「人種」の解体と国民の記憶
――エリック・ウィリアムズを中心に――

浜 邦彦



1.クレオールな国民

  1962年にイギリス領から独立したトリニダード・トバゴ(1976年に共和国)は,その石油資源によって比較的豊かな経済水準を実現し,カリブの「モデル・ネイション」としての名誉ある地位を目指しつづけてきた。トリニダード・トバゴの観光客向けの自画像は,ふりそそぐ陽光,トロピカルなビーチ……といったカリブの島々の観光イメージとはいささか異なっている。そこは何よりもカーニヴァルの島であり,カリプソやスティール・バンドが生まれた島であり,また世界的な作家や多くの優れた才能を輩出しつづけてきた「文化」の国である。この「文化」を支えているのが,世界のあらゆる地域からやってきた多民族・多人種の平和的共存であるとされる。それは共和国の国是であり,国民の誇りでもある。

  他者を排除しない国民的な誇りというものがありうるとしたら,トリニダードの公式ナショナリズムはそれを自覚的に追求してきた点で,ナショナリズムのもっとも魅力ある選択肢のひとつであるかもしれない。この「虹の島」を訪れた旅行者の多くは,外国人にも分け隔てなく接するトリニダーディアンの寛容さ,温和さ,あるいは礼儀正しさの印象を好んで語る。だがトリニダードの背景を考えるさいに忘れてはならないのは,しばしば「東インド人」と呼ばれてきたインド系住民の存在である。19世紀半ば以後,奴隷制廃止後のプランテーション経済を支える契約移民として導入され,人口比ではいまやアフリカ系を凌ぐこの一大「マイノリティ」集団は,近年に至るまで「クレオール」文化(論)の中で執拗な無視と,時には非難にさらされてきた。インドの文化的伝統に固執するかれらの独自の生活態度が,クレオール的「国民文化」に敵対的だというのがその理由である。

  ここでの「クレオール」とは主にアフロ・クレオールを指すことに注意しなければならない。人種的調和を謳うエリック・ウィリアムズ(Eric Williams, 1911-1981)の率いたPNM党(People's National Movement)はアフリカ系中産層を主な支持基盤としており,その25年間にわたる独裁政権はインド系知識人に苦しい「アイデンティティの政治」のトラウマを残していた。

  インド系知識人の「クレオール化」への警戒は強い。それはもっとも露骨には,「ブラック・レイシズム」といった表現をさえとる。C.L.R.ジェイムズは,「東インド人」と「西インド人」が人種的に対立させられていることこそが植民地主義の産物なのだと述べている。だがトリニダードの「インディアン・ナショナリズムの父」と呼ばれるH.P.シンの目には,そのジェイムズこそが「クレオール」の人種意識(racialism)に無自覚な人物と映る。シンはジェイムズがトリニダードの人種融和のモデルとして「インド系の女の子とクレオールの男の子」の交際や結婚に言及していることを挙げ,この表現に強い怒りを隠さない(Singh 1965)。それは現在盛んに論じられている「クレオール化」の過程が,その言語学的に純化されたモデルを取り払って見るならば,まさしく男性的な支配をめぐるプロセスにほかならない可能性を思い起こさせるに十分だろう。ここでの関心は,それを「混血化」のメタファーの側面において見てゆくことである。

  「混血文化」がもつ可能性と,その「混血」を生み出してきた歴史的暴力とを,同じ「礼賛」の言葉で語ることはできない。ここで問われていることは,その二つをいかにしてひとつの語りの中に統合させることができるのか(できないのか)ということだ。その二つを同時に証言する語り口というものがありうるとしたら,それはいかにして可能なのだろうか。

  本稿でとりあげるエリック・ウィリアムズもまた,一人の混血の「クレオール」の例として登場する。『資本主義と奴隷制』(Williams 1944)や『コロンブスからカストロまで』(Williams 1970)の著者として知られ,トリニダード・トバゴを独立に導いたこの「国民の父」は,「フレンチ・クレオール」(1)の母と「アフロ・クレオール」の父をもち,その父方にはカリブ・インディアンの血も混じっていたという。こうしたウィリアムズの背景は,トリニダード国民の歴史を象徴するものだと述べている本もある(Besson and Brereton 1992: 421)。以下に述べるのは,このクレオールの「国民の父」が,植民地主義・人種主義との闘いの中から,多民族・多人種の調和(harmony)からなる新たな国民を生み出してゆく,その物語のひとつの解釈である。


