ジョージ・ラミングの審問


       ミランダ:   では,あなたはお父様ではないのですか?
       プロスペロー: お前の母親は美徳の鑑だった,
               その母親がお前は私の娘だと言ったのだ。そしてお前の父親は
               ミラノの公爵だった。

 ジョージ・ラミング(George Lamming, 1927-)の The Pleasures of Exile(1960)に収められた「怪物・子供・奴隷」の章が,シェイクスピアの『テンペスト』の読み直しにおいても,またポストコロニアリズムにおけるキャリバン論の系譜においても,きわめて画期的なものであったことは改めて指摘するまでもない(1)。だがラミングが先駆的であったのは,キャリバンの立場から『テンペスト』を読んだというだけではない。私が以下にとりあげるラミングの「審問」は,むしろプロスペロー/キャリバン,植民者/被植民者といった固定的な枠組みをはみ出してテクストを不安定化してしまう,強さと深さとを備えている。サイードが言うとおり,「ラミングのポイントは,アイデンティティは決定的に重要だとしても,異なったアイデンティティを主張するだけでは決して充分ではないのだということにある」(Culture and Imperialism, p.257)。


 小説Water with Berries(1970)には,はじめ『テンペスト』の改作を思わせるものはない。舞台は現代の(おそらくは1950年代の)ロンドン近辺で,若い画家のティートンと,彼が家を借りている老婦人(Old Dowager)との静かな生活の描写が続く。ティートンは絵を売り払い,故郷に帰ろうと決めている。だが孤独な老婦人は彼を暗黙の「ルール」に縛りつけており,彼はその生活を捨てて帰郷する決心をなかなか言い出すことができない。ティートンが西インド諸島出身者であり,故郷を「見捨てた」思いに苛まれていること,彼がかつて革命運動との関わりで殺人事件の容疑を逃れてきたことの意味は徐々に明らかになってゆく。小説の展開はゆるやかで,シェイクスピアの『テンペスト』が機知にあふれた喜劇であるのに対して,ラミングの小説はどこか沈鬱で悲劇的な予感に満ちている。

 シェイクスピアへの連想が現れるのは,最初は『オセロ』への言及としてである。デレクはかつて,ストラットフォードでオセロを演じた俳優として知られていた。その名声の日々に撮られた写真には,友人のロジャーとティートンが並んで写されている。今や彼は,それらの忘れ去られた栄光の遺品に囲まれて暮らしながら,舞台では公園のベンチで発見される死体の役に甘んじている。

 友人のロジャーもかつて故郷では知らぬ者のない音楽家であったが,この大都会では若く貧しい西インド人移民の一人であるにすぎない。ロジャーはアメリカ人の妻ニコルと生活を共にしているが,ピアノのあるロジャーの部屋は二人が眠るためには狭く,二人は夜の間別居を余儀なくされている。そこからロジャーの不安が生まれる。ロジャーはニコルの妊娠を疑いはじめ,それが他の男との子供なのではないかとデレクに打ち明ける。デレクは友人の深い苦悶の様子を前にしていたたまれず,非合法な堕胎手術の斡旋で荒稼ぎをしている知人に会い,ニコルの中絶の手はずを整える。だがニコルにとって,デレクが自分のためにアレンジしてくれた手術の知らせは,まさしく青天の霹靂だった。小さな片田舎の町の宗教的な空気の中で育てられたニコルにとって,この二度目の――一度目は二人の貧しさからだった――中絶は思いもよらぬものだったし,それにも増して,ロジャーが自分に向けている疑いは,とうてい耐えられるものではなかった。

 そうとは知らぬデレクはロジャーを訪ねて,もう心配はいらないと告げる。ロジャーは友人のしたことに驚愕して,ニコルに何を教えたのかとデレクを激しく問い詰める。ロジャーの殺気立った剣幕に押されて,彼は最後にロジャーに答えて言う。

