古代朝鮮語解読のさわり



 古代朝鮮語の姿を確認するための資料は極めて少ない。日本には古代の文献が豊富に残っていて、うらやましい限りである。現在、古代朝鮮語を知るために使われる資料は、以下の4つである。
 これらの資料から、はたして古代朝鮮語がどれだけ解読されるのであろうか。

朝鮮側の歴史書

 『三国遺事』・『三国史記』などの朝鮮側の歴史書を見ると、新羅・百済・高句麗など古代朝鮮の国の地名が多く現れるが、そこから古代朝鮮語を推測する。これらの書物には「永同郡本吉同郡」などという記述がある。これは「永同郡は、もとは吉同郡である」という意味だ。ここから「永=吉」という等式が成り立つわけだが、これがいったい何を意味しているのだろうか。「ながい」という形容詞は現代朝鮮語・中期朝鮮語ともに「gir-」という単語である。また「吉」という漢字の音は朝鮮語で「gir」である。つまり「永同郡」の「永」は「ながい」という意味の「gir」を意訳して漢字表記したものであり、「吉同郡」の「吉」は「ながい」という意味の「gir」を、同じ発音の漢字「吉」で表記したものである。他にも例えば「密城郡本推火郡」も同様である。「密」という漢字の音は「mir」であり、「おす」という意味の動詞は朝鮮語で「mir-」なので、ここで「密=推」の等式の意味が確認される。
 しかし、これで全て解決というわけにはいかない。例えば「星山郡本一利郡一云里山郡 (星山郡はもとは一利郡で里山郡とも云う)」という記述から、「星=一利=里」という等式が成り立つが、「星」という単語は現代朝鮮語・中期朝鮮語ともに「bier ピョ」であり「一利、里」との関連性が見出せない。あるいは新羅時代に「星」という意味の別の単語が使われていたのかも知れないが、その確かな姿を確認することはできず、せいぜい「星は新羅語で≪一利≫と言ったようである」としか言えない。
 このようにして推測される古代朝鮮語は、どれも単語のレベルで留まり、文レベルの解読には至らない。しかも、地名の別称の表記は全ての地名にあるわけではなく、別称表記があっても全ての語を解明しうるわけでもない。ここから知りうる語も、いくつかの名詞や動詞・形容詞の語幹であり、語尾(助詞のたぐい)がどのようであったかは知るよしもなく、ましてや文の構造がどうであったかなどは、全く知る手立てがないのである。

日本側の歴史書

 日本側の歴史書から知ることのできる古代朝鮮語の姿も、朝鮮側の歴史書の場合と同じく、古代朝鮮の地名・人名の表記をもとに推測するが、やはり単語レベルに留まる。
 「古代日本語いんちき解釈の一例」でも触れた『日本書紀』の「主嶋(にりむせま)」であるが、ここでは「主」の解釈について触れてみよう。「主」を「にりむ」と読んでいることから、「あるじ」のことを古代朝鮮語では「nirim ニリ」のように言っていたらしいと推測することができる。これに当たる現代朝鮮語・中期朝鮮語は「nim ニ」である。現代語で「先生」を「sen-saiq-nim ソンセンニ」というときの、あの「ニ」である。しかし、「nirim」と「nim」では形がかなり違っている。
 この単語は、nirim → niim → nim のように、rが脱落して現代語に至っただろうと推測されている。本当にそうなのか、と疑問に思うふしもあろうが、実は傍証として他の単語にも似たものがあるのである。「世」という単語は「nui ヌィ」というが、この単語は古くは「nuri ヌリ」といい、中期朝鮮語で辛うじて記録されている単語である。つまり「世」という語は「nuri」からrが脱落して「nui」となったのである。さらに、単語のアクセントも注目される。「nuri」は「nu」が低調の音、「ri」が高調の音であるが、rが脱落した「nui」は上昇調、つまり低高調である。「nui」と縮まった音でも本来のアクセントである「低・高」という調子が「nui」に残っている。で、「nim」はどうかというと、これまた上昇調(低高調)の単語である。ということは、これが古くは「nirim」であり、さらに「ni」が低調、「rim」が高調の音であった可能性が極めて高いのである。
 このように、一見すると思いつきのように見える解釈も、二重・三重の傍証によって、その仮説が確かになっていくのである。「いんちき解釈」とは比べものにならないほどの念の入れようである。

