歴史学的認識の限界
――上村忠男著『歴史家と母たち』を読む――



タイトルからはじめよう.「母たち」とは,ゲーテの『ファウスト』の有名な一シーンで,恐れおののくファウストがメフィストフェレスに導かれてゆく,「そこには場所も時間もない」ような「母たちの国」からとられている.これは現在もっとも注目すべきイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが,その問題作『夜の歴史』(竹山博英訳『闇の歴史』せりか書房,1992年)のエピグラフに掲げたものである.一方,上村忠男はギンズブルグとの批判的対話を試みた本書『歴史家と母たち』の冒頭でこの「母たちの国」に触れながら,場所と時間こそが歴史学が成立するための必要不可欠の条件であると述べている.「歴史家」と「母たちの国」.「と」で無雑作につながれたこの関係は,むろん穏やかなものではあるまい.上村が『夜の歴史』の批判的読解を試みた本書の第1論文「歴史家と母たち」をそのまま本書のタイトルに掲げるとき,それは本書の全体を貫く問題がどこにあるかを予告している.すなわちそれは,歴史学的認識の限界にほかならない.

内容に入る前に,もうひとつ確認しておくべきことがある.歴史学が場所と時間とを前提する学であるとしても,それだけでは歴史学とは言えまい.歴史学の歴史学たるゆえんは,それが何らかのかたちで場所と時間についての生きられた経験を叙述する学であることに求められるだろう.だがここでも,上村はひとつの挑戦をつきつけている.先のエピグラフは,ゲーテの『ファウスト』では次のように続くのである.「その女神たちについては話しようがないのです.それは母たちなんですよ」(傍点浜).「歴史家」ギンズブルグは母たちの「国」に辿りついたことを暗示する.しかし上村は「母たち」をタイトルに掲げる.それは「それについては話しようがない」ものなのである.


形態学と歴史学

『夜の歴史』の刮目すべき特徴は,その大胆な「形態学的」考察である.1965年に発表された『ベナンダンテたち』(上村忠男訳『夜の合戦』みすず書房,1986年)で,イタリアの一地方の16-17世紀の異端裁判の記録に見られる「例外的な豊かさ」を追求したこの「歴史家」は,史料の微細な「ひびわれ,例外」の丹念な読解を通じて,そこに民間信仰の迫害史という事件史的レヴェル(短い持続)には収まりきらない,前キリスト教的農耕祭儀の伝統という人類学的レヴェル(長い持続)を見出したのであった.わたしたちが知っているあのサバト(夜の集会)のステレオタイプは,神学者や審問官と民衆との異なる文化的コンテクストの間の「文化的妥協の産物」なのであるが,その形成史の基底には,ユーラシア大陸一帯のシャーマニズム的儀礼との共通性という,より大きなコンテクストが予感される.こうして「歴史家」はサバトのイメージの「フォークロア的な根源」を探し求めて,敬愛するマルク・ブロックの警告に従って『ベナンダンテたち』では禁欲していた,フレイザー流の「射程の長い比較」へといまや果敢に向かってゆくのである.そしてその過程で,ほとんど歴史的連関を無視した「純粋に形態上の比較」を出発点としながら,それらにあくまでも歴史的な次元での説明を与えることを目標とするのである.

しかしその途上には容易ならぬ困難がいくつも待ち受けている.そもそも「形態学」を「歴史学」に統合することは可能なのだろうか.本書の第1論文「歴史家と母たち」で,上村はそれらの理論上の困難を,文化人類学の議論を精密に用いることで丹念に追ってゆく.「証跡――徴候解読型パラダイムの根源」と題された有名な論考で,微細な徴候を手がかりに姿の見えない獲物を追う「狩人」の知に歴史叙述の根源を見出した「歴史家」ギンズブルグの作業を,今度は上村が周到なリファレンスをもとに追跡してゆくのである.そしてその過程で,上村もまた歴史学的認識をめぐっての彼自身のきわめて重要な疑念の核心を追い詰めてゆく.

