C.L.R.ジェイムズ――カリブの父

浜 邦彦



トーマス・マンとC.L.R.ジェイムズには,同じところがひとつある。80歳の誕生日にトムは言った。「私は老いてますます危険になりたい」。C.L.R.は,同じことを考えてきたというわけだ。まったく並外れた男だ! 彼が言ったこと,やったことのすべてに同意するかどうかはともかく,そのどれもが,独創的で,柔軟で,鋭敏で,深い文化的教養をもった知性の跡をとどめている。その知性はいつでも,彼の温かく積極的な人柄にふさわしいものだった。彼は厳格な教義ではなく,いつでも喜びと好奇心をもって,人々の生活を表わすものすべてを見ていた。これはアメリカの理論家には分かってもらえないかもしれないが,すべての鍵は彼独自の,クリケットのゲームを観る眼にある。
(「80歳のC.L.R.ジェイムズ」)

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     英国カルチュラル・スタディーズの「創設の父」のひとりと言われるE.P.トムソンが,この短いオマージュを捧げるシリル・ライオネル・ロバート・ジェイムズ(Cyril Lionel Robert James, 1901-1989)は,トリニダードが生んだ20世紀のもっともユニークな思想家のひとりだ。イギリスを中心に,アメリカ,カリブを横断する彼の活動と仕事は,呆れるほど多岐にわたる。彼が及ぼした影響はちょっと書ききれない。とにかく,めちゃくちゃ影響を及ぼした。

     C.L.R.は革命家である。マルクスとレーニンの忠実な弟子であり,20世紀のほとんどを生きて,時代の徴候に目をこらしつづけた反骨の人である。その彼の風貌は,むしろ芸術家に近い。日常的な実践の中に,歴史を動かすアート(技芸)の力を敏感に探った。いまなら文化批評と呼ばれるだろうことは,ぜんぶ自分でやってしまった。文学批評,スポーツ批評,音楽批評,映画批評,美術批評だけでなく,ミステリーやマンガやテレビドラマにも詳しかった。

     C.L.R.は交流の人である。彼の交友の範囲を辿ると,ほとんど英米のラディカルな知識人の人名録ができてしまう。フレンドリーなだけでなく,何か忘れがたい印象を残す人だったらしい。C.L.R.は雄弁家だった。ハンサムでスポーツマンでダンディで,演説の時は舞台の俳優みたいに見えた。いつでも顎を高く上げて,落ち着き払って,やたらクールな人だった。

     C.L.R.を敬愛する人々は,いまでも彼を「ネロ」と呼ぶ。C.L.R.がトリニダードの子供時代から呼ばれた愛称だ。ネロはトリニダードのトゥナプーナに眠っている。幼少時代,年の半分を過ごした町だ。ネロの墓には名作『境界線を超えて』(1963)の一節が刻まれ,「文人」の名が捧げられている。その近くにはグラウンドがあって,グラウンドではよくクリケットの練習や試合が行われていた。ゲームのたびに立てられる三柱門――野球でいえばホームベース……ともちょっと違うが――の位置のちょうど真後ろには,ネロが育った家があって,その家の窓から,6歳の男の子が椅子の上に乗っかって,熱心にゲームを見つめていた。今世紀はじめの頃だ。

     男の子が椅子から窓枠によじ登って手を延ばせば,タンスの上に積まれた本に手が届いた。本には恵まれていた。母親はたいへんな読書好きで,あらゆる種類の小説を読んだ。お洒落で美しい彼女は背筋をしゃんと伸ばして座り,本を高く掲げて,そのままの姿勢で夜遅くまで読みふけった。その傍らにネロが床に寝そべって,彼女が読み終わった本を取り上げては,同じように読みふけった。こんな光景は,植民地の家庭ではめったに見られるものではない。

     英領植民地の驚くような貧困の中にありながら,黒人中産層としての社会的威信を落とすまいとする教師の家庭に生まれて,この恵まれた少年は,やがて奨学金を得て名門校クィーンズ・ロイヤル・コレッジに進む。活発で曲ったことが嫌いな男の子だったネロは,トリニダードの伝説的な秀才だった。けれども名声には無関心だった。周囲のあらゆるものを,どこか窓から見つめているような感じだった。ネロはクリケットに熱中し,サッカレーの『虚栄の市』に熱中し,クリケットにサッカレーを読み,サッカレーにクリケットを楽しんだ。それはネロの世界だった。

