ラファエル・コンフィアン,『コーヒーの水』
塚本昌則訳,紀伊國屋書店,1999年



そして,このアンティーリャという名前が,寒いパリをさまようクレオールの学生だった私の頭の内側を激しく打ちはじめたとき,いったん故郷に帰ってこの神秘を解き明かそうと努めなければ,自分は駄目になるだろうと私は悟ったのである。(p. 224)

ラファエル・コンフィアンの小説『コーヒーの水』の語り手は,こうして故郷マルティニック島北部の町,グラン=タンス(ル・ロラン)を再訪する。そこは大西洋に面した小さな町で,人々は「海に背を向けて」暮らしている。というのもこの海はいつからか,人々に一切めぐみをもたらさない,呪われた不毛の海になっていたからだ。アンティーリャが見つかったのもこの海だった。人々はその不吉なまでに美しい黒い少女が,海から生まれたのではないかと疑った。彼女を引き取ったのは,語り手の「私」の代母(マレーヌ)である,コーヒーの水と呼ばれる「男勝りの女」だった。こうしてアンティーリャは「私」と一緒に育てられることになったのだが,ある大波の日に,「来たときと同じように,実にあっさり逝ってしまった」。真相は誰にも――間近に見ていた子供の「私」にさえ――わからなかった。それから約20年後,「私」は海の近くのひなびたホテルに投宿して,何冊ものノートを前に過去の再構成にとりかかる。だが,アンティーリャをめぐる謎の解明はまるで要領を得ないまま,「私」は海とプランテーションに囲まれた田舎町の記憶の迷路の中に巻きこまれてゆく。

……と,あらすじ的に書けば,だいたいそんなことになるだろうか。けれどもここでは,あらすじなどほとんど役に立たないだろう。小説は長いスパンの時間を行きつ戻りつ,迷走を繰り返す。一種の謎解きではあるが,謎は解けたかと思うと突拍子もない混乱を加え,ますます混沌としてくる。そこはまさしく,可笑しくてインチキくさくてエロくて熱くて危険で魅惑的なクレオールの世界だ。どこまでも煙に巻かれてゆく覚悟なしには,こんな田舎町に足を踏み入れてはならないのだ,と言われているようでもある。語り手の焦燥は高まる一方だ。ついにはこの島の一切を海に沈めてしまいそうなほどに……。

ここにはパトリック・シャモワゾーの『テキサコ』(星埜守之訳,平凡社,1997年)のような,叙事詩的な偉大さもない。変わりばえのない日常は不毛の海のようでもあり,いつまでも繰り返される黒人の不運(デヴェーヌ)のようでもある。しかし人々は悪態をつくのをやめない。小説の語り口はあくまでも猥雑で,笑いにあふれ,荒唐無稽で,暴力と悲嘆に満ちている。≪森のサツマイモ放送≫(その名の通り,芋づる式に急速に伝わる口コミの噂話)のように,延々と連なってゆく語りのリゾーム,お喋りのるつぼ。『テキサコ』がひとつの叙事詩だとしたら,こちらはさしずめ≪森のサツマイモ放送≫だろう。ひとりひとりに驚くべき物語――というか,噂のタネ――があって,途切れたりいきなり現われたりしながら,幾重にももつれ合って広がっている。けれどもそこにはまた,確実に変化していく時代が注意深く書きこまれてもいる。各章――というよりも「輪」――に添えられたアンティーリャの手紙が,その証言になってもいよう。

「シャバン」(色は白いが,「ムラート」より「ニグロ」に近い)の語り手は,もちろんコンフィアン自身でもあるだろう。彼の幼年時代の回想を綴った短編集『朝まだきの谷間』(恒川邦夫・長島正治訳,紀伊國屋書店,1998年)には,『コーヒーの水』のモデルになった人々を容易に見出すことができる。二つを読み較べてみるなら,同じく子供時代の記憶をたずねるといっても,一人称で文学的に昇華された『朝まだきの谷間』よりも,その世界を神話化しているように見える『コーヒーの水』のほうが,実はむしろ人々の記憶に忠実であることが分かるだろう。

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『コーヒーの水』はまた,言語をめぐる小説でもある。たとえば,次のようなシーン。グラン=タンスに夢魔が出るというので,女も男も戦々恐々としているところに,輸入品店「東方宮殿」を営む≪シリア人≫が提案する。