君はそれを恐れてたんじゃないのか。子供は白いかもしれない。君はそんなのと一緒に暮らすことはできない。もう二度とニコルとの間に安らぎはない。彼女は君に,その不純な白(white impurity)をくれたわけだからね。どんな色の私生児だって,この不純な白以外だったら歓迎だろう。(WB: 139)

ニコルは息を殺してこの場面を見ていた。思いきって彼らを訪ねてきたニコルは,ロジャーが我を忘れて友人にナイフを突きつけている場面を見,ロジャーの恐るべき不安が語られるのを聞いてしまう。ニコルは苦しみ,ついには自殺を選ぶに至るのだが,デレクもロジャーも最後までそれを知らない。

 自らの疑いのために妻を死に追いやってしまうという,この悲劇のプロットが『オセロ』のそれであることは容易に感じられる。けれどもここにはイアーゴの奸計といったものがあるわけではない。代わりに,オセロがロジャーとデレクに二重化されているように見える。二重化されることで,オセロの抱く疑惑は男性どうしの対話の形をとる。だがこのホモソーシャルな対話は,どこまで行っても出口がない。真実を明かすことができるのはニコルだけである。だがニコルは二人の元を去り,あろうことか,ロジャーが疑いをかけていたティートンの部屋で,彼の不在の間に死を遂げてしまう(ティートンはむろん,ニコルの自殺の原因を知る由もない)。ニコルが本当に「潔白」であるか否かは,読者にもまた明かされない。創作意欲をなくした音楽家との生活のために,あるいは快楽のために,彼女が他の男たちと寝たことがなかったと,どうして言いきれるだろう。ここには予定調和的な解決は何一つ用意されておらず,真実を語ることができる唯一の証人は,自ら死によって口を閉ざしてしまったままである。

 ここにはすでに,ラミングが『テンペスト』の核心に見ていた問いが表れている。「怪物・子供・奴隷」で,ラミングはキャリバンの「レイプ容疑」に触れて書いている。

キャリバンは本当にミランダと寝ようとしたのだろうか。この場合,身体だけが,その結果において,我々を導いてくれる唯一のものなのである。身体だけが真実を確定できるのである。というのも,もしミランダが妊娠したとしたら,我々は誰かが彼女を妊娠させたのだと知るだろう。我々はまた,それがキャリバンの子であるかどうかも知ることになるだろう。というのもプロスペローとその娘から,褐色の肌の赤ん坊が生まれるなどとは考えられないからである。プロスペローは,褐色の肌をした孫の存在とその意味とに本当に耐えることができただろうか。それはミランダが自分でやったことではないだろう。それは彼らのやろうとしたことの結果ではないだろう。それはミランダとキャリバンの子供だろう。それは彼らの子供だろう。肉体的なものであり,肉体以外のものでもある融合。プロスペローが内心において,必要としかつ恐れていた融合。(PE: 102)

 デレクがロジャーに答えて言う「白い不純」,もしも生まれた子供が白かったら,という不安。それは「もしも生まれた子供が黒かったら」という,プロスペローの内心の恐れそのものだ。それは(男)性的な不安であると同時に,人種的な不安である。二つがまったく分かちがたいものであることを,ラミングは容赦なく教えているのである。

 この不安こそが,ニコルを死に追いやったものだとしたら,しかしそれはニコルに限らない。ティートンもまた,かつての妻のランダ(Randa)を憎んでいた。ランダはティートンが拘留されている間,アメリカ大使と密通していたのだと噂されていた。だがそれはティートンを救うためにランダが選んだことだった。それ以来ランダのもとを離れて心を閉ざしていたティートンは,故郷から訪ねてきた男によってランダの自殺を知らされ,激しく動揺する。こうして Water with Berries に登場する男たちは,自らの疑いのために無実(innocent)ではない。そして疑いをかけられた女たちは,いずれも死の中で口を閉ざしてしまう。