     おそらくステュアート・ホールの紹介するこんなエピソードほどに,のちのジェイムズの知的な容貌をよく伝えるものはないだろう。

私はあるときジェイムズに,ひとりの芸術家の作品で,歴史上の革命的モメントをすべて宿しているようなものを,三つ挙げてほしいと頼んだ。彼はギリシャのアクロポリス(野外劇場)を挙げた――その建築家は分かっていないのだが。それからシェイクスピアと,ピカソの「ゲルニカ」を挙げた。「ピカソをごらん。『ゲルニカ』をごらん。素晴らしい絵だ。何を描いた絵か。スペインの人々だよ。スペイン革命のエネルギーだよ。『ゲルニカ』を見ると,スペイン革命の動きのすべて,渦巻きのすべてが,美的なかたちに込められていることが分かるだろう」。ジェイムズはクリケットの試合に「ゲルニカ」の絵葉書を持っていって,ゲームが一段落すると,それをとり出して研究していた。ゲームが始まると,彼はそれをしまった。
(「C.L.R. ジェイムズの肖像」)

クリケット,英文学,ギリシャ。それは「英国人たれ」(Be British !)を合言葉とする植民地教育の精髄だ。自分自身のことも,生まれ育った社会のことも何ひとつ知らなくても,本国の〈文化〉への尊敬を身につけていなければならない,それが植民地である。粗野な植民地の住民に,洗練された英国的な楽しみと「フェア・プレイ」のマナーを教える,それがクリケットの「文明化の使命」だった。だが植民地の有色人にとって,クリケットはかれらを見下す特権層の白人と対等に勝負し,やっつけることが公然と認められる機会でもあった。英国紳士たるにふさわしい教養とスポーツマンシップを教え込まれたネロは,それらを植民地に実現されるべき「フェア・プレイ」に読みかえてしまう。「かれ自らのアイデンティティを確立するために,3世紀後のキャリバンは,シーザーも決して知らなかった世界を,自らきり開かねばならないのである」(『境界線を超えて』)。

     ヴィクトリア朝的教養をたっぷり吸収して育った植民地のエリート青年にとって,政治への関心は遅れて徐々にやってきた。C.L.R.は母校を卒業したのちそこで教鞭をとりながら,当時のトリニダードに興りつつあった文学運動に次第に関わりはじめ,人々の生活に目を開かれていく。この時期,第一次大戦後のトリニダードは,欧州戦線からの有色人帰還兵を率いたA.シプリアーニを中心に,初期の労働運動が高揚していた。野心的なジェイムズはやがてシプリアーニの事務局員として働き,のちにその伝記を出版することになる。また当時の文学運動のリーダーのひとりであったアルバート・ゴメスは,第二次大戦後トリニダードの自治運動を指導する人物であり,その後大衆政党PNM(People's National Movemant)を率いてトリニダード・トバゴを独立(1962年)に導くことになるエリック・ウィリアムズは,当時ジェイムズが母校で教えた生徒であった。C.L.R.はシプリアーニの伝記を出版した1932年に英国に渡り,本格的な著作活動と政治運動に乗り出すことになる。31歳だった。

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    「リトル・モスクワ」と呼ばれたランカシャーの工業都市ネルソンにジェイムズを迎えたのは,友人の優れたクリケット選手,サー・リアリー・コンスタンティンだった。彼は英国のクリケット・リーグ初の黒人選手として熱狂を巻き起こし,西インド諸島のクリケットと英国の〈黒人意識〉に大きなインパクトを与えたヒーロー――あるいは「ナショナル・ヒーロー」――だった。一般にポピュラーなスポーツは,もっとも頻繁に「カルチャー・ショック」を経験させる。巨人軍でクロマティーが活躍していた頃,僕の弟は「黒魔帝」なんて書かれたTシャツを着ていたが,それはまあどうでもいい。クリケットは大英帝国各地で盛んな大衆スポーツであり,それゆえ西インド・チームの英国での活躍は,それ自体きわめて重要な文化・政治運動となる。それを誰よりよく知っていたコンスタンティンは,西インド諸島・クリケットが生んだ象徴的な政治家だった。彼の『クリケットと私』(1933)は,ジェイムズの手を借りた西インド諸島の文化的マニフェストである。ジェイムズは彼を通じて,クリケット記者として英国ジャーナリズムに迎えられる。むろん,まだテレビのない時代のことである。

