幸せな猫

 

アズィズ・ネスィン

(訳)松本 裕介


この話は1960年5月27日のクーデター以前、トルコが戒厳令下にあった頃、書かれたものである。

 

昨日、とても有名な女性芸術家の陶器展覧会でのことだった。展覧会の開会式だった。すべての知り合いがそこへ来たらしい。実に情熱的な空気の中、人々は色々な会話で盛り上がっていた。どよめきの中で話をしている時、別のとても有名な女性芸術家が、

「皆さん、私は昨晩ある夢を見ました。」と言った。

ある詩人が、

「恐ろしい夢ですか?」と聞いた。

「わかりません、あなた方の中で夢を解釈できる人はいますか?」

彼女は夢を説明し始めた。

「ちょうどこのような混雑の中、人々はそれぞれ自分の道を、自分のことに没頭して行き来しているの。そう、あなた方がよく知っているような通りの光景。私もそこにいて、どこかに向かっています。急に混雑の中から誰かが叫んだのです。『私は!』
みんな声がした方へ振り向いたわ。
『私は』と叫んだ男は、今度は『みんな今いる場所で止まれ!』と言った。
私達は止まった。」

女性芸術家の夢を聞いていたある彫刻家が、

「どうして止まったんだ?」と聞いた。

女性芸術家、

「わからないわ、だけど私達は止まったのよ。みんな止まって、私も止まったのよ。あなた夢でしょう、これは。だから止まったのよ。その後、男は『みんな今いる場所で自分の周りにチョークで円を描け!』と叫んだのです。これは夢だから、突然みんなチョークを手にしていたわ。そのチョークでみんな一つずつ円を描いたの。混雑の中から誰かが、『私達にはチョークがありません。』と言った。このため、男は『チョークのない者はペンで円を描け!』と叫んだ。ある者は鉛筆、ある者は万年筆をとり出した。歩道の上にそれぞれ自分を中心にして円を描いたの。私も探したわ。ポケットの中や、鞄の中を。チョークもペンもないの。間の悪いことに、ペンを持ってきてなかったらしの。私は恐怖に襲われて、ぶるぶると震えたわ。私のようにペンもない人々もいるらしくて、そのうちの何人かが、『私達はペンすらない。』と声を上げた。男は『ペンのないものは指で空に円を描け!』と叫んだ。私は靴のかかとで立って回転しながら手で円を書いたの。」

女性芸術家の夢を聞いていたある作家が、

「どうして円を描いたんだ?」と聞いた。

女性芸術家、 

「理由なんてあるのこれに?夢よこれは。夢に理由ってあるの?だから、夢なのよ!」

ある役者が口をはさんだ。

「夢に理屈なんてない!」

このため夢に論理があるか、ないか、と言うことが私達の間で議論になった。最後に夢に論理などないと言う判決に到達した。

女性芸術家は、夢を再び説明し始めた。

「みんながそれぞれ自分用の円を描いたあと、男は、『さあみんな、自分の円の中でじっとしているんだ!誰も自分の円の外に出てはならない!』と叫んだ。私達は円の中でじっとしていた。このようにして、私達はそれぞれの場所で、互いに様子を伺っていました。」

ある詩人が、

「円の外に出ないのですか?」と言った。

女性芸術家は、

「出られないのよ。」と言った。

「どうして?」 

「だって禁じられてるのよ!どうやって出るっていうの?円の外に出るのは禁止なの、禁止されてるのよ、わからないの?」 

作家が、

「どうして?」と聞いた。

「夢よ、これは。夢に理屈なんてあるの?そのあと…、私達は円の中にじっとしているのよ。」

作家が、

「いいけど、あなたの円はないじゃないか......」と言った。

女性芸術家、

「指で空に描いたって言ってるでしょう。何もない所に描いた円があるのよ!」

「空に.....描いたものは見えないのだから.......境界は明らかでない。」

「それでいいの。私は頭の中で描いた円を知っているのよ!私達は円の中で待っている。私はいらいらしはじめたの。『あぁ、どうしたら外に出られるか......』と考えながら留まっているの。

「だからなんで出ないんだい?」

「誰もでないから私も.......」

「何で?」

「だからぁ!夢だっていってるでしょう。夢の中.......」

「それで?」

「『あぁ、この円から出ることができたなら!』と切願してるの。しばらくの間、『空に指で描いた円を消して外に出よう。』と考えたの。そして手を伸ばしたの。手のひらで円を消そうとしたとき、またあの男が叫んだの。『誰も円を消してはならない!』円の中にいるしかないでしょう、もうどうしたらいいの?」

