「エグザイル」と「ディアスポラ」
――英語圏カリブ海出身の知識人たち
カリブ海の英語圏の島々からは多くの世界的な作家が出ているが,その多くはロンドンやニューヨークなどの中心都市(メトロポリス)で活動をはじめている.アメリカ合州国の黒人文化の少なからぬ部分はこうした西インド諸島出身者によって担われてきたのだが,イギリスではジョージ・ラミングやサム・セルヴォンら,1950年代のBBCのラジオ番組「カリビアン・ヴォイス」に集まった若い作家たちの世代があり,そこから出発したV. S. ナイポールは,英語圏ではもっとも広く読まれている作家の一人である.またこうした作家たちと重なるようにして,C. L. R. ジェイムズ,ステュアート・ホール,デヴィッド・ダビディーンのような,学術と政治・文化を橋渡ししていくような知識人の活動がある.本稿ではこれら西インド諸島出身の作家や知識人を,「エグザイル」や「ディアスポラ」の知識人という観点から見てみたい.
「エグザイル」とは追放された者・亡命者・流浪の身を意味する言葉であるが,パレスチナ出身の批評家エドワード・サイードは,この言葉に比喩的な意味を与えている.エグザイルの身になるとは,生まれ故郷から完全に切り離されることではない.むしろ今日の世界では,故郷は実際にはそれほど遠くにあるわけではない.かといって,いつでも戻れるわけでもなく,この不安定などっちつかずの立場をつねに感じながら生きることを余儀なくされているのが,エグザイルの身なのである.エグザイルの位置が意味するのは,こうした苛立たしい中間的状態のことである.
西インド諸島の文学運動は一種の自主的な出版サークルとしてはじまったのだが,その規模はごく限られていた.作家や芸術家として生きていこうとするなら,やはり島を出てメトロポリスに向かうほかなかった.成功の保証はもちろんどこにもない.ただ野心と希望だけをもって,彼/彼女らは島を後にし,親類や友人を頼って未知の大都会へと向かったのである.故郷バルバドスを離れたジョージ・ラミングの名作『この膚の砦の中で』(1953年),同じくトリニダードを後にしたサム・セルヴォンの『ブライター・サン』(1952年)が,イギリスへ向かう同じ船の上で,1台の小さな灰色の「帝国製」タイプライターを奪い合うようにして書きはじめられたというのは象徴的である.
エグザイルの作家は,現在住んでいる場所と,あとにしてきた故郷とをつねに同時に生きる者であり,そこから思いも寄らないような創造的で普遍的な拡がりを獲得する可能性を秘めている.ラミングは『エグザイルの喜び』(1960年)という評論集で,ロンドンの若い西インド人移住者たちの境遇からシェイクスピアとC. L. R. ジェイムズ(後述)を同時に読みこみ,ポストコロニアルな英文学論,カリブ海論を編み出した.彼の自伝的小説『この膚の砦の中で』は,まさに西インド文学の存在を世界に知らしめた作品であり,アメリカ黒人の自伝文学の伝統に西インド諸島から贈られた,重要な貢献でもあった.
「もはや故郷をもたない人間には,書くことが生きる場所となる」と書いたのは,ユダヤ系ドイツ人の哲学者アドルノであった.サイードにとって知識人のモデルそのものでもあったアドルノは,移住先の大衆文化状況の中に「住まう」ことができず,「自分の家でくつろがないことが道徳の一部なのである」とさえ書き残していた.植民地でイギリス文化を教えこまれてきた若く貧しい西インド人移住者たちは,しかし本国の「文化」の中に安住できる場所を見つけることはできない.その「文化」こそが自分たちを周縁化してきたものだと知っているからである.故郷から離れ,つねに希望と不安にさいなまれながらタイプライターに向かい,必死で自分の場所をつくり出すように書きはじめる瞬間.まさにこの瞬間,この場所ならぬ場所において,「西インド作家」が誕生するのである.こうして節合された「西インド諸島」は,もはや故郷の英領植民地と同じものではないだろう.
定住者にとっては必然的なもの,伝統的なものも,エグザイルにとっては偶然的なもの,歴史的なものにすぎない.それゆえエグザイルは,つねにゼロからはじめなければならない.これを喪失や悲嘆としてよりも,一種の自由として,発見のプロセスとして受けとめること.そうした「エグザイルの喜び」にあふれた知識人の典型としてサイードが挙げる名前は,C. L. R. ジェイムズである.
ジェイムズは1901年,西インド諸島最南端の島トリニダードに生まれ,1932年にイングランドに移住した.クリケットの記者をしながら社会主義運動に深く関わり,すぐれた教養と雄弁さでたちまち指導的人物となる.世界史上初の黒人共和国ハイチの独立を描いた壮大な歴史書『ブラック・ジャコバン』(1938年,大村書店)をはじめ,その著作や講演の数々は英領カリブ海の独立運動のみならず,マルクス主義,パン・アフリカニズムにはかりしれない影響を与えた.活動家としてアメリカ合州国に移住してからも,政治運動と文化批評を結び合わせる精力的な仕事を続け,『船乗り・背教者・漂流者』(1953年)や『アメリカ文明』といった作品を残している.合州国を追放され,西インド連邦の独立とその挫折を目の当たりにしながら書かれた自伝的クリケット論『境界線を超えて』(1963年)は,クリケットを単なるスポーツから西インド諸島の文化的マニフェストにまで高めた彼の批評活動の真骨頂であり,芸術と学問を横断する,ポストコロニアル文学の古典となっている.