     世界恐慌期のネルソンで,ジェイムズはトロツキーの『ロシア革命史』を読み,マルクス主義を学んだ。クリケット記者の仕事のかたわら,彼はロンドンを拠点に独立労働党(ILP)の有力メンバーとして活躍する。『経済学・哲学草稿』の「若きマルクス」を英語圏に紹介し,スターリン批判の伝記(ボリス・スヴァーリン『スターリン――ボルシェヴィキ党概史』上・下,江原順訳,教育社,1989年)を翻訳したのも彼だった。1930-40年代の英国では,ジェイムズはスターリン批判のバイブルとも言われた『世界革命 1917-1936』(1937.,対馬忠行・塚本圭訳,風媒社,1971年)によって知られたトロツキストだった。そしていっそう重要なのは,彼のパン・アフリカニズムとの関わりである。

    「植民地」はメトロポリスで生まれる,とすれば,植民地の運動はメトロポリスで交差し節合される。「ポスト・コロニアル」を植民地支配〈以後〉の秩序を生み出す運動と解するなら,1930年代のロンドンこそはまさにそうした運動の舞台だった。ジェイムズはジョージ・パドモアの名声を聞いていた。パドモアはコミンテルンの活動家として知られていたが,人民戦線期のコミンテルンが黒人労働運動から手を引いたことを契機に絶縁し,パン・アフリカニズムに傾斜していた。出会ってみると,驚いたことに,パドモアは実はトリニダードの旧友だった。「やあ,マルコム」「おお元気か」。

     1935年10月,イタリアはアビシニア(エチオピア)を侵略する。アフリカ独立のシンボルであるエチオピアへのファシズム国家による侵略と,それに対する英仏の宥和政策は,帝国主義に反対するアフリカ(系)人の運動を強く節合する決定的な契機となった。パドモアらはロンドンにアビシニア国際アフリカ人友好協会(IAFAS)を設立し,執行委員にはジョモ・ケニヤッタほかアフリカ・カリブの活動家が集まった。ジェイムズは会長を務めた。反ファシズムとアフリカの解放とは矛盾していた。アフリカ大陸の植民地は,ドイツや日本でなくイギリスやフランスのものだった。その上アメリカ合州国はといえば,世界でもっともひどい人種差別の国家だ。ここに20世紀最大の矛盾があった。

     ジェイムズがフランスの文書館を訪ねて集中的に調査し書き上げた名著『ブラック・ジャコバン――トゥサン・ルヴェルチュールとハイチ革命』(1938,青木芳夫監訳,大村書店,1991年)は,こうした背景が生んだ記念碑的な歴史書である。フランス革命期の植民地サン・ドマングの奴隷叛乱を描くジェイムズの躍動感あふれる叙述は,ほとんど彼が現場に居合わせたのではないかと疑わせるほどだ。いや,ひょっとすると居合わせたのかもしれない。ジェイムズはまさに同時代のアフリカ解放の切迫感をもって,ナポレオンの侵略戦争を戦い抜いたこの世界史上初の黒人共和国の誕生を描いているのである。この本の圧倒的な面白さとユニークさは,ぜひ日本語訳を手にとって確かめてほしいが,少なくともフランス革命に関心をもつ人ならこの書物の重要性をただちに認めるだろうし,イギリス資本主義の古典的理解をくつがえしたエリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』(1944,中山毅訳,理論社,1968年)を知る人なら,そのいわゆる「ウィリアムズ・テーゼ」がジェイムズによって与えられたものだったことを完全に理解できるだろう。もっとも〈近代〉にヨーロッパ〈起源〉のものしか探そうとしない人には,この本はせいぜい「もうひとつの」フランス革命でしかないかもしれない。

