2011年度卒業論文・卒業研究の要旨

大河内勇貴 インドネシアにおける開発が自然環境に与える影響について

種別:卒業論文

私がインドネシアの環境問題をテーマに卒論を執筆しようと思ったきっかけは、私が卒論のテーマを決めかねているときに、たまたまインドネシア人歌手のヌギ(Nugie)がインドネシアの環境保全を訴えるために外大で行ったコンサートであった。インドネシアの自然環境は豊かで多種多様な動植物が生息していることはそのコンサート以前から知っていたが、その豊かな自然環境が経済発展及び人々に豊かな暮らしをもたらすための開発により破壊されているという現実をコンサートで知り、インドネシアの環境問題について自分なりに調査してみたいと感じたのである。

インドネシアの環境問題に関する文献を読むにつれ、インドネシアには豊かな自然環境、多様な生物が存在していることに改めて気付かされた。そしてその豊かな自然環境が様々な開発により破壊され、多様な生物の存在が脅かされているという現実を知るにつれてインドネシアの自然環境に対する思いがより一層強くなった。そのような思いを持ち卒論を執筆した。この卒論を読むことで、インドネシアの豊かな自然環境がいかに豊かか、そしてその自然環境が開発により破壊されているという現状を知ってもらいたいと思う。

この論文では前半でインドネシアの自然環境、特に熱帯林についての説明を行い、それらが破壊されている現状を述べ、後半で開発の理由やインドネシアの自然破壊と日本との関係を述べている。そして最後にインドネシアの自然環境の保護と開発を両立させるためにはどのようにすればよいかを論じている。

インドネシアの環境問題はインドネシア1国だけの問題ではなく、地球規模の問題である。そのため、インドネシアの環境問題を解決するためには地球規模で考えなければならない。インドネシアの自然環境を犠牲にして生産されたものを使っている世界の消費者たちが考えなければならない。私たち日本人も含めて消費者一人ひとりが自然環境が生み出す多様な資源は有限であり、経済活動のあり方及び大量消費などのライフスタイルの見直しとあわせ、適正な利用と拡充を図ることが大事であると思われる。

金子由佳 現代マレーシア映画産業概説―国内事情と世界に広がるマレーシア新潮―

種別:卒業論文

マレーシアの映画産業は創世記にはシンガポールを拠点に、またショウ・ブラザーズやP.ラムリーといったパイオニアを筆頭に、マレー系・中国系・インド系の3民族によって作られてきた。しかしシンガポールの分離独立やテレビの登場、マレー系優遇政策、イスラーム主義の高まりなどの要因で、映画産業は黄金期から一転低迷の一途をたどる。その後国内では、国家文化政策に則ってマレー語商業映画を保護するような政策が敷かれ、マレー系の監督によるマレー系のための映画が産業を担っている。2000年代に入り、そのような国内事情からインデペンデント映画の製作者らは、国内の映画館ではなく海外の国際映画祭での出品・上映を目的に製作活動を始め、各国映画祭で高い評価を受けている。これらの要因を当時の政局や社会情勢と照らし合わせながら、政治・社会的または民族問題の視点から考えていく。以上の推論を踏まえたうえで今日の状況を概観し、さらに今後マレーシアの映画産業が国内外でどのような発展を遂げていくのかを見定めたい。

第1章で、20世紀初頭から現代に至るまでマレーシアにおける映画の歴史と、「マレーシア映画の父」と言われるP.ラムリーについて触れ、産業創世記の大枠を掴む。第2章では、マレーシア映画史を踏まて、マレーシア映画振興公社(FINAS)の役割・政策を明らかにし、国家文化政策に基づいた国産映画保護政策が、いかに産業を支配しているのか考え、今日の国内映画産業の現状や風潮について述べていく。さらに非マレー系の映画についても事例を挙げ、多民族国家・複合社会の映画文化の形態を考察していく。第3章では、80年代ごろから台頭してきたマレーシアのインデペンデント系・インディーズ系映画について、今日までの歴史を紐解く。そのなかでも日本をはじめ諸外国で「マレーシア映画新潮」と呼ばれ、称賛されるきっかけを作った、故ヤスミン・アフマド監督にフォーカスし、そのほか新潮監督とともにその功績を考えていく。最終章では、マレーシアの映画産業の特徴を政治的・民族的な事象を基に定義し、今日マレーシアの映画をとりまく国際事情にも触れながらもマレーシア映画産業の現状を考察する。

