「エスニシティの定義は,研究者の数だけある」と言われるが,本稿は「エスニシティとは何か」を説明しようとするものではない。ただ「エスニシティ」が論じられる際の理論的な関心について,いくつかの注意を促すことだけが目的である。
エスニシティ研究とナショナリズム研究とは,多くの場合重なっていない。この研究上の分断は興味深い現象だが,これは両者の関心の方向がそもそもかなりの程度異なっていることを予想させる。ナショナリズム研究は「過去」をいかに相対化するかという点に理論的な関心を寄せるが,「エスニシティ」の研究は,おそらくより同時代的な関心に基づくものだ。まず,「民族」を論じるのは主に人類学の領域だろうが,「エスニシティ」はむしろ政治学の用語であることを押さえておきたい。さらに,「エスニシティ」は「民族性」(national character)ではない。むしろ古典的な「民族」論が通用しなくなってきた,1960年代以降のアメリカ合州国をはじめとする世界各国の状況から,「エスニシティ」という術語は登場したのだと解するべきだろう。その状況とは,世界的な民族解放・独立の波を背景とし,公民権闘争をはじめとするマイノリティの政治的要求が噴出し,先進国におけるエスニック紛争が顕在化してきたこと,そして移民・難民問題が国際的に大きな議題となってきたことなどが挙げられる。最後のものを別にすれば,これらはいずれも「人種」「民族」として考えられてきたものが,政治的な存在として前面に出てきた状況として特徴づけられるかもしれない。
「エスニシティ」という用語が最初に知られたのは,1963年に出版されたN.グレイザーとD.モイニハン『人種のるつぼを超えて』(南雲堂,1986年)によってであったようだ。アメリカ合州国のいわゆる「メルティング・ポット」神話を否定し,さまざまなエスニック集団の利害や対立が維持される様子を指摘したこの著作は,その後の「エスニシティ」研究の関心をすでに方向づけていたと言えるだろう。すなわち,@同化主義から多元主義(pluralism)への移行,A「エスニシティ」が「非西洋」の「第3世界」にではなく,「先進国」の内部に発見されたという点,さらにB「エスニシティ」という術語がアメリカ合州国の事例から生まれたという,用語の「出自」も指摘しておくべきかもしれない。
だがアカデミックなエスニシティ研究への影響という点では,ノルウェーの人類学者フレデリック・バルトを出発点とみなす方がよいかもしれない。バルトは1969年の編著『エスニック集団とバウンダリー』において,複数のエスニック集団の交流・相互行為の中で自己と他者をカテゴリー化する心理的基準として,「エスニック・アイデンティティ」があることを指摘した。バルトの貢献は,エスニック集団が固定的なエスニック・バウンダリーの内部で閉じられているわけではなく,むしろ越境や交流の中でバウンダリーが構築されることを説明したことにあった。バルトはこうしたエスニック集団およびその成員が表出する特性を「エスニシティ」と呼んだが,これは国家の政治統合の領域や国民形成の境界と,エスニックなそれとが一致せず,むしろ独立しているはずだという観察にも,理論的な説明を与えてくれるものであった。言いかえれば,「国家より小さく家族より大きい」(グレイザー)ような節合のレベル,また国境を超えて存在する集団のレベルに,社会科学が独自の分析の次元を見出したということである。
もっとも「エスニシティ」が1970年代に入って急激に論じられるようになるには,世界各地での「エスニック紛争」の多発という「現実的」な背景があったことは間違いない。「エスニシティ」が研究上の関心になるのと並行して,先進国においてもまた,およそ「エスニック問題」を抱えていない国はないというほどの状況が明らかになった。かくして「1970年代の半ばまでには,エスニックな異質性とそれがもたらす結果についての研究は成長産業となった」とW.コナーは述べている(「エスノナショナリズム」『思想』1995年4月号)。