     マルクス主義の歴史家としてのジェイムズのユニークさは,たとえば次の一節にある。「巨大な精糖工場で数百人が一団となって働き,生活している奴隷たちは,当時のどんな労働者よりもむしろ現代のプロレタリアートに近い存在だった」。しばしばヴードゥー信仰や逃亡奴隷コミュニティのアフリカ的伝統の役割が重視されがちなサン・ドマングの奴隷叛乱に,ジェイムズは近代的な工場労働者の組織化された運動を強調する。プランテーションで奴隷労働を強いられたアフリカ人たちこそ,最初の近代的労働者であった。それゆえ彼(女)らこそが,近代世界の解放の最前線に立つ。カリブの運動の先進性がここにある。ジェイムズは,資本主義的近代をもっとも早く経験したのがカリブであって,カリブ社会の可能性はそこから考えられなければならない,とくり返し強調する。

     むろんジェイムズは,おびただしい血を流してサン・ドマングを焼きつくし,ついには独立直後の白人大虐殺に至った革命の奔流を,全面的に礼賛するのではない。「革命においては,絶え間なく幾世紀を通じてゆるやかに蓄積されたものが,火山のように爆発する」。そうである以上,革命を生み出した諸力こそが冷静に分析され,叙述と総合されねばならない。帝国主義の暴力が奴隷たちの身体に刻みつけたものの制御不能な噴出を,ジェイムズは革命の「悲劇」と見ている。ここにはシェイクスピア悲劇やピカソの『ゲルニカ』に,人間の本性的な葛藤を見るジェイムズがいる。

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     1938年,J.P.キャノンと社会主義労働者党(SWP)に招かれてアメリカ合州国に渡ったジェイムズは,何よりもまず第四インターナショナルの指導的なトロツキストだった。彼は翌年メキシコに亡命中のトロツキーを訪ね,「黒人問題」について議論を交わす。だが合州国の黒人解放闘争を東欧の民族問題になぞらえるトロツキーに,ジェイムズは深刻な懐疑を覚える。多くのカリブ出身者にとってと同様ジェイムズにとっても,アメリカ合州国は人種差別の何であるかを教えていた。彼のトロツキーとの理論的な格闘は,のちに「合州国の黒人問題への革命的回答」(1948)に結実する。

     同じ頃,ヨーロッパではスターリンとヒトラーが手を結び,ナチスはついに戦争を開始する。このことはソヴィエト連邦の性格をめぐって論争がつづいていたSWPに深刻な衝撃を与え,党は分裂する。ジェイムズは脱退した若手の中でもすぐれて理論的なグループに属して,ロシア人理論家ラーヤ・ドゥナイェフスカヤとともにヘーゲル弁証法や『資本論』を研究し(『弁証法ノート』1948),ソ連を「国家資本主義」において理論化する(『国家資本主義と世界革命』1950)。それはソ連の性格論争を超えて,世界資本主義のグローバルな段階を論じるものだった。ジェイムズは「特殊ロシア的」な説明を認めなかった。

    「理論」への深いコミットメントの一方,ジェイムズは合州国各地――とりわけ黒人解放闘争の継続していた南部――を遊説し,数えきれないほど多くの労働者から話を聞いた。オープンで知りたがり屋の彼は,生活の具体的なことがらひとつひとつを熱心に聞き,しばしば細かい質問をしては相手をびっくりさせた。そうした彼の関心は,マンガやギャング映画,ミュージカル・コメディにまで向けられた。これは50年代以降,『コレスポンダンス』誌を発行したジェイムズらのグループの顕著な特徴となる。ジェイムズのエッセンスたる多彩な文化批評が書かれたのもこの頃である(のちにアンナ・グリムショウが編纂した『アメリカ文明』に結実する)。そうした文化批評のハイライトが,メルヴィルの『白鯨』にアメリカの近代と文明を読みとく『船乗り・背教者・亡命者』(1953)である。だがこの作品はなんと,エリス島の移民局に提出された。不法滞在者であったジェイムズは,「反アメリカ的」活動によって追放されかかっていたのである。

