B.アッシュクロフト+G.グリフィス+H.ティフィン,
『ポストコロニアルの文学』,
木村茂雄訳,青土社,1998年
原著The Empire Writes Backは,ラウトリッジ社の「ニュー・アクセンツ」シリーズの一冊として1989年に出版された。いまや主流化しつつあるポストコロニアル文学批評の「場を切り開」いた,画期的な本だと言える。記述は明晰でよく行き届いており,専門家相手の韜晦に終わる本でないことはただちに分かる。原著の刊行から10年たって,いまこの書物が日本語で読めることになった。この10年の間に,「ポストコロニアル」という言葉は日本でも何ら新奇なものではなくなった。むしろ本書の概説的な記述に,いまではやや教科書的な物足りなさを感じる向きさえあるかもしれない。だがこうした概括的な理論書がひとつの「宣言」たりうることも,押さえておいたほうがいいだろう。著者たちの提示するポストコロニアル文学の根本的な立場を一言でいえば,「文学」を脱植民地化すること,これに尽きる。政治史的な「独立以後」を表わすのに用いられていた「ポストコロニアル」というタームを,植民地化された世界に共通して現われる特徴的な言説状況として捉え,それを文学研究のフィールドで明快に理論化して提示した著者たちの功績は大きい。10年後に翻訳を読んで物足りなさを感じるとしたら,それは逆に,それだけ私たちがこの本の展開している理論に,今やなじみはじめているということではないだろうか。それはむしろ,このような書物にとっての最大の栄誉ではないだろうか。
著者たちが直接に扱うのは「英語圏」の文学であり,脱植民地化されるべき正典の位置にあるのは「英文学」である。だが「わたしたちは『ポストコロニアル』という言葉を,この本では,植民地化された時点から現在にいたるまで,帝国主義のプロセスにさらされてきた文化の全体を指す言葉として用いることにする」と著者たちが言う通り,その視野は「英語圏」(すなわちイギリスの支配した地域)を超えて一般化できるに充分,広いと言える。(逆にそのことが,本書への批判を招くことになったのもたしかである)
本書はポストコロニアル文学の特質に,言語,テクスト,理論の側面からアプローチしている。まず言語について。この本の記述に一貫して採用されている基本的な着眼点は,大文字の正統性を与えられた本国の英語(English)と,せいぜい「方言」扱いをされてきた,植民地世界の多様で雑種的な小文字の<英語>(english/es)との区別である。これら小文字の<英語>(「エイゴ」と書いてみると,そのニュアンスも伝わるだろうか)はそれ自体が植民地化の産物であるが,それゆえに唾棄されるべきものだという発想は著者たちには見あたらない。しかしまた一方,地方的なバリエーションである<英語>それ自体を本質化しようとするナショナリズムもまた,著者たちの批判を免れないだろう。代わりに本書が提示するポストコロニアルの言語理論は,カリブの多言語的な文化に見られる「クレオール連続体」のモデルである。それぞれに異なる複数の言語的なバリエーションの間を,話者が実践的に,臨機応変に移動しながら,新しいバリエーションを習慣的に生み出してゆくというこの「クレオール連続体」のモデルは,言語が単一の規則にあらかじめ支配された統一体(たとえば「標準英語」のような)などではなく,ゆるやかに重なり合う実践の連続体なのだということを教えている。このことを敷衍しながら,著者たちははっきりと述べている。「運用こそが言語であるのと同じく,『英文学』と呼ばれてきた文学は,<英語>で書かれたテクストや,そこに導入される過剰なまでの新しい言語構成や新造語によって,たえず再構築され続けているのだということを,ポストコロニアル文学は改めて主張する。このように,現在成立している文学とは,『英文学』というよりも,複数の『<英語>文学』であるとみなされるべきなのも,当然のことだろう」(第2章)。
