「新・世界の辞書 2」
概要
概要
概要
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「新・世界の辞書」
概要
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「新しい英語学習のすすめ」
今から約13年前にある雑誌から依頼されて、「講読の復権を求めて」という文章を寄稿したことがありますが、その冒頭部分は以下の通りです。数年前から全国のほとんどの大学で大学改革が進行しているが、とりわけ外国語教育のありかたをめぐっては、さまざまな模索が続いている。各大学間で多少の相違はあるだろうが、ひとつの大きな変革として具体化され始めているのが、教育内容のメニューの多様化であろう。従来の読解一辺倒をやめて、読解(速読・精読)・作文・会話・リスニングという多様なメニューを用意し、その中から選択してもらうという方向である。この方向自体は望ましいことであり、とりたてて反論すべきこともない。ただ問題なのは、学生の選択の目が、会話・リスニングにのみ集中してしまいがちだということである。外国人教師が担当していることも、魅力の一部となっているかもしれない。
そのような一般的雰囲気の中で大きな声で述べるのはいささか憚られるが、大学の教室で講読の授業をあえて行う必要もないほど現在の学生諸君の読解力は揺るぎないものであろうか。昨今、どうもそうとは思えなくなってきている。先ごろ、行方昭夫先生の『英文快読術』(同時代ライブラリー、岩波書店)が公刊されて話題を呼んだが、大学レベルの講読が目指すべき目標設定という点からも実に示唆に富んでいる。文法理論研究者としての筆者には、行方先生のような名人芸はとうてい望めないが、最近の授業の中で遭遇した実例をいくつか紹介してみよう。
この文章の中で触れた学生たちの英語力(とりわけ読解力)の低下はその後も進行し、読むということの本質がすっかり見失われてしまう状況にまで立ち至っています。その最大の原因としては、(1)英文法をきちんとマスターしていない、(2)英和辞典・英英辞典を使いこなしていない、(3)多様な英文を大量に読む経験が欠如している、などを挙げることができるでしょう。
行方先生は、たまたま今年の5月に一般読者を対象にした『英文の読み方』(岩波新書)を公刊されて、英文読解の愉しさをさらにわかりやすく説いていらっしゃいます。この講座では、その精神を受け継ぎながら、英文を正確に読むために必要な英文法力を養成するにはどうすればいいか考えてみたいと思います。
世界最大の使用者数を誇るのは何語かご存知だろうか。答えは、Broken Englishである。英語の話し手として、実は、英語を母語としない人たち(公用語としての使用者や外国語としての学習者)が、母語話者の数をすでにはるかに上回っているのである。世界中に、程度はともかく、各人の母語や個別文化の影響を受けた英語が存在するわけで、そのバリエーションの幅は、とてつもなく大きい。
さらに、“本家”である英米の英語そのものも、地域的(地域方言)、社会的(階級方言など)、性的(ジェンダーによる差異)、文体的(フォーマリティーの度合い)などのバラエティーに彩られている。
かくも多様な英語のあり方を考えると、それではいったい、“英語を習得する”とは、つまり何が出来るようになることなのだろうか。あるいは、教師の立場からすると、何を教えれば“英語を教えた”ことになるのだろうか。
教材として与えられる英語はいくらでも聞き取れたのに、ヒースロー空港に降り立った途端に現実を知り、あまりの多様性に愕然とする人がいる。相手の話す英語が分からないことの原因はもちろんさまざまであるが、正統的な英語の、しかもそのなかの極めて限られた種類の英語しか教えられていないことにもその一端がありそうである。“英語を習得する”ことのなかには、多様な英語に対応できる能力も含まれていなければならない。
昨年の公開講座では、語用論的視点から、相手との関係や相手にかける負担の大きさなどに伴う言葉のバリエーションについてお話しさせて頂いたが、今年は、英語の社会言語学的諸相、つまり、言語使用者自身にかかわる英語のバリエーション(地域・階級方言、男女など)を概観し、さらに、世界各地における英語の現在を駆け足でご紹介しようと思う。
最後に質問を一つ。
下の葉書はRichardとCarolineのうちのどちらが書いたと考えられるか、また、それはなぜか。受講して下さる方は、ご自分なりの答えをお考えおき下さい。
Having such a marvelous time. The weather's been just heavenly and
the scenery's too glorious for words. How we do wish you could share
the wonderful time we're having.
Richard and Caroline
外国語を学習していると、基礎的な事項のなかで、例外と思える現象に出くわして、首をかしげたり、場合によっては、嫌気がさしたりすることがあります。英語の基礎的な学習事項のなかにも、不思議に思えることが少なくありません。たとえば、food を /fu:d/ と読み、feet を /fi:t/ と読むのはなぜだろうか? 綴りを見て、oo を /u:/ と読み、 ee を /i:/ と読むのはどうも合点がいかない、英語は妙な言葉だ、と思う人がいるかもしれません。busy の u を /i/ と発音し、bury の u を /e/ と発音するというのも困ったものです。また、debt は /det/、doubt は /daut/ というように、発音しない b という文字が真ん中にあるのも具合が悪い。
文法の例でいうと、ほとんどの名詞の複数形は語尾に -s を付けて作りますが、基礎的な語彙のなかにいくつか例外があります。man → men、foot → feet のように母音が変わる場合、ox → oxen, child → children のように、-en を付ける場合、deer → deer や sheep → sheep のように単複同形の場合、など。これらは、一つひとつ覚えなければなりません。もし大人になってから初めて英語を勉強するとすれば、子供のころのように無心になれない分だけ、よけいに大変です。
このように、現代英語だけを見ていると不思議に思える事柄も、そのルーツをたどると簡単に理解できることが少なくありません。あるいは、英語以外のゲルマン語(ドイツ語など)を学ぶと、ゲルマン語に共通する特徴として自然に理解できる場合もあります。
ことばの歴史を知ると、現代の用法の奥が見えてきます。今回は、英語史の観点から、英語の「なぜだろう? なぜかしら?」に迫りたいと思います。
コーパスとはある目的をもって話し言葉・書き言葉のテキストを大量に収集・電子化した「言語資源データベース」である。このコーパスを用いると、ことばの使用のさまざまな実態を調べることができる。コーパス言語学の手法を用いた大規模英語コーパスの語彙頻度分析の結果やコロケーション統計の結果などを用いながら、英語教育のさまざまな分野(辞書・文法書、学習語彙表、シラバス・テスト開発、英会話教材開発、e-learning 教材開発)での応用可能性について概観し、英語教師として知っておくべきコーパスの基礎知識、活用方法などを受講者と一緒に考えたい。
英語教育においては、その学習や指導の成果を見るためにテストが実施されます。そして、たいていのテストでは、その結果は「点数」や「偏差値」といった形で返却されます。しかしながら、よく考えてみれば、「点数」や「偏差値」自体は英語力について何かを語っているわけではありません。そこで、今日の英語教育の研究では、ある英語学習者が具体的に英語でどのようなことができるのかを語ろうとしています。こうした研究の成果として生まれてきたのが、can-do statementsと呼ばれるものです。この講座では、世界の代表的なcan-do statementsを紹介するとともに、私自身が開発に関わってきたcan-do statementsの開発の経緯とその妥当性の検証の結果をご紹介します。
−日本の英語教育の基盤となる小学校英語活動の内容を精査する−」 高島 英幸
本講義では、日本の公立小学校教育課程にふさわしい「5・6学年で、年間35時間」の年間計画と英語活動の具体例を提案します。この「ふさわしい」内容は、これまで「総合的な学習の時間」で培ってきた課題解決的な活動で、母語である日本語を基本に据えながら英語を組み込むという形式です。小学校英語は、多くの小学校で実践されているような、「あいさつ」「好きな食べ物」「ハローウィン」などのテーマに沿って授業がなされるのがよいのか。学級担任の役割は、どのようなものであるべきか。児童が楽しければよいのか。ALT(Assistant Language Teacher)や英語の得意な地域の人材は、授業のどこで、どのような役割を果たすのか、小・中連携とはどのようなことなのか、などを、次期学習指導要領改訂の内容を視野に入れながら、議論していきます。
「新しい英語教育学のすすめ」
第二言語習得研究とは、外国語学習者の言語習得過程を解明しようとする分野です。外国語教育学とは関係の深い分野ですが、教育と学習を区別して捉えている点が特徴です。教師が教えたことを、学習者は教わってくれないことがあります。たとえ学習者に学ぶ意欲があっても、学べないことがあります。それはなぜでしょう。