     ジェイムズが「ほんとうのアメリカ」を発見し,アメリカのポピュラー文化への独特の視線を培うことになった契機のひとつに,ジェイムズを敬愛する女優コンスタンス・ウェッブとの出会いがある。彼がコンスタンスに書きつづけた山のようなラブレター――分厚い本になった――には,雄弁家らしい闊達な口調に茶目っ気たっぷりの親密さで,少年時代の回想から身辺の事情,周囲の人々のエピソードや裏話だけでなく,映画や文学,さらには革命の展望や世界史私論ともいうべきものまでが,彼の自由な思考の運動のままに綴られている。それらを貫くのは,いわば「アメリカ」に託した一種の自己発見のプロセスである。だがC.L.R.の親密な口調は,時にそれを読む者をひどくアンビヴァレントにする。いささか振りかぶったポーズから,いきなり相手の胸に深くつき刺さるように投げこまれる〈問い〉の重みが,はっきり言ってつらいのだ。やがてC.L.R.と結婚するコンスタンスが,「自分を見つけること」を説く彼の存在の大きさとどれほど格闘し,葛藤したかは想像に余りある。

     おそらくC.L.R.に気心の知れた友人を求める者は,けれども彼の大きな力で突き放されるような感覚を幾度か味わうことになるだろう。あるいはその感覚は,この人の生が孕んでしまう孤独の厳しさのようなものなのかもしれない。1953年,マッカーシズムの吹き荒れるアメリカ合州国から強制送還の憂き目を見たジェイムズは,コンスタンスや息子のノビーとも別れ,生活の不安を抱えてロンドンで失意の日々を送る。英国の政治はジェイムズの不在の間に変わっていた。彼は明らかに孤立していた。バルバドスの作家ジョージ・ラミングは,その頃はじめてロンドンで出会ったC.L.R.の様子を,次のように回想している。「私たちはそれから喫茶店に行った。何も知らなかった私の眼に,彼は流れ者で,やせてか細く映った。彼が何の変哲もないただのコーヒーカップを,両手で持って,口に運ぶことさえできずにいるのに気づいて,私は胸を打たれた」。

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     やがてバンドン会議をはじめ脱植民地化の波は世界的に広がり,故郷カリブでも独立運動が高まるにつれて,ジェイムズは充実した気力を取り戻す。1958年の(英領)西インド諸島連邦の誕生は,〈カリブ〉統一の夢が実現に近づいていることを告げていた。老境を前にしたC.L.R.の故郷への関心は,彼を自伝的クリケット批評『境界線を超えて』(1963)の執筆に向かわせた。スポーツ批評の古典でもあり,第一級のカリブ文学でもあるこの作品で,C.L.R.はクリケットを通じて発見した彼の西インド諸島を,どこかノスタルジックな美しさと,わくわくするような楽しさで描いている。

     クリケットとは何か。ブルデューの「ハビトゥス」概念がサッカーなら,ジェイムズのクリケットの比喩では,はるかに個人に重きが置かれる。クリケットの打者は,打撃においてもチーム・プレーが要求される野球にもまして,個人としてドラマの舞台に置かれる。チーム全体を背負って,敵の投手と一対一で対峙させられる。彼(女)を包囲するように周囲を守る野手たちとの,長く苦しい心理的な駆け引きを強いられる。投手もまた同じである。個人が全体を代表し,個人の技能が,全体の運命を開示する。

     肌の色によって階層化されたクリケット・チームをもつトリニダードのグラウンドで,およそ社会的名声とは無縁な無名の人物がバットを握るや,信じがたい(そして忘れがたい)芸術的スウィングを見せる瞬間を,ジェイムズは永く記憶する。ジェイムズはあらゆる芸術的達成に,それを生んだ無名の人々の,けれども匿名ではない個々人の芸術的実践を見出す。偉大な芸術作品は,そのアレゴリーとして現われるのである。

     カリブの文化的アイデンティティの探求の運動は,そのままジェイムズの個人史でもある。あるいはジェイムズの運動の軌跡が,カリブの歴史のアレゴリーである。『ブラック・ジャコバン』への補論として書かれた彼の最良のカリブ論「トゥサン・ルヴェルチュールからカストロへ」(1961)に現われる人物の多くが,ジェイムズ自身親しく交わり,教え教わりながら運動をともにしてきた人々である。彼は個人の中に歴史を読む。歴史のドラマの配役は交替する。ちょうどクリケットの投手と打者のように。