ただそうした「エスニシティ」研究は,しばしば「人種関係」の分析と区別されておらず,とくに第三世界における「人種と階級」という分析枠組は,今日でもなお「エスニシティ」論の中に引き継がれているように見える。また,とりわけ地域研究において,個々の地域の具体例に即して大量の論文が書かれた結果,「エスニシティとは何か」を知りたい研究者の前には,まったく当惑させるほどの雑多な文献目録が残されることになった。この当惑を前にして,「民族とは何か」に代わって,「エスニシティとは何か」が論じられはじめたこともたしかであろう。
エスニシティ論の立場には,大別すれば「原初主義」と「道具主義」の対立があるといわれる。「原初主義的」(primordialist)ということでよく引かれるのが,E.シルズの「原初的愛着」(primordial attachment)という概念を援用した,クリフォード・ギアツの説明である。
原初的な絆の一般的な強さ,またその中でどのようなものが重要なのかは人によって,社会によって,また時代によって異なる。しかしほとんど誰にとっても,どの社会でも,そしてたいていどの時代でも,社会的相互作用から生まれるというよりは,むしろ自然な――人によっては精神的なというであろう――親近感から生じる愛着(attachment)というものがあるのだ。 (『文化の解釈学』)
ギアツのこの議論は旧植民地の独立=新生国家建設の政治統合めぐってなされているのだが,彼が重視するのはこうした「原初的」な感情と政治制度との間の緊張関係であって,この「原初的」な感情を軽視し,それが新たな政治的単位によって解体されたり「置き換え」られたりできるという見方に異議を唱えているのである。そうして見ると,この主張は「道具主義」――すなわち原初的な感情と見えるものも,実はさまざまな社会勢力の利害をアピールしたり正統化したりする際に政治的に用いられているだけであって,決して永続的なものではないと考える立場――に限らず,むしろ「同化主義」をも批判していることが分かるだろう。
「同化主義」(assimilationist)とは,主に近代化の進展によって人々の行動を動機づける価値観が変化し,典型的には「属性主義」から「業績主義」へ,「特殊主義」から「平等主義」へといったように,伝統的で「偏狭」な価値観が克服されてより合理的な市民的・国民的価値観に統合されていくはずだという想定のことである。この想定によれば,民族的少数者や移民は数世代も経たないうちに主流社会に完全に同化するはずだが,こうした想定が先進国において破綻したことこそ,「エスニシティ」論が登場する背景となっていたのである。(日本が市民社会として成熟すれば,差別もなくなり民族意識も消滅するだろうといった主張が,こうした想定をそのまま繰り返していることは言うまでもない)
この「同化主義」はまた,社会主義の最終的な実現(無階級社会)によって,「民族」や「人種」はもはや問題でなくなると想定した,コミンテルン型マルクス主義にも見ることができるかもしれない。むろん,実際には社会主義の歴史において「民族」が問題であることをやめたことは一度もなかったのだが,それが見えなかったとしたら,それがたんに冷戦体制のイデオロギー対立と,それを支える圧倒的な軍事力によって覆い隠されていたからにすぎないだろう。1991年のソ連邦の崩壊によって,このことは誰の目にも一挙に明らかになった。1990年代には,こうして「民族」問題がふたたび緊急性を帯びて論じられることになる。
だが「近代化論」に分類されるものの中には,逆のシナリオを描くものもある。急速な産業化,都市化によって伝統的・共同体的な紐帯が失われ,アトム化し「根無し草」となった個人はアイデンティティの不安を抱えており,かえって強い一体感を与えてくれるアイデンティティのよりどころを求める,という説明である。つまり,近代化の進展は「リベラルな期待」を身につけた市民を生む代わりに,自我のうちに強い不安を抱えた病的なパーソナリティを生み,それが非合理主義や人種差別主義の温床になるというものである。一方また,アイデンティティの可変性を強調する近代化論的「同化主義」アプローチが,そもそもナチス・ドイツの人種主義(racism)――この言葉自体,少なくともフランスでは,ナチスの犯罪を目の当たりにした第2次大戦期に登場したようだ(F.ド・フォンテット『人種差別』白水社,1989年)――を経験した「西洋」世界が,以後「人種」や「民族」を不変のものとして扱うような「理論」を拒否しはじめたために登場したという側面は,忘れてはならないだろう。
