他者性を含みこんだ自己の生成
――クレオールは思考に何をもたらしてきたか――


複数文化研究会編『<複数文化>のために――ポストコロニアリズムとクレオール性の現在』(人文書院,1998年)をめぐって,さる6月19日,東京外国語大学でWINC(批判理論ワークショップ)主催の「クレオリテとポストコロニアリズムをめぐって」という拡大例会が行われた(『思想』の「ポストコロニアリズムと文学」特集も同時に扱われたが,こちらは齋藤一の文章を参照してほしい)。百人近い出席者を集めての討論は,これまで「クレオール」という言葉で何が了解されてきたのかを考え直す,またとない機会であったと言える。

だが議論はお世辞にも活発なものであったとは言い難い。企画に関わった私自身,6時間にも及ぶ討論が微妙な緊張やすれ違いの連続であったことに,正直なところ途方にくれてしまった。今福龍太の『クレオール主義』(青土社,1991年)を嚆矢として,1990年代の言説として登場してきた「クレオール」が,何かしら新しい可能性を切り開く予感とともに語られていた数年前までの状況とは,これは明らかに違ってきている。それを消耗と見るか,深化と見るか。あるいはまた,そこに相も変わらぬアカデミックな「消費」の構造を見て,失望してしまうのか。

一見同じ結論を述べているように見えても,その立論の構えには見えにくい対立や齟齬が感じられる。同じイディオムを使っていながら,議論がどうも噛み合わない。むしろ,この噛み合わなさを考えることが「ポストコロニアル」や「クレオール」の現在を考えることだろうという気がしてくる。それはたんなる無知や専門的な関心の相違からくるものというよりは,明らかに「ポストコロニアル」や「クレオール」という言葉の内包するものの不鮮明な表われでもあるからだ。端的に言って,「クレオール」のような言葉を,私たちは共有しうるのか。あるいは,この言葉が分有される場には,何がしかの<共同性>が成立しているのだろうか。討論は最後にはやはりこの点をめぐっていたように思う。

「クレオール」が異質性や多様性をさまざまに含みこみながら生成してきたものである以上,その歴史的・地域的な現われはそれこそ千差万別である。徹底した植民地支配を経験し,断片化された歴史を生きるカリブ海諸社会はその典型だとしても,「クレオール」の多様性は,やはり大きくは「アメリカ」(U.S.の意味ではない)圏の近代の複雑な諸相として捉え返されるべきであろう。WINCでのワークショップに先立つ6月6日,上智大学で開かれた日本ラテンアメリカ学会でのパネル「criolloとは何か――<自文化>を語る試み」では,専門分野・地域を異にする4人のラテンアメリカ研究者から,これまで漠然と「新大陸生まれのイベリア系住民」を指すように思われていたスペイン語のcriolloを,文化の語りという側面から捉え返す斬新な報告がなされた。ここでその議論をフォローすることはできないが,興味深かったのは,独立以後,とりわけ20世紀のラテンアメリカ諸地域においても,criollo言説が国民文化の表象にかかわること,またcriollo文化の肯定的な評価が,被抑圧者の伝統の発見とエンパワーメントの運動という側面をもつことにおいて,カリブの状況と共通性をもっているらしいことである。乱暴に言うなら,フランス語,英語,スペイン語で語られる「クレオール」に通底するのは,ネガティブな歴史の肯定的な語りなおし,再創造という契機ではないだろうか。これは「世界史」批判としてのクレオール論を展開する西谷修のポイントにも通じるだろう。

実在としてのクレオールに対し,「思想としてのクレオール」の側面について,WINCの提題で立花英裕は5点にわたってポイントを提示した。第1に「混血」の捉え方。第2に「アイデンティティ」や「ナショナリズム」批判の側面。第3に「自己の内部に他者性を抱えている」存在という,記号論的な興味。第4に「クレオール」の楽天的とも見える肯定性をどう考えるかの問題。そして5番目に,「クレオール」論が男性中心的なイデオロギーに根ざしているのではないかという疑い。

