ジャメイカ・キンケイド
『川底に』管啓次郎訳 平凡社
『小さな場所』旦敬介訳 平凡社
ジャメイカ・キンケイドの自伝的な長篇小説『アニー・ジョン』,『ルーシー』(ともに風呂本惇子訳,學藝書林)に続いて,短篇集『川底に』とエッセイ『小さな場所』の日本語訳が出た。キンケイドはトニ・モリソンと並んでアメリカでもっとも熱心に読まれ論じられている作家のひとりである。英領カリブのアンティーガ島に生まれ,アメリカ合州国に渡って英語で書きはじめた彼女の作品はどれも自伝的であるが,それはキンケイドが本質的にマイナーな作家であることの証だろう。そのいわば中心をなすのが,母と娘の深い愛憎の絆である。少女の目にはほとんど万能の存在に見える若く美しい母,娘を完璧な「レディ」にしつけるべくその一挙一動に目を光らせる厳しい母は,娘の心の中で,愛と崇敬の対象から苛立たしい植民地的存在へと揺れ動く。愛が深ければ深いほど,憎悪もまた深い。
アフリカ系のオビア信仰に包まれた,ため息の出るほど美しいアンティーガの生活に永遠に別れを告げるべく,『アニー・ジョン』の主人公はイギリスに向かう船に乗る。だがそのアニーの姿は実は,ドミニカからアンティーガに渡ってきたキンケイドの母の姿と重なってしまう。「わたし」は船に乗り,眠り,目覚めて目的地の島につくと,わたしとそっくりの足のかたちをした女に出会う。それはなぜか母だ。並んで歩いてゆくにつれ,母とわたしはひとつになる。「そのときわたしには何という平安が訪れたことでしょう。なぜならもうわたしには,どこで母が終わり私がはじまるのか,あるいはどこでわたしが終わり母がはじまるのか,わからなかったからです」(「母」)。ちなみにアニーとは,キンケイドの母の名でもある。
キンケイドの最初の短篇集『川底に』(1983)に凝縮しているのは,こうした謎のようなイメージの奔流である。作家キンケイドの謎が少女期の幻想の混沌のままに綴られ,読者を夢のような時間の渦巻きに引き込んでゆく。
『川底に』が『アニー・ジョン』の誕生の秘密を教える小品だとすれば,『小さな場所』(1988)は『ルーシー』のそれに当たると言える。アメリカで知った屈折や幻滅,捨ててきた故郷への言うに言われぬ思いは,『ニューヨーカー』誌に連載されたこのエッセイにおいて,観光客向けのガイド・ブックの体裁をとって書かれている。観光客の「あなた」は,美しすぎるほど美しいアンティーガの海をホテルの窓から眺めて驚嘆する。その時あなたは,自分がさっき流したトイレの水がどこに行くのか,考えてみようとはしない。この島にはちゃんとした下水処理施設がないことを,思ってもみないだろう。でも大丈夫,「カリブ海はとても大きいのだし,大西洋はなおさら大きい。この大きな海が飲み込んだ黒人奴隷の数の多さを知ったら,あなたですら驚くにちがいない」。
どのようにしてもとりかえしのつかないことへの怒り。だがそれは過剰開発国の人々にだけ向けられるものではない。この本にかつての支配者への怨嗟だけを聞こうとするなら,一九八一年に独立し,政治史的な意味での〈ポストコロニアル〉を生きるこの「小さな場所」の絶望は,やはり見えないままだろう。開発援助と癒着した政府の腐敗,巨大犯罪組織の横行,根深い政治家不信と独裁への恐怖,それらを当たり前に受けいれてゆく,人々の無関心……。キンケイドはさらりとした語り口で,しかも容赦なく語ってゆく。
マイナーな作家においては個人的なことが政治的であり,同時に,個人的なことが歴史的である。『川底に』の幻想的で詩的な心象風景が難解に思えるとしたら,それは彼女の文章が一瞬ごとに驚くような変化を見せる,そのはげしさによるものだろう。それはまぎれもなく西インド的なものだ。資本主義的近代の破壊をもっとも深く経験し,不断の変化に晒され続けてきた西インドでは,ものごとはたちまちその意味を変える。一見平穏な生活の中にも無数の事件が生起し,喜怒哀楽がめまぐるしく入れ替わり,多くの感情がぶつかり合って揺れ動いている。それが「小さな場所」なのだ。
初出:『ラティーナ』1997年8月号,p. 67
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