命が尽き、道が終わる

 

トムリス・ウヤル

(訳)鈴木 愛子


厚いレインコート、古くて厚いレインコートが、雨でぬれたとき、どんな風にしめり、蒸気をただよわせ、中の羊毛の色が、どんな風ににじんでまだら色で悲しげになるか............。ちょうどそんな風に女は泣いていた。

雑居ビルの階段に腰掛けて、片方の手で手すりをつかみ、もう一方の手には、口のしっかりしまった赤いナイロンの袋を持っている。袋の表には“SEVDIK 好き!!”と書いてあり、さらにその下には、もう消えかかってはいるが、店から着飾って出てきた親子3人の写真があった。

門番は1時間女を観察している。大がらな女だ。目は潤んでいる。実際、この目がなかったら、男だと思われてしまうような女だった。手は分厚くまめができていて、背中はがっしりしている。首はずんぐり、胸は広い。しかも、バストやウェストがどこにあるか分からない。せめて尻ぐらいあれば、太ったおかみさんと言えるのだが、それさえない。胴体なんてたわらみたいだ。まるで誰かが連れてきて、階段に投げ捨てていったかのようだ。綿のフランネルのワンピースを着て、その下にズボンをはいている。靴はとがったハイヒールで、かかとは破れていて、古い。すさまじく泣いていて、ちっとも泣きやまない。それどころか泣くにつれて、泣きたくなることがどんどん増えていくみたいだ。そんな格好をしていることが悲しいのだろうか?何か悩みがあるのだろうか?ジェンギズ・ベイを探しているんだっけ?彼に何の用があるっていうんだろう。彼は会計士で上品な男なんだ。

涙のせいで、ぼってりとした唇の線がなくなってしまっている。化粧をしていたのと、唇の線が消えてしまったのとで、口はまるで灰色のシミのようになっている。

もっとおかしなことに、女はさっきからずっと自分に話しかけているのだ。独りで質問を投げかけ、それにすぐに答える。

「ここまで来たけど、どうなったって言うのさ。見つからなかったじゃないか。」

と、自分自身に問いかける。

「まあいいさ、待ってるよ。」怒った風に答える。

「おまえさん、あんたの頭は正常じゃないよ。みんなが言ってるよ。サルエルを出て、イェシルキョイに行き、そこからガーズィー・オスマンパシャに、その後カラキョイに来て待ち続けているんだ。あいつが今夜何て言うと思ってるんだ。」

「まあいいさ、またぶたれるんだ。いや、なんで私がぶたれなきゃいけないんだい。家には帰らないよ。母さんのところに泊まったって言うさ。」

「信じるわけないだろ。あんたを泊めてくれる人間なんていないってことをあいつは知ってるんだ。あいつが威張ってるのはそのせいじゃないか。例えば、『義姉さんのところへ行って来い。日曜に迎えに行ってやる』ってあいつが言うとするだろ。あんたは出かけていく。それで、どうなるっていうのさ。義姉たちは、その晩、外で用があるって言うんだ。結局あんたはすごすごと家に戻るんじゃないか。そして、どんな小さな口実でもあいつはまたあんたを打つんだよ。」

「母さんの手足が弱っているから、私は床を拭き、家を掃除したって言うさ。それに、あいつはそんなひどいことばっかり言うわけじゃない。たまには、うまい話をして、私を喜ばせてくれたりだってするんだ。『ほら見ろ、神はいるのさ。お前はきれい好きで節約家の女だ。バーの隅っこから救い出したかいがあった。お前の娘を見てやったかいもあった。俺の世話をよくしてくれる。だから、銀行にお前の名前で口座を開いた。忘れるんじゃないぞ、俺が死んだあと誰にもお前の権利に手を出させるな。』こんなことを言ってくれたりもするし、笑って私のお尻をなでたりだってするんだよ。ほら、まるで私を愛しているみたいじゃないか。」

「どうして、赤の他人のあいつがあんたを愛したりするんだい。愛される何があるっていうんだ。今までに誰があんたを愛してくれた?13歳のときレジで働いてたとき、夕方からあんたの尻を追いかけていたハサン?それとも掃除に行っていた所の医者?」

「私はハサンを愛してたよ。だけど、子どもの頃のことさ。ハサンのことは今はいいじゃないか。医者のときは怖くていやと言えなかったんだ。うちに帰りたかった。あとがどうなろうと関係なかった。奴は子どもを堕させたんだ。なのに何事もなかったかのようにしてたんだよ。もう、今はあの医者のことも怒っちゃいないさ。誰のことも怒っちゃいない。もう誰の助けもいらないよ、もう十分だ、ほっといてほしいんだ。この状態に慣れるよ。......けど、自分で飲み込めないでいるんだ。」