ある役者が、

「あなたは始めからその円を描くべきではなかったのですよ.....」と言った。

女性芸術家、

「確かにそのとおりよ。始めから描かなければよかった。でも一度描いてしまった以上、自分で描いた円の中に閉じこもるしかなかったの。あたりを見回すと、ほかの人も私と同じように外に出るために悩みながらじっとしているの。私の右側の円の中に足の不自由な人がいるの。『私は』と言った。『20年前から足が不自由なんだ。20年間、座ってる場所から一寸も動いたことがない。でも、今私の中で耐えられないほど外に出ることへの願望が芽生えている。』足の不自由な人に、『でもあなたの足は動かないでしょ?どうやって歩くの?』と、聞いたの。『歩くよ、走ることだって。自分で描いた円の中に閉ざされてからずっと、私にはそう思えるんだ。もし、円の外に出ることが禁止でなかったら、今走れたのにと思っている。』

私の左側の円の中にいる男が、『あぁ、この円を消す許可がでて、救われたなら…』

私の後ろで女が横たわっている。気をつけて見てみると彼女は死んでいた。死んでるのに話しているの。やっぱりこれは夢よ。死んでいても話しているのよ。『あぁ、円を消すことができて、少しでも歩いて動き回れたら。』と言っている。『あなたは死んでいるのでしょ。どうやって動くの?』と聞いたの。『死んでからはまったく散歩したいなんて思わなかったの。でもこの円を描いて外に出ることが禁じられてから、散歩したいという気持ちが芽生えたの。もし私が円のなかで閉じ込められていなかったら、あなた方生きている人達のように私も歩けたはずだと思えるの。』

私の前に若者がいた。可哀相なことに身体が麻痺しているの。彼も『あぁ、誰か出てきてこの円を消し、私をこの円から助けてくれたなら.......』と言っている。『あなたは麻痺してるのよ。指を動かすことができないのに、自分では円を描けないはずよ。あなたの円はないのよ。』と言ったわ。

身体が麻痺している若者は、『その通りだ。自分の手では描かなかった。でも頭の中で空に円を描いたんだ。そして思い描いたその円の中でじっとしてるしかないんだ。外には出られないんだ。』と、言った。

みんな自分自身で描いた、もしくは考えた円の中に、閉じこめられてしまった。円の中から外には出られないの。このように待つしかなくなっているとき、あちこちから『誰か来てこの円を消したなら....』と言う小さな声が広がり始めた。『一人が外に出て私達を助けてくれたら.....』、『誰か一人が助かったら私達を....』、『誰も助ける奴はいないのか?』、『我々が描いたものを消してくれる奴が出たなら.....』

みんなこのように話していた。私も彼等のように言い始めたわ。私たちがこのように話している時、徐々に暗闇が押し寄せてきて、夜になった。気が狂いそう。まったく外に出れないの。私の身体中から汗が噴き出してきたわ。誰もが自分自身の円の外に出られないでいるのよ。

その時ある声を聞いた。『一人が出たなら私も出よう.......。一人が出たなら、円の中から.....私も出よう.......。』

私も『そうよ、誰か出たなら私も出るわよ。』と言った。

その後、みんな叫び出した。『誰かいないのか、誰か?』、『どうした、そいつはどこにいるんだ?』、『誰でもいいから出ろ.......』、『そいつは誰だ?』誰かは誰でもいいのだけれど、誰も『私だ!』とは言えなかった。

すっかり夜になったの。暗闇が押し寄せてきたわ。私たちは自分自身で描いたか、頭で考えた円の中に閉ざされたまま。

ちょうどその時、猫が歩き始めたの。暗闇の中で猫の二つの瞳は二つの炎の水滴のように輝いている。猫は道に沿って歩いている。誰もその猫のじゃまをしないわ。円の外で、円の間を行ったり来たりしているの。私は猫を見たわ、でもただの猫だったのよ。自分の気の向いたところに向かっていく。立ち止まっては毛をなめたりして、そしてまた歩きだすの。何だか心の中で深い憧憬を感じたわ。『あぁ、私も猫だったらなぁ.....、猫はなんて幸せな生き物なんだろう.....』と言ったわ。

他の人達も、猫のこの自由さと自主性を羨みながら、『あぁ、私たちも猫だったら、猫だったら…』と言い始めたの。私たちをあざ笑うかのように、なにもない夜の闇の中で猫は歩いたり立ち止まったりしていたの。私はその息苦しさで目を醒ましたの。汗びっしょりになっていたわ。」

夢を説明した後、女性芸術家は、

「では、この夢を解釈できる人はいますか?」と聞いた。

そこにいた人々は、誰も夢を解釈しようとはしなかった。ただ一人、ある作家が、

「人間というものは、人間らしい行動をとれないと、猫の幸福でさえ手に入れるのは難しいものなんだよ。」と知ったかぶりをした。

その後、女性芸術家に、

「私はあなたのこの夢を書きます。」とつけ加えた。

女性芸術家は、

「どうして書くんですか?」と聞いた。

作家はこのように答えた。

「たぶん、あなたのこの夢を読む人の中から誰かが、円の外に身体を投げ出すでしょう。『一人』が外に出たら、他の者もたぶん自分たちで描いた円から出るだろうから......」