2.植民地人のアンビヴァレンス

  エリック・ウィリアムズは1911年,トリニダード島のポート・オブ・スペインに生まれた。アフロ・クレオールの下層中産階級の家庭の,11人きょうだいの長男だった。学業とりわけ語学に優れ,全島でただ1人に与えられる奨学金を得て,トリニダードの教師になる夢をもってオクスフォード大学へと渡る。オクスフォードでもきわめて優秀で,卒業後はチューターらの薦めでフェローシップへの道を目指すことになる。だがこの計画はまもなく挫かれることとなった。彼は自伝でこの経験を,黒人への「人種偏見」と書いている(Williams 1969: 46)。それまでの「よき植民地人」の物語に,「人種」という言葉が決定的に刻印される瞬間である。

  この「人種」の壁を経験したことは,ウィリアムズの西インド史,カリブ史研究への転身を決定的なものにした。C.L.R.ジェイムズの『ブラック・ジャコバン』を除けば,1930年代の末に,西インド人によるカリブ史研究と呼べそうなものはいまだ見当たらなかった。ウィリアムズはまず,イギリス帝国史の中の不毛な周縁的なテーマという位置づけと闘わなければならなかった。その成果が,イギリス資本主義の成立に西インドの奴隷制がいかに大きく関わっていたかを論証した,〈ウィリアムズ・テーゼ〉として知られる博士論文「西インド奴隷貿易および奴隷制廃止の経済的側面」であった。この論文はのちにアメリカ合州国で『資本主義と奴隷制』へと拡大されて出版され,絶賛と論争とを呼び起こす。同時にウィリアムズは政治的にも西インド問題のチャンピオンとして幅広く活躍しはじめ,その経験がのちのトリニダード・トバゴの首相としての多方面な活動の基盤となった。

  植民地主義は国民主義の語りをもつ。したがって植民地主義批判は,同時に国民主義批判の質をもたなければならない。国民主義をもって植民地主義を批判することは,しばしば一種の道徳的ジレンマを招くことになる。植民地出身の「ナショナリスト」としてイギリス植民地主義を執拗に批判したウィリアムズは,本国人ナショナリズムのもっとも激しい敵対者になりえたのと同時に,その批判の中で,つねにこうしたジレンマにさらされてもいた。独立国の首相となった彼が『英国の歴史家たちと西インド』で「歴史の分野はナショナリズムの政治学が帝国主義の政治学と闘っている戦場である」(Williams 1964: 374)と書いたことは,このジレンマの表われと見ることもできる。だがここで「ナショナリズム」と闘っているのが「植民地主義」ではなく「帝国主義」であることに注意しよう。この闘争は,単純に二つの同じようなナショナリズムのぶつかり合いなのではない。植民地主義が国民主義の語りをもつとすれば,帝国主義は多民族主義の語りをもつ。植民地主義が他の民族性を認めない一国民への「同化」の論理だとしたら,帝国主義は多民族主義を通じて支配する。そう考えておくなら,これが「帝国主義」であるのはおそらく偶然ではないだろう。ウィリアムズが反対していたのは,世界中に散在するイギリス領植民地の諸民族(nations)を,支配的な一国民が恣意的に自らのものにしている論理だったのである。

  この「帝国主義」との闘いは,イギリス植民地主義との闘いとしてはじまった。『英国の歴史家たちと西インド』の苛烈な植民地主義批判の語り口には,「植民地人」としてオクスフォードに学んだ彼の自伝的な要素が含まれている。それは『資本主義と奴隷制』では慎重に抑制されていたものの,当時オクスフォード大学の歴史学教授で植民地問題の権威であったR.クープランドに対するウィリアムズの執拗な攻撃に垣間見ることができるだろう。実際,ウィリアムズの指導教授の一人であったクープランドとの確執を抜きにしては,『資本主義と奴隷制』の後半部にあたる彼の博士論文「西インド奴隷貿易および奴隷制廃止の経済的側面」を理解することは難しい。

