エドゥアール・グリッサン
『<関係>の詩学』管啓次郎訳,インスクリプト,2000年.
『全-世界論』恒川邦夫訳,みすず書房,2000年.



  待望の翻訳が2冊,ほぼ同時に刊行された.エドゥアール・グリッサン.いまやいたるところで聞かれる「クレオール」の議論の震源地になったのは,間違いなくこの人である.1928年,マルチニック生まれ.フランツ・ファノンとはほぼ同世代であり,セゼールの洗礼を受け,ともにパリで学んでいる.詩人・小説家として,第二次大戦後のフランス語圏アンティル文学に大きな足跡を刻んできた.『<関係>の詩学』と『全‐世界論』は,1990年代に上梓された第3,第4評論集である.

  幾度も反復され独自に練り上げられた,その思考と想像力の巨きさは,誰もが認めることができるだろう.グリッサンとともに,「クレオール化(クレオリザシオン)」は一つの思想となったと言っていい.「思想は過去の想像域(イマジネール)を描きだす.それは生成変化する知だ」(『<関係>の詩学』)と彼はいう.

  パトリック・シャモワゾーとラファエル・コンフィアンの『クレオールとは何か』(平凡社)もまた,大きくグリッサンに依拠している.彼らが描いた<文学史>の基本的な着想あるいはイマジネールは,ほぼすべて――場合によってはより豊かに――ここに見出すことができるはずだ.いや,そういう言い方はよそう.シャモワゾーとコンフィアンは,グリッサンが見出した詩学の,彼らによるバージョンを描いたのだから.そう,これは何度でも反復され,別の音色を加えて変奏されるべきものだ――グリッサン自身がそうしてきたように.その反復には,ウォルコット,ハリス,ブラスウェイト,コンデたちをも加えることができるだろうし,さらにさまざまな世界の詩人や作家がそこに加わっていくだろう.なぜなら,「今日,全世界が列島化し,クレオール化している」ということ,ここにグリッサンの思想は賭けられているのだから.

  クレオール化は複数の文化,あるいは少なくとも複数の異なった文化の要素を世界のある場所で接触させ,合力の結果として,たんなるそれらの要素の総和ないしは総合からはまったく予測できなかったような,新しい与件を産出することである.
  混合(メティサージュ)なら予測がつくだろう,しかしクレオール化では不可能である.(『全‐世界論』)
  それは,予測のつかない未来に向かって自らを開く,きわめて倫理的な思考でもある.

●●●●●●●

  『<関係>の詩学』は,こうしたグリッサンの思考のエッセンスともいえる書物だ.私たちはこの本の中で,彼の著作を通して現われる基本概念に次々と出会うことになる.それはしかし,決して平坦な道のりではない.迂回があり,逆説があり,出会いの驚きに満ちている.それは<関係>が,おそらくこの驚きなしには感得されえないからだろう.<関係>を表わすフランス語の<Relation>には,「語られたこと」という意味もあるという.それは語りの中で自らを現すものでもある.だから,ともかくグリッサンの語りにじっくりと順番に耳を傾けよう.難しく考える必要はない.意表をつく指摘の連続は,文句なしに面白い.<関係>は,あなたがこの書物に読み取るものの総体としてのみ,この書物の中に現存している,そういうものだ.そこではサン=ジョン・ペルスの「根づいた流浪」がついにヴィクトル・セガレンと出会い,ミシシッピ州を離れることのなかったフォークナーの小説が,カリブ海をはじめ,アメリカ圏で起こっていたクレオール化のプロセスを証言してくれるだろう.

  これはもちろん,戦略でもある.グリッサンの言う<関係>が抵抗の思想でもあること,このことは十分に強調しておかなければならないことだ.この抵抗の強度を見ないならば,<関係>もまた一般化された概念あるいはイメージとしてだけ「理解」されてしまうかもしれない.だが<関係>はこうした一般化に抵抗する.独善的な「理解=共取【コン−プランドル】」に抵抗する.そこで重要なのが,不透明性の主張である.