言語教師はしばしば、教えたことが学ばれるものだと考えます。また、指導は学習者の言語学習を助けるものだと信じています。しかし、第二言語習得研究によれば、学習者には、教えても学べないことや教えなくとも学んでいることがある、ということがわかってきました。そして指導は、必ずしも言語学習にいい影響ばかり与えるわけではないこと、場合によっては影響すら与えていない可能性があることも明らかになってきています。どうやら学習者には学習者なりの学びの特性があり、それと合わない教わり方をすると学びにくいようです。また厄介なことに、その学びの特性には、学習者に一般的なものと、個人によって異なるものとがあるようです。それでは、学習者に学んでもらえる教え方、学びを助ける指導とはどのようなものでしょうか。それには、人間の言語習得過程と矛盾しない、できればそれを活かした教え方を考える必要があるのだと思います。この講座では、第二言語習得研究、中でも教室研究の成果を踏まえて、教える側の都合ではなく、教わる側の特性を考慮に入れた指導とはなにかについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
「英語を習得する」とは、つまり、何が出来るようになることなのだろうか。あるいは、教師の立場からすると、何を教えれば「英語を教え」たことになるのだろうか。文法規則に則りつつ単語を並べて文を作り、それを正確に発音できたとしても、それだけで「英語を話すことができる」とは言えない。「英語を習得する」ことのなかには、文法的に「正しい」文が産出できるようになることに加えて、場面や相手との関係において「適切な」文を用いることができるようになること、すなわち語用論的能力の獲得も含まれている。
語用論的振舞いは、言語によって異なることがあり、それが原因でコミュニケーションに支障をきたすことがある。語用論上の誤りは、文法や発音の誤りと比べて、誤りと認識されにくく、極端な場合、人格そのものの評価に関わることさえあるという意味で、学習者にとっては切実な問題である。語用論は、決して上級学習者向けの贅沢品に留まるものではない。
語用論、とりわけ2言語間の異同に着目する語用論(対照・異文化語用論、中間言語語用論)の進展によって、言語的振舞いの差異を、文化的な優劣や善悪といった価値判断に堕することなく客観的に比較することが可能になったと言える。個別の現象についての蓄積はまだ少ないとしても、研究成果が英語教育の場にも応用され始めている。
本講座では、まず語用論の定義を検討し、それを踏まえて、英語教育への応用の仕方を議論する。さらに、具体的な例として、辞書における語用論情報の現状と今後の可能性について、実際の学習英和辞典の記述を比較しながら述べることにする。「言葉をストラテジーとして用いること」の意味を再確認していただくことが最終的な目標である。
質問を1つ。Can you open the window? とWill you open the window? はどちらが丁寧なのか、そして、それはなぜか――受講して下さるかたは、ご自分なりの答えをお考えおき下さい。
日本の学校教育において、英語による実践的コミュニケーション能力の育成に必要なもののひとつに、場面に適切に応じ、かつ、正確に英語が使えるようになるための言語活動があります。本講義では、限られた授業時間数の中で、期待される言語能力を効率的かつ効果的につけるための活動を具体的に提案します。キーワードは、「タスク」「タスク活動」と「タスクを志向した活動」です。
日本語には日本語の、英語には英語特有のリズムがあり、英語学習者はそのリズムを身につけることによって通じる英語を話し、英語を聞き取ることができるようになる。個々の子音や母音の発音については多少不正確でも、状況から判断してなんという単語を言おうとしたのか理解してもらえることはあるが、英語を話すときに日本語のリズムで発音しては相手に通じないことがある。また、英語のリズムの仕組みが分からなければ、いつまでたってもリスニングは上達しない。この講座では、英語を学習または教授する際に、発音に関して知っておくべきことがらのうち、特にリズム・強勢・イントネーション核という項目に焦点を絞って説明する。リズムを作り出す強母音・弱母音、語強勢、語と語のつなげ方にも言及する。
この講座では、英語教育における「定期試験の作成」と「コミュニカティブ・テスティング」について講義します。英語教育における「定期試験の目的とは何か」を問えば、「成績をつけるため」という答えのほかに、「生徒の学習がどのように進んでいるかを知るため」とか「指導の成果を振り返るため」という答えが返ってきます。それでは、「定期試験の結果」から生徒は自分の学習についての診断的な情報が得られるようになっているでしょうか。また、教師は自分の指導の成否を知ることができるようになっているでしょうか。日本の英語定期試験問題を概観して、改善策を提案します。また、後半では、「コミュニカティブ・テスティング」について概観します。日本の英語教育はコミュニケーション活動を中心としたコミュニカティブ・ティーチングが採用されることが多くなりました。しかしながら、こうした授業の評価となると、従来どおりの「定期試験」が行われています。これでは、「授業」と「評価」の整合性がないといわざるを得ません。「授業がコミュニカティブになったなら、評価もコミュニカティブに」です。この講座では、まずこれまでの「テスト」を「コミュニケーション」という視点から見たときに、いかに非現実的な状況で非現実的なタスクが設定されてきたかを考えてみます。その上で、こうした問題点を克服するためにはどうしたらよいかを、具体例をもとに議論します。
「新しい英語学のすすめ」
日本の英語教育は以前から文法訳読を偏重しているとして批判されてきました。「文法ばかり知っていても英語が話せないのでは役に立たない。文法ばかりやっているから英語が話せないのだ。」といった意見をよく耳にします。近年では学習指導要領も改訂され、以前よりも英語でコミュニケーションができるような学習者を育成しようという目標が強調されるようになりました。「オーラル・コミュニケーション」という科目の新設、センター試験へのリスニング問題の導入、あるいは小学校からの英語教育、といった動きはその結果と言えます。しかし他方で、公立中学校での英語の授業時間数の減少や「オーラル・コミュニケーション」の重視によって、学習者の文法能力が低下してしまったとの指摘もされています。文法能力もコミュニケーション能力も両方育成することはできないのでしょうか。そもそも、文法能力とコミュニケーション能力は別のものなのでしょうか。「英語ができる」とか「英語でのコミュニケーションにたけている」とは、どういう能力を指すのでしょうか。いったいどうすれば少しでも英語でコミュニケーションができるようになるのでしょうか。
本講義では、こうした問題に対する答えのヒントとなるような情報を、今日の第二言語習得研究の成果を紹介することで提供できればと考えています。講義では、まずコミュニケーションに関する一般的な誤解を取り上げ、コミュニケーションという概念をより正確に捉え直し、定義したいと思います。続いて、英語でコミュニケーションができるということは、どのような下位能力があることを前提とするのか、また、その能力はどのように学習されるものなのか、具体的な調査をいくつか取り上げて説明を試みます。さらに、これらの研究成果を踏まえ 、これからの英語教育におけるコミュニケーション能力の育成に必要な指導内容や方法について、皆さんと一緒に検討できればと思います。
人間はだれでも、人生の最初の10数年の間に自分の母語を獲得しますが、中学校で学び始める英語の習得に比べると、その獲得のプロセスは、ほとんど無自覚的に進行し、容易に達成可能です。これは、なぜなのでしょうか。また、実際に自分の母語を運用するに際して、わたしたちはなにも他人が話した文を記憶しておいて使うわけではなく、自分自身でしゃべるたびごとに、必要に応じて新しく文を組み立てて話しているように思われます。
生成文法の研究は、人間にとって言語とは何か、なぜこんなに短期間のうちに容易に獲得できるのか、その結果として私たちの中に確立される言語能力(=文法能力)は一体どのような構成をしているのか、というような根本的な問題を、40年以上にわたって探求してきました。
この講座では、その研究成果の一部を紹介しながら、英語という言語のしくみを今一度見直してみたいと思います。学校文法などでおなじみの文法現象の背後に、これまで想像すらできなかったような、ことばの持つ不可思議さが見えてくるようになればしめたものです。
「英語」という言語は、現在では国際語としての地位を確固たるものとし、世界中で用いられています。母語 (mother tongue) として英語を用いる人々ばかりでなく、第二言語 (second language) として日常的に用いる人々も多く、さらに、外国語 (foreign language) として用いる人となると、世界中にどれくらいの人数がいるのか想像もつかないほどです。また、昨今のインターネットの普及に伴い、英語の浸透度は脅威的にすら感じられます。しかし、このように大きく成長した英語も、元々はちっぽけな言語に過ぎませんでした。しかも、最初からブリテン島で用いられていたわけでもありません。ルーツは、5世紀半ばに、現在のドイツ北東部からユトランド半島のあたりに住んでいたゲルマン人(アングル族、サクソン族、等)がブリテン島に渡り、先住のケルト人を追い払って定住したことに遡ります。England という地名は、語源的には、Englaland (“Angles' land”「アングル族の土地」)という語に由来します。そして、彼らの話す言語が English でした。
英語は、ブリテン島にとっては、言わば外来種でした。その後、ブリテン島の地で育まれ、成長し、近代期に入ると、イギリスの海外進出とともに世界中に移植され、さらに、20世紀には、アメリカ合衆国の発展とともに大きく成長しました。