 ランダの死の知らせに打ちのめされたティートンは,半ば朦朧とした意識の中で深夜のハムステッド・ヒースをさまよい,闇の中に体を横たえる。そこで彼は不思議な「女」に出会う。素性の知れない「女」の傍らで,ティートンの思いはさまざまに乱れる。彼は自らの過去との対話を迫られているのだが,そのことを測りかねている。姿の見えない「女」との会話は,まったくの闇の中で行われる。ティートンはそこで,ふと彼女に「魂のセレモニー」のことを話して聞かせたくなる。彼は少しためらったのち,「それは死者に関わるんだ」と説明しはじめる。

親族が集まって,慣例ではだいたい8年ごとに,一堂に会する。祭司が力を感じると,死者たちがこちらへやってくるんだ。目には見えない。でもそこにいる。そして声は聞こえる。死者たちは生きていたときには一度も言えなかったことを,全部話すんだ。告発するのも,赦すのも自由にできる。そして生者は答えなければいけない。つねに祭司を介してね。時には夜を徹して議論をする。何時間も。生者と死者とが。和解できるところまでやるんだ。それで終わりになるんだよ。死者のうらみつらみも全部終わり。生者への報いも全部終わり。死者は去って,親族はようやく家に帰れるんだ。(WB: 117-8)

死者をしてその秘密を語らせること。ラミングが好んで語るこのハイチの「魂のセレモニー」は,The Pleasures of Exile においても中心的な主題となっている。それはラミングの『テンペスト』の読みとも,深く関わっているものである。この「魂のセレモニー」の話をしたあと,ティートンはその女と次の日も同じ場所で会うことを約束して別れる。翌日会った女は,ティートンに自らの生い立ちを語り始める。小説も半ばにさしかかったところで,彼女の物語は一気に『テンペスト』の舞台を召喚させる。

島に来たときには3歳にもなってなかったの。5,000マイルも離れた土地で,私たちと似た顔は一つもなくて。土地の人は知性がなくて父とはつき合えないし。私たち二人だけ。私たちだけで暮らしてたのよ。父が死んだ日までね。あらしが父を打ちのめしてしまった夜まで。父の死体は次の朝,湖で見つかったの。(WB: 145)

父は農園を経営していたが,およそ財産というものに興味がなく,島で見かけるあらゆるものを研究し,娘も一緒になってその学習に熱中する。父はすべてを教えてくれたが,母親についてだけは教えてくれなかった。それはティートンが,自分もまた父親を知らない子供であることを思い起こさせる。彼女の物語は,彼に確実にある予感を抱かせる。

『テンペスト』の舞台をそのままなぞったかのようなこの場面には,ある微妙さが隠されている。「怪物・子供・奴隷」で,ラミングは島に育ったミランダとキャリバンの共通性を指摘している。プロスペロー以外のヨーロッパ人をはじめて見たキャリバンは,ステファノーを新しい主人と思いこむ。それはミランダがはじめて見たファーディナンドを夫と思いこむのと酷似している。「ミランダのこうした無垢と信じやすさは――その身分の違いがなければだが――ミランダとキャリバンをほとんど同一のものにしている」(PE: 114)。シェイクスピアの『テンペスト』ではプロスペローの恐れに覆い隠されて見えなくなっているが,島の風土は二人の間に確実に共有されるものを育んだはずである。実際,父が書物に没頭している間,キャリバンは小さなミランダを――アフリカ人の召使がヨーロッパ人の子供にするように――背中におぶって歩いたりもしていただろう(PE: 112)。ただミランダが――とくにファーディナンドに出会ったあとでは――それを忘れてしまっているのである。むろん,そこにはキャリバンの「レイプ容疑」が強く作用していることは,言うまでもない。

