりしないが、Лувсан хуурчの没年1943年に出版されている*13。
 「母国」(эх орон)という言葉は、日本語の「母国」とおなじように"эх"(母)という語と"орон"(国)という語からなる。中国語や日本語の「母国」、またロシア語の"родина"にあたる翻訳語として作られたらしい。  革命後の20年間は、歌の歌詞の中で「母国」という言葉は、まだ「母のイメージ」と結びついていなかった。作られて間もない生硬なことばとして使われていた。
 この当時作曲された"Ган зам(鉄道)"(詞Ч.Лхамсソрэн、曲Л.Мセрдож)では、「これこそ友好の贈り物/わが母国の発展の道」*14というように、また"Эх орон"(詞Д.Содномдорж、曲Д.Лувсаншарав)では、「素晴らしき母国、明るい母国/誇ろうお前を、たたえようお前を」*15というように、透明でニュアンスの付随していない語として用いられている。また、「母国」を「お前を」というように呼び掛けていることは注目に値する。
 一方「モンゴル」という言葉は、創作歌謡において60年代初めに最初に父母と結びつけられて現われている。
 "Халуун элгэн нутаг минь(熱き身内のわが故郷)"(詞Ж.Бадраа、曲Ц.Намсрайжав)*16の歌の第一節は、
身体の内(第2節以下は「肝臓」「心臓」で置き換えられる)より結ばれた
愛するモンゴルのわが故郷
父母と運命で結ばれた
わが至宝の金のゆりかご
と歌われる。
 これは、歌のジャンルで自己と国家との関係を血のつながりによって表象した初めてのものであろう。
 この「モンゴル」とはもちろんモンゴル民族を指すものではない。民族と国家という概念が結びついてはいるがねじれを持って結びついている近代国家としての「モンゴル」を指し、それゆえに「母国」と同義語である。
 1941年11月のモンゴル人民革命党中央委員会総会では愛国者を育てる歌づくりが指示され、ソ連留学を終えたЛ.Мセрдорж,Б.Дамдинсソрэн,С.Гунчигсумлаа,Д.Лувсаншарав,Х.Доёддоржなどの作曲家たちがソ連との友好や愛国精神を高揚する歌を精力的に作りはじめる*17。
 "Халуун элгэн нутаг минь"や“Миний ээж”も、こうした文化政策の中で創作されたことを指摘しなければならない。1943年には作家同盟*18、1957年には作曲家連盟*19が結成され、公共の場で歌われるすべての歌は、歌詞を作家同盟が、曲を作曲家同盟が検閲するようになっていた。
 むしろそれまで「母国」という語の中に含まれる「母」と「国」との当然の連想がどうして創作歌謡の中で用いられなかったのが不思議なくらいである。60年代から70年代までは、近代国家としての「モンゴル」そして「母国」の概念が一般化しておらず、そのような連想を受け入れる素地がまだ出来上がっていなかったと考えるべきだろう。
 同時にこの年代は創作歌謡を強力に媒介するあらゆる制度の整備が完成された時期でもある。学校、徴兵制度やラジオ、新聞などのマスメディア等である。これはホブド辺境においても例外なく整備された。それとともに、英雄叙事詩やツォールなど伝統芸能の諸ジャンルが社会的文脈から切り離され舞台芸能としてのみその存在価値を認められることで命脈を絶たれていく時期でもあった。アルタイ・オリアンハイのオルティン・ドーも同様の運命をたどる。