古代の文学作品

 文学作品といっても、古代朝鮮語の姿を知るための資料としては「郷歌」と呼ばれる、新羅時代の歌謡である。ちょうど日本の和歌のようなもので、数行の短い歌謡であり、単語レベルでなく文レベルの古代朝鮮語を知るほぼ唯一の資料といえる。ならば古代朝鮮語は解読されたの同然ではないか、と思うかもしれないが、万葉集との決定的な違いは、現存する歌の数である。郷歌は現在20数首しか残っていないため、ここから古代朝鮮語の全貌を知るのは極めて困難である。まずもって、数が圧倒的に少ないため、解読自体がままならないし、ここから判別される単語の数も微々たるものである。郷歌は全て漢字で表記されているが、表記法は漢字の音と訓を複雑に組み合わせているので、たかが20いくつの歌だけでは、それを正確に読み解くことは不可能である。
 例として『処容歌』という郷歌の冒頭を解釈してみる。
東京明期月良 夜入伊遊行如可(東京の明るき月に夜更けまで遊びて)
 どの単語も、ある程度までの推測は可能であるが、どれもクエスチョンマーク付きで、正確な形を復元することができない。文レベルの解読にしても、ぼんやりとした像は見えるが、1つ1つの単語の正確な姿、語尾の正確は姿は、これだけでは知ることができないというのが実情である。特に上の「月、夜」のようなものは、音を表した部分でないので、どう読まれたかは全くもって分からない。それがどう読まれたかを正確に推測するには、上の「朝鮮側の歴史書」で触れたような、音と意味の等式がはっきりしているなどの傍証がなければならない。
 また、解読には中期朝鮮語の知識が大いに役立っていることが分かろう。古代朝鮮語に迫るためには、まず中期朝鮮語を熟知しなければならない。そして、中期朝鮮語の形が現代語の形とどういう関係にあるのか、あるいは方言の形とどういう関係にあるのかなどといったことを充分に検証して、古代語の形を推測しなければならないのである。

その他の資料

 その他の資料としては、主に吏読(りとう)などが挙げられる。吏読文は日本の候文の文面に似ており、全てが漢字表記され、一見すると漢文のようであるが、ところどころ朝鮮語の要素が入っている。その朝鮮語の要素を表すものが吏読である。吏読は新羅のころに始まり、漢字の音と訓を組み合わせて朝鮮語を表している。かなり後世まで使用していて、その読み方もずっと伝承されてきたので、ここから古代朝鮮語の片鱗をうかがうことができる。ただし、伝承されてきた読み方が古代においても全く同じであったという確証はないので、その解釈には慎重を期さねばならない。
 また、ある場合には方言が傍証に使われることもある。例えば「上」という単語は現代標準語では「'ui ウィ」といい、「…に」という語尾「'ei エ」がつくと「'ui-'ei ウィエ」となるが、ある方言では「上に」を「'u-gei ウゲ」という。つまり「上」という単語を「'ug ウ」いうのだが、ここから「上」という単語はもともと末尾にk音があったのではないかという推測がなされる。しかし、これだけでは根拠が弱く、何らかの傍証が必要だ。「上に」は中期朝鮮語では「'u-hei ウヘ」といい、「上」という単語は「'u-h」のように末尾にh音があったことが確認されている。このことから、「上」という単語には末尾にhなりkなり、何らかの音があったことがわかり、「'u-gei ウゲ」と併せて考えれば、ある種の中期朝鮮語のhは古くはkにさかのぼるのではないかという推測が成り立つ。さらに、日本側の資料に「上[口+多][口+利]」を「おこしたり」と読ませているものがあり、「上=おこ」から末尾にk音があったという推測がより確かになる。だが、このようにいくつもの傍証を持ち出して、運良く古代語の姿を推測することのできる単語は数的に非常に限られる。


 このように、古代朝鮮語のまじめな解読は、涙が出るくらいに辛く、分からないことだらけである。古代朝鮮語の姿を知りたいのは朝鮮語学者も同じで、もうウズウズしているくらいである。もし、「本物」があったら、朝鮮語学者だって真っ先に飛びつくだろうし、解明した人は勲章ものである。だが、一連の「解読」なるもので勲章をもらった人の話はいまだかつて聞いたことがない。そのわけは、このページと「古代日本語いんちき解釈の一例」のページを見比べれば、おのずと答えが出るというものである。