本論文を通して、より多くの人にマレーシアの映画産業の概要を理解してもらい、ぜひ作品にも興味を持って頂きたい。

齋藤麻侑子 ジャカルタのメガ都市化における水供給のあり方の検討―その公平性と持続可能性に着目して―

種別:卒業論文

本論文における根本的な問題意識は、「発展途上国の大都市において、人々への水供給を困難にしている要因はなにか」ということにある。私はインドネシアの首都ジャカルタを事例にとりあげ、個別的な検討を加えることで、既存の研究との差異をはかることを試みた。具体的な問いは、「ジャカルタの居住環境は、都市発展のなかで、いかなる影響を受けて、どのような変化を遂げてきたか」、「ジャカルタが抱える水供給の問題は何か」、「人々への平等な水配分と水資源の持続性を両立しうるにはどうしたらよいか」である。

論文は5章から成り、第1章では研究内容の大枠、第2章では「都市構造・居住環境」、第3章では「都市化の過程」、第4章では「水供給の現状と問題点」という視点から論じており、第5章の「総括」で、上記の問い対する考察を述べている。

結論として、現状では水道に限らず、井戸・ボトルウォーター・泉水・雨水といった多様な水源が存在するために、水へのアクセスに格差が生じており、さらに環境への負荷も増しているということがわかった。居住環境は、かつて路地裏の居住環境として一般的であったカンポンが取り除かれ、住宅やアパートメントへの移転が急速に進んでいる。ジャカルタのようなメガ都市における飲料水の供給では、公平性と持続可能性の観点から、水道事業をいち早く普及させることが最も良く、住宅政策と水道事業のマッチングをはかることが重要であるという考察を得た。

大伍沙保里 インドネシアのムスリム女性のヴェール―装いに込められた思いとムスリムファッションの世界―

種別:卒業論文

本稿では、インドネシアのムスリムの女性の頭や身体をおおうヴェールは、どのような背景のもと身に着けられているのかという視点で問いを立てた。

第1章ではヴェールとは何かを写真等で紹介し、第2章ではイスラームの教義面からヴェールの必要性がどのように認識されているのかを述べたが、ヴェール着用を義務と考えるかどうかは、解釈によるところが大きいということがわかった。

第3章では、ムスリム女性へのインタビュー結果やエッセイを取り上げ、ヴェールをつけ始めた経緯や、着装の違いについて分析した。20代から40代後半にわたる女性たちの発言からは、1980年代から現在までに、ヴェールの着用が社会に広がっていった変化を読み取ることができた。例えば、ヴェール姿の女性が少数派であった1980年代に着用を始めたある女性は、偏見により生活に支障が出るとして家族に止められたと語った。一方、2000年代に着用を始めた大学生からは、ヴェール着用は幼いころから慣れ親しんだ習慣であり、障害は感じないという発言があった。その背景として、政府とイスラーム政党の距離や、知識層がイスラームの教えを広めていったダクワ運動などの社会変化があったと推察した。着装面では、色柄や丈などに自分なりの基準を設けてヴェールを選んでいることが分かった。

第4章では多様なヴェールを紹介した。インドネシア政府からは、世界のムスリムファッションの中心地として振興させようとする動きがある。しかし華やかなヴェールに対しては、イスラームの教えを逸脱することを懸念する声も多い。さらに、少数ながら全身をおおう黒いヴェール姿の女性がいる一方、ヴェール着用そのものの必要性を疑問視する議論もあり、ヴェールを取り巻く環境は様々である。

最後に、ヴェールを通してインドネシアのイスラーム主義の広がりとヴェールを楽しむ女性たちの姿を垣間見ることができたこと、ヴェールには各女性の思いが反映されており、その役割は「隠す」ことにとどまらず、ムスリム女性のアイデンティティの一つであることを述べ、結びとした。