『夜の歴史』のように,純粋に形態上の類似から異なる時代・地域間に文化的同型性を,さらには同一性を確定しようとする試みは,ただちに人類学上の古典的といってよいアポリアに遭遇せずにはいないはずである.共時的次元と通時的次元との関係,通時的次元における進化主義と伝播主義…….いまこれらを仮に「人間の本性」か「歴史的起源」か,とまとめておくなら,「歴史家」ギンズブルグが対決しなければならないのは,形態上の類似の間に,それらを生み出した「人間の本性」を怠惰に想定することで「歴史からの逃走」を理論化するような,ユングやエリアーデの「元型」論的解釈なのであった.ギンズブルグはベンヤミンとともに,こうした「元型」論的解釈にファシスト的イデオロギーとの親和性をかぎつける.それは通時的次元においても,進化主義=自立的発展(段階論的)仮説の中に,形を変えて現われるものだろう.

こうして,ギンズブルグに残されるのは伝播主義的な説明のみであるかに見える.だがそれがきわめて巨視的な「射程の長い比較」を用いて行われる時,それは歴史家にとってはとうてい受け入れ難いものになるだろう.レヴィ=ストロースは『構造人類学』の冒頭におかれた「歴史学と民族学」で,伝播主義的仮説が往々にして試みる「アナロジーにもとづく推論」を危険きわまりないものとして斥けたのであったが,その理由というのは,こうした仮説を立てること自体が不当だからではなく,「そうした研究が人を欺くのはむしろ,個別的ないし集団的な経験に表わされる意識的,また無意識的な過程について何もわれわれに教えてくれないから」なのであった.このレヴィ=ストロースの批判は,ギンズブルグの方法的な格闘が何をめぐってのものであったかを正確に言い当てている.そして,通時的次元を共時的次元の中に統合する<構造>概念によって徹底した<歴史>批判を行ったレヴィ=ストロースに対し,ギンズブルグは人間の生きられる経験の共時的次元を,あくまでも通時的次元にある<歴史>において説明する困難な任務を自らに課すのである.

こうした作業の途上で次々と発表されたギンズブルグの方法論的考察は,「形態学と歴史学」という副題をもつ『神話・象徴・証跡』(竹山博英訳『神話・寓意・徴候』,せりか書房,1988年)という論文集にまとめられている.彼の最初の魔術研究を冒頭におくこの著作の序文は,それ自体ギンズブルグの多様な方法論の背景を率直に語った学問的自伝とみなすことができるが,そこでギンズブルグは,発展仮説に囚われずに「事項の連関を看てとる」術であるウィトゲンシュタインの「俯瞰的描示」の概念との出逢いが,自分が年来手探りで進めてきた方法を正当化してくれたと述べている.

だがここで上村は,本書の全体を貫く,もっとも仮借ない問いを発することになる.上村の疑念の核心は,ウィトゲンシュタインのいう事物の連関の<形式>とは数学的・論理的なものであって,これをそのまま経験の領域において見ることが可能なのか,という点にある.「<形式>が経験的個体とのあいだにとり結んでいる関係は,本質的に超越論的な性質のものであろう」と上村は述べるのである.ギンズブルグは<歴史>への取っかかりを手放すまいとするあまり,ウィトゲンシュタインの<形式>についてもレヴィ=ストロースの<構造>についても,そのアルキメデスの点と称しても過言ではないこの重要な一点を取り逃がしてしまったのではないのか.この認識論的な問いに導かれながら,人間の経験についてのギンズブルグの推察を読み進む時,その最後に現われる「人間の歴史についてはわたしたちはあまりにわずかのことしか知っていないし,今後ともそうだろう」という一節に,上村は「歴史認識自体のいかんともしがたい限界」を見出すのである.

本書の眼目のひとつは,「歴史家と母たち」に付された上村とギンズブルグのやりとりであろう.そこではこの「超越」の問題とともに,上村が「歴史認識の限界」と呼んだギンズブルグの述言がとり上げられている.しかし読者は,ここに両者の間の,微妙だが決定的なすれちがいを感じるのではないだろうか.それは,<歴史>という言葉で両者が何を意味しているかに関わっている.

