ブルカと義足と
――モフセン・マフマルバフ監督,『カンダハール』(イラン,フランス,2001年)
カンダハールという地名が話題になっている.ひとつは,いつの間にかこの「戦争」の当事者にさせられてしまったターリバーンの本拠地であり,彼らが最後の攻防を賭けた地名として.もうひとつは,こうした事態が起こるより以前に『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない,恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室,2001年)を発表していた,モフセン・マフマルバフの映画の題名として.この取り合わせは,考えれば考えるほど皮肉なものだ.世界の無知と無関心に憤ったマフマルバフ監督が訴えたはずのアフガン救援は,今年10月以降,連日の爆撃となって世界中のニュースを賑わせることになった.監督が「イメージのない国」と呼んだアフガニスタンのイメージがテレビ番組や新聞・雑誌に溢れ,映画『カンダハール』で主人公がついにたどり着けないまま終わったカンダハールは,いま軍事包囲網と空爆によって完全に追い詰められている.わたしたちがようやくマフマルバフの映画『カンダハール』に接することができるのは,そんなとりかえしのつかない文脈においてなのである.
「カンダハールへの旅」という原題をもつこの映画で,カナダに亡命した主人公の女性ジャーナリスト,ナファス(ニルファー・パズィラ)が目指すその地では,一切の自由を奪われ絶望した妹が,自殺の淵にまで追い詰められている.20世紀最後の日蝕の日に自殺をするという妹の手紙を受け取ったナファスは,妹を救うためにターリバーン支配下のアフガニスタンに単身入ってゆく.残された時間は3日間.映画は不吉な日蝕の映像ではじまり,終わる.
映画の一シーンを超えてまず「リアル」に迫ってくるのは,アフガニスタンへの帰還を控え,難民キャンプの学校で列をつくっている少女たちの顔,顔,顔である.カメラはそれらの顔をひとつひとつ順番にフィルムに焼きつけていく.明日は地雷の犠牲になるかもしれない少女たちは,カメラ越しにこちら側を,不信と不安――とかすかな期待,あるいは羨望?――をこめて,凝視している.それが「リアル」に思えるのは,このあと映画が捉える女性の表情といえば,主人公のナファスを含め,ごく数人の人物にかぎられるからだ.登場している大半のアフガン女性たちは,ブルカで全身を覆い,顔も名前も,また多くの場合せりふも持たない.まるで砂漠に忽然と現われた色とりどりの幽霊のように,物言わぬネイティヴな風景のように存在している.彼女たちは墓地でしゃがみこみ,井戸端で黙々と洗濯をし,あるいは妻たちは短い休息時間の間,ブルカから差し出したしわくちゃの手にマニキュアを塗り,争うようにブレスレットをかき集めて腕を飾ったりもする.
「イメージのない国」のイメージを提供するべく――実際にはイランで――撮られたこの映画は,写実的なものというより,観客のイマジネーションに訴えるものだ.だがそこに疑問を感じることもある.たとえば,ヴェールの下の真実を知りたい,ブルカの中に隠しているものを覗いてみたい,という観客の欲望には,ポルノグラフィックなものすら含まれているかもしれない.また,ナファスの台詞には不自然なほど英語が多い.世界中の観客にアフガニスタンの「真実」を伝える,理性の言語としての英語? もっともそれは,ハリウッド製の映画が自明のものとしている英語の透明さとは異なり,むしろ「イメージなき国」を,物言わぬネイティヴを,誰が代理表象できるのか,という問いをもたらすのだが.
『カンダハール』の主要なモチーフのひとつはブルカであり,もうひとつは,義足である.冒頭,ナファスを乗せた赤十字のヘリが拠点のキャンプに近づくと,地上の黒い人の群れがたちまちヘリに気づいて,こちらに向かって必死で駆けてくる.駆けて? いや,全員が松葉杖をついている.ひとりが転ぶ.それでも残る全員が松葉杖を必死に繰り出して,われ先にと「駆けて」くる.松葉杖競走である.痛ましいというより,滑稽ですらある異様な光景.何を求めて,これほど必死で「駆けて」くるのか? 義足である.パラシュートで投下される,人間の義足である.あまりのことに,言葉もない.
だが監督のヒューマニズムは,そのまま映画のユーモアともなっている.たとえば赤十字のキャンプで,妻の義足をつくってもらった男.これでは大きすぎる,まるで男の足だ,と言い張り,持参した妻のブルカをかぶせてみる.妻の足はもっとかわいい.こんな大きな足をもらったのでは,妻は毎晩泣いて過ごすだろう.男はブルカを抱きかかえるようにして,頭の中の妻の姿と較べている.職員は男の執拗さに負けて,彼がほしがる小さ目の義足――もちろん,他の誰かのための――を,とうとう与えてしまう.男は今度は持参した結婚当時の妻の靴を義足に履かせ,ぴったりだと喜んでいる.その上にブルカをかぶせて,鏡に映してみる.ブルカと,靴と,わずかにのぞいた義足の足首で,にわかに妻の姿が現われる.奇妙なフェティッシュ.見ているほうは,笑っていいやら,泣きたいやらで,何とも言いようのない気分にさせられる.
やがて,ふたたび赤十字キャンプの上にヘリの音が近づいてくる.職員の制止も聞かず飛び出していく,片足を失った男たち.映画のはじめ,殺到する松葉杖の群れの頭上を通りすぎたカメラは,今度はその同じ光景を,地上から捉えなおす.それも正面から,背後から,一人一人の顔と身体つきを,ほとんど底意地の悪いまでのスローモーションで.男たちはひたすら前方を見つめ,全員がはだしで,残ったほうの足で跳ねるようにして,必死で前へ前へと進んでゆく.空から異様で滑稽に見えたものが,今度はそれぞれの顔と名前をもった人生の瞬間として描き直される.
だがそれは,何という人生だろう.難民キャンプと,義足を与える赤十字のキャンプ.まるでこれらのキャンプの間を行き来するばかりが人生であるかのようだ.しかもそこには,いわば人間が生きている生(なま)の姿,むき出しの姿がある.それは時としてどうしようもなく滑稽であり,どうしようもなく悲惨でもあり,時として理解しがたく,恐ろしくもあり,また時として,それを見る者に恥の感覚を与える.アラビア語を覚えないためにマドラサ(イスラーム神学校)を追放され,歌声で稼いでいるという少年ハーク(「土」を意味する)は,そのまま片手を切り落とされ,残った片手で死んだ母親のための古い義足をかつぐ,ハヤト(「人生」を意味する)の姿に重なってゆく.絶望した妹に生きる希望を与えるためにはじまったナファスの旅は,その希望が,誰のために彼女に託されていたのかを見出してゆく旅のようだ.
初出: 『インパクション』128号,2001年12月,【Culture & Critique】.
HAMA Kunihiko, 2001, 2002.INDEX|HOME