中島貴子 ボロブドゥールの成立と保存修復事業―ボロブドゥールの成立から修復までと保存を目的とした修復のあり方における考察―

種別:卒業論文

ボロブドールの歴史的背景

ヒンドゥー・ジャワ芸術の代表作であるボロブドゥールは、1814年の初頭、当時のジャワの施政者であったイギリス人のトーマス・スタンフォード・ラッフルズによって発見された。ボロブドゥールという名称の由来、建築家、寄進者、建立年次など確かなことは分かっていない。

インドネシアの先住民族が有していた、古くからの習慣と精霊信仰(アニミズム)や祖先崇拝などの精神文化とインド化によってインドネシアに流入した、ヒンドゥー教と仏教が融合し、ユニークな文化芸術を生んだ。

その文化芸術の代表的な遺構であるボロブドゥールは、安山岩を積み上げた累積構造で、彫刻的要素の複雑な結合によって構成されている。

ボロブドゥールの建築的構成

ボロブドゥールはストゥーパであり、仏教における純粋なモニュメントで、建築としての内部空間を持たない。

建築的構成は、方形の六層の下部構造と円形の三層の上部構造からなる段台ピラミッドである。第一層の台は、現基壇とよぶ(隠れた基壇と区別するため)。 隠れた基壇は、浮き彫りも未完成のまま前面を現基壇で覆われていたものである。現基壇の上部には、四層にわたる回廊があり、下から順に第一から第四回廊とよぶ。また回廊の外側の壁面を欄楯、内側を主壁とよぶ。

第一~第四回廊の主壁および欄楯のパネルは一部装飾もあるが、大部分は回廊を右回りの方向に仏教経典を忠実に迫った浮き彫りパネルが展開されている。また、現基壇から第四回廊の上部には、外側に面した仏像をいれた多くの龕が並んでいる。 

次に、上部三層の円壇は、下から順に第一から第三円壇とよぶ。第三円壇のみが真円で、第一、第二円壇は方形に丸みをつけたものとなっている。円壇上には鐘形ストゥーパが配置され、中に仏像が安置されている。最上層には、巨大な鐘形の中心ストゥーパが建っている。

崩壊現象と修復工事

1814年にボロブドゥールが発見された際、その一部はすでに崩壊に近い状況であったといわれている。それからボロブドゥールは現在の姿になるまで二度の大規模な修復工事を経験した。

一度目は、オランダ政府によるもので、国費による本格的な工事が行われた。この時は、最も崩壊が激しかった上部三層の円壇とストゥーパ部分の解体と積みなおしを主に行った。

この修理にも関わらず再び崩壊の危険が訪れたため、二度目の修復である、ユネスコによるボロブドゥールの国際的な文化財保存活動が始まった。基本設計案が練られ、構造の体の傾斜、沈下、隠れた基壇の露出問題や、浮き彫り表面の処理問題などが検討された。その結果、適切な排水システム、浮き彫りの洗浄、モニュメントの建て直しが行われ、1973年から10年間、総工費2000万ドルをかけて完成した。遺跡の修復では世界でも数少ない成功例である。

修復の理論

ボロブドゥールは歴史上のある時点における人間の活動の所産であり、その構造の特異性からも未来へと受け継がれるべき重要文化財である。しかし、私たちは現存する文化財を後世に伝えるにあたって、その作品や建造物そのものに必要な場合にのみ施される処置は保存を前提とした修復にとどめておかなければならない。

ボロブドゥールを含めた芸術作品や建造物は、それが創造された時間、場所、空間やその創造に関わった人物や芸術家などのあらゆる要素を有している。それらは、歴史的あるいは美的観点から考慮すると作品や建造物にとって唯一無二のものである。 私たちが芸術作品に対してとることができる唯一の姿勢は、現存在において芸術作品を考えることであり、作品に敬意を払い、その未来を脅かすことなく保存することである。