決して一箇所にとどまることを知らなかったジェイムズの活動は,つねに複数の領域を横断し,複数の場所を結び合わせる独異な創造性にあふれている.それを貫くのは,ひたすら自由を求め,世界と自己との発見の旅を続ける情熱である.彼の活動の軌跡をたどることは,あたかも現代史におけるエグザイル知識人たちの見えざるネットワークをたどるかのような,驚きと興奮にみちたものである.
エグザイルの比喩はまた,追放され離散した人々(民族)を意味する「ディアスポラ」の経験や記憶と切り離すことができない.サイードはシオニズムと関連の深いこの言葉を慎重に避けてきたが,ディアスポラは戦争と難民の世紀である20世紀を経て,世界のさまざまな人々の共通の経験となっている.
ディアスポラは離散するだけでなく,離散の記憶をもったまま別の場所で「集まる」ことにおいて,独特の「現在」を生きている.この「現在」は,マジョリティの均質化された文化の中では周縁化されているが,周縁化されることによって,それは支配的な現在に対する批判的な視野をいっそう深めてゆく.
カリブ海の歴史もまた,ディアスポラの経験にみちている.ヨーロッパによる征服と破壊によって先住民がほぼ絶滅してしまった地に,その未曾有の破壊を埋めあわせるかのようにアフリカやアジア,ヨーロッパから連れて来られた人々が,混在し,敵対し,影響しあって独自のクレオール文化を生み出してきたのがカリブ海の島々である.そして,アフリカやアジアからの離散によってこの地にやってきた人々の子孫が,さらに離散していった先に,ロンドンやニューヨーク,マイアミ,トロント,パリといった現代の都市のカリビアン・コミュニティがある.ここではそれを,カルチュラル・スタディーズとのかかわりで見てみたい.
ジェイムズとも似た軌跡をたどって,英国で指導的な知識人となった人物にステュアート・ホールがいる.ホールはジャマイカの中産階級の家庭に生まれ,独立運動の中で青年期を過ごし,やがて51年にオクスフォードへ渡った.ホールのジャマイカ<脱出>の物語は,カリビアン・ディアスポラのひとつの典型例を語ってあまりあるものだ.プランテーションを「古きよき時代」と考える本国志向の母,その母の支配のもとに精神を破壊されてしまう姉.それによってホールは,植民地社会で生きられている「構造」を思い知らされる.個人的な不幸に見えるものが実は「構造」として現実に力をもち,個人をメチャクチャにしているのだということを.
こうして戦後のイギリスに渡ったホールは,誕生期のニュー・レフトに結集した若い知識人たちの間で頭角をあらわす.かれらは硬直したマルクス主義の再生を自らの課題とし,「文化」を政治的闘争の場としてとらえた世代であった.その「ほとんどは外国人か国内移民であり,あるいは周縁的な背景をもつ人々だった」とホールは回想している.英国的な文化批評の伝統から,より理論的で包括的な文化研究へと向かうこの批判的な流れは,のちに「カルチュラル・スタディーズ」として知られることになるだろう.
英国的マルクス主義と構造主義との理論的対話を果敢に試み,左翼の新しい政治的地平を切り開いてきたホールが,自らの歩みをこのように「ディアスポラ知識人」として語れるようになるまでには,長い時間が必要だったという.それにはおそらく,ポール・ギルロイの存在も大きかったはずだ.『ユニオン・ジャックには黒がない』(1987年)をはじめ,「英国的」出自をもつカルチュラル・スタディーズ自身のコロニアルな遺産を根底的に批判したギルロイは,ガイアナ出身の先駆的な教育者・女性作家ベリル・ギルロイの子であり,DJとしてブラック・ミュージックの現在を注視してきた社会学者である.
ギルロイが提唱した「黒人大西洋世界」という概念は,大西洋奴隷貿易の歴史が不可避的に生み出してしまった近代の,ブラック・ディアスポラの見えざる精神的・文化的ネットワークともいうべきものである.それは音楽やアート,奴隷の語りから黒人文学にまではたらいている,創造性の原理でもあると同時に,資本主義のグローバルなネットワークに対抗する,別種の公共圏の可能性を暗示している.「ブラック・ブリテン」において出会った西インド諸島やアフリカ諸地域からの移民たちは,歴史的なものであり想像上のものでもあるこのネットワークに導かれるようにして,知的・文化的な新しい地平を切り開いてもきたのである.「ポストコロニアル」とは,おそらくこの地平の名でもあるだろう.
初出: 姜尚中編,『思想読本 ポストコロニアリズム』,作品社,2001年.
HAMA Kunihiko, 2001, 2002.INDEX|HOME