「じゃあ、あいつのことも怒るんじゃないよ。あいつが何かに癇癪を起こすんなら、そうなるようなことをするんじゃないよ。あいつが、いつもなんて言ってるか思い出してみな。『おまえは頭と一緒で手も鈍いのか。まったく、いらいらさせる奴だ。1時間かかってハンカチ1枚をきれいにするんだ。そりゃきれいになるだろうよ、1時間もかければな。おまけに、こんな風に向かい合って酒一杯飲むことだってしないbb』そう言ってるんじゃないのかい。」

「いったいどうしろって言うのさ、酒の飲み方なんて忘れっちまったよ。それにもし、私が向かいに座ったらどうなる?あいつは朝っぱらからヴェルムタを飲み始める、そうじゃなかったらリキュールだ。家具屋なんてみんなこんなもんだろうけどね。夕方には目も当てられない状態になってるんだ。それで最後には、ひっくり返ってあっという間に寝ちまうのさ。私がつまみを用意したとするだろ、例えば揚げ物、ポテトサラダ、小さなキョフテなんかをね。だけどあいつが欲しがるのは一杯のスープなんだ。」

「いいことじゃないか、あいつはあれこれされるのを望んでいないんだ。」

「私は慣れなかったね。自分を変えられなかったんだ。」

「じゃあ、ドイツになんかどうやって慣れるんだ?娘の家にだって?」

「あそこが私の最後のよりどころなんだよ(ほら姉さん、あんたより他には誰もいないbb)あの娘が呼んでくれたんだ。『母さんこっちに来てよ。来て、娘の面倒をみてちょうだい。あんな酔っ払いなんて放っとけばいいのよ。ここで平穏な老後を送ってちょうだい』bbああ、娘よ、私は行けないんだろうか、私のかわいい孫に会えないんだろうか。せっかくおまえが私を呼んでくれたのに、行けないんだろうかbb。いいや、母さんを信じて、待ってておくれ。何としてでもいくからね。託児所なんかに子供を預けるんじゃないよ。もともとおまえの亭主だってドイツ人なんだ。あてになんかするんじゃない。子供が母親なしで大きくなることの難しさは私がよく知ってるさ。みんなが私に教えてくれたよ。私が1歳のとき、母さんが男と逃げたこと、父さんが、ただ私の面倒をみさせるためだけに、あのくそ女と結婚したことなんかをね。けど、うまくいかなかった。私をこき使って勉強なんかさせてくれなかったんだ。」

「おまえさんの頭は半分しかないんだ。だから、学校にやらなかったんだ。勉強なんてできなかったくせに。」

「あんたのいうとおりだよ、姉さん。私は自分で飲み込めないでいるのさ。母さんが逃げちまったことも、私を残していったことも、納得できないのさ。母親が、他人と同じくらい娘を愛さないなんて。私のかわいい孫よ、待っていておくれ。ジェンギズ・ベイがことをきちんとしてくれたら、すぐに行くからね。」

「おまえさん、今は娘のことはいいだろう。私、そう姉さんと話すんだ。今日、何でいまさら母さんに会いに行ったりしたんだい。何年もたった、今............。」

「娘から手紙を受け取ったら、母さんのことが頭に浮かんだんだ。たぶん、母さんも私を呼んでるんじゃないかってね。ドイツに行く前にさよならを言おうと思ったんだ。」

「で、どうだった?」

「家を出て、イェシルキョイに行ったんだ、姉さん。母さんの昔の男との子供がイェシルキョイの空港で働いてるって聞いてね。住所を聞こうと思ったんだ。心臓がドキドキしたさ。バスに飛び乗って、私の弟のところに行ったんだ。弟だっていえるさ、どうあれ母親は同じなんだから。

その弟は良くもてなしてくれたよ、私よりも2つ若い、50歳くらいかね。字が読めるらしかったね。家はガーズィー・オスマンパシャにあるってことだった。道の名前と、角の雑貨屋も書いてくれたから、迷わないで見つけられそうだと思ったね。

