ネット型運動の「多様性」と「時差」
昨年6月,インターネットを主要な媒体として,大学関係者らによる「『君が代・日の丸の法制化』に反対する共同声明」(「六月声明」)と署名活動が開始されてから,もう1年以上になる.この間の政治情勢のなし崩し的な悪化については,言うべき言葉を持たない.以下に記すのは,そうした状況への対抗として構想され,持続しているネット型の運動についての,個人的な覚書である.
「六月声明」とともに始められた署名は,時間的な制約もあり,主に電子メールで賛同者を募ったことに大きな特徴があった.この署名は急速に広がり,8月には800名を超える個人が署名した.ひとりの文化研究者(大学院生)として参加したつもりの私も,主に遠隔地にいる友人ら20人ほどにさらに呼びかけたところ,その大半が賛同して署名をするか,賛同できない場合にもその理由を返答してくれた.総じて大学院生や若手研究者の関心が高かったことは,指摘できると思う.研究者としてさまざまなかたちで国民国家批判や国民表象の分析を展開しながら,それとはまさに逆行する論理が自自公政権の「クーデター」的状況でまかり通ろうとしていることに,およそシニカルな態度をとれなかった,研究者としての誠実さの表われであるだろう.
だがそのようにして急速に拡大したネットワークにも,問題がないわけではなかった.ひとつは,なんとしてでも法案成立を阻止すべきだと考えた呼びかけ人が,目の前にせまった国会での審議日程を前に,民主党議員が提示した「国民投票」案を支持したことをめぐるものだった.国民的境界線の構築を問題にしているはずの運動が,なぜ「国民投票」を支持できるのか,また署名と声明文(「六月声明」),そして国会議員への働きかけの関係はどのようになっているのか,という疑義が,「質問と意見」として,同報(CC)メールで署名者たちに発信されたのである.
この署名では,署名と同時に電子メールによるネットワークが組織されていたのだが,これは専用のメールサーバを借りたメーリングリスト(ML)ではなく,署名者のメールアドレスを公開し,それらを共有して同報メールを活用するというものだった.発信されたメールが参加者全員に一律に届くMLとちがい,この方法では,同時に受け取る受信者を発信者が選ぶことができる.このことが,思わぬ形で議論を紛糾させることになった.
その経緯の詳述は避けるが,筆者なりに言えばそれは,「同時的」と考えられるメールでのやりとりに含まれる「時差」や「温度差」が,思わぬ形で露呈した瞬間だったと思う.
国会議員に働きかけた呼びかけ人たちは,あくまでも法案成立を阻止するために,できることはすべてやり尽くす覚悟だった.それが,ネットの中だけで議論を楽しんでいる者から冷や水を浴びせかけられた,と感じられたのである.他方,「質問と意見」を発表した署名者たちもまた緊密に連絡をとりあっており,「質問と意見」も共同で起草されたものだった.二つの「同時的」な議論が,この場合,距離をもたないと考えられたネットワークの中で,別々に進んでいたのである.それをローカリティと言ってもいいかもしれない.
さらに,この「知識人」によるネットワークの中の署名運動をめぐっては,より具体的なローカリティ,すなわち「現場」との関係の問題も提起されていた.教育委員会や学校長からの圧力や,相次ぐ処分の現場にほとんどさらされたことのない大学教員や研究者がはじめた運動に対しては,長らくこの問題に取り組んでいた運動体や教師の側から疑問が投げかけられていた.このことは,のちに「反ひのきみネット」に母体を移して法制化後初の卒業式・入学式シーズンを迎える中で,ますます切実につきつけられることになっていくが,他方,大学もまた「現場」であったことは,11月の天皇即位十周年時や,12月の東京外語大の独立百周年記念式典での「日の丸掲揚」問題で明らかになっていた.
昨年10月に立ち上げられた「日の丸・君が代に対抗するネットワーク(略称:反ひのきみネット)」は,こうしたネットワーク型の運動の問題点をも自らの課題としていたと言ってよい.ホームページとメーリング・リスト(ML)が開設され,MLには6月現在で約300名が参加している.参加者には教育現場ほかで活動してきた市民も多く,運動情報の交換のみならず,しばしば参加者個人の日常的な現場から問題提起がなされ,それをめぐって議論がくり広げられている.「意見交換」をも旨とするフォーラム型のMLとしては,現在のところきわめてよく機能している例と言えるだろう.
また,ネットワークの多様性を損なわないために,ホームページでは英語とハングルのページも同時につくられ,それぞれMLも開設されている.こちらは残念ながら十分機能しているとは言いいがたいものの,理念的には,ネットワークの構築自体にこうした多様性が確保されていることの意義はきわめて大きいと筆者は考えている.たとえば日本で暮らすイラン人やブラジル人が,子どもの教育をめぐってペルシャ語やポルトガル語で議論に参加するということは,現時点ではまだ考えにくい.しかしだからといって,その可能性はあくまでも排除できないだろう.多様性とは,この可能性が排除できないということなのであって,それがどこまで実現されているかは,いわば程度の問題にすぎないのである.
こうした多様性を,いかにネットワークの「同時性」として実現していくかが,問われている最大の課題であろうと思う.3月11日,神田パンセ・ホールで「まつろわない言葉たちの祭り」を開いたことは,この「多様性‐同時性」に向けた試みでもあった.「リード・イン・スピーク・アウト」を中心に,詩や朗読劇,音楽演奏やビデオ作品上映など,多彩なパフォーマンスを集めて,多様な「現場」からのメッセージをそれぞれに受け取り,手渡すことを目指したこの「祭り」の実行委員会は,「反ひのきみML」参加者が中心となっていたものの,メディアとしてのMLと,東京の「祭り」とは同じではないことが意識されてもいた.とはいえ,実行委員の約半数が海外や遠隔地におり,この「祭り」は直前までネットを通じて準備されていたのである.ここでもまた,その「時差」が見失われる危険と隣り合わせの作業であったことは言うまでもない.管理者の間では,多いときには一晩で実に20〜30通ものメールが届くというペースで打ち合わせが進められており,そこで確認される「同時性」が,当日同じ会場に居合わせる者同士のそれを凌駕してしまうほどに感じられたとしても不思議はない.幸いそれが運動に大きな亀裂を生む事態は避けられ,むしろ多様な交流のかたちを確認する方向にもっていけたことは,MLのその後の活況が示していると思う.
受信者や参加者が好きなときに「オン/オフ」を切り替えられるのは,インターネットによるコミュニケーションの大きな特徴のひとつである.その意味では,ネット上の同時性とはいわば選択的な同時性である.むしろ,そうした「選択的同時性」が可能なかぎり多様な時間性=ローカリティに対して開かれており,さまざまな時間性を自発的に結び合う同時性となることが,ネット上の開かれた運動の理想ではないだろうか.
少なくとも,直立不動で歌われる「君が代」の,あの重苦しく単調なユニゾンこそが支配者の押しつける均質な時間であるとしたら,それに対抗する運動は,さまざまな「時差」を積極的に含みこみ,それを現場の多様さの認識へとつなげていくものであってほしいと思う.なお試行錯誤の段階であるが,多様な現場を横断的につなぐネットワークの中から,抵抗の新たな同時性をさぐる試みの今後に注目してほしい.
「六月声明」から反ひのきみネットに至る活動の詳細は,インスクリプトや反ひのきみネットを参照してほしい.また「まつろわない言葉たちの祭り」のビデオを1本2,000円で販売するので,希望される方は,03-3949-1969(FAX)か islands@mbe.nifty.com まで.
初出:『情況』2000年8月・9月合併号,
【CULTURE AND POLITICS】.
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