今回の講座では、英語のルーツを探り、その後の発展の過程を概観した上で、英語という言語の特徴を、主に文法と語彙の面から考えたいと思います。
その他、英語の歴史を紐解くことによって理解できる事柄について、いくつかお話しできればと思っています。英語を学び始めた初歩の段階で不思議に感じたことの中には、英語史を知ることによって、なーんだそうだったのか!と思うことが少なくありません。英語史の面白さを少しでも味わっていただければ幸いです。
言語相対論として知られるサピア・ウォーフの仮説は、「言語と経験様式は関連する」として、どの言語もその言語圏の文化に合っているのであり、言語を比べて優劣や正誤を語ることはできない、としています。確かに、言語と文化は相関しています。身近な例では、洋食のフルコースで1品ずつが順序を守って出される様子は、英語の文がまず主語に始まり、語順に重要な意味をもたせて展開するのに似ています。これに対して伝統的な和食のお膳料理では全品が一挙に並びますが、こちらは日本語で「が」「を」「に」といった格助詞が名詞をパッチワークのように貼りつけているのに似ています。絵画の技法でも、西欧の遠近法では画家の視点から直線的に対象を眺めます。日本の浮世絵などで顔が正面を向いているのに鼻だけ横向きに描かれたり、絵に影が無かったりすることは起きないのです。
英語母語話者たちの書く文章も直線性を守りながら結論に向かいます。英語では直線性や順序が非常に重要のようです。これは何を意味しているのでしょうか。英語話者たちは世界を、人生を、どのように経験しているのでしょうか。
この疑問への答えは、英語の基本的な文型であるSVO文型を意味論の観点から観察することで発見できると思います。そこでまず典型的なSVO文について、その主語と目的語の特徴は何か、動詞の特徴は何か、SVO文型はどのような現実、どのような世界観と相関しているのか、を考えます。この過程では「構文の生産性」という考えを拠り所にし、また受動態からも大いにヒントをもらいます。次いで周縁的なSVO文やSV文型、SVOO文型を観察して、SVO文型が英文法の要となっていることを確認したいと思います。
こうやって受講者の皆さんと一緒に英文法の世界を遊泳するうちに、英語母語話者たちの世界が見えてくることを期待しています。必要に応じて日本語との対照を織り交ぜてお話ししますが、今回は類似点ではなく相違点に焦点を当てています。実際、英語と日本語は性質が全く違っており、例えば日本語の「が・を」文と比べることで英語のSVO的発想がいかに英語的、西欧的、であるか実感できることでしょう。
英語の発音が上手な人に関して、「まるでネイティブのような発音だ」というほめ言葉が使われるのを耳にすることがよくあるが、この場合の「ネイティブ」というのは、いったい誰を指しているのだろうか? 現在の日本の教育現場では、ほぼアメリカ英語一辺倒なので、「ネイティブ」=「アメリカ人」と漠然と考えている人がおそらく大多数であろう。しかし、英語を母語とする話者は、地球上のいくつもの大陸・地域に住んでいるのであり、その英語、特に発音は、「これが同じ英語か」と疑いたくなってしまうほど異なって聞こえる場合がある。実際に、東京で知り合う英語のネイティブの発音や、旅先の英語国で聞く発音の多くは、学校の授業で聞いたテープやCDの発音と必ずしも同じではない。本講座では、まず世界に散らばる様々な英語を、主に発音の観点から概観した上で、その中でも特にオーストラリア英語を取り上げ、方言の成り立ちや音について考察するつもりである。
オーストラリア英語について、todayという語を「トゥダーイ」と発音する、ということくらいは聞いたことがあるかもしれない。あるいは、「ハエが口に入らないように発音するから、オーストラリア英語は他の英語とあんなに違うのだ」という迷解説(?)を聞いたことのある人もいるかもしれない。そのあたりを、歴史と英語音声学を通して学問的に検証する。
「日本語から見た世界の言語 −対照研究への招待(5)−」
嘗て著名な英文法語学者である細江逸記は、マレー語が時制を欠く故をもって、原始的な言語であると述べたことがある。そこには、英語を含む西欧語のみが、高等な言語であり、それ以外は劣等な言語であると看做す当時の風潮が垣間見えてくる。もし、細江逸記が、マレー語は活用も又欠く言語であることも聞き及んでいたならば、そういう言語がそれでも意思疎通の手段として成り立つということに、逆に畏敬の念を覚えたかもしれないと想像すると愉快である。要らないものまで身に着けて身動き取れない殿様の装束を、実戦的で極力無駄を省いた足軽の出立ちと比べた場合、取捨選択の精神の成熟度という観点からは、寧ろその立場の逆転が起こるであろう。動詞に重装備をさせなくても、システム全体でその任務を肩代わりできるから、活用が無くてもいいのだし、他の手段で代用できるから時制も必要ないのである。人が新しいものを学ぶ場合には、既習の知識との比較を無意識的に行っているという点では、新しい言語の習得の過程それ自体が、対照言語学的であると言える。もし、かの著名な英文法学者にマレー半島赴任の命が下っていたら、彼もやはり、英語の知識、日本語の知識を総動員して、マレー語の修得に取り組んだであろう。それでも、彼がすんなりと、マレー語を覚えられたと考える根拠は薄い。malam Minnguという表現がある。malamは、夜の意であり、Mingguは日曜の意であるが、この表現全体は、土曜の夜を意味する。何故、そういう意味になるのかを知ることは、ある意味では、星は地球だけではないという認識と遠いところで繋がるのである。そういう認識が欠如していれば、日曜の夜であって何故悪いと考え続けるだけである。
チベット語は、中国のチベット自治区をはじめ、青海省や甘粛省、四川省、雲南省の一部で話されているほか、ネパールやブータン、インド、パキスタンの一部でも、その方言が話されており、かなり広範な地域で使われている言語です。方言差が大きいので、異なる地域の出身者同士では意思疎通は難しく、中国語や英語など、別の媒介言語を使わざるを得ないほどです。この講座では、たくさんの方言の中から、チベットのラサで使われていることばを中心に、チベット語の特徴についてお話します。日本語とは意外なほど共通点が多いことも感じていただけると思います。
チベット語の特徴といってもいろいろありますので、特に話題として取り上げる予定にしていることの一部をご紹介しましょう。タイトルにも挙げましたが、チベット語は、述語の部分に、話し手が自分の周りの世界を「自分との関係で」どう認識しているのか、そしてそれをどう伝えようとしているのか、ということがはっきりと形に出る面白い言語です。
例えば、「これは私のです」と言う場合、「です」に当たる部分は二通りの言い方ができます。一つは自分に強い関連のあるものとして述べる場合に使う「イン」という形、もう一つは単に自分の所有物であるということを客観的な事実として述べる場合に使う「レー」です。この使い分けは、話し手が話す時点で対象についてどう考えているかを反映するものですから、同じ人でも時と場合によって異なる選択をしますし、もちろん人によって選択の基準は微妙にずれています。
この種の使い分けを要する述語は他にいくつもあり、外国人にとっては習得は容易なものではありません。チベット語を話す人々にとっても使い分けを説明するのは難しいようで、「チベット語には文法がない」などと断言する人もいるほどです。こういう言い方の裏には「かっちりした人称や性、数の対応のある言語の文法こそ文法らしい文法」、こんな意識が隠れていることは想像に難くありません。
最近アルジャジーラ放送などで、アラビア語をよく耳にします。でも、アラビア語がどこで話されているのか、使われている地域はどれぐらい広いのか、ご存知ですか? 大西洋からインド洋まで、北アフリカの全ての国々(モーリタニヤ、モロッコ、アルジェリヤ、チュニジア、リビヤ、エジプト、スーダン)、中東のある国々(レバノン、シリヤ、イラク、ヨルダン)、そしてアラビア半島、ペルシア湾の国々(サウジアラビア、イエメン、オマーン、クウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦)がアラビア語を公用語として使っています。話者の人口は2億人に近いです。もちろんこの広い地域には方言差があります。日本語の方言状態よりも中国の方言状態に近いと考えた方が良いです。たとえば、シリア人とモロッコ人は自分の母語方言で話すとお互いに理解できません。しかし、書いたアラビア語は全てのアラビア語圏の国で同じです。この点も中国語に近いでしょう。書いたアラビア語、文語、というものは日本語の標準語と全然違います。アラビア語の文語の基本はある都市(都会、首都など)の方言ではなく、七世紀のコーランのアラビア語です。もちろん文語はあまり変わらなくても、口語はずいぶん変わりましたから、文語と口語(どの方言も)の差がかなりあります。ですから、「アラビア語」よりも「アラビア諸言語」について話した方が良いかもしれません。どんなアラビア語について話しても構造は日本語と随分違います。語順は完璧に逆です。普通の文書で動詞が最初に来て、そして主語、目的語。形容詞や関係節は名詞の後に来ます。音韻の面から見ると、母音は三つしかありませんが、子音が多いです。日本語やヨーロッパの言語にはない喉の奥の子音は特に多いです。形態論も非常に複雑で、屈折的な言語だと考えても良いのですが、「語幹内変更」という現象もあります。単語の子音を変えず、母音や音節構造だけを変えて、新しい単語を発生させるということです。そして、アラビア語のもう一つの特徴は文字です。書道の伝統は深く、モスクや建物に書いてある書道を見たことのある人は皆「綺麗」だと感じるのではないかと思います。難しく見えるかもしれませんが、実はアラビア語文字はローマ字より簡単で使いやすいのです。
