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金正浩
補助記号の説明

김정호(金正浩;?~1864)

조선 고종때의 지리학자. 호는 고산자(古山子). 황해도에서 태어났다. 미천한 가문의 출신이었으나 학문을 열심히 닦고,일찍이 우리 나라의 정밀지도를 제작하는데 뜻을 두어 30여년간 전국을 돌아다니며 힘쓴 끝에 1834년순조 34년에 “청구도” 두첩을 완성하였다. 그러나 이에 만족하지 않고 그는 다시 전국을 답사하여 1861년철종 12년에 “대동여지도”를 완성하였다. 이어서 그는 전국 각 지방의 연혁・풍속・산수・인물・지리를 기록한 “대동지지” 32권 15책을 펴냈는데,이것으로 한국의 지형과 당시의 각 지방 사정을 알게 되었다. “대동여지도”는 그가 손수 그려서 판각하였고,한벌을 흥선대원군에게 바치자 국가의 기밀을 누설하였다는 죄명으로 그를 옥에 가두고 목각판을 불태워 버렸다. 그후 그는 심한 고문을 당하고 옥에서 세상을 떠났다. 오늘날 전하는 “대동여지도”는 수사본手寫本)⌒뿐이다.

出典:NEWTON編集部編 『과학 인명 사전』(NEWTON 5월호 별책 부록,계몽사,1995

 語 義 
고종〈高宗〉  (李氏朝鮮第26代国王)
지리학자〈地理學者〉  
〈號〉  号。
미천하다〈微賤――〉  身分が低くいやしい。
열심히〈熱心―〉  熱心に。 → 分析
일찍이(北:일찌기)  早く。
정밀〈精密〉
I-  …するのに。
뜻을 두다  志を立てる。
돌아다니다  歩き回る。
쓰다  骨を折る,頑張る。
〈帖〉  
답사〈踏査〉
이어서  続いて。잇다 の第III語基形に語尾 - がついた形。
연혁〈沿革〉
풍속〈風俗〉
산수〈山水〉
펴내다  出版する。
지형〈地形〉
I-게 되다  …するようになる。
손수  手ずから。
그리다  描く。
판각〈版刻〉
  揃え。
바치다  捧げる。
기밀〈機密〉
누설(北:루설)〈漏洩〉
죄명〈罪名〉
〈獄〉
가두다  閉じ込める。
목각판〈木刻版〉
불태우다  燃やす。
고문〈拷問〉
오늘날  今日。
전하다〈傳――〉  伝える。
 分 析 
열심히  熱心に

朝鮮語の用言の副詞形は大きく分けて2つの作り方がある。1つは語尾 I- を用いるものであり,もう1つは接尾辞 -/-- などを用いるものである。I- はあらゆる用言から作ることができるオールマイティの語尾である。接尾辞を用いた副詞形は形容詞から作られるが,全ての形容詞で可能なわけではなく形の作れる形容詞があらかじめ決まっているので,いちいち覚えるしかない。

- は子音語幹および語幹の形容詞から副詞を作り,-語幹および変格の形容詞から副詞を作る。語幹の形容詞に - をつける場合,第III語基を作るときのように母音「」が脱落する。また変格の形容詞に - をつける場合にも,第III語基を作るときのように単語の形が -ㄹㄹ- となることに注意。

  • 많다(多い) ― 많이(多く),바쁘다(忙しい) ― 바삐(忙しく)
  • 멀다(遠い) ― 멀리(遠く),빠르다(早い) ― 빨리(早く)

-하다 がついて形容詞になるものは,-하다- に換えることによって副詞形になる。ただし,「따뜻하다」のように 하다 の直前に終声 のあるものは - ではなく - がつく。

  • 안녕하다(元気だ) ― 안녕히(元気に),조용하다(静かだ) ― 조용히(静かに)
  • 깨끗하다(きれいだ) ― 깨끗이(きれいに),따뜻하다(暖かい) ― 따뜻이(暖かく)

しかし,本文に出てきた「열심히」は変則的である。- がついているところから見て,原形は「열심하다」のように思われるが,実は指定詞「-이다」がついた「열심이다」なのである。「-이다」がついて形容詞的な意味を表すものは,곽학적이다(科学的だ)のような形容名詞であるが,一般の形容名詞は -으로 をつけて副詞的な意味を表す。形容名詞なのに副詞形で -으로 でなく - がつくということ,また逆に副詞形が - なのに原形が -하다 とならないという点で,열심 という単語は極めて例外的なので注意が必要だ。

 日本語訳 

金正浩(?~1864)

李朝・高宗の時の地理学者。号は古山子。黄海道で生まれた。身分の低い家門の出身だったが学問を一所懸命に磨き,早くにわが国の精密地図を製作することに志を立て,30余年間全国を歩き回り骨を折った末に,1834年(純宗34年)に『青丘図』2帖を完成させた。しかし,これに満足せずに彼は再び全国の踏査を行ない,1861年に『大東輿地図』を完成させた。続いて彼は全国各地方の沿革・風俗・山水・人物・地理を記録した『大東地誌』32巻15冊を世に出したが,これで韓国の地形と当時の各地方の事情が分かるようになった。『大東輿地図』は彼が手ずから版刻し,ひと揃えを興宣大院君に捧げると,国家の機密を漏洩したかどで彼を投獄し,木刻版を燃やしてしまった。その後彼はひどい拷問を受けて,獄中で世を去った。今日伝わっている『大東輿地図』は手写本だけである。


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