ステュアート・ホール,ポール・ドゥ・ゲイ編
『カルチュラル・アイデンティティの諸問題      
      ――誰がアイデンティティを必要とするのか?』
大村書店,2001年



カルチュラル・アイデンティティの諸問題 カルチュラル・スタディーズとは,つまるところグローバルな多文化状況におけるアイデンティティの政治学と同一視されるのだろうか? 少なくとも,そのような皮相な理解がなされている地平から一歩でも二歩でも「理論的に」踏み出して,カルチュラル・スタディーズの批判性を新たにしなければならないという切迫感が,本書を貫いていることはたしかだろう.その意味でこれは,アイデンティティを解説するものではなく,そこへ介入しようとするものだ.

本書の英語版は1996年に出版されているから,ちょうど日本で本格的にカルチュラル・スタディーズが導入されはじめた時点と重なる.そのことを念頭に置くなら,本書のステュアート・ホール,ホミ・バーバ,ローレンス・グロスバーグの論考などは,(言葉はおかしいが)「リアルタイム」で読まれるべき報告ともなっている.

まずホールは冒頭の論文で,アイデンティティを言説と主体との結節点として考える.「呼びかけ」るものとしての言説的実践と,主体の構築のプロセスとの出会う点,あるいは「縫合」の点としてのアイデンティティ.こうした立場からすれば,アイデンティティとは「言説的実践がわれわれのために構築する主体の位置への暫定的な接着点」なのであって,「暫定的な接着点」である以上,それは決して固定的なものとして定式化されるべきものではなく,まさに「理論化しつづけること」の要請を含んでいることも読み取れるだろう.じっさい,本書の論者たちに共通しているのは,こうした「理論化」の構えにほかならない.

たとえばジグムンド・ボーマンは,アイデンティティが近代において,そもそも「問題として」のみ生まれ,存続してきたことを,巡礼者という形象に即して系譜学的に説明しながら,ポストモダンの道徳的・政治的文脈を照射してみせる.二クラス・ローズもまた,アイデンティティや自己をめぐる歴史的考察を,フーコーに倣って「主体化の系譜学」と呼んでいる.それは「人間が自己との間に築いてきた<関係>の歴史」であるが,「自己」概念の歴史ではなく,むしろ「自己」に関する実践系を統治する知的な技術を明らかにするものである.今日の「アイデンティティ=主体化」を要請するテクノロジカルな状況については,「起業家」的管理の必要を叫ぶ組織改革論へのポール・ドゥ・ゲイによる批判的検討と併せて読むことで,いっそうの示唆を得られるだろう.またマリリン・ストラザーンは生殖テクノロジーをとりあげて,テクノロジーを権限付与(enabling)とみなしてきた欧米的言説の皮肉を抉り出してみせている.

ナショナル・アイデンティティをめぐっても,ケヴィン・ロビンズがトルコを例に,「帝国」の過去を持つトルコとヨーロッパとのアイデンティティの「干渉」,というテーマを論じている.それは同時に「非西洋」とみなされてきた地域における,モダニティとヒューマニズムをめぐる議論の「ねじれ」を歴史的に解明しようとする試みであり,またグローバル化の中でこの関係性がどのような危険にさらされているかについての,すぐれた考察でもある.

ホミ・バーバは,「文化批評」に対する彼のスタンスを要約しているようなエッセイ「文化の中間者」で,多文化主義をめぐるチャールズ・テイラーらの議論(『マルチカルチュラリズム』,岩波書店)に介入する.バーバの関心は,マイノリティの文化的位置が,その文化が生きられる「現在」の時間性と密接に関わっているということにあり,多文化主義の「平等の想定」が,この現在を排除してしまうことに強い危機感を表わしている.(別の観点からは,啓蒙主義と「市民」概念をめぐるジェイムズ・ドナルドのエッセイも非常に面白い)

バーバの関心が時間論的な批判であるとしたら,ローレンス・グロスバーグの関心はアイデンティティの「空間論的転回」をラディカルに行うことにある.彼は近代のアイデンティティ構成がそのもとに置かれてきた権力の編制原理は「差異の論理」「個別性の論理」「時間性の論理」にあったとして,これに対してカルチュラル・スタディーズが展開すべき批判の軸として「他者性の論理」「産出性の論理」「空間性の論理」を提起する.グロスバーグの観点からすれば,アイデンティティを脱本質化された,断片的,雑種的,ディアスポラ的で差延を含んだものとして,その多義的で不安定で葛藤に満ちた姿を提示するだけではまだ足りない.彼はもっとはっきり,そうした見方自体がアイデンティティを――そして同様に「差異」を――構築する近代的権力の論理をなぞっているのではないかと批判する.グロスバーグが控えめに指し示す出口は,ジョルジョ・アガンベンが『到来する共同性』で描いたような共同性となるだろう.

またサイモン・フリスは高級音楽と低級(ポピュラー)音楽の区別を問題化しながら,音楽の美学において決定的なのは,作品の対象の質ではなく,演奏や,とくに聴取のもたらす経験の質であることに焦点を当てる.フリスの歯切れよい議論もまた,この論集の収穫のひとつだろう.


初出:『週刊読書人』2001年6月1日号



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