ギリシア語は、インド・ヨーロッパ語族の古い言語として非常に長く歴史をたどることができ、また、文語においては現代に至るまで古代の姿をよく残してきた言語です。古代ギリシア・ローマ文明がのちのヨーロッパ文明の源泉となったことはよく知られるところであり、ギリシア文化を支えたギリシア語は、ラテン語とともにヨーロッパの古典語と呼ばれ、伝統的な学問・教育において重要な位置を占めてきました。われわれ日本人も、積極的に西洋文化を取り入れてきましたので、ギリシア語を直接目にすることは少ないながら、いろんなところでギリシア語の恩恵に浴しているとも言えるでしょう。このようなギリシア語を日本語と比べる形で紹介したいと思いますが、講師は西洋古典文学を専門としているため、主として古典ギリシア語についてお話することになります。この点につきご了承をあらかじめお願いしておきます。今回は、ギリシア語の文法組織の概要を紹介しながら、主として動詞のテンスとアスペクトを取り上げます。テンスには、現在、未完了過去、未来、アオリスト、完了、過去完了、未来完了の7つが区別されています。しかし、実は、これらは過去、現在、未来というような単純な時間関係の区別を示しているだけではないようです。現在、アオリスト、完了という区別は、本来は、行為がいかに行なわれるかの様相(アスペクト)の違いを示すものであって、それぞれ、繰り返されたり持続している動作、単純な一回的動作、完了してその結果が残存している動作に対応するものでした。このようなアスペクトの区別に時間関係の区別が組み合わされることによって、いささか複雑なテンスの組織が生まれることになり、ギリシア語の特徴となりました。日本語にはこのようなテンスの組織というのはありませんし、英語などのテンスも異なる点があるようですし、なかなか日本人には理解が難しいところだと思います。具体的な文例を見てもらいながら、また、日本語における時間の表現を比べるなどして、ギリシア語における多様な時間的表現について考えてみたいと思います。
ポルトガル語は、スペイン語やイタリア語などと同じくラテン語から派生した言語で、南ヨーロッパ地域を中心に分布しているロマンス語と呼ばれる言語グループに属する言語です。もっとも、最近では、現在約25万人に達している在日ブラジル人の母語となっている言語といったほうがわかりやすいでしょう。在日外国人コミュニティーの中では第3位の規模となっていることもあり、地域によっては市役所など公共施設でも目にする機会の多い言語です。講座では、まず、現在、世界でポルトガル語がどのような地域でどのような人々によって話されているのかを概観した後、ポルトガル語の主な分布地域であるポルトガルとブラジルのポルトガル語について簡単にその位置づけ、ちがいなどについて解説します。これにより、ポルトガル語の全体像や、今、私たちの身近で話されているブラジルのポルトガル語との関係などがはっきりしてくるでしょう。
次に、音声や文法構造における、日本語とポルトガル語の似ている点、似ていそうで実は違う点などを順次取り上げていく予定です。日本人にとって、英語などに比べると発音がしやすいとされているポルトガル語ですが、実は思わぬ落とし穴があったり、言語構造の違いから日本人にとって学習が困難な例などが示されるはずです。特に、今回は、日本語の「こ・そ・あ」にあたる指示詞の体系に焦点をあてて考えてみようと思います。ポルトガル語でも「これ・それ・あれ」が“este/esse/aquele”という3系列で表現され日本語とそっくりなのですが、はたして実際の用法はどうなっているのでしょうか。こんな例から対照研究ってなんだろうということにも話が発展すればいいなと考えています。
「日本語から見た世界の言語 −対照研究への招待(4)−」
台湾語は福建南部をベースとするビン(門+虫)南語の、台湾における1亜種です。ビン南語は福建南部を始め東南アジアに広く行われていますが、台湾の人々は百数十年前から自らの母語を愛情を込めて台湾語と呼んでいます。ビン南語は中国福建の地で大昔(ひょっとして後漢にまで遡れるかも)百越と漢人に呼ばれていた先住諸部族の言語の上に漢人の漢語が被さって形成された経緯があり、従ってビン南語は中国語の1ブランチ、中国語の1方言とされています。中国語系の言語、方言の大きな特色として単音節性ということがあります。すなわち、単語の多くが単音節であるということです。中国語において1つの音節を表すのに用いられているのが漢字です、一単語、一音節、一漢字というわけです。この点、日本語は大きく異なっていて、単語と音節数および漢字数が必ずしも対応していないこと、1つの漢字に幾つかの読み方があることなど、とても複雑な表記法をもっていることはご案内のとおりです。台湾語もまた中国語系統の言語として漢字で表記することが可能ですが、漢字の用法という観点から眺めると、標準中国語よりもむしろ日本語の漢字用法によく似た点が多いことに気がつきます。
また、台湾は50年もの日本統治時代を経ているので、その間たくさんの日本語語彙を取り入れています。台湾語に取り入れられた日本語語彙は漢語、和語、(欧米からの)外来語を含み、その取り入れ方にかなり特徴があります。この点は、福建や東南アジアのビン南語と大きく異なるところでしょう。
今回の講座では、1)漢字の用法を通して見た台湾語と日本語の近似性、2)台湾語の日本語借用語彙の取り入れ方の特色、の2つについて比較して見たいと思います。
漢字の用法
口語読みと文語読み、呉音読みと漢音読み
訓読み
宛字
日本語からの語彙
日本語の漢語から
和語から
外来語は日本語を経由して時間が許せば1の1)ではその因って来る歴史的な原因について(すなわち「比較」言語学的に)、2では台湾語アクセントの特異性について(すなわち日本語と「対照」して)より詳しく触れて見たいと思います。
今では日本のテレビ・コマーシャルなどでも耳にすることのあるタイ語は、昔からわが国とつながりの深いタイ王国(プラテート・タイ)の国語で、約7000万の使用人口がありますから、アジアの中でも大きな言語の一つだといえます。親戚にあたるタイ諸語になると、中国南部の自治区、ベトナム、ラオス、ミャンマー、遠いところではインド東端までの広い範囲で使われています。今回の講座では、発音も文法も文字体系も日本語とは対極的なほど違うこのタイ語の不思議な世界を楽しんでいただき、その知識を次回のタイ訪問で大いに役立てていただきたいと願っています。タイ語の学習で苦労するのは、何といっても発音です。日本人にとって聞いたり発音したりするのが難しい頭子音や末子音があり、「ゴルフ」をタイ語では「コープ」、「ガス」も「キャット」も「ケート」と発音するのに戸惑わされます。また、5声調があり、声調が異なるとそれぞれ意味も異なってきます。たとえば「クライ」(平声)は「遠い」で「クライ」(下声)は「近い」です。声調をきちんと覚えないと道も訊けないことになります。
逆に、文法になると、英語の習得に苦労してきた日本人からすると実に簡単です。それはタイ語の品詞には活用が一切なく、「てにをはが」といった助詞も特殊な場合以外は使わないからです。基本の構文は「主語+動詞+目的語」ですから、英語とほぼ同じ。「私」+「好き」+「あなた」の単語を並べるだけで立派な愛の告白文になります。「好き」の過去形などないので、「まで」と「昨日」という語を文末に加えると、「昨日までは好きだった」と過去文になります。
最後は文字です。見るからに難しそうですが、基本は英語のアルファベットと同じ表音文字で、違いは母音文字が子音文字の上下や左右に付くこと。駐在員として長くタイにいる日本人でも、タイ文字の読み書きまでできる人は少ないので、自分の名前を書いてみせたり、雑誌のタイトルを読んだだけでも現地の人に驚かれます。
ドイツ、ポーランド、スロヴァキア、オーストリアに囲まれた内陸国、チェコ共和国。かつてチェコスロヴァキアという国がありましたが、今からちょうど10年前に2つの国に分かれました。分かれる前からチェコではチェコ語が、スロヴァキアではスロヴァキア語という別の言語が話されていました。その状況は分離独立した今でも変わりありません。日本からチェコへ行こうとすると、直行便がないこともあって少なくとも半日はかかります。チェコと日本は地理的にかけ離れ、歴史的にも接点がほとんどなく、そして文化も当然大きく異なります。
そんなチェコという国土とそこに暮すチェコ人が育んできた言語がチェコ語ですから、日本語と対照させてみると何から何まで違います。共通点を探し出すほうが難しいくらいです。ですから日本人がチェコ語を学習しようとすると、最初からさまざまな困難に直面することになります。まず、日本語にはない文法概念に合わせて語彙を選び、それらを組み合わせて文を作らなくてはなりません。しかも、文を組みたてる過程で形を整える必要があります。「日本語にはない文法概念」とは? 「形を整える」とは? これが話題の中心となります。
しかし欧州大陸の中心に位置するこの国の言語は、ヨーロッパの中ではそれほど特殊というわけでもありません。言語人口は1000万人ほどですが、近隣の強大な言語に飲み込まれることなく生きつづけ、「チェコではみなチェコ語を話す」現在の状況を作り上げました。
