漢陽趙氏
私の系譜

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私の系譜

 私は漢陽趙氏である。本貫が漢陽である趙だ。私の手許にある族譜『漢陽趙氏兵参公派譜』(1998年刊)から、私の系譜を簡単に紹介する。族譜の検証をしていないので系譜の真偽は定かでないが、とりあえず歴史ロマンとして私の系譜を楽しんでみたい。

【漢陽趙氏系図】
(傍系の子孫は「…」で省略した)

 私が属する派は、族譜の名にもあるように「兵参公派」である。兵参公派は7世・憐という人物を派祖とする派であるが、派の名称は憐が兵曹参判(国防省副長官に当たる)の官職に就いていたことに由来する。また、同時に私は兵参公派の中の「郡守公派」に属している。これは8世・云従が郡守を勤めたことによるものである。
 私の直系の祖先を私なりに時代区分すると、おおよそ以下の4期に区分できる。
  1. 咸鏡道時代:4世以前(14世紀末以前)
  2. 京畿道時代:5世~8世(14世紀末~15世紀)
  3. 慶尚道時代:9世~11世(16世紀)
  4. 忠清道時代:12世以降(17世紀以降)
 以下、この時代区分に従って、簡単に「先祖」の紹介をする。

咸鏡道時代

 始祖・之寿から4世・暾まで、年代にすると1200年代から1300年代末ぐらいまでの時期である。時代は高麗末期であり、先祖が咸鏡道(朝鮮半島東北部、現・共和国)を拠点に活動をしていた時代である。高麗時代、咸鏡道はまだ高麗の版図に完全には入っておらず、朝鮮人と女真人の雑居地域だったという。咸鏡道のうち南部地域だけは高麗の支配領域に入っており、漢陽趙氏の始祖はこの付近を拠点にしていたらしい。
 始祖・之寿についてはどのような人物だったのか詳しくは分からない。族譜には高麗の朝順大夫僉議中書事という官職に就いていたという記述がある。詳しくは調べていないが、高麗時代に朝順大夫という品階があったことを確認することができなかった。高麗時代、とりわけ元の侵入があった頃は、官庁の統廃合や官職名の変更がたびたび行なわれていたので、最も肯定的に見れば、一時的に朝順大夫という品階が存在したと考えうる。しかし、最も否定的に見れば、後孫が一族と始祖の威厳を高めるために、仮託して作り上げたものと見ることができる。
 2世・暉、3世・良琪、4世・琳と琳の子・小生の4代は双城摠管という職に就いていた。元朝が高麗の和州(現・咸鏡南道永興地域)に侵攻後、和州の統治機関として双城摠管府を設置したが、元軍の侵攻の際に暉が元軍を引き入れ、その功により暉は摠管の職を受け、以降世襲された。このような事実から見て、漢陽趙氏はもともと辺境地域の武人ではなかったかと推測する。
 4世・暾は高麗の中央政権側について双城摠管府を攻め、高麗が和州を回復するのに重要な役割を果たした。その後、紅巾賊撃退の功で一等功臣となり、竜城君に封ぜられ、死後は竜城府院君を贈職された。
 4世までの墓所は咸鏡南道の永興・徳源・安辺と、いずれも咸鏡南道南部にある(徳源・安辺は共和国の行政区域再編により、現在は江原道になっている)。
 【いわゆる版図公派について】  漢陽趙氏には系譜上の一大争点があり、訴訟にも発展した問題がある。それは第2世に関するものである。上の譜では第2世は暉1人ということになっているが、暉には麟才という兄があるとする主張がある。そして、一般に暉の子孫の派を「摠管公派」、麟才の子孫の派を「版図公派」と呼んでいる。
 摠管公派と版図公派はそれぞれ異なる行列字を用いるなど、系譜上まったく別個のグループとしてふるまっている。漢陽趙氏の最初の族譜である甲申譜(1527年)に麟才の名が現れないことから、後世に版図公派が麟才を之寿の長子として組み入れた可能性が強い。漢陽趙氏大宗会(摠管公派系)の公式見解では、諸文献から見て版図公派は実は「永興趙氏」であるとしている。
 私が一瞥するに、資料などから客観的に判断して、摠管公派と版図公派は互いに別系統の一族であるように見える。しかしながら、もともと漢陽趙氏の上系の活動地は版図公派と同じ永興一帯であるので、暉と麟才が兄弟だったという確証はないにせよ、何らかの血族関係にあった可能性も完全には否定できないのではないだろうか。