     1958年,ジェイムズは故郷トリニダードの地に戻り,エリック・ウィリアムズらに招かれる。高揚するトリニダードのナショナリズムが迎えたジェイムズは,『ブラック・ジャコバン』を書いたポピュリストであり,何よりも西インド・ナショナリズムのチャンピオンであった。ジェイムズの英米での活動や影響力はトリニダードでは知られていなかった。というより,マルクス主義者というレッテルだけで充分だった。ジェイムズもそれをよく分かっていた。ジェイムズはPNMの機関誌『ネイション』の編集を任され,連邦労働党の書記長を務める。

     この熱狂的な政治の季節は,だがジェイムズにとって幸福なものではなかった。彼の〈カリブ〉統一の夢は,おそらく大きすぎた。1962年,西インド諸島連邦は分裂し,ジャマイカとトリニダード・トバゴのそれぞれの独立となって終止符を打たれる。理想的なものに思われたウィリアムズとの関係も決裂し,1962年,ジェイムズはトリニダード・トバゴの独立を目前にして英国に去る。あとには,カリプソ論をはじめとする多くの先駆的なカリブ文化批評や政治批評と,実現しなかった大きな夢の断片が残された。

     晩年のジェイムズはロンドンのブリクストン区に住んで,次第に出かけることも少なくなっていった。その一方でジェイムズの評価は,公民権闘争の世代の『ラディカル・アメリカ』誌をはじめ,目立たぬ形ながら確実に始まっていた。この国際的な名士を訪ねて,ブリクストンのアパートメントをおとずれる人はあとを絶たなかった。多くの人が,そこで交わされた貴重な会話の様子を,一種独特の敬愛とともに回想している。むっとするような閉めきった部屋で,老人は山をなす本や雑誌に囲まれてベッドに横たわって,それらをむさぼるように読みふけっていた。音楽やつけっ放しのテレビの音がその部屋を満たしていた。この雑然と居心地のいい空間に,ジェイムズは「世界を再創造していた」と,晩年の彼の秘書を務めたアンナ・グリムショウは言う。ジェイムズを訪ね,あるいは手紙のやりとりで,彼の親しい言葉に励まされ,アドヴァイスを受けつづけた人々の中には,エドワード・サイード,ポール・ギルロイをはじめ,アミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)やアリス・ウォーカーといった合州国の作家,ウィルソン・ハリスやジョージ・ラミングらカリブの作家がすぐに思い浮かぶ。現代カリブの知識人や作家たちにジェイムズが与えた影響を正確に知るのは難しい。C.L.R.はすでにかれら自身の一部でもあるからだ。あるいはそれは,カリブの作家に限ったことではないかもしれない。

     ジェイムズは1989年5月,彼が予言しつづけた革命を見ることなく永眠した。


* C.L.R.の著作は,C.L.R.James, Beyond A Boundary, Durham: Duke University Press, 1983 ほか,リーダーをはじめさまざまなかたちで編集されている。Anna Grimshaw (ed), The C.L.R. James Reader, Oxford, Cambridge M.A.: Blackwell, 1992; C.L.R. James (ed. by Anna Grimshaw and Keith Hart), American Civilization, Oxford, Cambridge M.A.: Blackwell, 1993; C.L.R. James (ed. by Anna Grimshaw), Cricket, London: Allison & Busby, 1989. など。

彼の伝記は, Kent Worcester, C.L.R. James: A Political Biography, New York: State University of New York Press, 1996 が決定版。論文集では,Paget Henry and Paul Bule (eds), C.L.R. James's Caribbean, Durham: Duke University Press, 1992. が重要。Selwyn R. Cudjoe and William E. Cain (eds), C.L.R.James; His Intellectual Legacies, Amherst: University of Massachusettes Press, 1995 は国際シンポジウムの記録。

日本語での紹介は,青木芳夫監訳『ブラック・ジャコバン』(青木芳夫監訳,大村書店,1991年)に詳しい。近藤和彦・野村達朗編訳『歴史家たち』(名古屋大学出版会,1989)には,ポール・ギルロイらによるインタヴューが収められている。また上野俊哉「批判の群島」(『10+1』第4号,1995年),鈴木慎一郎「西インド諸島のクリケット」(『レゲエ・マガジン』第55号,1996年)ほかでも紹介されている。

初出:西谷修ほか『[Djobeurs] カリブ――響き合う多様性』
ディスクユニオン,1996年,pp. 40-47.



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