しばしば、「イタリア語では、文の主語は、強調されるのでなければ省略することができる」と言われる。主語とは何であるか、という厄介な問題は別として、表面的には、日本語にも言えそうなことである (日本語でも主語が明示されない文は珍しくない)。それはともかく、この嘘ではないが言語学的にあまり厳密でもない説明が、イタリア語ではどのような意味を持つのかを少し詳しく考えてみたい。イタリア語の文においては、動詞の中に組み込まれた主語と、動詞とは別の語として実現された主語の、2種類の主語が存在する。:noi siamo giapponesi「私たちは日本人です」(siamo「私たちは ノ である」、noi「私たちは」)。前者は、不定形諸形を除くすべての動詞において不可避的に表現されるが、後者の主語は、文を成立させるための必要要件ではない (noi siamo giapponesi / siamo giapponesi「私たちは日本人です」)。
このような二種類の主語の区別は、実は、イタリア語の人称代名詞の体系におけるある種の不均整さと関連している。主語を表わす人称代名詞の系列においては、イタリア語の人称代名詞の分類にとって重要な強形・弱形の対立 (Maria ti ama 〜 Maria ama te [, non me]「マリアはあなたを愛している [わたしを、ではなく]」) が現れない。と言うのは、主語の人称代名詞は原則として、みな強形であり (io, tu, lui, lei, noi, voi, loro)、強調を伴わない主語として使えるような弱形の代名詞は存在しないからである。
しかし、この原則には幾つか例外がある。そのうち顕著なものは、不特定の主語を表わす代名詞 si と、不特定の数量を表わす代名詞 ne である。この2つの代名詞は、主語を表わすことができるにもかかわらず、弱形である。
この2つの代名詞には、さらに、不規則な点がもう一つある。それは、この2つを使った文においては、主語と目的語 (特に直接目的語) の区別がはっきりとつけられなくなる、ということである。弱形の人称代名詞は、通常は、格の形態論上の区別と密接に結びついているにもかかわらず、である。これは、動詞をも巻き込み、1970年後半から1980年にかけてさかんに議論された、いわゆる「非対格性」の問題につながっていく。
ペルシア語は、イラン、アフガニスタン、タジク共和国の公用語。アラビア文字で表記されますが、インド・ヨーロッパ語族に属する言語です。7世紀のアラブ征服以降、ペルシア語は広大な言語文化圏を形成し、豊富な文学伝統を有し、詩人、学者たちを輩出してきました。また、ペルシア語が属するイラン語派の分布は、現在でも、西はシリア、イラク、トルコから、北東では中国新彊ウイグル自治区の一部、南はオマーン突端部の広域にわたります。一方で、ペルシア語を公用語とする国では、ペルシア語だけが話されているわけではありません。例えばイランでは、ペルシア語は国語であり、その習得は義務教育の一環とされていますが、地方に足を伸ばしてみると、イラン系のみならず、トルコ系などを含めた様々な言語が、土地の人々の母語として使われているのが分かります。また、よく知られているように、アフガニスタンでは、ダリー語(アフガン・ペルシア語)が母語話者人口で多数を占めるパシュトー語と並んで公用語となっていますが、共通語としては、ダリー語の使用頻度の方が高いのが現状です。古来よりリンガフランカ(異なる言語・方言話者の間の共通語)として使われてきたペルシア語は、現在でもその役割は変わっていないのです。
この講座では、ペルシア語で興味深い文法特徴をとりあげるとともに、ペルシア語およびイラン語派の歴史、さらに、イランの言語事情を中心に、これらの言語の使用状況についてお話します。
<とりあげるトピック>
1) ペルシア語およびイラン語派の概説と歴史
2) ペルシア語の文法的特徴(文字、音とリズム、語順、時制、ウナギ文など)
3) ペルシア語の中の外国語、外国語の中のペルシア語
4) ペルシア語の待遇表現
5) ペルシア語の使用状況
「日本語から見た世界の言語 −対照研究への招待(3)−」
日本語話者の目を通して見ることによりドイツ語のどのような特徴が見えてくるでしょうか。またドイツ語と比べることにより、普段は特に意識せずに使っている日本語のどのような特徴が見えてくるでしょうか。この講座では以下のようなトピックを取り上げて具体的に考えてみたいと思います。
「入れる」というような日常的な語でもドイツ語におきかけるのはそれほど簡単ではない。「本をバッグに入れる」「魚を冷蔵庫に入れる」「牛乳を冷蔵庫に入れる」はドイツ語ではそれぞれ違う動詞を使って表わす。一見対応するように見え動詞の意味がドイツ語と日本語ではどのようにずれているのか。 ドイツ語には主格(Nominativ)、属格(Genitiv)、与格(Dativ)、対格(Akkusativ)という4つの格があり、一般にそれぞれ「〜が」「〜の」「〜に」「〜を」におおよそ対応すると説明されているが、「ドアを叩く」「時計を見る」「(犬が)綱を引く」などの「〜を」は対格ではなく前置詞を使って表わされる。ドイツ語の格と日本語の格助詞の働きにはどのような違いがあるのか。 「太郎がドアを開ける」「太郎がドアを開けてやる」「太郎がドアを開けてくれる」をドイツ語ではどのように表わし分けるのか? ドイツ語でも動詞に手を加えてこの違いを表わすのか。 「彼はいつも医者に治療されていた」のように、ドイツ語の受動文をそのまま受動文として訳すと日本語としてしっくりこないことが少なくない。また「盗んだ財布」と「盗まれた財布」はドイツ語だとdes gestohlene Portemonnaieという同じ表現になってしまう。ドイツ語と日本語の受動文はどう違うのか。 Ich rieche das Gas.は「私はガスの臭いを嗅ぐ」ではなく「ガスの臭いがする」という意味だし、Bei dem Unfall wurden 3 Menschen getötet.は「事故で3人が殺された」という偽装殺人ではなく単なる事故の報告に過ぎない。このような文の意味のずれはどうして生じるのだろうか。 「ドイツ語がうまく話せるようになりたい」や「たばこを吸わなくなってからすごく調子が良い。」の「なる」はどのように表わすのだろうか。そもそもこのような「なる」をドイツ語でも表わすのだろうか?
本学にトルコ語専攻コースができてから10年あまりになります。10年前と比べると、日本でのトルコやトルコ語に対する関心もかなり高まったように思われます。地理的にも文化的にも遠い国の言語でありながら、トルコ語はことばのしくみや発想という点でかなり日本語に似たところがあり、私たちにとっては親しみやすい外国語と言えます。もちろん「外国語」ですから、知らなければなにひとつ分からないのはあたりまえで、理解するために一定の努力が必要なことは他の言語の場合と同じです。それでは一体どういう努力が必要になるのか、あるいはどれくらいの努力で済むのか、その辺を考えてもらうことがこの講座の主な目的です。具体的には、トルコ語とは一体どんな言語なのか、いくつかの特徴を日本語と対照しながら見ていくことで、果たして日本人にとって学びやすいのかどうか、皆さん一人一人に判断してもらいたいと思います。
<主な話題>
日本で最初のトルコ語会話の本
文字と発音
簡単な日常表現
トルコ語の特徴いろいろ
「ワタシノイエワタシノ」
「とっても喜んだ!」
「ここだけの話ですよ」
「おかしいよこれ」
ラオス語は、東南アジアの内陸国であるラオス人民民主共和国の国語です。ラオス語の情報は少なく、神秘のベールに包まれている部分が少なくありません。この機会に日本語と対照させながら、丸っこい文字と高低の抑揚がある美しい響きを持つラオス語に触れていただきたいと思います。本講座では、まずラオス語の発音と日本語の発音の相違点から来る問題点を検討します。発音がしにくい、できない、などの原因の多くは、母国語が干渉していることが多いと言われています。したがって両言語の学習者の具体的例を挙げて検討することにします。
次に語順を通してみた両言語の相違点と類似点について述べます。一般にラオス語文は「主語+動詞+補語」の語順をとる、と言われていますが、問題はそう簡単ではありません。言わなくてもいいことは述べない、主題として提示したいときには文頭におくなど、日本語と似た点もあります。
最後に語彙を通してみた諸相として、まず基礎語彙の比較をします。両国の米に関する語彙を比較するとおもしろいことがわかってきます。タイトルにありますように、ラオスの主食はもち米です。日本の主食はうるち米です。同じ米ですが、違う米でもあります。ラオス語と日本語の違いもそんなちがいかもしれません。また、ラオス語は、系統はタイ・カダイ諸語に属するといわれています。そこでタイ語や黒タイ語など、他のタイ・カダイ諸語との語彙比較一覧表を見ることによって、日本語にはない同系であるがゆえの様相、併せて言語の普遍性や借用について考えます。さらにはラオス語と日本語の擬声語や擬態語、諺をとおして考えられることはどんなことでしょうか。ラオス語と日本語のさまざまな点からの比較検討を通して皆さんと一緒に「考える2時間」にしたいと思います。
「国名に一致する言語があるはずだ」という常識から、インド語とかパキスタン語という名称を時々耳にすることがあります。しかし、インド亜大陸には多くの民族が住み、多くの言語が話されているというのが実像です。「ウルドゥー語」はインド・ヨーロッパ語族のインド語派に属していますが、11世紀前後からのイスラーム教徒による北インド進出がこの言語の成立に深く関わり、アラビア語・ペルシャ語の語彙を多く含んでいるのが特徴と言えます。この講座では日本語を母語とする話者がウルドゥー語を学ぼうとするときに感じるであろう疑問や「とまどい」を取り上げてみたいと思います。
1 何か難しい発音はあるのだろうか?
2 ウルドゥー語はアラビア ・ペルシャ系の文字で表記されます。その習得は簡単なのか、難しいのか?
3 語順は日本語とほぼ同じで、動詞の活用が主語の性 ・数と一致する言語を学習者はどう感じるのでしょうか?