京畿道時代

【墓所関連地図】
道の区画は現在のもの
 京畿道時代は、漢陽趙氏が李氏朝鮮の開国功臣となり、一族の権勢が大いに伸びた時期である。
 5世・仁璧は李氏朝鮮の初代王・李成桂の妹である貞和公主を娶り、のちに純誠翊衛協賛輔理功臣、三重大匡・竜源府院君となる。死後に襄烈という諡号(おくり名)を贈られた。
 6世・涓、7世・憐はともに中央政権の重要な官職に就いている。仁璧から憐までは墓所がソウル近辺にある(仁璧は開城、涓は坡州)。憐の墓所も、もともと狎鴎亭(アックジョン)にあった。狎鴎亭といえば、現在はソウル江南地域で随一のファッション街である。1970年代に狎鴎亭の開発の際に、憐の墓所はソウル西北郊外の碧蹄に移された。
 なお、漢陽趙氏の中で最も有名人である趙光祖は、6世・涓の兄である温の子孫である(庫使公派)。

慶尚道時代

 9世・琮からは墓所が慶尚道に移るが、これは居住地がソウルから地方へ移ったことを意味する。族譜には、琮の記事として「自京避己卯門禍仍居栄川(京より己卯門禍を避けてすなわち栄川に居す)」という記述がある。己卯門禍は一般に己卯士禍(1519年)と呼ばれている事件で、政権内で勲旧派(守旧派)と士林派(新進派)が権力闘争を行ない、その結果士林派が敗れ多くの人士が死刑・流刑に処せられた。このとき、士林派のリーダーであった漢陽趙氏の一族である趙光祖が己卯士禍により流刑になり、その後に賜薬(毒薬)を賜っている。琮は漢陽趙氏一族への追及を逃れるために慶尚道栄川(現・慶尚北道栄州)に移り住んだのであろう。
 栄州は、両班村で有名な安東の北方に位置する町である。ここに移り住んだ琮の子孫は、その後栄州・安東一帯に代々住み、安東郡西後面には現在も漢陽趙氏の宗家がある。琮の長子・云恭の子孫はその後、一部が全羅道(朝鮮西南部)に移り住み、また一部は黄海道(朝鮮中西部、現・共和国)に移り住む。黄海道に移り住んだ子孫について、族譜には近年(朝鮮解放以降)の記事がない。南北分断の影が族譜にも見え隠れする。
 傍系だが、8世・云従の弟である云明の子孫に絅という人物がおり、この人物が兵参公派の中では最も著名人である。趙絅は正二品・議政府右参賛まで昇った人で、1643年の朝鮮通信使では副使として日本を訪れている。絅は文簡という諡(贈り名)をもらっており、絅の子孫は「文簡公派」という一派を作っている。

忠清道時代

 12世・極から墓所が忠清道公州(現・忠清南道公州郡)に移る。これは極あるいは極の子・永在が忠清道に移り住んだことを示唆するが、彼が慶尚道から忠清道に移り住んだ経緯は明らかでない。ただ、この時期はちょうど秀吉の朝鮮侵略(朝鮮で言う「壬辰倭乱(1592)」、「丁酉倭乱(1597)」の時期でもあるので、戦火を逃れて忠清道に移り住んだのかも知れない。忠清道に移ってから、私の先祖は特に華々しい活躍をした人は見られず、田舎でひっそりと暮らしていたようだ。12世・極から15世・承演の墓所は公州郡長岐面済川里にあり、16世・東奭の墓所は公州の東、燕岐郡南面高亭里にある。公州郡と燕岐郡は互いに隣接する郡である。17世・日煥からは更に東、燕岐郡西面へと移り、以降私の曽祖父(23世)までは燕岐郡西面の同じ山に墓所がある。17世・日煥から祖父までの墓は私も実際に墓参りをして確認した。
 22世・鍾運以降は、植民地時代の旧朝鮮戸籍により、その存在が確認されている。
 以下は忠清南道燕岐郡西面にある漢陽趙氏一族の墓所の写真である。朝鮮は土葬であり、墓は土盛りをして芝生を植える。南に面した日当たりのよい山の中腹が墓地として好まれる。墓の近くには漢陽趙氏の村もある。このように一族が集まって暮らす同族集落を「集姓村」という。李氏朝鮮時代に著名人を輩出するなどした由緒ある集姓村には、立派な朝鮮家屋が建ち、書院などの建物があったりする。燕岐郡に移り住んだ漢陽趙氏一族には著名人もおらず、今では農業従事者が主流のようなので、ここの集姓村には昔の両班の暮らしを髣髴とさせる立派な建物は何も見られず、ごくふつうの農村だった。