ここではギンズブルグが「形態学的なものと歴史学的なものとのからみあい」を「自然本性的に存在するもの」と「人為によって存在するもの」の二項対立から解放するヴィジョンを<歴史>の中に想定していることに,上村が疑問を発している様子を看て取ることができる.上村が論証してきたのは,そのような「からみあい」を想定することには認識論上の混乱が含まれており,その混乱とは論理と経験との混同なのではないかということなのであった.上村にとって,<歴史>はあくまでも経験の次元で語られなければならない.その経験的次元を明らかにできないとき,そこには歴史学的認識の限界が露呈しているということになる.

だが「ギンズブルグは<歴史>への取っかかりを手放すまいとするあまり……」という上村の言葉は,この「歴史家」にとっては「じれったくなるほど」そっけない.彼は自分はそこでウィトゲンシュタインの問題意識とは無縁なひとつの論点(人間の生との関連における時間の不可逆性という論点)を提起したまでだといい,また異なる文化のあいだにいかなる歴史的連関形態も欠如していることを証明することはできない(ポパーの「反証不可能性」)という自分の言葉には,「歴史叙述の本質的な限界についてのもっと具体的なイメージ」が含まれており,それについては「まだ誰も書いたことがない」のだという.この言葉を,どのように受け取るべきだろうか.

注意すべきは,それが歴史叙述について言われていることである.N.Z.デーヴィスへの跋文として書かれた「証拠と可能性」(成瀬駒男訳『帰ってきたマルタン・ゲール』平凡社ライブラリー,1993年)という注目すべき論考で,ギンズブルグは歴史学的認識が歴史叙述と切り離すことのできないことを,師アルナルド・モミリアーノとともに確認している.そうだとすれば,このギンズブルグの言葉は,『夜の歴史』の最後に「死者の世界への旅」という語りの根源を見出した「歴史家」の,語りえないものについての考察をさしていると思われる.


表象と真実

おそらく多くの歴史家にとって,もっとも心おだやかではいられないのは,「表象と真実」と題された本書の第3論文であろう.「歴史叙述的行為の本質に関する認識論的反省」のために書かれたこの論文で取り上げられるのは,アメリカでいわゆる「言語論的転回」を歴史叙述の分野で強力に推し進めたヘイドン・ホワイトに対する,ギンズブルグの一連の批判である.ギンズブルグの批判の核心は,ホワイトがフィクションとヒストリーの間の一切の区別を無視しさる「相対主義」的態度で,<現実>の領野に降りたつことを拒否している点にある.

ギンズブルグによれば,歴史学が依拠するところの「証拠」を現実または実在への「開かれた窓」と見る素朴な実証主義的態度は排斥されなければならないが,一切の証拠(テクスト)をそれ自身についてしか語らない「壁」と見るポストモダン的懐疑も,実は同様の前提を共有している.すなわち,「証拠」と現実または実在との関係を単純化してとらえるナイーブさである.しかしこの「証拠」と現実または実在との関係こそが問題なのであって,「証拠」はいわば「ゆがんだガラス」として,その内的なゆがみ(「証拠」が構成されるさいに準拠したコード)こそが徹底的に分析されなければならない.『ベナンダンテたち』の著者はこういって,「どのようなテクストもテクスト外的な現実または実在への参照なくしては理解されえない」ことを確認する.

しかし上村によれば,ホワイトは<現実>または<実在>を否定しているわけではない.むしろ問題は,その真実性の知覚を生む様式に,古代の<展示>と近代の<引用>の対立があること,ギンズブルグがホワイトが依拠している<展示>の可能性を充分に検討することなく,性急に証拠の<引用>という近代主義に与していること,この点にあると上村は見る.そして両者を,ヴィーコの<詩的表現活動>に即して接合する可能性を与える.それはギンズブルグにおいては,『夜の歴史』の最後で辿りついた,「身体的経験をシンボル形式にしあげる」人間に生得的なカテゴリー的活動に関する考察であった.

