これに対し、李寧煕氏が「解読」したという新解釈では、以下のようになるそうだ。
如此耳 恋哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二(巻四の六九三・万葉仮名)
かくのみし 恋ひや渡らむ 秋津野に
たなびく雲の 過ぐとはなしに
(こんなふうにして 恋しつづけることであろうか 秋津野に たなびく雲のように 思いが消えてしまうというわけでもなく) (日本古典文学全集)
(このように恋いつづけてばかりいることであろうか。秋津野にたなびいている雲のように、過ぎ去って忘れるということ無しに) (日本古典文学大系)
それでは、李寧煕氏の「解読」にそって1語1語検証してみよう。なお、解説中のハングルのローマ字表記部分は志部昭平式のローマ字表記法にし、引用した本文のルビは< >で表す。
かく急に/ともに棲まむと/いわれても/秋津野に/すべてをやめて/しりぞける/くもは住み場の/多く無かれに
(急に一緒になろうと 仰せられても 秋津野に すべてを辞めて退いている貊[こま]は 住み場があまり無いのですから)
2つの言語の系統関係を調べる場合、何よりもまず基本となることは、双方の言語をより古い形にさかのぼって比べなければならないことである。これは基本中の基本だ。言語は時代とともにどんどん変化する「ナマ物」である。現代語だけを見て、それが似ているからといって大昔も似ていたとは限らない。幸いにして、日本語は古事記や万葉集など古代の言語の記録が残っており、古代語の姿をはっきりと知ることができるが、朝鮮語の場合は言語の姿をはっきりと知ることのできるハングル文献が15世紀までしかさかのぼれず、それ以前の言語に関しては漢字表記された極めて断片的な資料しか残っていない。そこで、朝鮮語はまずもって15世紀の朝鮮語(中期朝鮮語)をじっくりと調べ上げ、それ以前の古代語については中期朝鮮語の知識を基にして、慎重にその姿を推測しなければならない。
(1) 如此耳<がくぎ>(急に)
「如」は韓国訓で「<がっ>」。此れを終声を消すと「<が>」。
「此」は日本訓で「これ」「この」。第一字目の「こ」をとり、これを韓国語の「<ご>」にあてます。
「耳」は韓国訓で「<ぎぃ>」、これを「<ぎ>」とよませます。
三字合わせて「<がごぎ>」。「急に」意味の古代語「<ががぎ>」または「<がぐぎ>」の酷似音になるのです。現代語で「<がぷじゃぎ>」。この「如此耳」と同じことばに「如是耳」(<がちぇぎ>)と「如是耳也」(<がちぇぎや>)があります。新羅の故地である慶尚道一帯、特に慶山・永川など大邱・慶州付近、または金海・馬山・昌寧など南海地方では、現在でも使われている方言です。
「恋」を「さ」と読む根拠として挙げている朝鮮語「 sa-mo-har」は、実は「韓国訓」(固有語)では全然なく、漢字語である。漢字語とは、日本の漢語にあたるもので、漢字を朝鮮式の音読み(朝鮮漢字音)で読んだものである。最後の「」は日本語の「する」に当たる動詞で、その前の2字「」は「思慕」という漢語をそのまま朝鮮語読みしただけである。日本語に置きかえて言えば、「恋」の意味が漢語の「慕情」と同じだから、「ぼじょう」の頭の「ぼ」をとって「恋」と「ぼ」読んでいるようなものである。これはすでに荒唐無稽を通り越している。しかも「」は現代語である。中期朝鮮語では「思」の音は「 sa」でなく「 s@」と母音が違っていたのである。これでは「恋」を「さ」と読む根拠がなくなってしまったわけで、せっかく智恵を絞って考えたアイデアも全てパーになっている。
(2)(3) 恋哉将度<さじぇしょど>(棲もうと仰られても)
「恋」の韓国訓は「<せんがく>」(思)、「<さもはる>」(慕)など。後者の「<さもはる>」をとり、このうち第一字目の「<さ>」を使います。
「哉」は韓国訓で「<じぇ>」。
「将」は日本音で、「しょう」。これを酷似音の「<しょ>」にあてます。
「度」は韓国音でも「<ど>」「ど」です。