 女の語る物語は続く。ある日,父の元を本国から一人の男が訪ねてくる。男の名前は「フェルナンド」といい,父の仕事の相棒だと紹介される。彼女は,やがて彼に恋心を覚える。だがそれも長くは続かなかった。女が「生き延びた」という「あらし」(the storm)の物語は,言語を絶する凄惨なものだ。「火だけが見えた……まるで百万の舌が夜を舐め,しゃぶり尽くすみたいに。そうだったの。彼らは火を焚いて,私のレイプを祝ってた」(WB: 150)。無数の男たちの群れが全裸で彼女を襲い,人間と交替に,父の2匹のハウンド犬までもが,まるでそのために訓練されたかのようにそこに加わった。ついには自分を犯しているのが人間なのか獣なのか,もう分からなくなってしまった。それは「召使とその友人たち」が組織したものだったという。フェルナンドは椅子に縛り付けられ,その光景を間近に見せられていた。「彼を証人にしたのよ……彼はそれで狂ってしまったと思うわ」(WB: 151)。その夜以来,彼女はすべてを失った。そして今では「いつも誰にでも歓びを与える,帰るところのない空っぽの港」になっていた。それはまさしく,彼女がティートンにそれを打ち明けたハムステッド・ヒースの闇の中なのであった。そこは誰にでもやらせる女がいるという噂を聞いて,男たちが夜な夜な集まってくる場所だったのである。

 トラウマと反復強迫。それは実際,この小説を満たしている記憶の構造にほかならない。小説の主要な登場人物はいずれも記憶の重圧とともに生きているが,この記憶に満たされた小説において,追憶の喜びや満足といったものが無残なまでに排除されているのは印象的である(デレクの追憶の部屋ものちには火に包まれ,友人たちとの記念写真は犯罪者の顔写真として新聞に掲載されるものになる)。

 そして死者たちは不意にやってきて,生者に対話を要求するのである。


 ティートンの部屋でのニコルの自殺のあと,小説の第二部では,ティートンと老婦人はスコットランドの北端,寒風に閉ざされたかのようなオークニー諸島の山小屋に逃れてきている。そこで明らかにされるのは,老婦人の亡き夫こそがまさに“プロスペロー”であったことである。小説を満たしていた苛立たしいような謎の数々が,一挙に『テンペスト』の意味論的な場に投げ込まれ,しかも驚くべき反転を見せはじめる。

 その鍵となる人物は,かれら二人をボートで運んできた無口な「パイロット」である。老婦人と懇意であるらしいこの男の素性をティートンは疑っているが,男もまたティートンを神経質に恐れている。ある日姿を消した「パイロット」を必死で探す二人の前に,男は文字通り壁の中から現れて二人を驚愕させる。それは男が壁の中に作った,自分専用の小部屋だった。孤島の山小屋に幽閉されたまま年月を過ごしてきたかのようなこの男もまた,ティートンに自らの過去を語り始める。彼が実は老婦人の亡夫(“プロスペロー”)の弟であること。だが老婦人と愛し合い,ふたりの間には娘まで生まれていたこと。娘の名前はマイラ(Myra)といい,3歳にもならないうちに,ふたりの関係を妬む兄によって遠い島に連れ去られてしまったこと。老婦人はひとり娘のマイラを諦めきれず,男は意を決して兄を訪ねるべく島に渡ったこと。そして,男の名前はフェルナンドだということ。そこで彼の口から聞かされることになるのは,兄の“プロスペロー”が島で作り上げた「嘘,嘘,嘘」である。

恐ろしい! 信じられるか? いや,たぶん信じられるんだろう。恐ろしいことに,あいつは娘に一度も本当のことを教えなかったんだ。自分たちがどこから来たのかも,そこで娘が何をしているのかも。家族のことも,兄弟がいるってことも,そういう興味や知識を与えるようなものは何も,何も教えなかったんだ。恐ろしい! それは許せるかもしれん。だが嘘を許すことができるか? 子供を自分の手で,嘘,嘘,嘘で教育したんだ。娘は自分に母親がいて,生きてることさえ知らなかった。決して,決して知らなかった。あの怪物め。この俺と同じ腹から生まれた,それは確かだ。だが怪物だ。(WB: 227)

