インジェ・メメド

 

ヤシャル・ケマル

(訳)竹林 明徳

 


1.

トロス山脈の山すそは、まさに地中海に端を開く。たたきつける白泡から山頂へ向かって、海岸は徐々に高さを増していく。地中海の上では常に白い雲が集まりたなびいている。海岸に目を向ければ、実になめらかな、磨かれたようにつるつるした粘土であるのが分かる。なめらかな、肌のような粘土。この海岸は、何時間も風にのって内陸へも、海の香りと潮を漂わせる。強い潮だ。なめらかな、粘土質の耕地に続き、チュクロヴァ平原の森が始まる。そこは、密に茂った灌木、蘆、黒苺、野生の葡萄、そして葦に覆われて、濃い緑で塗りつぶされたような、何処まで続くか分からない所だ。暗い森よりも野性味あふれる、漆黒の闇!

さらに内陸部にはいると、一方はアナヴァルザへ、もう一方はオスマニイェを経てイスラヒイェへと続く、広い湿原へ突き当たる。夏の間、ブクブクと沸き立つ湿原。しごく汚いところだ。臭いのために近づけない。腐った蘆、腐った草、木、葦、そして腐った土が臭う。冬には、透きとおってキラキラ輝くたわわな水で満ちる。夏、草や蘆のために水面は見えない。が、冬にはシーツを広げたように何もなくなる。湿原を過ぎると再び耕地に至る。油分を帯びつやつやした土地。1粒の種から40、50粒と収穫できるような土地だ。暖かく、柔らかい土。

きつい香りを放つギンバイカの木に覆われた丘を越えた直後、とつぜん岩場が始まる。その光景に誰もが立ちすくむ。岩場とともに、そこから松林も始まる。松の木の一粒一粒が水晶の輝きにも似た松ヤニが、ここで地面にしみ込む。最初の松林を過ぎ、また原野へ至る。そこは未墾の荒れ地だ。実りがなく、不毛だ........。ここからはトロス山脈の雪をいただく山頂はすぐそこで、手を伸ばせば届きそうな錯覚を起こす。

ディケンリドゥズはこの原野の一部である。ディケンリドゥズには5つほどの村が存在している。この5つの村の村人の中に、土地を持つ者はいない。すべて地主のアブディ・アーの土地なのだ。このディケンリドゥズは、世界の外にある。そこでのみ通用しうる、全く別の法と習慣が支配する世界なのだ。このディケンリドゥズの村人は、自分たちの村の外の世界をほとんど知らない。この原野の外に出たものもほとんどいないのだ。ディケンリドゥズの村や人について、且つ、かれらがどのように生活してるかを知る者もいない。徴税人ですら2、3年に一度しか立ち寄らない。しかも、その徴税人ですら村人に会ったこともなければ、関わりももたない。アブディ・アーにだけ会って、帰っていく。

デイルメノルク村はディケンリドゥズの村の中で最も大きく、アブディ・アーもこの村に住んでいる。村は、ディケンリドゥズの東部に位置する。岩場のふもとにある。岩は紫色をしていて、表面を乳白色、緑の混ざった色、銀など様々な色の斑点が覆っている。

見るからに老木で、老齢のために枝が垂れ下がり曲がってしまったプラタナスの木は、有りとあらゆる荘厳さを備えて年輪を重ね、そこに立ち続けている。プラタナスの木に100mの距離まで近づこうと、更に50mまで近づこうと、それでも辺りはコトリともしない。四方を深い静寂が包んでいる。あまりの静寂に怖くなる。25mまで近づいてもまだそのまま……。10mでもまだシーンとしている。木の根本まで至り、岩をよけて横に向いたその時、事態が変わる。とつぜん大きな音がわき起こる。人は、驚き飛び上がる……。はじめは耳が聞こえなくなる程の音に感じられる。しかし、次第に弱まり、おとなしく聞こえてくる。

大きな音の出どころはデイルメノルク川の源だ。本当の源泉ではないが、ここの住民がそこを川の源と呼んでいるのだ。そう思ってる。岩の下から、泡をとび散らかしながら水が湧き出ている。そこへ木片を投げ入れれば、1日、2日、さらには1週間、水面に漂う。クルクル回る。湧きでる水は、石でさえも水面で弄び、沈めさせない、と、言う者さえいる。しかし、実際には川の源はここではない。ずっと遠くから、松林の間を通って、ハッカやオレガノの香りを加えながらアクチャ山から来るのだ。ここで、この岩盤の下に潜り込み、泡立ち、湧きたちながら、狂ったようにブツブツと音を立て、岩盤のもう一方の端から湧きでているのだ。

此処からアクチャ山までのトロス山脈は、岩が多くたいへん険しい。1軒分の敷地程の平らな土地もない。雄大な松や、シデは、岩の間から天空に向かい真っ直ぐにのびている。この岩場にはほとんど生き物がいない。僅かに、それも大変稀にだが、日暮れ時、尖った大岩の突端に角を、大きな湾曲した角を背に傾けて顎を突き出した、1頭の鹿が脚をピンと張り、無限の彼方を見てるかの如く立っていることがあるだけだ。

 

2.