  イギリスの反奴隷制運動の英雄として語り継がれるウィルバーフォースの伝記を書いたクープランドは,ウィリアムズがフェロー試験を受けた1935年にトリニダードを訪れ,トリニダード歴史協会――のちにウィリアムズが復興に力を注ぐことになる――で現地の聴衆に向かってこんな講演をしていた。「[西インド諸島について]無知で語るには適切でない一外国人の私の言葉の中に,何かみなさんのお気に障るようなことがありましたらお許し下さい。私はいま自分のいる場所が――国でいえば――西インド諸島のうちのどこなのかさえよくわかっていないのです」。そう断った上で,クープランドは西インド諸島の多様性を褒めたたえ,だがその多様な個性はひとつの共通した背景をもっている,と述べる。

バルバドスもトリニダードも,ともに英国民の一部なのです。ある性格からなる共同体,ある関心からなる共同体,それが私たちが国民性(nationality)と呼ぶ,あのいくぶん曖昧で不明確な概念を創り上げているものにはあって,そういうものがこの偉大なカリブ地域にはある,と思わずにいられないのです。(Williams 1964: 206)

  はじめて西インド諸島を訪れた植民地史の専門家の目に映った西インドの共通性とは,このようなものだった。これはいわば,本国人が与える植民地の「アイデンティティ」である。ある性格からなる共同体,ある関心からなる共同体,多様性をもったひとつの国民,というこの概念は,だがのちにウィリアムズの西インド・ナショナリズムが目指すことになるものと,ひどく似通っていないだろうか?

  ウィリアムズが彼のカリブ連邦の構想を打ち出した『カリブ海の黒人』(Williams 1942)では,カリブの歴史的アイデンティティは次のように述べられている。

同じ呪縛――砂糖――を負っているために,それぞれが異なった[カリブの]諸地域のダイナミクスは同じものなのである。いまや二次的な差異よりも,基礎的な同一性(fundamental identities)に,より多くの注意を向けるべき時である。(Williams 1942: 104)

  クープランドが見ようとしたものがイギリス国民を統合する「性格」や「関心」であるとしたら,ウィリアムズが見出さなければならなかったのは,植民地主義によって分断された諸地域が歴史的に被ってきた「同じ呪縛」であった。この〈アイデンティティ〉は,複数形で書かれている。単一のアイデンティティというよりは,それぞれの歴史が基礎的には〈同一の〉ものをもっている,という認識が,ここでの〈カリビアン・アイデンティティ〉なのである。その複数性への歴史家の想像力が,この〈カリビアン・アイデンティティ〉の複数形に微妙に表われている。


3.「人種」と歴史

  『資本主義と奴隷制』のインパクトは,何よりも西インド植民地人によるイギリス帝国史の読み換えのモメントにあったと言える。そしてそれは,本国に留学した植民地人の自伝的経験と切り離せない。フランツ・ファノンが「黒人の生体験」において自らのおかれてきた「歴史性」を見出さざるをえなかったように,ウィリアムズもまた,本国で知った「人種」の壁に突き当たる中で,植民地のおかれてきた歴史を見出していった。ウィリアムズの自伝『内なる渇望――首相の教育』(1969)を読む者は,「よき植民地人」が本国で味わわされた屈辱的な経験の数々に胸を突かれることだろう。

  だがウィリアムズがその植民地史研究の中で探求したものは,「人種」の経験において説明されるものではなかったことに注意しなければならない。むしろその「人種」の論理を解体する普遍的な歴史の語りを見出したことが,彼の画期的な『資本主義と奴隷制』を生むことになった。「イギリス国民史」のマイナーな一分枝でしかなかった植民地の歴史を「西インド人として」読み換える中で,エリック・ウィリアムズはC.L.R.ジェイムズとともに,資本主義近代の世界史を見出していったのである。

  だがそれはいまだ「真正」な「カリブ史」ではなかった。彼が「客体化された」西インドの人々を「歴史の主体として」描こうとしたと考えるなら,それはおそらく性急な見方である。もしも西インドの人々を「歴史の主体」として描こうとしたのだとしたら,『資本主義と奴隷制』の第12章こそがそれにあたるだろう。「〈実業界〉と奴隷制」「〈聖人〉と奴隷制」のあとに続けて「奴隷と奴隷制」と題されたこの章で,ウィリアムズはカリブ植民地の奴隷自らが奴隷制からの自由と解放のために闘ってきたことを強調し,イギリス人の反奴隷制運動ではなく,奴隷たちの叛乱が奴隷制を終わらせる決定的な要因となったことを跡づけていた。だがこの章は,経済決定論的な色彩の強いこの本の他の章で論じられている内容とは,明らかに齟齬をきたしている。実際この第12章は,出版直前に(ページ打ちまで終わっていた段階で)急いでつけ加えられたものだった。出版社に宛てた手紙で,ウィリアムズはその事情を説明している(Palmer 1994)。