こうして上村はギンズブルグとホワイトの両者を,歴史叙述における近代的パラダイムを超える方向で接合する可能性を与える.ところが「証拠」をめぐる問題は,両者をふたたび決定的に乖離させてしまうのである.それは,この問題が倫理的次元,すなわち<アウシュヴィッツ>を典型とする,あまりにも巨大な破壊の経験と,その「証言」の可能性の問題に及んだときである.

もしもホワイトの議論を突き詰めてゆくことで,「証拠」にもとづく推論が現実性の基準(「現実原則」)であることをやめてしまうなら,そのとき生きられた経験はどのように参照されうるのだろうか.その生きられた経験が回復不可能な外傷によって声を奪われている時,歴史叙述はいかにしてその経験を表象しうるのだろうか.上村が「表象と真実」の補論で扱う「《最終解決》と表象の限界」と題されたシンポジウムの記録(邦訳『アウシュヴィッツと表象の限界』,未来社,1994年)で編者のソール・フリードランダーが述べているように,わたしたちはここで「倫理的次元と認識論的次元のあいだの回避不可能な結びつき」に直面しているのである.そこでギンズブルグが提示するのは,たったひとりの証言でも,その証言が構成されたテクスト外的な現実について何ごとかを読み取ることができるという,決然とした「歴史家」の倫理である.読者はこの倫理が,『チーズとうじ虫』(杉山光信訳,みすず書房,1984年)において「数と無名性」をこととする集合心性史を斥け,E.グレンディのいう「正規なる例外」を扱った「歴史家」の倫理に他ならないことを,容易に理解できるであろう.

「記憶と記憶の破壊とは歴史においてはくり返し起こっていることである」とギンズブルグはいう.ここにわたしたちは,この「歴史家」が<歴史>の中に一貫して見ていたものの,その徹底して非妥協的な表現を見るだろう.それはまさしく,力(暴力)の関係にほかならないのであった.「純粋に形式的な関係の中で叙述するにとどまっていたならば[……]経過の全体は絶対的に透明なものになっていたかもしれないが,また絶対的に理解不可能なものになってしまったことであろう.[……]なぜなら,力の関係から浄化されてしまうからである」.ギンズブルグの扱う異端裁判の史料は,ベンヤミンの言葉を借りるなら紛れもなく「野蛮のドキュメント」なのであって,彼は暴力的な過程の結果でしかないものを普遍化してとらえる思考――「勝利者の側からの歴史を再三書くこと」――にあくまでも反対していたのであった.「ゆがんだガラス」の認識論の必然性はここにある.<歴史>の中では,それはつねに力によってゆがめられているのである.「歴史家」が真実にアプローチするためには,「何ものかの徴候でしかありえない」ような証拠の微細なひびわれに目を凝らすほかない.こうした「歴史家」の倫理的姿勢が,巨大な暴力による組織的な記憶の抹消(ハンナ・アレントのいう「忘却の穴」)に対しては,もっとも非妥協的なひとつの選択を強いるのである.一方,上村の認識論的懐疑は,本書『歴史家と母たち』ののちにホロコーストの証言可能性を扱った「凍てついた記憶」(『批評空間』II-4,1995年)において,高橋哲哉による岩崎稔批判(『現代思想』1994年10月)とともに「忘却の穴」を強調しながら,「証言不可能性」の方へと容赦なく進んでゆくだろう.

周知のようにウィトゲンシュタインは,倫理を「語りえないもの」の領域において扱うためにこそ,「語りうるもの」の条件を徹底して明らかにすべく論理哲学を書いたのであった.倫理と論理の一見パラドクシカルなこの関係について,「語り」の学たらざるをえない歴史学は,何を貢献できるのだろうか.『歴史家と母たち』は,そのような方向においてもじっくりと読まれるに値する.

上村忠男『歴史家と母たち――カルロ・ギンズブルグ論』(ポイエーシス叢書),未來社,1994年.

初出:『未来』no.343,1995年2月,pp. 18-23.


HAMA Kunihiko, 1994, 2002.
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