3.創作歌謡の受容
 ただしアルタイ・オリアンハイの民謡(ардын дуу)が、単に上からの強制によって新しい創作歌謡に置き換えられていったと考えてはならない。
 社会的な諸変化はひとびとの交流範囲を広げ、中央の学校に進んだり*20アイマクの中心やウランバートルに住むアルタイ・オリアンハイも多くなった。異なるястанとの交流の機会も増え婚姻もめずらしことではなくなる。
 そういった中で全国共通の歌が必要とされる一方、ラジオの普及によって*21創作歌謡がローカルな民謡よりもっと身近に感じられはじめる。ラジオ番組にしめる歌謡番組の比重は高く、しかも早い時期からリクエストの制度が導入されていたので、人気のある歌は何度もラジオの電波に乗りますます耳慣れたものになる。特に牧畜に人手がそれほどかからなくなる冬の間は、ソムの住民の半数以上が発電所のあるアイマクやソムの中心で過ごすようになり、テレビ、ラジオなどのメディアに触れる機会も多くなっていた。
 さらに、アルタイ・オリアンハイのみで歌われてきたオルティン・ドーが新しい創作歌謡に取って代わられる過程には、宴での歌の歌われ方も大きく関わっていることもあげなければならない。
 宴の出席者が全員でひとつの歌を歌い感情の共有をはかるという歌い方は、必然的にみんなの知っている最大公約数的な歌が選択される傾向をうむ。母の歌が好んで歌われる理由も誰でも共通に感情移入が出来るからである。
 こうして、ある程度まで創作歌謡への移行が進むと、その後は急速にオルティン・ドーの歌われる機会は少なくなってしまったらしい。また結婚式や子供の断髪式での宴が、それぞれの家の代表者の参加する宴から、当事者と同年代の若者たちが中心の宴へと変化したことも急速な移行の理由としてあげることが出来るだろう。
 興味深いのは、ドート・ソムよりホブド市から遠く、老人パワーのまだまださかんなムンフハイルハン・ソムの宴の歌である。ここでは宴の始めは老人たちがオルティン・ドーを歌うが若者たちはそれに唱和せず(できず)、老人たちが退出したあと創作歌謡が歌われるというように、オルティン・ドーと創作歌謡の棲み分けがなされている。
 このことは歌われる歌の種類の移行が、すべての地域や世代でその速度を同じくして進んだのではなかったということを示している。世代間のギャップは生活のほかの面でも垣間見られるが、この2つの歌のジャンルの対立は水と油のようにまったく異なる帰属意識を反映しているように思われる。
 老人たちの中には、モンゴル人民革命をあれはハルハのやったことで自分たちオリアンハイとは関係がないと話すものもいる。またボグト・ハーンの時代突然やってきたモハル・トルゴイ(弁髪のないハルハ兵を角のない家畜に例えてこう呼んだ)の記憶も、彼ら自身は体験しなかったにしても、まだ新しい。これに対して若い世代は新しい「モンゴル」の子として育ってきている。オリアンハイであることより「モンゴル」の帰属意識のほうが強い。牧畜の協同組合化などにより様々な分野の専門知識が導入され、年長者の知識経験が相対化されたことも世代間ギャップを生んだ理由の一つであろう。

4.帰属意識の変化
 もう一度歌の歌詞にもどって考えてみると、上のような帰属意識の違いは"Баян цагаан нутаг(豊かなる白きふるさと)"、"лэмж буян(至福)"などのアルタイ・オリアンハイのオルティン・ドーと創作歌謡の"Миний ээж(私の母)"に象徴的に表われていると言える。前の二つは年長者に対して宴の集いの喜びを歌ったアルタイ・オリアンハイの歌であり、後の歌は自己と国家との関係を母と子の絆と同様のものとして捉える全国的に知られた歌である。この2つの歌の種類は、メロディーにおいてこそ断絶しているが(そこには日本の場合と比較しうる西洋音楽受容の過程がある)、歌詞の主題・表現技法においては連続性がある。
 ただ"Миний ээж"に見られるレトリックは、「年長者たち」に代表される地域共同体のレベルを飛び越えて、いわば母と子の絆によって、歌う者と国家とを結びつける。そもそも創作歌謡を宴で歌うとは、そこにいるみんなが感情を共有する「宴」という「場」を通じて、モンゴル国のほかのどこかで同じ歌を歌い同じ感情を共有する人間がいるということを実感することなのだ。
 アルタイ・オリアンハイの人々が宴で歌う歌の変化は、ローカルな帰属意識からナショナルな帰属意識への彼らの意識の転換を示している。そして、この過程は国家的な上からの要請と、「宴」というミクロな「場」における彼ら自身の要請とが噛み合うところで起こったのである。