原稿を読み返していて突然気がついたのは,私が2世紀間以上にわたるこの問題のあらゆる側面を扱っていながら,その対象とされその運動の基盤となった人々のことにだけは触れないでいた,ということです。ということは私は,私の書いた歴史が古いスタイルで,まったく上からの視点にべったりのものだ,とさんざん批判されるところだったわけです。第12章を読めば,この批判はできなくなります。

  ウィリアムズはこの時まで奴隷叛乱を描くことをためらっていた。英国各地の文書館を訪ねて収集した手書き文書からの資料をファイルして持ちながら,彼はなぜかそれに着手することができずにいたのである。ある意味では,ウィリアムズはその厳格な実証史家としてのキャリアを通じて,最後まで奴隷たちの歴史的経験をその「内部」の声にしたがって描くことができなかったと言える。だがそれは書かれなかったがゆえに,かえって分節化されないまま彼の内面において生き続け,時として激しい感情の爆発を伴って噴出するようなものとなるだろう。それはいわば,奴隷たちの集合的な経験が,彼自身の自伝的な経験に徐々に折り重なってきてしまうような,〈記憶〉の領域においてである。

  政治家ウィリアムズおよび彼の政党PNMがトリニダードの政治史にもたらしたものをめぐっては,相反する意見がある。一方ではPNMが強調した「人種調和」(racial harmony)を高く評価する声が聞かれる反面,全く逆に,ウィリアムズの登場が「人種」間の緊張を高めたというのも政治史における定説である。トリニダードの政治に登場したこのオクスフォードの博士のインパクトは,何よりも政治に学問を,とりわけ歴史を持ち込んだことだったと言える。R.デオサランはそれを「バトラー[=1930年代の労働運動の指導者]は聖書を,ウィリアムズは『資本主義と奴隷制』をもたらした」と書いている(Deosaran 1981: 15)。彼の主著『資本主義と奴隷制』は,アフリカ黒人が奴隷にされたのは黒人であったがゆえではなく,たんにほかの集団に較べて経済効率が良かったからにすぎないのだと説いた。黒人奴隷制は人種的な理由によってではなく純粋に経済的な利害から起こったのであって,人種偏見はこの利害を正当化したものにすぎない,とウィリアムズは明確に述べた。それは人種的ステレオタイプにとじこめられ,劣等感に苦しむアフリカ系の人々にとっては,まぎれもない解放の言葉だった。

  この〈ウィリアムズ・テーゼ〉を理解することは,今日では――それが書かれた1944年当時に較べれば――はるかにたやすいだろう。だから逆に,それが当時いかに熱狂的に迎えられたかを想像することは,今日では難しいほどである。それはいわゆる(本質主義に対する)構成主義の歴史観に道を開く立場であった。そこには同時に,黒人に対する人種偏見を生んだものは資本主義の経済的利害にすぎないとしても,人種偏見はこの利害が忘れ去られたのちにも――むしろそれゆえにいっそう――害毒を流し続けるのだ,とも述べられていた(Williams 1944: 211-2=1968: 238)。したがってこの利害を明らかにすることによって人種偏見と闘うことは,実証的な歴史家のつとめとなる。

  それはこうしたイデオロギーが経済的下部構造を必ずしもつねに「反映」するものではなく,いったん産出されたのちには,それ自身を正当化する一種の自閉的な運動をもつ,ということの指摘ではなかっただろうか。この〈テーゼ〉が実はC.L.R.ジェイムズの手になるものだったことは,すでに知られている。だがウィリアムズにおいてはこの〈テーゼ〉は,いかなる観念も,それを生み出した「経済諸力」から説明されなければならない,という経済決定論の方に傾くことになる。