4 ウルドゥー語では喜怒哀楽、好き嫌いなどの感情を「私に愛がある」とか「私に嫌悪感がある」というぐあいに抽象名詞を使って表現することがよくあります。これが私たちに「とまどい」を感じさせることが多いのですが ・ ・ ・。
5 過去形や完了形を学ぶときに出てくる能格構文は大いにとまどうこと間違いなしです。
東京外国語大学でポーランド語が専攻語として教えられるようになって10年が過ぎましたが、どうやら、26専攻語の中でポーランド語がいちばん難しいらしい、というウワサが定着してしまったようです。私の講義の主眼は、この根も葉もない(ある?)ウワサが、実はたいへんな誤解であるということ、ポーランド語は確かに学ぶのに厄介ではあるが、決して難解ではない、むしろきわめて明解な言語である、ということを受講者の皆さんに納得していただくことにあります。ポーランド語は比較歴史言語学の分類によれば、インドヨーロッパ語族のスラヴ語派に属します。したがって、チェコ語とは兄弟、ロシア語とは従兄弟、英語やドイツ語、フランス語などとも親戚関係にある、ということができます。
一方、言語類型論的にどんな言語かといえば、通常いわゆる屈折言語、つまり語形変化の多い言語に分類されます。しかし、名詞や形容詞の変化はともかく、動詞の活用はさほどではなく、時制は現在、過去、未来の3つ、法も直説法、仮定法、命令法の3つしかありません。フランス語をご存知の方がポーランド語の学習を始めたなら、ポーランド語時制体系の単純さに拍子抜けするはずです。
ところでポーランド語の面白さ、それはユニークな「性表現」にあります。性には自然性と文法性がありますが、ポーランド語を話すときはいつでも、自分の性と相手の性、その場にいないが話題にする人の性を意識するだけでなく、モノやコトを表わす名詞に与えられた文法性を正しく守ることが必要になります。ポーランド国民の間にレディーファーストの精神が行き渡っているのとは裏腹に、肝心のポーランド語には「男性人間性」と呼ばれる、オトコだけを厚遇するような文法カテゴリーも存在します。
今回の講座では、この日本文、あるいはあの英文をポーランド語で言うとどうなるのか(あるいはその逆の場合)という観点から、具体例を挙げながら、ポーランド語のエッセンスを紹介したいと思います。受講者の皆さんには、ポーランド語に触れることで、母語や既習の外国語をあらためて見直すきっかけにしていただければ幸いです。
「日本語から見た世界の言語 −対照研究への招待(2)−」
今や英語は国際語である。日本でも、英語は大多数の日本人にとって第1外国語である。(小)中学校から必修科目とされ、数年あるいはもっと長きにわたって私たちは英語を習う。英語は生活全般にあふれ、日常会話でも英語からの外来語は不可欠だ。それほどに英語は身近な外国語だ。しかし、実のところそれは日本の生活の飾りとして英語を使っているのであったり、カタカナの日本語として使っているのであったりすることが多い。完全にコード・スウィッチングをして、本当に英語として英語を使うとなるととたんに居心地の悪い、もどかしい思いをする人が多いのではないだろうか。世界中で特に日本人は英会話が苦手だという「うわさ」もよく耳にする。英語は意外と遠い外国語なのだ。英語圏に生まれ育っていたなら何の苦労もないことだろう。しかしその時には日本語が欠落しているわけで、こんな想像は意味がない。むしろ、母語である日本語が足かせになっている可能性を考えてみたらどうだろう。日本語が身についているからこそ英語に馴染みにくい。この仮説のもとに、音韻、語彙、文法、発想の順に日本語と英語を対照的に観察していくと、少し謎が解けてくる。文化の違いを実感することにもなる。一方で、類似点も見落とさないようにしたい。
当日カバーするトピックの例:
1 「ハット」は帽子か小屋か
2 「富士山」があるからWho are you?がうまく言えない
3 「運転手」と「ねじ回し」は同義か
4 「教える」「教わる」「教えられる」の英語は?
5 「キラキラ光る」とtwinkle, twinkle
6 「それは困ります」の英訳は本当に困ります
7 What brings you here?の日本語訳は?
8 「オエーッとなっちゃった」の英語は?
9 meetとmeet with、「会う」と「会見する」
10 I sent Chicago a dozen boxesとI sent a dozen boxes to Chicago
ふだん私たちが「フランス語」や「日本語」を言うとき、それは具体的にはどのようなフランス語や日本語を指しているのでしょう? ふつうは教育や国家という制度の中で取り決められた社会的なルールとしての言語、いわゆる「言語的な規範」を指していることが多いようです。しかし、こと言語に関する限り、そうした規範の束縛は概してゆるやかで、規範をあふれでるものの方が多いことは誰しもが日常的に経験することです。たとえば「鮭」を「シャケ」と呼んでいっこうに差し支えないとする人が、「大きい」を「でかい」くらいなら許せるけど、「でけー」までいくと規範的ではないと思い、最近の「違くない」にいたっては明らかに間違いだと考えるようなものです。こうしたことはフランス語にも似た事例が多々あります。きっとどんな言語でも起きていることなのでしょう。今回はそんな規範と規範を逸脱するものについて、次のような順序で話をしたいと思います。
1. フランス語の概説
まずフランス語について簡単な概説をします。ふだん私たちがイメージしているフランス語は地球上でどのように話され、あるいは学ばれているのでしょうか。また私たちはなぜフランス語を学ぼうとするのでしょう。2. 「フランス語」とは何か?
世界中で学ばれ、日本の大学や語学学校で教えられている「フランス語」はどのような言語なのでしょう。それを解説しながら、地球上で話されている様々なフランス語との関係について考えてみたいと思います。そこから自ずとフランス語の規範とはみ出るものが浮き彫りになってくるでしょう。3. 規範とそこからあふれでるもの
最後にフランス語と日本語の音声・文法・語彙を対照させながら、いくつかの例をあげて、それぞれの言語にとっての規範とそこからあふれでるものについて説明したいと思います。
今回の講座はクエスチョンマークに始まり、終わります。というのもロシア語が話されている国がいわば世界最大のクエスチョンマークだからです。日本にとって一番近い国でありながら、いまだもっていろいろな意味で遠い存在がロシアです。その主たる住民であるロシア人もまたなぞに満ちています。しかし、すこしロシア語をかじってみると、日本語にとって赤の他人のロシア語が意外と身近なのに驚かされます。そういえば、日本人が長いこと考えつづけている問題、たとえば、アジア的なものとヨーロッパ的なものの対立はロシア人をいまだもって悩ませている問題でもあります。今回はどこが日本語に似ていてどこが異なるかを中心にお話できればと考えています。では最後に――ロシア人にとって日本語の発音はほとんど問題になりませんが、苦手なものがあります。それは一体なんでしょう? そのあたりから講座をはじめます。
モンゴル系の言語が話されている地域のうち、日本に最も近いのは、中国・内モンゴル自治区の東南端、トンリャオ(通遼)市一帯で、日本の福岡市からの直線距離は、福岡〜札幌間の距離とほぼ同じです。いっぽう、最も遠いのは、ロシア連邦の欧州部、カスピ海の西北沿岸にあるカルムーク共和国です。この講座では、ユーラシア大陸の内陸部に広く分布するモンゴル系民族のことばの主な特徴を紹介することにします。そのさい、日本語母語話者である私たちがモンゴル語を学習する上で、どのような点がやさしく感じられ、どのような点がむずかしく感じられるかという観点からの話を中心に進めたいと思います。
次のような話題を取り上げる予定です。
1) 発音のやさしさと難しさ
2) 文法面の、日本語との類似性と相違点(語順と、単語の構造)
3) 日本語のような丁寧語や敬語は、あるか?