四字合わせて、「<さじぇしょど>」。「一緒になろうと仰られても」「同棲しようと言われても」の意で、現代語「<さるじゃしょど>」の新羅ことばです。
「<さじぇ>」は「<さるじゃ>」(生きよう・棲もう)の新羅ことば(現在でも慶尚道地方で使用)、「<しょど>」は「<はしょど>」(「…仰られても」「…なさっても」)の約で、「<へど>」(「…言っても」「…しても」)の敬語です。
「秋」が日本語で「あき」だからといって、それをさらに音が似ている朝鮮語の「 'a-gi」と見なすことの妥当性が全くない。この論理が成り立つならば、「冬」は「ふゆ」と読むので、英語の「few」と解釈できるなど、朝鮮語のみならず英語でもロシア語でもモンゴル語でも、なに語でも解釈できることになってしまう。
(4) 秋津野尓
この部分は、日本語でそのまま「秋津野に」と詠んでいます。
(中略)
大伴千室は、実際「秋津野」に住んでいて、日本をも意味したその地名に「日本」を同時にかけていると考えられるのです。
日本の古代異称は「あきづしま」(後世「あきつしま」と称しました)で、秋津島、秋津洲、阿岐豆志麻と漢字表記しました。
この「あきづしま」を韓国語でよむと、どういう意味になるのか試してみましょう。
「秋」を日本訓でよむと「あき」、これを韓国語にあてると「<あぎ>」で、「子」「赤児」の意の名詞になります。
「津」は日本音よみで「つ」、または「づ」、韓国語にあてはめると「<じ>」で、所有格「…の」の意の漢字「之」の漢字音よみにあたります。
「志麻」の日本音よみは「しま」、島の意です。島は韓国語で「<そむ>」。古代語は「<しむ>」(東南部海岸地帯では現在でも「<しむ>」と呼んでいます)です。
全部合わせて、「<あぎじそむ>」。「子の島」(子である島)という意味になります。「子島」すなわち「別島」「分国」の意味なのです。
「引」を日本語「ひく」と漢字音「いん」を組み合わせて「ひくいん」と読み、これを朝鮮語の「 bi-kin」と関連づけるのは、李寧煕氏の言うとおり、まさに奇抜である。朝鮮の文献、日本の文献のいずれを見ても、このような方法で漢字を読ませるものは1つとしてない。そのうえ、「ひく(hi-ku)」と「いん(in)」を合わせるときに、「ひく」の末母音「u」をいつのまにか落としている点も、実に不可解である。なお、「」という語は中期語の文献には現われない語で、近世以降に新たにできた語である可能性がある。さらに付け加えると、「引」の意味として「」が挙がっている古今の朝鮮の漢字字典を、私は見たことがない。
(5) 多奈引<だねびきん>(すべてを辞め退いた)
この部分も、二重よみです。
(中略)
また、「多」と「奈」の二字を韓国音でよむと、「<だね>」。一方、三字目の「引」の場合は、日本訓の「びく」に日本音(韓国音も同じ)の「いん」を二重に接合させると、「びくいん」となるのですが、これを韓国語にあてはめると「<びきん>」になります。「退いた」「よけた」の意の形容詞です。漢字の「引」自体にも、「退く」の意味が含められています。
これは非常に面白いよみ方で、漢字一字の音と訓を同時に複合活用し、二字に使っているのです。この部分は韓日二重のよみなので、奇抜な工夫を凝らして、日本語でも韓国語でもよめるようにしているのでしょう。
どういういきさつで「貊イコール熊、イコール篭毛、イコール雲」という等式が成立するのか、全く根拠がない。朝鮮語の「 gom」が古くは「 go-ma」であり、この形が日本語に借用されて「くま」となったという仮説は成り立つが、「くま」と「くも」の間には、それが同語である必然性が全くない。
(6) 雲能<くもぬん>(貊は)
同様、韓日二重よみです。
「雲」は日本訓で、「くも」。「くも」音は、韓国語の「<こむ>」(熊)音によく似ています。熊に似ている動物貊<めく>も、古代日本では「こま」と呼ばれていました。「貊」は「貊族」の約で、古代韓国の主流部族であったので、貊は古代韓国人の代名詞とされていたのです。貊イコール熊、イコール篭毛、イコール雲の順序で、韓国貊族は古代日本において「雲」と呼ばれていたわけです。雲は空のくもであると同時に、古代韓国族の異称でもあったのです。貊族は、貊を崇尚したことから、このように称されたといわれています。