  ところでこの論証の過程で,ウィリアムズは微妙に強調点を変えている。経済効率の点から見て,当時アフリカ人を労働者として用いることがもっとも合理的だった,という説明の中で,ウィリアムズは労働者としてのアフリカ人(男性)の優秀さを強調しているように見えるのである。「黒人奴隷は『西洋の力であり,筋肉であった』」(Williams 1944: 30=1968: 40)という印象的な言葉は,イギリス資本主義を可能にし,支えつづけてきたのは我々黒人なのだ,という人種的な誇りを呼び覚ましてもおかしくはないものだろう。

  だがいうまでもなく,イギリス資本主義に工業化のための本源的蓄積を可能にしたのは,黒人の「筋肉」よりも,それを世界市場に結びつけた奴隷貿易や「三角貿易」であった。新たに編成されつつあった資本は,安価で有用な労働力であれば,それが黒人であろうが白人であろうがおかまいなしに収奪した,とウィリアムズは論じていたはずだ。そこでは黒人の「筋肉」は強調される余地はないか,あるいは強調されるとしたら,黒人奴隷制を正当化するイデオロギーに近いものになるはずだ。

  それでも上の言い方に真実があるとしたら,それは我々の労働こそがイギリス人を支えている,という植民地住民の〈実感〉においてではなかったろうか。けれどもその植民地を支える農業労働の担い手は,『資本主義と奴隷制』が刊行された1944年当時のトリニダードでは,アフリカ系ではなくインド系であった。かれらは19世紀の黒人奴隷制の廃止によって危機に陥ったトリニダードの農業経済を「救った」のは,自分たちの祖先だと理解していた。それがトリニダードにおけるかれらの政治的自信にもつながり,1930年代の労働運動の中でアフリカ系の石油労働者との連帯も徐々に実現していたのである。(2)

  19世紀半ばにはじまる,インド系移民をはじめとする年季奉公制(indentureship)もまた,実質的には奴隷制と変わらないほど苛酷なものであった。けれどもこれらの移民は,少なくとも奴隷ではなかった。そのことは消極的な形で,これら苛酷な状況におかれたインド系の人々の〈プライド〉を支えるものとなる。かれらの伝統への固執や,アーリア系の「起源」への誇り,アフリカ系の人々に対する人種的偏見の強さなどが言われる時,理解しなければならないのはこのことである。

  インド系の人々の「起源」への固執はたしかに強い。だがそれは,かれらもまた起源から切り離された人々だからである。インド独立の後,インド政府の使節が世界各地に離散したインド系コミュニティを歴訪し,現地にとどまることを説いたことは,いつか帰郷できる望みを捨ててはいなかったこれらの人々に計り知れない衝撃を与えていた。「祖国」の独立と同時に,かれらは祖国を失ったのである。

  自分たちが「起源」からすでに追放されてしまっていること。このことは多くのインド系の人々にとって――とりわけ知識人にとって――できれば触れたくない重い事実でありつづけた。歴史家はむろん,この傷に触れることをためらってはならないだろう。ウィリアムズはこの点でもきわめて公正で「客観的」である。奴隷貿易・奴隷制に対するのと同様,彼はインド系をはじめとする契約移民=年季奉公制に対しても,経済的観点からその不合理性を容赦なく批判する。だがウィリアムズの経済史の語りは,年季奉公制が「その非効率で悪名高」く,西インドの「経済発展を阻害した」のであって,「インド人の移民は必要だったのだろうか」とさえ述べていた(Williams 1962: 108f)。「黒人奴隷は『西洋の力であり,筋肉であった』」という言葉と較べてみるとき,その違いはいかにも印象的である。


4.国民の記憶

  1962年8月31日のトリニダード・トバゴ独立の日に合わせて,ウィリアムズは約1ヶ月で『トリニダード・トバゴ国民の歴史』を書きあげた。「私はこの国が,自らの歴史をもつことなく独立を達成することを許してもいいものだろうか。もしその歴史が必要だとしたら――それも急いで――ただ私ひとりがそれを書けるのだ」(Williams 1969: 327)と「博士」はいう。このはじめて書かれたトリニダード・トバゴの通史は「我々の祖先アメリカ・インディアン」から説き起こされ,続いてヨーロッパ人(スペイン人,フランス人,イギリス人)移民,そして奴隷制や年季奉公制を通じてこの島に移住した諸集団の歴史がひとつひとつ順番に述べられてゆく。この本を読む者を印象づけるのは,この地の歴史を形作ってきた諸集団をできるかぎり公平に扱い,ひとつも見落すことなく記述しようとする,真摯で厳格な歴史家の意志である。