忠清南道燕岐郡西面にある漢陽趙氏の墓群
写真を撮っているこちら側と丘の向こう側にも
漢陽趙氏一族の墓がある。一帯墓だらけ。
漢陽趙氏の墓群
18世・趙基遠公の墓
墓碣には「贈通訓大夫漢陽趙公基遠之墓
配貞夫人慶州鄭氏合窆」とある。
趙基遠公の墓

歴代先祖一覧

 始祖から21世までの直系先祖の主な情報を整理すると、以下の通りである。表中の生没年が(  )表記されているものは、族譜に生没年表記がないもので、推定生年を記した。墓所の「咸南」は「咸鏡南道」、「京畿」は「京畿道」、「慶北」は「慶尚北道」、「忠南」は「忠清南道」の略。官職等の「贈」は死後に官職等を贈職されたもの。
生没年 配偶者 官職等 墓所 朝鮮史年表
1 之寿 (1200頃?~) 不伝 朝順大夫僉議中書事 咸南 永興郡西面銀谷洞(不伝)  
 
1258 双城摠管府設置
1274 元寇
 
 
 
 
 
 
1392 李氏朝鮮建国
 
 
 
 
 
1512 己卯士禍 
 
1592 壬辰倭乱
1597 丁酉倭乱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1875 江華島事件
 
2 (1220頃?~) 不伝 双城摠管 咸南 徳源郡北城面新安里
3 良琪 (1250頃?~) 朴氏 副元帥 咸南 永興郡徳興面竜川里
4 1308~1380 杆城李氏 竜城府院君 咸南 安辺郡新茅面漁遊池洞
5 仁璧 ?~1393 河東鄭氏
貞和公主
 (全州李氏)
竜源府院君 京畿 開城郡興教面蛇串里
6 1374~1429 卞韓国大夫人
 福山金氏
右議政 京畿 坡州郡月竜面徳隠里
7 (1400頃?~) 貞夫人
 仁川李氏
同知敦寧
兵曹参判
京畿 高陽郡碧蹄面碧蹄里
(本・京畿 広州郡彦周面狎鴎亭里)
8 云従 (1430頃?~) 全州李氏 郡守 不伝
9 (1460頃?~) 平海黄氏 清河県監 慶北 栄川郡南栗枝
10 信琬 (1490頃?~) 善山金氏 通徳郎 慶北 奉化郡小川面大峴里
11 1527~1618 晋州河氏   慶北 奉化郡小川面大峴里
12 (1560頃?~) 清州韓氏   忠南 公州郡長岐面済川里
13 永在 (1600頃?~) 済州高氏 贈 嘉善大夫 忠南 公州郡長岐面済川里
14 鉉瑞 (1640頃?~) 坡平尹氏 贈 嘉善大夫 忠南 公州郡長岐面済川里
15 承演 (1680頃?~) 南陽洪氏   忠南 公州郡長岐面済川里
16 東奭 (1720頃?~) 光州金氏   忠南 燕岐郡南面高亭里
17 日煥 1765~1827 金海金氏
慶州薛氏
  忠南 燕岐郡西面月河里
18 基遠 1784~1852 慶州鄭氏 贈 議官(通訓大夫) 忠南 燕岐郡西面月河里
19 錫鎬 1802~1863 金海金氏 贈 秘書丞(通政大夫) 忠南 燕岐郡西面月河里
20 済吉 1817~1878 天安全氏 贈 資憲大夫 忠南 燕岐郡西面月河里
21 道植 1845~1898 慶州金氏 贈 通政大夫 忠南 燕岐郡西面月河里



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