4) 人称代名詞の使い方
5) 文化的背景を反映した語彙(遊牧・牧畜文化に関わるもの)
6) 外来語の使用状況
7) 上から下へ縦書きにするモンゴル文字の魅力
8) 地域による使用文字のちがい
ベトナム――正式にはベトナム社会主義共和国はインドシナ半島の東端に位置し、その面積は、日本より少し狭く、約33万です。人口は約7500万でその9割近くを占めるキン族(=ベト族)と50以上の少数民族からなる多民族国家です。ベトナム語はそのキン族の言語であり、全国共通語でもあります。本講座では、日本語と対照させながら、ベトナム語の基本的事項と特徴について簡潔にまとめてみたいと思っております。
ベトナムは地理的・歴史的に中国と深い関わりを持っていたために中国文化の影響を色濃く受けています。言語の面では、語彙の約7割は「漢越語」と呼ばれる中国語からの外来語です。但し、発音はベトナム語読みで、「チュー・クオック・グー」というアルファベットで表記されています。ですから、現在では、漢字そのものは使用されていませんが、実質的には「漢越語」としてたくさん使われているわけです。
発音の面では、母音の数が日本語の約倍と多いことと声調がある(ハノイ方言では6声調)ことが大きな特徴です。また、単音節型言語ですので、正しく聞き取り、正確に発音することはベトナム語学習の最大の難関となっています。
文法の面では、人称・時制・単数・複数に関わらず語形変化がなく、文法関係は主として語順と文法機能語によって表わされます。文の基本的語順は英語と同じで[主語-動詞-目的語]で、動詞が文末に来る日本語とは異なっています。また、修飾関係も日本語とは逆で、[被修飾語-修飾語]となっています。
「日本語から見た世界の言語 −対照研究への招待−」
言語の対照研究を行う目的は二つある。一つは、人間の言語としての普遍性の探求である。全く異なるようにみえる言語間も、無制限に異なっているわけではなく、人間言語としての普遍性に裏打ちされた共通性・一定の範囲内での相違性をみせる。この普遍性が、子供が無意識のうちに6歳までにはほぼ母語の文法体系・音韻体系を習得することを可能にしている。二つ目の目的は、外国語教育にある。第二言語習得としての外国語教育は、母語の無意識な習得とは異なり、意識的な学習である。こうした意識的学習の場において、学習している外国語の体系について、母語と対照させながら、納得のゆく説明があたえられれば、学習効果は倍増するばかりでなく、母語の体系についても、意識的に観察できるようになる。本講座では、日本語を軸にして、英語・中国語と対照させ、言語の普遍性と、言語理論の外国語教育への活用を考えたい。以下のトピックについて三言語を対照させる予定である。
1. 言語類型論:日本語(膠着的agglutinative)、英語(分析的analytic)、中国語(孤立的isolating)の形態的特徴
2. 音韻類型論:a. 母音の体系 b. 子音の体系 → 日本語の音の持ち駒の少なさ c. 韻律(prosodic)的特徴(音節vs.モーラ、強弱アクセントvs.高低アクセント、語ピッチvs.音節ピッチ)
3. 形態類型論:a. 語形成の過程 b. 複合語の構造(右側主要部の法則) c. 借用(中国語の翻訳借用calque) d. 非対格性unaccusativityと語形成(「雨降り」vs.「神隠し」)
4. 統語類型論:a. 句構造(右vs.左主要部) b. 疑問文(疑問詞wh-word移動の有無) c. 結果構文resultatives(They ran their shoes threadbare. vs. *彼らは靴をぼろぼろに走った)
5. 日本語教育における学習困難点と対応する英語・中国語 a. 「は」と「が」:‘定/不定’ definite/indefinite、旧/新情報 b. 「ている」:進行相、結果相(動詞の語彙的アスペクト性の相異「知っている」)、パーフェクト(英語の完了形と中国語の文末の「了」)
朝鮮語は韓国語とも呼ばれ、朝鮮半島だけでなく、日本やロシア、中央アジアのウズベキスタンやカザフスタン、米国やオーストラリアなどの在外朝鮮人・韓国人の間でも用いられている。この言語は日本語とどこが似ていてどこが異なるのだろうか。発音の点から見ると、日本語とは随分異なっている。母音や子音の数が日本語よりも多く、日本語母語話者が学ぶ大きな障害になっている。音節の構造は、子音で終わることが少ない日本語に比べると、子音で終わる音節が多く、これも学習上の困難を呼び起こす。韓国のいわゆる標準語はソウル方言を基礎にしたものだが、これには音の高低で単語の意味を区別する、高低アクセントはない。ゆえに逆に朝鮮語の母語話者が日本語を学ぶときには、この高低アクセントがとても難しい。一方で、慶尚道などの方言では朝鮮語にも高低アクセントが見られるのは面白い。ちなみに15世紀の朝鮮語にも高低アクセントがあったことが知られている。
語彙の点からみると、日本語と共通するところと全く異なったところがある。朝鮮語の語彙は、その成り立ちから、固有語、漢字語、外来語の3種類に分けて考えることができる。固有語は日本語と似ても似つかない形をしているが、日本語の漢語にあたる漢字語は日本語とも音が似ているものがあって面白い。同じ漢字から成る漢字語でも、日本語と朝鮮語で共通して用いるもの、意味がずれているもの、まったく共通していないものがあって、これも興味をそそる。外来語は、起源が同じでも日本語と朝鮮語、それぞれの発音の体系にあわせて成り立っているので、これも微妙な違いを見せてくれる。
文法の点から見ると、語順が日本語とほとんど同じだということが第一の特徴である。ただし、日本語の文の単語を1つ1つ逐語訳していけば、何でも自然な朝鮮語になるかというと、そうはいかない。この点で日本の朝鮮語学習には大きな誤解があるようだ。第二に、いわゆる膠着語的な性格も両言語に共通する特徴としてあげてよい。第三に、第二の点ともからむが、いわゆる「てにをは」が存在している点も共通する特徴である。「は」と「が」の使い分けなど、両言語に共通するところと異なるところがあって、これも面白いトピックである。
文字の点から見ると、固有のハングル文字は、母音字母と子音字母を組み合わせて1文字を構成するようになっていて、1字母1音を表す単音文字(アルファベット)的な性格と、1文字が1音節を表す音節文字的な性格を併せ持っていることが特徴である。ハングルと漢字の用法も興味深い話題を提供してくれるだろう。
カンボジアはベトナムとラオスとタイと海とに取り囲まれ、面積は日本のほぼ半分の約18万平方キロ、人口は約1千70万人の国です。昔から大いに繁栄した国で、アンコール・ワットなどの壮大な遺跡群は世界的に有名です。このカンボジア王国の国語が、カンボジア語です。同国の主要構成民族であるクメール族の言語であることからクメール語とも呼ばれます。正確な使用人口は不明ですが、国内人口の9割以上、国外でもタイの東北部、ベトナム南部、ラオスに合計で約2百万人、また米、仏、豪、加等への定住者が約20万人と推定されています。今回の講座では、日本語を通して見るカンボジア語の姿についてお話しします。まずはじめに、カンボジア語という言語がどのような特徴をもつ言語であるかを概観します。系統としてはオーストロアジア語族のモン・クメール語族に属すカンボジア語は、音を聞いても、日本人が聞き分けるのが難しい音がたくさんあります。文法を学んでも、格助詞や、動詞の活用等の語形変化もなく、述語の後ろに目的語が続いたり、被修飾語の後ろに修飾語が続いたりと日本語と逆の基本語順になっています。更に文字を眺めれば、漢字ともひらがなともローマ字とも異なる形の記号の列は、どこからどこまでが一つの文字で、どこまでが一つの単語なのかすら、初学者には容易に判別できません。このように、カンボジア語は、一見、日本人が学ぶのには難しそうな、近寄りがたい言語に見えます。
しかし、注意深く観察してみれば、聞き分けるのが難しいように思われる音の多くは、日本語の中で無意識に発音している音ですし、主題を文頭に出したり、言わなくてもわかることは言わなかったりと、文法面でも日本語との類似点が存在します。また、タイトルにある「カボチャとカラオケ」のように、数は少なくても、お互いに借用している語彙もあります。
本講座を受講なさる皆様に、少しでもカンボジア語を身近な存在として感じていただけるよう、映像や音声も含む多種多様な資料を利用して、生きたカンボジア語をご紹介します。
外国語学習において困難な点とは、無条件に難しい言語があるというのではなく、比較的に難しい言語、または難しくない言語があることです。ということは、比較的難しいのは母語から遠い言語であり、比較的難しくないのは母語に近い言語です。では、この二つの言語間の遠さ、近さは、どのように言語学的に計れるでしょうか。以下の三つの分類方法により検討してゆきます。
◆言語を分類する三つの方法
1-語族の基本で分類
2-類型の基本で分類
3-地域の基本で分類:言語地域/文化地域1. 重要な語族のいくつか
Indoeuropean (話者の人数による世界最大の語族)
Sinotibetan (話者の人数による世界第二の大きな語族)
Congo-Kordofanian (言語数による世界最大の語族)
Austronesian (言語数による世界第二の大きな語族)
Altaic (?)
Afroasiatic (Hamito-Semitic) (アラビア語を含む語族)2. 言語の類型(特に統語論の類型)
動詞と目的語の語順:OV/VO
後置詞か前置詞か:N Post./Prep. N
名詞と形容詞の語順:Adj. N/N Adj.
所有名詞(G)と被所有名詞(N)の語順:GN/NG
名詞と関係節:Rel. N/N Rel.
一貫した(consistent)OV言語:N Post.、Adj. N、GN、Rel. N
例:日本語、韓国語、トルコ語、モンゴル語、アムハラ語
一貫したVO言語:Prep. N、N Adj.、NG、N Rel.
例:アラビア語、フランス語、イタリア語、マラヤ語
一貫していない(inconsistent)OV言語:ペルシャ語(Prep. N、N Adj.、NG、N Rel.)
