「トルコ文学」の作家たち
 
 

オメル・セイフェッティン Omer Seyfettin (1884-1920)

トルコ近代文学における短編小説ジャンルの創始者といわれるオスマン帝国最末期の作家。バルケスィル近郊のギョネン出身。軍務ののち教師となり、イスタンブルの高校で教諭をつとめた。テッサロニキでズィヤ・ギョカルプらとともに『若いペンGenc Kalemler』誌を創刊した。その第2巻に掲載された「新しい言語 Yeni Lisan」(1911) という論文は、トルコにおける「国民文学運動」の出発点となった。トルコ語からアラビア語・ペルシャ語の借用要素と難解さを排除し、話し言葉に近づけようとする「言語純粋化運動」の先頭にたち、日常生活や歴史的事件、民間伝承などに主題をとった短編小説でトルコ近代文学の誕生に大きな役割を果たした。

若くして世を去ったオメル・セイフェッティンは、1917年から1920年の3年の間に140もの短編小説を多数の雑誌に発表している。それらは、彼の死後全集にまとめられた。「ハイヒール」は、同名の短編集(1926)に収められている。

<所収>
Yuksek Okceler, Omer Seyfettin Butun Eserleri 5, Bilgi Yayinlari, Anraka, tarihsiz.

 

レシャット・ヌーリー・ギュンテキン Resat Nuri Guntekin (1889-1956)

小説、戯曲、紀行文、翻訳など100編近い作品を発表し1920年代、30年代のトルコ共和国初期に活躍した作家。社会や暮らしの様々な側面、人物像を親しみやすく描き、近代文学の読書層を大きく広げる役割を果たした。特に、長編小説『ミソサザイ』(1922) は都会出身の女性の目を通してアナトリアの生活や民衆を描いた読みやすい作品で、今日までトルコでもっともよく読まれた小説のひとつといわれる。共和国初期の著名な作家としては、他にヤクップ・カドリ・カラオスマンオウル、ハリデ・エディップ・アドゥヴァルなどがあげられる。彼らと比べ大衆的、通俗的と低い評価を与えられてきたが、一方でその鋭い観察力、平易で率直な表現力を高く評価する見方もある。

「思い出の金曜日」は紀行文的な短編集『アナトリア・ノート』(1922) の中の一編。「ラブレター」は、短編小説集『日常の出来事』(1930) に所収。

<所収>
Eski Cuma, Resat Nuri Guntekin Dizisi 9: Anadolu Notlari 1. kitap, Inkilap Kitabevi, Istanbul, tarihsiz (16. bas).

Ask Mektuplari, Resat Nuri Guntekin Dizisi 16: Olagan Isler, Inkilap Kipabevi, Istanbul, 1991 (16. bas).

 

サイト・ファイク Sait Faik Abasiyanik(1906-1954)

本名は Mehmet Faik であるが、サイト・ファイク Sait Faik の名で知られる。1940年代のトルコを代表する作家。富裕な家庭に育ち、アダパザル、イスタンブル、ブルサで学生生活を送ったのち、フランスに遊学。トルコに戻った後も、生涯、「ボヘミアン」的な暮らしを送ったことでも知られる。

40年代のもう一人の代表的作家サバハッティン・アリー Sabahattin Ali に代表される「社会派文学」が当時の主流を占める中、これとは異なり、イスタンブルの都会の暮らしに根ざし、自然や一人一人の人間の内面に目をむけた詩的な作品で新しい文学潮流を作り出した。時に「超現実主義」とも呼ばれた。特に短編小説の分野で活躍、漁師や貧民、あるいは酒場の主人など、町に生きる様々な人間の深層を掘り下げ、情緒豊かな独特な世界を作り出した。後の世代に与えた影響も大きい。

「町のカフヴェ Mahalle Kahvesi 」は、同名の短編集(1950)の巻頭の作品。

<所収>
Mahalle Kahvesi, Sait Faik Butun Eserleri 4: Mahalle Kahvesi / Havada Bulut, Bilgi Yayinevi, Ankara, 1994 (10. bas).

 

アズィズ・ネスィン Aziz Nesin (1915-1995)

1950年代から1995年夏に死去するまで活発な作家活動を続けてきたアズィズ・ネスィンは、トルコ随一の「風刺小説作家」であった。社会の矛盾や不合理、あるいは日常の様々な固定観念や慣習をつき、笑いのなかに深い社会への洞察をにじませる、気のきいた作品を多数生み出した。体制批判の結果として、何度も発禁処分や投獄刑を受けたが、その風刺と批判の精神は衰えず、晩年にいたるまで活発な活動を続けた。彼の風刺文学は国際的にも高い評価を得た。また、『悪魔の詩』のトルコ語訳を発表したり、左翼知識人に反感をもつ暴徒による「シバス事件」にまきこまれるなど、「社会活動家」としてのアズィズ・ネスィンをとりまく事件も多かったといえよう。ネスィンは「お前は何?」の意。本名は、Mehmet Nusret という。

取り上げた作品のうち、「ある中国の物語」の初出は1958年、「幸せな猫 」は1960年、「圧力鍋工場」は1955年である。それぞれ下記のアズィズ・ネスィン全集の一冊に収められている。当局の目をのがれるため、匿名で発表することも多かった時期の作品である。

<所収>
Bir Cin Hikayesi, Memleketin Birinden, Adam Yayinlari, Istanbul, 1982(8. bas).

Dudutlu Tencere Fabrikasi, Fil Hamdi, Adam Yayinlari, Istanbul, 1982(8. bas).

Mutlu Kedi,  Ah Biz Esekler, Adam Yayinlari, Istanbul, 1982 (8. bas).