  <関係>とは,端的に言えばヘーゲル的な弁証法に対置される関係性の論理であるかもしれない.弁証法は,もちろん,ヨーロッパとカリブ海との歴史的な関係性を隅々まで規定してきた.というよりも,その関係性こそが「歴史」と呼ばれてきたわけだ.グリッサンの<関係>は,この関係性と対立する.というよりも抵抗する.「歴史」にクレオール化のイマジナリーを対置する.フォークナーの黒人は,内面をもたないのではなく,不透明性として現われている.それがサトペンの「血統」を不意打ちし,思いもよらない「拡がり」を生んでしまう.

  ヘーゲル的な弁証法における「他」は,予定調和的に同に回収される.いわば同を前提した,同の必然性が要求する「他」であるともいえる.この他者論の袋小路は,他者性の絶対性を言いたてれば言いたてるほど,その「他」なるものを自らの論理で拘束していくようなものとしてあるだろう.だがグリッサンは「他」なるものを,むしろ多様なものの方に開いていく.不透明性とは,この<他>なるもの=<多>なるものを守る何かのことだ.それはつねに意外で,予測がつかず,逆説的にはたらく.グリッサンが強調する「リゾーム」の喩えは,もちろんドゥルーズ=ガタリから受け取ったものである.だがグリッサンは,ドゥルーズ=ガタリのいうアジャンスマンの中にこそ,不透明性を発見しようとする.

●●●●●●●

  『全‐世界論』はこの『<関係>の詩学』を踏まえ,さらに拡がりをもった批評の達成である.それぞれの概念はより凝縮され,大胆な命題をなし,しかもイメージ豊かに繰り広げられている.さらに,冒頭に置かれた「世界の叫び」にも明らかなように,この書物には,1993年にストラスブールで出発した国際作家議会(グリッサンは副議長をつとめている)が大きくこだましている.そのことは,湾岸戦争からユーゴ内戦に至る時期,いわば世界的なアイデンティティの危機がいたるところで顕在化してゆく時期のただ中に身をおいて,グリッサンがきわめてアクチュアルな知識人として思考しつづけていたことを意味するだろう.彼の語る「リゾーム」は,カリブ海連邦の可能性から,流浪する作家たちが世界の中に編み上げるネットワークまで,つねに具体的な「想像界(イマジネール)」を結んでいるように思える.

我々の共通場は,たとえそれが今日は何の効力がなくとも,世界を唖然とさせる諸々の抑圧の事実に対してまったく無力だとしても,世界の人々の想像界を変化させることに力があると思われる.我々が我々の身にふりかかった悲惨な状況に根本的に打ち勝つのは想像界によってである.想像界はすでに我々の感受性の流れを変え,我々の悲惨を克服する一助となっている.(『全‐世界論』)
そういう意味で,この本をグリッサンによる『クレオール宣言』とみなすことは不当ではないだろう.そこにあるのは,楽観ではなく意志である.この世界を覆う物質的状況を変えることはできないかもしれない.だが<世界>をその全体性において,<関係>の網状組織の<全‐世界>として捉え直すことは,詩的想像力=創造力の,つまりはポイエーシスの仕事だ.<関係>の詩学.多様なものの詩学.抵抗の詩学.
「一般化」という西欧の仕事は,何世紀にもわたって,多様な各共同体の固有の時を一つの尺度で計り,それらの時の開花を秩序づけよう(ヒエラルキー化しよう)と試みてきた.そのパノラマが完成し,等距離線が引かれた以上,その必要性において一般化に劣らない,「脱一般化」へと帰るべき時が来たのではないだろうか? それはさまざまな個別性の過剰へとまたもや戻るのではなく,まさにそれらの相互対立のカオスに切り拓かれた道,それらの相互関係の全面的な(夢見られた)自由をめざすということだ.(『<関係>の詩学』)
  なお,『<関係>の詩学』の扉には,「海は<歴史>だ」というデレク・ウォルコットの言葉と,「統一は海面下にある」というE.K.ブラスウェイトの言葉が記されている.グリッサンによるこの引用に大きな興奮を覚えているのは,私だけではあるまい.

初出:『アンボス・ムンドス』第6号,2000年.


HAMA Kunihiko, 2000, 2001.
INDEXHOME