「嘘を真と言い触らし,己の記憶に磨きをかけているうち,やがては嘘も真になる」(一幕二場)とは,『テンペスト』でプロスペローが邪悪な弟(アントーニオー)の所業をミランダに話して聞かせる台詞だが,ここではプロスペローのバージョンと「弟」のバージョンが入れ替わっている。それどころか,キャリバンではなくプロスペローこそが「怪物」と呼ばれているのである。

 こうしてティートンが聞かされていたマイラの=“プロスペロー”のバージョン――シェイクスピアの『テンペスト』との類似が濃厚なバージョン――は,まったく異なった解釈のもとに投げ返されることになる。そこでは娘は「まるで奴隷のように連れてこられ」「召使と同じ言葉をしゃべっていた」というのである。そればかりではない。マイラを襲った「あらし」は,部分的には“プロスペロー”が起こしたものでさえあった。というのも,彼は農園の使用人の男女にハウンド犬をけしかけて交わらせるのを愉しみとしており,そのために犬を訓練していたというのだから。使用人たちがフェルナンドに目撃させたものは,実に主人の快楽の「猿真似」だったのだ。

 それにしても,私たちはこの組織的なレイプをどのように考えたらいいのだろう。少なくとも,農園の使用人たちが野蛮な本能の赴くままにマイラを陵辱したのだと考えるなら,それはおそらく正しくない。かれらの全裸の身体はまた,農園の労働によって規律化された身体でもある。それが儀礼的な規律の中で自らを解放してゆくだろう身体と見分けがたく結び合ってしまうところに,この場面の独特の困難がある。私たちはここでこう問うてみなければならない。主人の性的快楽に忠実であることもまた,奴隷の使命ではなかったか,と。使用人たちが起こした「あらし」が植民者への一種の叛逆でありうるとしても,それはこのように主人の暴力を,そのサディズム的快楽までも正確に模倣してしまう,コロニアルな解放闘争の矛盾を残酷に表しているのではないだろうか。

 だがここでは小説の『テンペスト』的配置に戻っておこう。“プロスペロー”に対する激しい告発の言葉は,被抑圧者の口からなされるものではない。もっとも露骨な人種主義者の恐怖とともに発せられるのである。

だが俺はよく知ったよ。あんたのような連中を支配する実験をな。呪い(curse)だ。それがもたらした富は呪いだ。それがくれた権力は呪いだ。だから兄貴はそいつが気に入ったんだ。そいつがどんな自然であろうと,手に触れるや否やゆがめてしまうことを,兄貴は知っていたんだ。呪いだよ,いいか。呪いだ! それが俺の人種を疫病で蝕んで,ついには死人まで出る羽目になるんだ。呪いはいつでも戻ってくる。あんたがここに来たみたいにな!(WB: 229)

 彼が壁の中に作った小部屋は,いつの日かティートンの種族が彼を追って襲いにくる悪夢に備えて,彼が作っておいたものだった。それはロビンソン・クルーソウが立てこもった砦であり,完全に不可視の存在として部屋で起こる一部始終を盗聴できる,全能の支配者の穴倉でもあるだろう。人一人がちょうど入れるその小部屋が奇妙に棺桶に似ていることは,おそらく偶然ではない。彼をその小部屋に閉じ込めたトラウマも,もとはと言えば“プロスペロー”の欲望が生んだものだったのだから。

 読者はまた,老婦人の亡夫“プロスペロー”の奇怪な快楽についても知らされている。外出中のティートンの部屋でニコルの死体と共に幾時間も過ごすことを余儀なくされた老婦人は,ニコルの死体を見つめながら,自分の若かった頃のことを思い出していたのだとティートンに語る。彼女はまさに目の前に横たわっているニコルの死体のように美しかった。夫は美しい妻に透き通った黒いナイトガウンを着せ,自分の手で作った棺桶に入れて眺めることを,妻に求める唯一の性的快楽としていたという。(WB: 181-2)