  こうして独立までの歴史を一冊で語ったこの本の最後の章に書かれるのは,新しい「国民」の自覚であり,高らかな独立の宣言である。そこにはもはや母なるインドも,母なるアフリカも,母なるイングランドも,母なる中国,シリア,レバノンももはやない,

ひとつの国民(nation)は,一人の個人と同じく,ひとつの母をしか持ちえない。我々が認める唯一の母は,母なるトリニダード・トバゴである。母はその子らを差別することはありえない。すべての子はそこでは平等なのである。いかなる外国の干渉も,我々家族の中では,家族のいさかいにおいても,許されはしない。それがどんな貢献を,いつ,その民にもたらしていようが,[もはや許されない。なぜなら]その民は今日では,トリニダード・トバゴの国民(people)なのである。(Williams 1962: 279)

  こうして異質な諸集団の歴史は,ひとつの「母」の表象に包摂される。それはこれまで顧みられることなく,語られることもなかった「母」だ。征服され,植民地化された「母」。けれども多くの子供たちを迎え入れ,平等に愛情を注ぎながら,我慢強く育ててきた「母」。我々の唯一の「母」。

  それは同時にきわめて精神主義的なものをもっている。さまざまに異なる背景を持った子供たちがひとつの家族となるために必要なものは,血の混血ではない。子供たちにどんな血が流れていようと,母なるトリニダード・トバゴはそれを気にやんだりはしないだろう。子供たちはその出自がどうであろうと,この母に抱かれ,母の物語の一部となることができる。そうすることで,子供たちはいまや新しい精神の混血児たちとなる。精神的な混血によって結ばれた家族が,新たな「国民」なのである。

  トリニダード・トバゴの独立の標語は,「ともに願い,ともに達成」(Together we aspire, together we achieve)である。エリック・ウィリアムズの『国民の歴史』はその歴史的な解説として,多様な集団が「ともに苦しんだ」(together we have suffered)ことを教えようとしていた。問題は,彼の経済史において,その共通の苦難の語りが一元化されてしまったことである。それは植民地主義によって断片化されたカリブの歴史に「ワンネス」を見出すものではあっても,その歴史への関わり方の多様さ,その「ワンネス」が生きられる多様さを汲みつくすことはできない。というより,それを汲みつくそうとすることがかえってこの一元性を強化するような,そうした語りの機制をウィリアムズは生み出したといえる。それがウィリアムズの反植民地主義=ナショナリズムの語りであった。


5.「混血」表象の批判に向けて

  ウィリアムズは彼の経済史記述において,一方では「人種」言説を解体しつつ,他方では,書かれもせず語られてもいない領域での「人種」の経験の記憶を,まさしく政治的な賭け金としていた。その二つの間には鋭い緊張がある。彼のあらゆる政治的レトリックを特徴づけている(ポスト)コロニアルなアンビヴァレンスは,まさにそこに由来するものである。このアンビヴァレンスは,はたして新たな国民の語り口において解消されたのだろうか?

  トリニダードのように多人種の「調和」をモットーとする社会では,「人種」への露骨な言及は――少なくとも公的には――忌避される傾向にある。だがそのことは,人種言説が機能しないことを意味しない。「調和」が唱えられる社会では互いの「文化」を尊重することが最低限の合意であり,逆にそうした「文化」として語られる人種主義言説も,互いを尊重し合う中で温存される。むしろ,「人種」を一元的に解体しようとする言説が「マイノリティ」を圧殺してゆくことへの警戒が,そこでの合意事項のひとつであるとも言える。したがって公的な場所では人種関係の良好さを語り,またそのようにリベラルに振舞っていても,そうした努力自体が人種言説への深いコミットメントであることを人々は知っている。そこでこの苛立たしいコミットメントを一時的に忘れさせてくれるものこそが,「混血」の言説にほかならない。