一貫していないVO言語:英語(Adj. N、GN -John's book)3. 言語地域:
西欧州、東南欧州、東南アジア、等
文化地域:
欧州(ラテン語、ギリシャ語の影響)
東アジア(中国語の影響)
南アジア(サンスクリットの影響)
イスラム地方−西アフリカから東南アジアまで(アラビア語、ペルシャ語の影響)
ユーラシア大陸のさらに東にある日本語とそれから遠く隔たった大陸の西の端にあるスペイン語は、言語の系統も異なるし、いろいろな点で相違がある。しかし、同じ人間言語である以上、当然に共通する点や類似点もある。ここでは、まず類型論的な観点から両言語をさまざまの面で対照し、概観した上で、その中からいくつかの特徴的と思われる事項を取り上げて、比較してみることにしたい。
スペイン語は日本人にとって習いやすいと言われるが、これは主に発音の面にかかわることである。音韻的に見ると、スペイン語も日本語も5母音の体系で、その母音も音声学的にそれほど大きな相違がない。子音体系は相違があるが、スペイン語には日本人にとって特に発音しにくいような子音はほとんどない。また、音節構造も母音で終わる開音節が多いなど、日本語と似た点がある。こうしたことから、音韻面でスペイン語は、英語などに比べて日本人には非常になじみやすいと言える。しかし、統語面となると、スペイン語は日本語と対極にある言語だといえる。日本語は典型的な主要部後置型の言語であって、文の基本語順はSOV(主語・目的語・動詞)であるのに対して、スペイン語は主要部前置型の言語であり、基本語順はSVO(主語・動詞・目的語)である。日本語は文の主要部である動詞が文末に置かれることで一貫しており、この規則は非常に厳格である。したがって、ここにあげた3要素で構成される文では、可能な語順はSOVとOSVしかない。しかし、スペイン語ではSVOのほかにVSO、VOS、OVSも原則として可能であり、動詞をなるべく文の前よりの位置に置こうとする傾向がある。もしSとOが両方とも名詞であれば、日本語とは逆にSOVとOSVの語順は許されない。この他、修飾語と被修飾語との関係でも、日本語では「形容詞・名詞」の語順であるのに対し、スペイン語では「名詞・形容詞」の語順が原則であり、そうした点でスペイン語は同じ類型に属する英語よりも主要部前置型の構造が徹底していると言える。このように、統語構造は非常に相違していて、両言語の語順は鏡に映したように正反対になることが多いので、習い始めた頃は、発音がうまいとほめられる日本人も、学習が進むにつれてスペイン語と同系統の言語を話す欧米人に比べて後れをとってしまうのが現実である。
以上のような語順の問題のほか、呼応、指示詞、人称代名詞、連結動詞、語形成などの問題についても時間の許す範囲で取り上げる予定である。
「少数民族の言語と超民族語の世界 (3) −アジア・太平洋の島々−」
インドネシアの言語状況をひと言で表すとすれば、共和国のモットー「多様性のなかの統一」をおいてほかにない。多様性とは、国内に200とも400とも推定される地域的な言語(地方語)が話されているという国民の母語の多様性であり、そのなかの統一とは、インドネシア民族主義のシンボルともいえるインドネシア語による統一である。地方語のなかで最大のものは、国民の約40%を占める5900万の使用人口を持つジャワ語である。2番目がスンダ語(約15%、2200万)。東スマトラなどのムラユ(マレー)語を日常使う人々は、約12%、1750万である。以下、マドゥラ語(約690万)、ミナンカバウ語(約350万)、ブギス語(約330万)、バタック語(約310万)、バリ語(約250万)、バンジヤル語(約160万)と続く(1980年国勢調査による)。インドネシアの言語の系統は、オーストロネシア系と、イリアン・ジャヤ(ニューギニア西部)のパプア系に2大別できるが、上の主要語はいずれも前者のインドネシア語派、特に、ブギス語を別にすれば、西インドネシア語群に属する言語である。
インドネシア語は共和国の国語として揺るがぬ地位を確立しているが、その普及率は、全国平均をとると、61.4%(1980年国勢調査)である。首都ジャカルタがほぼ100%に達していることはいうまでもない。ここは、そもそも植民地時代から、バタビア・マレーとよばれるマレー語方言を雑多な都市住民の共通語として通用させてきたマレー語地域である。他方、最も低いのは、東ジャワ(50.7%)である。ジャワ、バリなどの強大な地方語圏に国語能力が100%普及するには、あと半世紀、以上かかると推測されている。
インドネシアの言語状況を直感的に把握するとしたら、アメリカ合衆国とヨーロッパ共同体の中間を想像してみるのがよいかもしれない。いずれにせよ、我が国とは対蹠的な多言語社会である。
ジャワ語は主としてインドネシアのジャワ島の中部と東部地方において使用されている言語である。その使用人口はインドネシアの全人口約2億人の約40%、8000万人にもおよぶ。使用人口がインドネシア国内で使用されている民族語(地方語)の中で最大であるにもかかわらず公用語とならなかった理由の一つとしてあげられるのが、ジャワ語の敬語体系の複雑さであった。公用語として採用されたインドネシア語には敬語はなく、「民主的」な言語なのである。
ジャワ語には日本語と同様に普通体(常体)と丁寧体(敬体)の区別がある。普通体にあたるのが、「ンゴコ体」、丁寧体は「クロモ体」とよばれている。このほか普通体と丁寧体の中間にあたる「マディヨ体」というのもある。
日本で丁寧語が発達したのは、中世以降とされているが、ジャワ語も同様で古代ジャワ語には丁寧語はなかった。そして、普通体、丁寧体の区別がでてくるのは16世紀以降とされている。この時期はジャワの北海岸に新興イスラム国家が台頭し、マジャパイト朝が崩壊した動乱の時期であった。丁寧体は17世紀以降中部ジャワの内陸部にマタラム王国がおこり、社会が安定に向かった頃発達したといわれている。
本講義ではジャワ語の敬語体系を中心に、ジャワ語の語彙、ジャワ語の歴史、公用語であるインドネシア語へのジャワ語の影響などについて解説する。
マレーシア語はインドネシア語、シンガポールのマレー語、ブルネイのマレー語とは類縁関係にある言語で、オーストロネシア語族インドネシア語派(ヘスペロネシア語派)西インドネシア語群マレー語に属するとされる。このマレー語には、上記の言語の他、ミナンカバウ語、スマトラマレー語等が含まれる。同じマレー語に含まれるインドネシア語とは、当然のこと乍ら、語彙の面ではかなりの部分で共通しているものの、発音、文法面では細かな部分ではかなりの相違点がある。表面的な類似点に捕われると、内奥に存在する相違点を看過しがちである。マレーシアの憲法では、マレー語を国語とすると定めている。しかし乍ら、1969年5月13日に起こった華人とマレー人との間の民族衝突以降、マレーシア語という名称が使われだした。マレー語という名称には、マレーの人の言語というイメージが付き纏い、多民族国家を束ねる機能を果たすべき国語を表す名称としては、問題があると考えられたためである。しかし、このマレーシアの国語の名称を巡る問題は、実は、完全に解決をみたとは言い難く、数年前に、クアラルンプールのヒルトンホテルで「国際マレー語学会」が開かれた折には、「マレー語をアセアンのリングア・フランカに」というスローガンに呼応するように、教科書は一様に、マレー語(bahasa Melayu)という名称に改められた。しかし、翌年には、又、マレーシア語(bahasa Malaysia)という名称が復活していることからみても、政府の方針にも、揺れや、考え方の相違があることが分かる。そして、現在は、国内向けにはマレーシア語という名称を用い、国外に対しては、マレー語という名称を使うのが妥当であるという意見に落ち着いているように思われる。
国語の名称を巡る問題と並び、マレーシアでは、現在、「標準マレー語」の普及を政府が推し進め、テレビの3チャンネルで、これに基づいた放送が行われているが、意見の相違や、問題が生じている。本講座では、(1)「マレーシア語と日本語との関連」、(2)「標準マレー語を巡る問題」、(3)「マレーシア語の特徴」を中心に話をするつもりです。
この講座では、1時間でフィリピン語の世界へ旅立てることを目的とした講義を行います。といってもわたしは言語の専門家ではありません。フィリピンのマニラから遠く離れた田舎の村で3年間、考古学の調査を続けてきました。その村では、フィリピン語、イロカノ語、イバナグ語、イタウェス語などなど、さまざまな言語が日常生活のいろんな局面で飛び交う世界でした。
実際、フィリピン全体では100以上の言語が話されており、それらの言語を話す人びとが、フィリピン国内のみならず世界中に進出して、さまざまな言語や文化を担った人びとと交流しています。
こうした言語的状況には、わたしたちも日本国内で日常的に遭遇しています。ここ十数年来、日本国内ではフィリピン語をふくめ、アジアの言語を中心とした、さまざまな言語に接する機会も多くなりました。
ここでは、1時間で学ぶことができ、実践的なフィリピン語会話を、わたしのフィールドワークの経験を交えながら、みなさんに提供したいと思います。
西のグアム、ヤップ、ベラウ(パラオ)から東のマーシャル、キリバスに至る海域に、「ミクロネシア」と総称される3,000余の島々が赤道に沿って点々と並んでいる。ここでは、4種類の言語が話されている。インドネシアの諸言語に近いと考えられる「ベラウ語」、フィリピンの諸言語と関係が深いとされる「チャモロ語」、明らかにポリネシア諸語の仲間である「ヌクオロ語」と「カピンガマランギ語」、そしてそれらすべての言語と系統上のつながりを持ちながらも独立のグループを形成すると信じられる「(中核)ミクロネシア諸語」である。本講座では、20ほどあるミクロネシア諸語の一つである「チューク(トラック)語」に焦点を当てて、まず、その構造上の諸特徴を明らかにし、そのいくつかがチュークの人たちのものの見方・考え方に密接に関わっている様子を解説する。具体的に取り上げるトピックは、多数の分類詞(助数詞や所有詞)による「世界の切り取り方」と、文法における「入れ子型構造」の存在による認知上の困難点である。
ミクロネシアの大半は、第一次大戦の開始から第二次大戦の終結までの31年間、日本の施政下にあった。日本人人口が現地人人口を上回っていたところも少なくない。教育は日本語のみで行われた。その結果、大量の日本語語彙がミクロネシア諸語に流れ込んだ。チューク語においても、日本語起源の語が数百、今も借用語として使用されている。この講義では、それらの借用語の文化的・社会的役割にも言及する。
かつて日本語が「共通語」であったミクロネシアの、現在の共通語は英語である。若者は、よりよい経済的・社会的地位の獲得を目指して熱心に英語を学ぶ。その一方で、民族の帰属意識の源泉であり、地域の生活に密着している「自言語」を維持しようという姿勢も、最近とくに顕著になっている。学校システムにバイリンガル教育が導入されてから四半世紀、自言語回帰への方向性が見えてきたようにも思える。ミクロネシア諸語の将来を少し大胆に予想して、講義を閉じる。