途中、菓子屋で母さんにバクラヴァを買った。ドイツに行って、もう、お別れだからね。」

年をとった女がドアを開けた。

「誰だい?」

「ミュゼインだよ、母さん。」と言ったんだ。彼女の腕に飛び込んだ。母さんも私を抱きしめると、目に涙を浮かべた。

「いったいどうしたんだい?」と、急に尋ねた。怖がっているかのようだった。

「私はドイツに行くんだ、娘のところにね。物価はここと同じくらい高いそうだよ。赤ん坊の面倒をみるんだ。」

「おまえの娘が結婚したのかい!」家のなかへ引っぱりながら言った。

「時間が経つのは早いねえ。」スリッパを持ってきた。今夜はここに泊まれそうだ。ジェンギズ・ベイには明日会えばいい。

「ほらほら、中へお入り、ミュゼイン。」

「ドイツ人と結婚したんだよ。うちのロカンタで知り合ったんだ。」

「娘の名前は?」

「ミュベッジェル。母さんの名前をとったんだ。」

「嬉しいねぇ。ここの住所はどうやって知ったのかい?」

「フィクレットが教えてくれた。」

「フィクレットか、あれもどうかしてるよ。」

2人の年をとった女が普通話すようなこと、そんなたわいもないことを話した。

「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」――と、言った。続けて――「遠いからね。ドイツから戻ったらまた会えるさ............。」

「ほら、おばさん、ジェンギズ・ベイだよ」と、門番が言った。

*****

「分かりました、奥様。でも改めて話を聞かせてくれません。」

「話をこんがらがらせていますか。ジェンギズ・ベイ。とにかく頭が半分しかないもんだから............。」

「いやいや、そんなことはありませんよ。気楽に話してください。」

「それでは............。私が掃除に行っていた医者が働いているビルにひとりのチャイジュがいました。夕方、小さな居酒屋をやってました。私を女中生活から救ってくれようとしたあいつは、医者から私が料理上手だって聞いてたんです。正確には、医者がみんなに言ってたらしいのですが。」

「その男もあなたが自分のところで働くことを望んだということですね。あなたがつまみなんかを用意するようにと。」

「その通りです、ジェンギズ・ベイ。私はつまみを作っていました。」

「つまり、共同経営ではなかったのですね。」

「そんなことありません。誰も共同経営者になんかなれません。みんなただ一緒に飲んだり食べたりしてました。一人ボーイがいました。ここで食べて腹をいっぱいにするためだけ、働いてました。客がつけを残しても誰も何にもいいませんでした。」

「後に、その男と結婚したのですね。」

「そうです。娘もできました。ミュベッジェルです。今はドイツにいます。」

「では、そのご主人はどこにいるのですか?つまりどこで会えますか。」

「ある日夕方、出ていってしまったんです。そして二度と戻ってきませんでした。いなくなちゃったんです。その後、私はある家具屋の男と再婚しました。」

「ではミュゼインさん、その間何かに署名をしませんでしたか。どうか、思い出してください。レストランの持ち主としての署名です。」

「夫がいなくなってから、借金は私にきました。たぶん私は署名なんかもしたかもしれません。」

「申告書が提出されていないし、税金も支払われていないのです。ドイツに行くために申請したとき、それが明るみにでてしまったのです。書類上、5万リラ近くの税金未払い分があるようになってます。未払いのままでは国外には出られないでしょう。」

「でも、どうやって払えばいいんですか。私には何にもないんです。やつらは調べてみればいいんだ。」

女はまた泣き出した。

「あなたは貧乏任の神様だとみんなが言ってます。ジェンギズ・ベイ、なにかいい手はありませんか。」

「そうですね、では、アンカラ行きましょう。友人に相談して、詳しく調べるのです。あなたも一緒に行きますよね」とジェンギズ・ベイ。

「今晩発のガザンフェルのバスに2人分の切符を買いましょう。」

「ご主人はあなたが行くことを知っていますか?今のご主人のことですが............。」

「許してくれました、心残りがないようにって。」

「許可をもらえたことは確かですね。あとで何か、もめごとは出てきませんか。」

「大丈夫です。家は彼のだし実はこの1ヵ月夜遅くにしか帰って来ないんです。」

「それなら、すぐ行きましょう。私の古い友達に会いましょう。たぶん政府から決定をもらえるでしょう。だけど次の点を忘れないでください、奥さん。これはもう私の仕事にもなったのです。つまり、単にあなたのためだけに関わっているのではないのです。旅費は割りましょう。あとで私に払ってくだされば結構です。私たちが稼いだときに。ドイツからでも送ってください。」

「毎月送ります。毎月、何であれ送ります。なにしろ、私は頭が半分ですから。毎月送らなかったら忘れちゃいます。」

「家に電話をしておきます。知らせておかなくては」とジェンギズ・ベイが言う。

「ひとつ聞きたかったんです、ジェンギズ・ベイ。何ていうか............。失礼にあたるかもしれませんが............。私は、もううんざりしてしまったのです。分かってくれますか?政府が私を国外に出してくれないなら、孫の世話ができないんなら、せめて書類を一枚ほしいとだけ言いたかったんです。長くかかるし、それほどのお金はためられないでしょう、こんな年ですから。でも、ある程度は何とかできるかも知れない............。彼らが許してくれる程度なら............。」