  「混血」は「純血」の論理を混乱させる。より積極的には,誰の血が入っているかがもはや問題にならないまでに複雑な,不透明な存在になることによって,血の論理を無意味化してゆく。「何が何だかわからないほど混ざり合っているのを本当のトリニダーディアンっていうんだよ」(柴田 1993)という表明がその典型だろう。こうして人は純血の論理に縛られることなく,それを超えて,様々な血の混ざり合った新たな存在――トリニダーディアン――になる。それは「本当のトリニダーディアン」という,新たな「真正」性の誕生でもある。

  鈴木茂は,ブラジルでくり返し唱えられてきた「人種民主主義」や「混血」の主張が「なぜかくも魅力的なのか」と問いつつ,それが「国民化」の議論と密接に関わっていることを論じている。「人種民主主義」や「混血」の賞揚は,とりわけ20世紀には強力な権威主義政権のもとで推し進められた国民統合の時期に登場してきている。問題は,この混血の「国民」が新たに混血「人種」として表象されることである。「混血」の賞揚は人種言説を無化するどころか,それを新たに構築し,一枚岩的に強化するものにもなりうるのである(鈴木 1997)。

  ラテンアメリカのいくつもの国が,その「国民性」の基礎を混血性におきながら,先住民を周縁化し抑圧している。いわば「混血人種」たる国民から排除される"原-人種"としての先住民がいるのである。かれらが「居留地」に囲い込まれていることは,実は混血性を賞揚する政策的宣伝と表裏一体なのではないかと疑ってみることには,充分な根拠があるだろう。

  こうして見るとき,「純血」対「混血」の対立には,どのような根拠があるのだろうか? この対立そのものが,実はしばしば「純血」性の主張に帰せられる暴力を隠しもっているのではないだろうか? 「混血」とは実のところ,それに先立って「純血」が存在していたという想像の機制にほかならないのではないだろうか? それがなお「純血」を想定している,と言いたいのではない。そうではなく,この進化論的な機制が,自らの混血の論理に従わないものを「純粋」なものへと構築して排除しようとすることが問題なのだ。

  「人種」言説の解体と「人種」の記憶の二つの側面はいつでも,さらに抑圧的なかたちで結びつきうる。「人種」や,時には民族の「純血」性の主張をも一元的に解体しようとするのではなく,「人種」であれ「民族」であれ「文化」であれ,そこにおいて生きられてきた歴史的な経験が多様な振幅をもつことに気づかなければならない。「クレオール」をめぐる議論から,私たちが学びはじめているのはそのことなのである。それは「純血」の形而上学への批判であるのと同じだけ「混血」の表象への批判でもありうるし,またそうでなければならないだろう。クレオール文学が提起している多様性とは,「混血」を「純血」と対立させ,「混血」を優位に置くような思考とは徹底的に異なる,歴史的想像力の質の問題である。そのことを忘れるなら,「クレオール」もまた――酒井直樹(1997)の言い方を借りれば――「反復であることをやめ表象になってしまう」のである。

  エリック・ウィリアムズは「共通の苦難」を参照することで,ひとつの未来を想像しようとした。そのプロジェクトが彼の「ナショナリズム」だったのであり,それは彼のみならず,多くの新生国家の指導者たちが目指したことであっただろう。だがその未来はひとつの国民としての未来であり,それ以外の未来はそこでは想像できない。それらを想像するための記憶もまた,そこではひとつの国民としての過去――実証史家のための公文書館――の中に閉じ込められてしまった。そうだとしたら,私たちに必要なことは,『クレオールとは何か』の著者たちがしたように,彼が飽くなき情熱で収集した膨大な記録のエクリチュールの中に,ふたたび肉と心臓の響きを聞き分けてゆくことである。


註:

  1. トリニダードの「クレオール」にはフランス領起源のものが多いが,ここでの「フレンチ・クレオール」は広義には「白人」を指す。[back]
  2. これが第二次大戦後のトリニダードの自治=独立運動の基盤となった。[back]


主要参考文献:
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――――([1964] 1966) British Historians and the West Indies, Andre Deutsch. =田中浩訳(1979)『帝国主義と知識人』岩波書店。
――――(1969) Inward Hunger: The Education of a Prime Minister, Andre Deutsch.
Cudjoe, Selwyn R. (ed) (1993) Eric E. Williams Speaks: Essays on Colonialism and Independence, Calaloux Publications.



初出:複数文化研究会(編)『〈複数文化〉のために――ポストコロニアリズムと
クレオール性の現在』人文書院,1998年,pp. 267-81.



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