とりわけ興味深く思えるのは,「自己の内部に他者性を抱えている」「決して自己完結しえない」存在としての「クレオール」,という設定である。この他者性――欲望や身体に関わる――を肯定するところから,いわば「文学的クレオール」の,肯定的なイメージが生まれてきているのではないか。私自身,このことに大きな魅力を感じている。

しかし西洋/非西洋的な主体性の構築ではない,他者性を含みこんだ自己の生成とはどのようなものか。おそらくこの他者性は自己同一的な主体性を内破する起爆力になりうると同時に,また一方ではそれがもたらす不透明な,激しい不安の中で,人を独立した強固な主体(国民主体や抵抗主体)形成へと駆りたてずにおかないものでもある。その意味で,クレオールとはすぐれて近代的な実存の様態でもある。「ポストモダニズム」が解体したはずの諸々の概念(あるいは諸々の括弧つきの言葉。「主体」「アイデンティティ」…そして「起源」)が,「クレオール」という言葉とともに亡霊のように浮かび上がってくるのを避けえないのも,おそらくそのためだろう。こうした「自己」や「主体」をめぐる問題とどのようにつきあってゆくのか,またそれは「他者」を語ることと,どのように関わっているのか。

『無為のクレオール』(岩波書店,1999年)の著者である大杉高司は,ポストコロニアリズムが西洋近代的な「主体」を批判しながらも,その批判が「主体」をめぐる新たな術語を氾濫させるばかりで,文化を能動的に表象できる主体の特権性を相変わらず維持していることに苛立ち,それを「主体」中心主義,文化の「設計主義」として告発している。大杉はそこから「文化」そのものに分け入って行く人類学者としての方法を模索しているのだが,そうして見出される「クレオール」と,「思想としてのクレオール」との間の緊張は,これからもますます,いたるところで生じてくるはずである。それはとりもなおさず,文化を語る術語としてのクレオールも,思想としてのクレオールも,ともにその政治性が問われているということだ。

大西洋の歴史が生んだ「私生児」のようなこの言葉は,私たちの思考に何をもたらしてきたのだろうか。それとも私たちは,この「私生児」の前に戸惑いつづけてきただけだったのだろうか。もしそうなら,それは「他者」についての際限のないおしゃべりの,その政治的・倫理的意味についてのこれまた際限のないおしゃべりの,うんざりするような循環をますます加速させていくだけなのかもしれない。そうしたうんざり感は,すでに広がっているようでもある。だが「文学的クレオール」とは,この「私生児」とは私だ,と言いきってしまうところからはじまる。それは一種の自覚的な誤読を通じた,「自己」(へ)の能動的変形と言っていいだろう。

そのような「クレオール」の感触にも,この間に接することができた。WINCの提題者のひとりであった山城雅延も寄稿している沖縄の雑誌『EDGE』(APO発行)である。第6号の「クレオールな沖縄」特集をはじめ,「クレオール」はこの雑誌のキーワードのひとつとなっている。それがどのような未来を見せてくれるものなのか,いまだ覚束ないながらも,この雑誌には「クレオール」という言葉に接して,沖縄の歴史的・文化的な位置を捉え直す新たな自覚を獲得しつつある,若い書き手たちの高揚感を感じることができる(断っておくが,これが沖縄を代表する言説だというつもりは毛頭ない)。

けれどもヤマトの書店でこの雑誌を目にする機会がほとんどないこと自体,ヤマトの知的言説と,沖縄に生まれつつある文化的自覚との「間」が厳然と存在しているということなのかもしれない。山城はWINCでの提題のサブタイトルを挑発的に「WINCと『EDGE』の間」と言ってみせたが,必要なことはこの「間」の大きさに失望するよりも,それを私たちの思考の変容の空間に作り変えてゆくことの方であろう。うちなーぐちはこの「間」にあって,震えつづける「神経系」(冨山一郎)のようなものだ。それはすべての「やられちまった」ものたちがそうであるように,変容してゆかずにはいられないだろう。けれども「その変容を変容させることは,できないのでしょうか」という山城の言葉が,真に「私たち」の問いになってゆくことを願わずにはいられない。

(文中敬称略)


初出:『週刊読書人』1999年7月16日号.


HAMA Kunihiko, 1999, 2001.
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