(中略)
「能」は韓国音では「<ぬん>」。これを酷似音の「<ぬん>」(nun)とします。助詞の「…は」と、同語です。
韓国訓としている「 ji-nar」は動詞「- ji-na-」(過ぎる)に連体形の語尾「 r」がついた形である。末音の語尾「」は、吏読などでは「乙」「尸」などによって表記に反映させる。従ってもしこの語が「 ji-nar」であるならば、「過乙」「過尸」などと表記されてしかるべきである。
(7) 過跡<じなるで>(住み場)
「過」は韓国訓で「<じなる>」。「経過する」「住む」の意である。
「跡」は韓国訓で「<と>」。「土地」、陣地、領地などの意です。新羅ことばでは「<と>」を「<て>」と発音します(慶尚道では、現在でもこのように発音しています)。この「<て>」を、酷似音の「<で>」に使います。「場所」の意です。
李寧煕氏の言うとおり、まさにここがハイライトである。日本語の「は」の子音は、現代でこそ「ha」という「h」音であるが、中世には「ファ」という唇をすぼめて出す音であり、さらにそれ以前にさかのぼると唇を閉じる「p」であったことが知られている。このことは、日本語と同じ系統である沖縄語で、日本語の「ハ行(h)」に対応する音が「パ行(p)」で現われることや、古代に日本に漢字を導入する際に、中国音の「p」を「ハ行」(当時は「p」のような音だったと思われる)で取り入れていることなど、傍証が数々ある。従って、日本語の「は」は古代には「パ(pa)」であったのである。それに対して、朝鮮語の「h ()」は中期朝鮮語でも「h」のままであり、古代においても「h」であったと推測され、「p」だった形跡は全くない。場合によっては「h」が「k」へさかのぼれることも推測されるが、「p」にさかのぼることを裏付ける資料は何一つない。このことから、(古代)朝鮮語の「ha」を(古代)日本語の「は」で表した可能性は皆無である。現代日本語の「ハ(ha)」が昔は「パ(pa)」だったということは、日本語史をちょっとかじった人なら知らない人がいないほど有名な事実である。この「者」の解釈1つで、氏の「解読」なるものが素人以下のものであることが衆目のもとにさらされてしまっているわけだ。
(8) 者<は>(あまり)
「者」は日本訓で、助詞の「…は」とよんでいます。この「は」音を韓国語にあてると「<は>」で、「多く」の意の古語になります。現代語では「<まんい>」。
「過跡」と「者」――、これが難解のハイライトです。
この部分を従来のように「すぐとは…」と、なんの意味か正体のしれない日本語によんでしまうと、解釈はまったく別の方向にそれていくからです。
漢字「二」の音は現代語では「 'i」であるが、中期朝鮮語では「 zi」であった。おそらく「ジ」のような音であったと推測される。この時点ですでに李寧煕氏の解釈は破綻しているのだが、さらに追い討ちをかけよう。再三再四でてくる「新羅言葉」、もちろんここでも単なる慶尚道方言に過ぎないわけだが、慶尚道方言の「 'ebs-'y-'i」は、最後の「 'i」が単なる「イ」という音ではなく、実は鼻母音で、日本語話者の耳には「オプスイ」でなく「オプスンイ」のように聞こえる。発音記号で書けば [] である。鼻母音は慶尚道方言の特徴で、これを表記する方法は現在のハングルの正書法にはないため、しかたなく「」と表記しているのである。
(9) 無二<おぷすい>(ないので)
「無」は韓国訓で「<おぷする>」(ep-sul)。この第一字目は初・中・終声全部そっくり使い、第二字目は終声だけ消して利用します。「<おぷす>」とするのです。
「二」は韓国音で「<い>」。
二字合わせて「<おぷすい>」、三字になります。「無いので」という意味の新羅言葉です。現代標準語では「<おぷすに>」。