 生きた他者を,死者として愛する。この帝国主義的ネクロフィリアは,他方ではカリブに無数の「ゾンビ」たちを生み出すものだ。ラミングは他の場所でこう述べている。

私たちがこの意識の領域で大きな発展を遂げることができなかった理由は,歴史を通じて,地域全体を通じて,私たちが,その大部分は,自分たちのものと呼べる何物にも触れることができないようにつくられた,制度の産物だったからです。[……]このシステムは二種類の人々を作るようにできていたのです。ひとつは,みなさんがゾンビと呼ぶもの。ゾンビとは,まさにカリブの言葉です。この言葉はまさにこの地域で,ハイチで生まれました。ゾンビは死んでいるのに,生きている者のあらゆる動きをするものです。つまり,道を歩きまわったり……生きている者のあらゆる動きをする死者なのです。(Conversations: 291-2)



Water with Berries を『テンペスト』の改作として見るとき,ラミングの手法はいかにも複雑である。ちょうどシェイクスピアのキャリバンが決してひとつの像を結ぶことがないように,ラミングは確信犯的に『テンペスト』の意味の場を増殖させていく。ミランダはマイラとランダの二つの名前に分かたれ,そのいずれもがミランダにおいて語られることのなかった部分をあぶり出す。フェルナンドはトラウマを負ったファーディナンドであると同時に,修正主義者のアントーニオでもある。そしてキャリバンは……キャリバンはどこにいるのだろうか。

キャリバンの多義性が私たちに教えるのは,その出自を特定することが問題なのではなく,キャリバンを一個の言説上の装置として読むことである。植民地主義の物語を再審に付すラミングの問いかけにおいて,キャリバンが決定的に重要なのはこのゆえである。Water with Berries の主人公ティートンはこの物語の渦の中心にいて,しかしいまだ行動する(act)ことがない。だが彼はついには,すべてを自分の手で焼き尽くす衝動に駆られ,老婦人を焼き殺して島を脱出し,革命組織の秘密集会へと向かう。もっとも,すでにそれは遅すぎたのであるが……。

 こうして小説は閉じられる。だがそれで終わるわけではない。のちの版でつけ加えられた小説の最後の章は,わずかに4行で小説の「結末」をこう述べる。

モナの酒場の主人は, 老婦人の死体の痕が発見された2日後に死んだ。
デレクだけが,この殺人の容疑から免れた。
だが組織は国民に対して,ティートンは無罪であると猛烈に抗議した。
誰もがみな,審判が始まるのを待っていた。(2)

『テンペスト』のプロスペローは,最後に観客に向かって,この魔法を解いて自分を自由にしてくれるようにと乞う。そこからラミングは The Pleasures of Exile において,彼の審問をはじめたのであった(3)。そしてWater with Berriesの登場人物たちは,自らの手で舞台を焼き,審問にかけられることをむしろ望むのである。かれらを苦しめつづける記憶の中の死者たちがそうであったように。


略号
PE: The Pleasures of Exile
WB: Water with Berries


(1) 本稿はもともと二部構成で,第一部を The Pleasures of Exile に,第二部を Water with Berries に当てる予定でいたものを,報告のために第二部を中心に縮小してつなぎ合わせたものである。今後第一部に重点をおいて,大幅に加筆したいと思っている。

(2) 私が参照した初版(Holt, Rinehart and Winston, Longman Group Ltd., 1971)にはこの部分はなく,引用は Peter Hulme,“George Lamming and the Postcolonial Novel,”in Jonathan White ed., Recasting the World: Writing after Colonialism, The Johns Hopkins University Press, 1993 からのもの。この点に限らず,本稿は同論文に多くを負っている。

(3) 「怪物・子供・奴隷」は,シェイクスピアの『テンペスト』のエピローグの引用から始まる。ラミングにとって,それは「この航海が終わっていないことを我々に思い起こさせるエピローグだ。じじつ,私たちは私たちが出発したところへと戻っていくのである」(PE: 96)。


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