■■ イントネーションと文の基本構造・情報構造について ■■


インドネシア語は単語さえ覚えればすぐ話せるようになりそうです。イントネーションもそんなにむずかしくなさそう...。
イントネーションが文の構造にかかわるっていうのは、すごく難しいそうだった。すぐ間違えそう。

 イントネーションに関するコメントが非常に多く、正直なところびっくりしました。上のコメントのように「難しくなさそう」というものもありましたが、「難しそう」というコメントの方がむしろ多くありました。

イントネーションが語の役割を決めているのだとしたら、書き言葉の読解は難しいのではないですか?
イントネーションが結構わかりづらかった。きっと、今日やったこと以外にもいろいろな約束があるのだろうと思った。

 授業では「イントネーションが文の構造に関わる」ということを強調しすぎたようです。上のコメントのような「文章の読解が難しいのでは」という疑問もけっこうありました。

 しかし実際には、文の構造はイントネーションのみで決定されるわけではありません。フレーズ内の語順、述部の中心となる(なりやすい)語、助動詞の位置、など、どこでフレーズが区切れ、どの部分が主部になるか(あるいは述部になるか)を判断する基準が他にもあるのです。

固有の文字をもたなかったということが、イントネーション重視のことばになった原因の一つではないかとも感じた。

 自然言語は基本的に音声(話し言葉)がまず先にあり、文字は音声(話し言葉)の一部を転写しているに過ぎません。これはインドネシア語に限らず、文字を用いているどの言語でも言えることでしょう。

 「固有の文字を持たない」ことが「イントネーション重視のことばになる」という考え方は、飛躍しすぎた発想です。

文章が短く、主語がなくて簡単そうに見えたけど、本当は難しそう。イントネーションが重要なので。
述語が無いのはシンプルでいいかなとは思いましたが、よく考えるとすごく大変そう......イントネーションがきちっとわかっていないとダメみたいだし。どこが主部かわからなさそうですね。

 インドネシア語の文の基本構造は「主部−述部」であると説明しました。「主語がない」「述語がない」というのは説明の取り違えでしょう。

 「文章が短い」というのは、説明の際に取り上げた例文がたまたま短かっただけで、必ずしも一文一文が短くないのは、配布したビデオのスクリプトを眺めてみるだけでもわかるかと思います。

 また「述語がない」という下のコメントは、恐らく "Saya orang Jepang."「私は日本人です」の類の文でいわゆる be 動詞に相当するものがない、ということを言いたかったのではないでしょうか。しかし、この文では "orang Jepang" が述部を担っているのです。

(dia berangkat kemarin)「出発した」ことを言いたいのか、「昨日!」と言いたいのかイントネーションで変わるところが、慣れれば簡単だろうけど、初めの方はたいへんだなぁと思いました。

 これは慣れると便利ですね。(笑)
 ちなみに、この点について慣れるまでが大変だったという記憶はないです。

一番興味深かったのは、イントネーションの違いによって意味内容が変わるという点です。
イントネーションでも意味が変化する点は、統語的には説明しがたい要素なので、私には難しい言語に感じられた。
個々の単語のイントネーションは決まっていないのに文の中の強調したいところによってイントネーションが決まるというのがおもしろかった。

 「イントネーションで意味が変わる」といった類のコメントが結構目に付きましたが、授業では「イントネーション(の使い分け)で伝達したい内容が変わる」と説明したかと思います。

 文法を考えていく上で「形式(形態)」と「機能」と「意味」を混同する説明がしばしば見られますが、これらはそれぞれ別のレベルで解釈すべきものであることに気をつけて下さい。

 また、語その他の機能を説明する際に「強調」ということばをついつい使ってしまうものですが、この「強調」という概念はかなり曖昧なものだという印象を私は持っています。

動詞を使わなかったり、文脈を重視するので、情報が少なく逆に難しいのかなと思いました。
文脈命のインドネシア語は、口語はともかくとして文章化したときに読者が困るということはないのだろうか?

 「文脈重視である」という説明に対するコメントも数多くありました。
 一文ずつの文法構造も大事ですが、前後の文との関係、あるいは文には現れない状況や背景などを考慮すべきということは、インドネシア語に限らない話だと思います。
 一例を挙げると、代名詞は、何を示しているのかがわからなければ話が成り立たちません。

 コミュニケーションは、ことばそのものだけでなく、周囲にあるものや相手の頭の中にある(であろう)ものなど、様々なものを用いて成り立つのです。

「分かるから省く」のと「繰り返しを嫌う」のは違う?

 この2つは、全く同じものではないでしょう。両者に当てはまる(と思われる)ものもあれば、どちらか一方といったこともあると考えられます。

「二重主語ではなくて、の話」:「象は鼻が長い」の「象は」は主題。

 便宜上「二重主語文」と名付けて説明しましたが、このコメントのとおり「象は」の部分は主題であると論じている論文があります。

二重主語文は構成がいまいちつかめなかった。

 このコメントの構文が「二重主語文」のごとき構成になっていますが......

 「授業の補足」のページに「二重主語文」についても簡単に述べてあります。そちらをご覧下さい。

字面が同じでも伝えたいことが変わりうるなんて、とても面白いと思った。

 日本語でも、例えば「ドンナモンダイ」という字面が2通り(あるいはそれ以上?)に解釈できますよね。
 (ちなみにこれは受け売りです。)

「主語・述語」というよりは「主題・題述」として捉えたときに、何か文法的なものが不足していると考えるより、その中にすでに be 動詞・動詞などが元々組みこまれている、また、英語などのように逆に動詞などが入っている方が世界の言語の基準であると思い込んでいる自分に気付いた。

 「be 動詞・動詞などが元々組みこまれている」という言い方がふさわしいかどうかは別として、「文には動詞が必要不可欠な要素である」ということは必ずしもないとお判り頂けたかと思います。コメントのような思い込みがなぜ起こったのか、考えてみるのも面白いでしょう。

「僕は焼き飯だ」の文はスペイン語の授業でも聞いたが同じ理由によるものか調べてみたい。

 スペイン語でもそのような表現をするのですか。私も勉強になりました。
 同じ理由かどうか、是非調べてみて下さい。できれば報告してもらえるとありがたいです。

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