 

ヤシャル・ケマル Yasar Kemal (1922-)

1950年代以後のトルコの代表的作家。オルハン・ケマル Orhan Kemal、ケマル・ターヒルKemal Tahir とともに、3人のケマルが、1950年代、「農民文学」と呼ばれた社会派の文学潮流をリードした。そのうち、ヤシャル・ケマルは、ほとんどの作品で舞台として故郷のアダナに近いチュクロバ平原を取り上げ、封建的な遺制の残る社会の矛盾やその下で苦しむ民衆の現実、厳しい自然と共に生きる人間の姿などを、詩的に描いている。代表作『インジェ・メメド』(第1巻1955、第2巻1936、第3巻1984、第4巻1987)は1930年前後トロス山中を徘徊した英雄的義賊の一人インジェ・メメドを主人公とする長編大河小説である。民衆叙事詩の伝統を感じさせる作品であり、ノーベル賞の候補になったことでも話題を集めた。本編では、『インジェ・メメド』第1巻の冒頭部分が訳出された。まだ子供だったインジェ・メメドが地主のアブディー・アーの支配する村から逃げ出すシーンから始まる。

 ヤシャル・ケマルは現在もトルコを代表する文化人として活発な活動を続けている。

<所収>
Ince Memed 1, Toros Yayinlari, Istanbul, 1994 (27. bas).

 

ルファット・ウルガズ Rifat Ilgaz (1911-1993)

1960年代以後、アズィズ・ネスィンと並んで人気の高いコミカルな風刺小説の作者として活躍したルファット・ウルガズは、アズィズ・ネスィン同様、しばしば、政治批判により発禁、投獄などの処罰を受けている。多数の風刺小説で知られるが、もっとも記憶に残る作品は、ウルガズ自身によって戯曲化され、のち映画化もされた学園もの『ハババム教室』であろう。

「レーダー室の鍵 」は、同名の短編集(1957) 所収のもの。これはルファット・ウルガズの最初期の風刺小説集である。

<所収>
Radarin Anahtari, Radarin Anahtari, Cinar Yayinlari, Istabul, 1993(5. bas).

 

フュルーザン Furuzan (1935-)

1960年代の後半から活動をはじめ、1970年代には『無料寄宿舎』 (1971)、『包囲 』(1972)などの作品で注目を浴びた女流作家。町の娼婦や崩壊する家族、ドイツでのトルコ人労働者の生活などに題材をとり社会派的な視点から作品を発表している。 「ミュニップ・ベイの日記」は、『無料寄宿舎』に収められた初期の作品。

<所収>
Munip Bey'in Gunlugu, Parasiz Yatili, Can Yayinevi, Istanbul, 1989 (9. bas).

 

ムザッフェル・イズギュ Muzaffer Izgu(1933-)

アダナ出身の風刺小説作家。アイドゥンで教師を長年勤めたのち、ジュムフーリエット紙など主要紙に「風刺小話」を掲載しはじめ、今日にいたる。現在も活発に活動を続けている風刺小説作家の一人である。

「冗談の好きな警官」は『一家に一つ警察署 Her Eve Bir Karakol』(1980)の中の一編。

<所収>
Sakaci Polis, Her Eve Bir Karakol, Bilgi Yayinlari Ankara, 1992 (6. bas).

 

オナット・クトゥラル Onat Kutlar (1938-1994)

作家、評論家。はじめ詩人としてデビューし、60年代以後『A』誌に集う作家の一人として注目をあびた。長編としては、唯一『イスハック』(1959)を発表した。演劇評論の傍ら詩やエッセイを発表。「翻訳者 Fvirmen 」はエッセイ集『春は反乱者 』(1986) に所収。1994年にイスタンブルのタクスィム広場前で発生した爆弾テロの犠牲となり死去。

<所収>
Cevirmen, Bahar Isyancidir, Can Yayinevi, Istanbul, 1991(3. bas).

 

トムリス・ウヤル Tomris Uyar (1941-)

70年代に作家としての地位を確定した女流作家の一人。はじめ翻訳家として活躍した。のち、『絹と銅 』(1971)、『夏の夢、夢の冬』(1981)など一連の作品を発表、現在、活発な創作活動を続けている一人である。想像力豊かな、連想を多用する作風で知られる。

「命がつき道が終わる 」は『膝までのパンジ 』(1975)に、「白い庭で」は『夏の夢、夢の冬』に収められている。

<所収>
Omur Biter Yol Biter, Dizboyu Papatya, Can Yayinevi, Istanbul, 1990 (3. bas).

Beyaz Bahcede, Yaz Dusleri Dus Kislari, Can Yayinevi, Istanbul, 1990(3. bas).

 

オルハン・パムク Orhan Pamuk (1952-)

現代トルコの文学界で、最も注目されている作家はこのオルハン・パムックであろう。1982年に『ジェヴデット・ベイとその息子たち』でデビューして以来、つねに新しい手法を用い実験的、意欲的な作品を世に出してきた。『静かな家』(1983)では4人の「私」が登場し、『白い城 』(1985)では過去と現在、夢と現実、西欧と東洋が交錯し、『黒い本』(1990)では失踪した妻の捜索を軸にいくつもの話が複雑に絡み合う。文体そのものは平易であるが、細微な描写とよく練られた文章、「自己」をみつめる内省的なテーマに特徴がある。

本編でその冒頭部を訳出した『白い城』は、17世紀のイスタンブルを舞台に、捕虜として連れて来られたベネチアの青年と彼を買い取った若いトルコ人の学者との間の物語である。顔がうり二つの二人が、それぞれに「自分」は何かを問うていくことになる。

2006年10月、ノーベル文学賞受賞。

<所収>
Beyaz Kale, Can Yayinevi, Istanbul, 1990 (7. bas).

 

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