ここにきて「エスニシティ」論のより切実なフロントが浮かび上がってくる。というのも,ここまでの叙述では「エスニシティ」論が人種主義,あるいは人種理論(racialism)と親近性をもつのではないかという疑い――それが言い過ぎなら,少なくとも「エスニシティ」論が,人種主義的ナショナリズムが名指そうとするものに理論的な説明を提供する可能性はないか,あるいは「差異主義的人種主義」の格好の論拠になりうるのではないかという疑いが,拭い去れないからだ。実際,もっぱら「民族」を論じることを専門としてきた文化人類学は,もはや政治的に「無垢」ではない。「エスニシティ」論もまた,ナショナルな表象から異質なものを見出して排除しようとする人種主義的ナショナリズムにも,逆にまたエスニックなショービニズムにも,等しく論拠を与えてしまう危険性をどう克服できるのかが問われているのである。
ここで1988年に書かれたステュアート・ホールの「ニュー・エスニシティズ」(『現代思想』1998年3月臨時増刊)を見ておきたい。ホールは1980年代のメトロポリスの人種主義に対抗する文化政治の中で,アジア系までも含みこんだ新たな「黒人」(ブラック)の概念が節合されてきていると同時に,「黒人」表象をめぐるひとつの重要な「移行」(シフト)が起きていることを指摘する。ホールによれば,それは「表象をめぐる諸関係から,表象それ自体の政治へ」と特徴づけられるようなものだ。
このことは,抗争点の現実的な移行をしるしづけている。というのも,この抗争点はもはや単に反人種差別と多文化主義の間ではなく,エスニシティの観念それ自体の内部におけるものとなっているからだ。そこに含意されているのは,エスニシティを国民や「人種」に結びつける支配的な観念を一方として,周縁,周辺のエスニシティの積極的概念化の始まりと私が考えるものを他方とする,エスニシティ観念の分裂である。
ここでの支配的なエスニシティ観とは,ポール・ギルロイが「民族絶対主義」(ethnic absolutism)と呼んだようなものであり,新しい差異の概念にもとづく積極的なエスニシティ観とは,メトロポリスにおける「黒人」の文化政治的な節合において,あるいはより大きくは,ギルロイが「大西洋黒人世界」(black Atlantic world)と呼ぼうとしたものにおいて,見られるようなものだろう。「エスニシティ」概念の危険性を熟知しているはずのホールがあえてこの術語を新たに提起するポイントは,この「エスニシティ観の分裂」こそが,現在の政治のフロントとなってきているという認識にこそある。
筆者は「エスニシティ」の専門家ではまったくないし,そもそも「エスニシティ」という術語を使ったことすらないのだが,「エスニシティ」論の有効性を否認するものではない。それは人種主義が否定されるべきものだとしても,だからといって人種的特徴とされるものへの冷静で科学的な検討が不用になるわけではないのと同じことである。実際,そうした研究はつねに,人種差別的想定にもとづく「理論」への,もっとも有力な批判を提供してきたのである。
ただ問題は,科学的に解明されるべきものが――おそらくは理論的カテゴリー化という操作を経て――いつの間にか説明原理に転じてしまうという一種の転倒が,「エスニシティ」の説明においても実にしばしば見られることである。ここで言っているのは,そもそもどうして一緒に論じることができるのかも明らかでないような,異なった状況にある別々の「エスニシティ」が説明の中で恣意的に併置され,説明されることによってその併置が正当化され,正当化されたこの操作の基準がそれらの「エスニシティ」の属性であると信じられてしまう,といった転倒のことである。こうした危険を完全に逃れることはおそらくできないにせよ,私たちは自らが持つバイアスについて,より注意深くなることはできるはずだ。ホールが「私たちは誰もがエスニック的に定位されている」と言うとき,思い出さなければならないのはこのことなのである。
だがもっとも危険なのは,こうした転倒を自覚的に演じようとする人々が,最近ではますます増えてきているらしいことである。