その点で、ボロブドゥールは構造面を強化することによって、外観を損なわず、本来の真正性をほとんど失わないように修復することができたよい例だといえる。

芸術作品や建造物は、美的創造性と歴史的資料性が深く分かちがたく結びついて成立している。その両方を満たすような修復は稀であり、どちらを優先すべきなのか答えをみつけるのは簡単ではない。その答えは用意されておらず、常に作品それぞれに即して考慮され個別に導きだされるところに今日の修復の考え方の基礎があり、難しさがある。

前田沙織 バリにおける観光開発―現状と今後の展望―

種別:卒業論文

現在バリはアジアの代表的なリゾート地として、国際的に有名な観光地となっている。中でもバリはその独特な文化で知られているが、この豊かな文化を持つバリが今日のように世界的に有名な観光地となるに至った経緯や理由、また今後の発展の可能性について私なりに考えてみたいと感じ、本論文を執筆した。

本論文における目的は、バリにおける観光開発の現状を明らかにし、今後の展望を考察することであり、論文ではバリにおける持続可能な観光開発について考えている。

まず第1章では、途上国における観光開発の流れについて、またそれに関する議論についてまとめている。次に第2章では、オランダ植民地期から現代に至るまでの、バリにおける観光開発についての流れを説明している。また、BPS(Badan Pusat Statistik)やBali Dalam Angkaなどの統計資料から、バリにおける観光開発に伴う外国人観光客数の変化や、観光開発が地元住民やバリ社会に与えた影響について分析し、考察している。第3章では、バリにおける「文化観光」政策について述べている。まずインドネシア全体における文化観光政策をまとめた後、バリ州政府による観光に関する政策をまとめている。また、このような文化観光政策の下で、バリの伝統文化がどのように変遷してきたか、舞踊を例に説明している。そして終章では、バリにおける持続的な観光開発、つまり文化観光開発についての考察を述べている。

松尾 敦 インドネシアにおける独自の煙草クレテックを中心としたインドネシア煙草の紹介

種別:卒業論文

本稿ではインドネシアを代表するクローブ入り煙草『クレテック』を中心としたインドネシアの煙草製品の紹介と、インドネシアにおける煙草の歴史を述べた。

第1章では煙草伝来以前からこの地に存在していた嗜好習慣であるベテル・チューイングから、クレテックに至るまでの製品煙草の形態を挙げた。

第2章ではインドネシア独自の煙草であるクレテックに焦点を当てた。まずはその誕生の経緯を、中部ジャワの町クドゥスにおいてハジ・ジャマフリの手で喘息の薬として作り出されたものであると明らかにし、その後のニティスミトによるアボン・システムの導入や、機械製クレテックの登場などクレテックが今日の確固たる地位を得るに至った経緯を説明した。またクレテックを構成する3つの要素であるタバコ、クローブ、ソースについて、それぞれに焦点を当てて明らかにした。

第3章では現在のクレテックということで、現時点でのクレテック産業を代表する3つのメーカーについての紹介、解説を行った。またクレテックを取り巻く現状を紹介するために、インドネシア国内外の事例を出し、クレテックが現在抱えている問題を提示した。

インドネシアを訪れたものなら誰でも一度はその香りを嗅いだことがあるであろう不思議な煙草クレテックについての基本的な知識を紹介したいというのが本稿執筆の動機であり、意図していたことはある程度達成できたと考えている。

宮地 唯 インドネシアの貧困と教育

種別:卒業論文

山田杏菜 インドネシアにおける人材育成の意味を考える

種別:卒業論文

インドネシアは近年経済成長著しい新興国として世界的に注目され、日本にとっても多くの日系企業がインドネシアに拠点をもつなど、経済的に関わりの深い国である。このインドネシアでは2004年に大統領選挙が行われ、ユドヨノ政権が誕生した。新政権の誕生と同時に、ユドヨノ大統領は2025年までの国家の発展計画である「国家開発計画」を発表したが、この計画中にはインドネシアにおける「人材開発レベルの低さ」や「人材育成の必要性」に関する記述が多く見受けられ、人材育成を国家の今後の重要課題と捉えて国家主導で人材育成を進めようとしている。