ここには著者たちの言語・文学理論が要約されていると見ていいだろう。「英文学」という権威の解体は,そこに多様な現地語文学を対置することによってではなく,まさに「英文学」なる統一体それ自体が,重なり合う様々な実践のバリエーションから成り立っているのだという認識によってもたらされるのである。だとしたら,それはすなわち,すべての英文学はポストコロニアル文学として読まれうる,ということの認識ではないだろうか? 実際,著者たちのもっとも明白な結論のひとつは,おそらくここにある。つまり「ポストコロニアル文学」は「英文学」と対立する実体としてあるのではなく,そのような思考の無根拠さを暴き破産させるのが,本書の提示する実践なのである。
ポストコロニアル文学の転覆的な実践は,中心の権威を「破棄」し,その空位を新たな言語的・テクスト的実践によって「占有(アプロプリエイト)」するという,二重のプロセスによって特徴づけられている。第2章で見る言語の実践につづき,本書の中心ともいえる第3章で,著者たちはこのプロセスを,今度はテクストの読みの実践によって明らかにしてゆく。ルイス・ンコーシ(南ア)の『交配する鳥』,V.S.ナイポール(トリニダード)の『ミミック・メン』,マイケル・アントニー(トリニダード)の『サンドラ・ストリート』,ティモシー・フィンドリー(カナダ)の『航海の余計者』,ジャネット・フレイム(ニュージーランド)の『アルファベットの外縁』,R.K.ナラヤン(インド)の『菓子売り』がとりあげられ,言語や文化の中心性が解体されるさまざまなプロセスが試される。いまやスタンダードとも思えるこの章の「徴候的」で「メトニミー的」な読みの実践は,とくに文学理論に通じていなくとも充分に楽しめるものだろう。
最後の2つの章では,ふたたびポストコロニアル理論を位置づける試みがなされる。第4章ではインドやアフリカの「土着(インディジェナス)の」(あるいは「伝統」の)文学理論が紹介され,これと一種の対比をなす「移住者植民地」,つまりアメリカ合州国,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドにおいて,同様な「土着」の理論を作り出す努力が論じられている。そしてここでももっとも刺激的なのは,「世界中の植民地支配における最悪の要素を一身に体現する」カリブの諸理論である。E..K.ブラスウェイト(バルバドス),デニス・ウィリアムズ(ガイアナ),ウィルソン・ハリス(ガイアナ)やデレク・ウォルコットらの議論の紹介は,日本語でもまだ始まったばかりである。つづく第5章では文学批評の巨視的な流れの中にポストコロニアル理論を位置づける,総括的な議論が展開されている。いくぶん雑駁な印象もあるが,さらに踏み込んだ議論を知りたい読者には,同じ著者たちによって編まれたThe Post-Colonial Studies Reader (Routledge, 1995)が格好の案内となるだろう。また最近日本語訳が刊行されたエドワード・サイードの『文化と帝国主義 I 』(大橋洋一訳,みすず書房,1998年)や,アルデン・T・ヴォーン『キャリバンの文化史』(本橋哲也訳,青土社,1999年)とも併せて読まれることをお薦めしたい。
最後に。日本の学校教育で言えば「国語」にあたる English (英語・英文学)という科目は,大英帝国による植民地化の事業にとって中心的な役割を担っていた。私たちの多くは「英文学」を翻訳で読んできたが,今世紀の日本は翻訳の中で「英文学」という体制を作り,その体制をひたすら強化してゆくことで,帝国の国民文学の特権的なモデルを維持してきた。そう考えてみると,この書物を日本語訳で読むということは,実は想像以上に厄介なことかもしれない。それは私たちが「英語」「英文学」として理解してきた制度を,「国語」という制度に照らし合わせながら,根本的に問いなおす作業を誘発せずにはいないはずである。
初出:『アンボス・ムンドス 2』,1999年6月,pp. 154-5.
HAMA Kunihiko, 1999, 2001.INDEX|HOME