5.おわりに
 90年からの民主化以降、アルタイ・オリアンハイの「伝統文化」の保存と復興を目的とするオリアンハイ連盟(Урианхайн холбоо)という組織がバヤンウルギー・アイマクのウルギー市で結成され機関紙も発行された。これは実際にはカザフ語による教育の強制への反対などバヤンウルギーでのカザフ中心の行政に対して政治的な影響力を行使しようとするものであった。このような性格の組織であったため、カザフ族のカザフスタンへの移住が進みその人口圧力の低下に比例して政治的圧力も減ると、急速に活動は下火になった。
 アルタイ・オリアンハイの多くの若者の間にも独自の文化を守ろうとする意識はあるが、習得しやすいしぐさや作法は受け継がれても言語や歌は受け継がれにくく、圧倒的なハルハ化の過程に同化されてしまうのは時間の問題であろう。
 「モンゴル」の概念は時代とともに変化してきた。そもそも現在の“ястан”の分類の例のようにモンゴルの歴史において政治的な単位がエスニックな単位に転化する例はいくらでもある。今日のアルタイ・オリアンハイで起こっている帰属意識の変化もそのような例のごく新しい今現在進行中の例といえる。この変化がどのような内的過程により起こっているか、われわれは「歌」というジャンルを通して知ることができる。
 本論では筆者の体験し記述した個別的な出来事をマクロな文脈も含めたさまざまな文脈に植えつけながら解釈していくことによって、ひとびとの感情のレベルからこの過程をとらえてみようと試みた。




*筆者のフィールド調査は、ホブド・アイマクのドート、ムンフハイルハン両ソムにおいて1993年から1995年までのあいだ断続的に約6ヶ月間行われた。
*1 このことは、Сампилдэндэв,95-р талд.Энэбиш,7р талд.Бадамхатан(хэвлэлд).などで指摘されている。
*2 1989年現在。"National Economy of the MPR for 70 years/1921-1991/".Ulaanbaatar 1991による。
*3 “Ховд аймгийн Мセнххайрхан сумын танилцуулга”.Цэнхэр1987.3р талд.
*4 Мセн 4р талд.“Дуут нуур”.Ховд хот.1976.11-13р талд.
*5 モンゴルの民俗学、口承文芸研究において、"уламжилалт"「伝統的」という言葉の指す時代は、19世紀末から20世紀初めである。
*6 Ганболд,1991а.Бадамхатан(хэвлэлд).またモンゴル全体について、Сампилдэндэв,96р талд.Бадамхатан1969、1972.Катуу1995.
*7 Сампилдэндэв,94р талд.
*8 Ганболд,1991б.
*9 Сампилдэндэв,96р талд.
*10 Мセн,101р талд.
*11 Ганболд1991а,6р талд.Бадамхатан(хэвлэлд).
*12 Ганболд1991а,5р талд.
*13 Смирнов,стр.355.
*14 Монголын шилдэг дуунууд,37р талд.
*15 Мセн,45р талд.
*16 Батсソх,7р талд.
*17 БНМАУ−ын соёлын тソソх,177р талд.
*18 Мセн,93р талд.
*19 Мセн,177р талд.
*20 1989年の統計では短大以上の教育を受けている人間は全国の人口の7%に達する。"National Economy of the MPR for 70 years/1921-1991/",UB.,p21.
*21 ムンフハイルハン・ソムでは1980年のラジオの普及率は、全世帯の99.4%にまで達していた。“Ховд аймгийн Мセнххайрхан сумын танилцуулга”.Цэнхэр1987.3р талд.

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上村 明

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