では、なぜユドヨノ政権は国家主導で人材育成に取り組もうとしているのだろうか。

まず第1章で本論文のテーマであるインドネシアにおける人材育成について論じる前に、インドネシアの国家開発計画が策定された背景となる近年のインドネシア経済の状況を説明した。その上で、筆者が注目した国家開発計画について取り上げ、国家開発計画とはどのようなもので、その中では「人材」についてどのように記述されているのかを述べた。

次に第2章では、第1章で取り上げたように国家として「人材育成」を重要事項と捉え、ユドヨノ政権が国家開発計画の中に人材育成に関して記述するに至った背景を考えるために、失業問題や労働者の教育水準など、様々な問題を抱えるインドネシアの労働状況について触れた。  

第3章では、政府が掲げる人材育成の目的を明らかにするために、政府の職業訓練政策がどのようなものなのか紹介し、その上で国家の人材育成機関である公的職業訓練センターについて取り上げた。ここでは、公的職業訓練センターが「何を目的とし」「誰を対象としているのか」という点に特に注目した。  

最後に第4章では、第1章から第3章までの内容を踏まえ、本論文の問題提起である、何のために国家主導で人材育成に取り組もうとしているのか、国家主導の人材育成によってどのような人材を育てようとしているのかを論じた。

山田初音 インドネシアにおける若者起業支援から何を学べるか

種別:卒業論文

遠藤総史 (小川英文教員ゼミ所属) 林邑、環王期の再考

種別:卒業論文

本稿の目的は、林邑、環王期におけるインド化の内容を再確認し、マンダラ国家論や海域アジア史を取り入れた「新しい歴史」の方向性に従いながら、10世紀以前のチャンパー史を明らかにしていくことにある。

具体的には、まず第一章として、植民地期のフランス人研究者達が中心になって行ってきたチャンパー史研究の内容を簡単に概観し、次にそれを建設的に批判しマンダラ国家や海域アジア史などの新たな視点からチャンパー史を語りなおしている近年の先行研究を見ていく。近年の研究はチャンパーの再評価という点において大きな功績を残しているものの、その研究の中心は宋代以降の海上交易で華々しく活躍するチャンパーや、チャンパー近世史という新たな分野の開拓に偏っており、10世紀以前のチャンパー史は依然として植民地期の研究内容が踏襲されている。

そのため第二章は、桃木の言う「新しい歴史」の方向性を10世紀以前のチャンパー史に用いるため、次に10世紀以前の東南アジア史を語る上で不可欠なインド化という現象を、青山の『インド化再考』に従って再確認する。併せて「林邑、環王小史」という形で漢籍に記録されている中部ベトナムの歴史情報とそこに含まれているインド的文化要素を時系列的に沿って確認する。ここまでで、本稿を論述するにあたって必要な確認事項の概観を終わらせる。

第三章では、まず植民地期のチャンパー史研究において支配的であった「漢籍史料と現地史料の相互補完的な利用」という点を批判し、マンダラ型国家形態という観点から両者が必ずしも一致しない可能性を明らかにする。次に漢籍史料が林邑、環王として記録した内容を、中国的文化要素とインド化の影響という「対立」項から大きく二つに分けて考えることで、漢籍史料の記録する林邑王の王統には必ずしも一貫性がないことを明らかにする。第三に、環王期における漢籍史料と現地史料の環王の位置情報の食い違いを再検討する。それによって、漢籍史料の語る環王が現地史料の勢力とは直接的な接点がないことを明らかにする。第四に、林邑期と環王期をつなぐキーパーソンであり、植民地期の研究では現地史料のどの王であるかということが論点になっていた林邑王諸葛地に焦点をある。そして、前節の内容をふまえて、諸葛地が現地史料の示す王族と関係が無く、北部ベトナムと真臘をつなぐ陸路の要所に影響力を持っていた林邑王であるという結論を下す。ここまでで、植民地期のチャンパー史研究が依然として支配的であった10世紀以前のチャンパー史を、特に漢籍史料と現地史料の不一致という観点と、インド化という観点から建設的に捉え直す。

最後に第四章では、2世紀から10世紀までの中部ベトナムにおける政治的中心の変遷を、東南アジア全体の交易ネットワークの変遷という観点から捉え直し、10世紀以前の中部ベトナムの「新しい歴史」として提示し、本稿の結論とする。