「グラン・タンスのすべての女性たちが,黒いパンティーを履いて寝る必要があります。そうです(ヤラー)! ……」
「黒いパンティーだって! 寝ぼけたこと(クイヨヌリー)言うんじゃないよ!」とパン屋の女主人は叫んだ。
「寝ぼけたたわごと(クイヨナドリー)だ!」 町の清掃人夫ダシーヌが,肩をすくめながら言った。
「寝ぼけ面のたわごと(クイヨンティーズ)だ!」 誰かが付けくわえた。
「寝言(クイヨナード)だ!」と,ティモレオン親方が,きっぱりとした口調で話を打ち切った。(pp. 102-3)

かわいそうな≪シリア人≫はすっかり混乱してしまうのだが,このように接尾辞を自由自在に組み合わせて当意即妙のニュアンスを作り出す才能は,「クレオールのニグロ」の得意技である。語り手は言う。「奴隷制が廃止されたとき,白人たちは島の子供たちを学校に受け入れず,しかも彼らの言語の中でもごく限られた数の単語しか教えようとしなかった。そうしておけば,私たちの精神をお粗末な状態にとどめておけると思いこんだのだ。しかし,それは私たち,年老いた猿のようにずる賢いクレオールのニグロを見くびっているというものだ」。黒人たちは奴隷制の時代から何世代にもわたって,白人には分からないような言葉の隠れたニュアンスを最大限に利用する技術を発展させてきたのだ。だから,契約移民の二世である床屋のオノラ・コンゴでさえ,自信たっぷりにこう断言できるのである。「おいらに言わせりゃ,何度だって繰り返し言うけど,白人よりもニグロのほうがフランス語がうまいのさ」(p. 40)。

実際,クレオール語の語彙の豊かさは,フランス語が統一される以前,言語が――民族を浄化するように――浄化される以前の豊かさにも由来している。この地に渡った初期の入植者たちは,そこにフランス語の地方的なバリエーションも一緒にもちこんでいたのだ。コンフィアンはインタビューで語っている。「『ラブレーは10万語を使っていたが,ラシーヌは5,000語しか使っていない』と,アントニーヌ・マイエが言っていますが,まったくその通りです。では,9万5,000語はどこへ行ったのか? それはケベック,マルティニック,ハイチへ行ったのです(笑)。嘘じゃありません!」(『週刊読書人』1999年12月10日)。コンフィアンの文学が目指すのは,書き言葉として均質化され窒息してしまった標準フランス語を,ラブレー的な言語の猥雑なエネルギーでいわば再征服することだと言えるかもしれない。

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ラファエル・コンフィアンは作家としてよりもむしろ,多様で不透明なアイデンティティを称揚する「クレオール性」の理論家として,日本では知られてきたかもしれない。というのも彼の小説作品よりも先に,ジャン・ベルナベ,パトリック・シャモワゾーと共同で著した宣言『クレオール礼賛』(平凡社,1997年)や,シャモワゾーと共著の文学史『クレオールとは何か』(西谷修訳,平凡社,1995年),あるいはインタビュー(『現代思想』1997年1月号)などの方が翻訳紹介されていたからだ。そこで私たちは,戦闘的なクレオール語の擁護者としての彼の活動をおおむね知ることができた。

『コーヒーの水』は,そのコンフィアンがはじめてフランス語で書いた小説である。出版の経緯は本書に収録のインタビューに詳しいが,フランス語で書くことにはいくつもの迷いがあった。それらの逡巡を断ち切って,出版へと後押ししたのは友人のシャモワゾーだった。「『すばらしいじゃないか! ぜったい,出版社に送るべきだ!』 それでいくつかの出版社宛てに小包を作りました。その日の夜,私は眠れませんでした。クレオール語を裏切った,という感情があったからです。私は起き上がり,草稿の小包すべてを手に持ち,火をつけました」。幸い妻が起きてきて,原稿は救われたという。

それにしても,マイナーな言語が私たちのもとに届くためには,つねにこうした「裏切り」が必要なのだろうか? と思わずにいられないエピソードだ。この「裏切り」は,実は小説『コーヒーの水』にもそのまま書き込まれている。隣人のティモレオン親方は「私」が一度は町を去った人間であることをしつこく思い出させるし,小説の最後では,「私」はホテルで書き綴ったノートをアンティーリャの手紙もろとも溝(どぶ)に捨て,それから急に思い直して,どろどろになったそれらの記録を拾い上げるのである。

だとしたら私たちも,まずはこの「裏切り」の共犯者になるしかないだろう。いや,あなたがもう少し大胆なら,こう断言してみせるかもしれない。「これは実にすばらしい小説です。ヤラー!」


初出:『アンボス・ムンドス 4』,pp. 162-3.


HAMA Kunihiko, 2000, 2001.
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