灰青イバラは、もっとも汚くて不毛な土壌に生える。この土地は白く、粉吹く白チーズのようだ。草木も生えず、ロバ・イチジクですら枯れてしまう。そこに灰青イバラは好き勝手にどんどん芽を吹いて、育ち、繁茂する。

土壌の良い所には一本たりとも、灰青イバラは生えない。それは、良い土地は少しも無駄にされることなく常に耕されていて、作物が植わっているためだ。が、また、灰青イバラの方も良い土壌を好まないように思われる。

灰青イバラは土壌が良くも悪くもない、放置された平均的な土地にも生える。故に灰青イバラを引き抜き、代わりに作物を植える。トロス山麓の山よりの平地は、この途上にある。

最も高い灰青イバラの丈は1メートルにも及ぶ。たくさんの枝が絡み合う。それぞれ枝の棘は花で飾られる。花は星のように5つの花弁を持ち、先の堅い尖った棘の中央で咲いている。1本のイバラにつき、こうした花が何百と見られる。

灰青イバラが生えるところでは、1つ2つ、3つ4つといった単位では生えない。どんなに重なり合いぎっしりと生えているかと言えば、イバラの間を蛇すら通ることが出来ないほどだ。針を投げ入れても、茂った灰青イバラに邪魔されて地面に至らない。

春の間は、ひ弱で、薄い緑色だ。軽い風が吹いても、地面にへたってしまう。夏の盛り、イバラにまず青い筋が現れる。そして段々と枝も、茎も青くなる。鮮やかな青に……。そして青は次第に濃くなる。これが最も美しい青である。畑が、果ても境もないこの平野全体が、青く塗りつぶされる。日没時、風が吹けば、この青が波打ち、うねってまるで海のようだ。日が沈むとき海水が赤く染まるように、灰青イバラの畑もまた赤く染まる。

秋になるとイバラは乾く。青が白に変わる。灰青イバラからポキポキという音が聞こえる。

爪の大きさの白ナメクジがいる、ほら。イバラの木の幹を、何百何千という数で埋め尽くす。イバラの幹はその粒粒で白くなる。

デイルメノルク村は灰青イバラの野……。耕地はなく、葡萄畑、野菜畑もなく、ただ灰青イバラの茂みがあるだけ。

灰青イバラの茂みの中を走ってゆく子供が息を切らしていた。ずうっと立ち止まることがなかったかのように駆けっていた。突然立ち止まった。自分の脚を見た。イバラが引き裂いたところから血がにじんでいた。立ち止まってはいられなかった。怖がっていた。いつ追いつかれるか……。怖れに振り向いた。視界には誰もいなかった。安心した。右に曲がって、しばらく走った。やがて疲れた。くたびれたので灰青イバラの茂みの中に寝ころんだ。左にはアリの巣があった。とても大きいアリだ。巣の入り口でモゴモゴと蠢いていた。彼は、しばらく全てを忘れてアリを見つめてた。そして突然我にかえり飛び上がった。右に曲がった。暫くしてイバラの茂みを抜けた。茂みの尽きたところで膝をついて座り込んだ。イバラの上に頭が見えるのに気づき、今度は尻をついて座った。脚から出血していた。血が滲み出たところへ、土が入り込み始めた。傷にしみて焼けるようだった。

岩場は少し先にあった。彼は岩場に向かって再び、力を振り絞って走り出した。もっとも高くそびえたつ岩の根本に生えた、プラタナスの木のところ迄たどり着いた。木の根本は、井戸ほどに深くなってた。真っ黄色の葉、金色の葉、赤く筋の入った葉が、腰の半分の高さほどに堆く積もって、木の幹を覆っていた。枯れ葉がカサカサがさがさ、音をたてていた。そこに行き、枯れ葉の上へ大の字に横たわった。プラタナスのはだかの枝の先に鳥が留まっていた。ポキポキ言う音を聞くや、飛んでいってしまった。彼はくたびれていた。疲れ切っていた。ここで、つまりこの枯れ葉の上で夜を過ごすことを考えた。なんだか気持ちよかった。其処から起きあがれなくなってしまいそうだった。しかし、――だめだ、有りとあらゆる動物は人間を食べる、と、呟いた。まだ木に残っていた枯れ葉が、ひとつふたつ絡み合いまとわりついきながら、つもった枯れ葉の上に落ちた。続いて、彼の上にも1つ、2つと降り始めた。

彼は独り言を呟いていた。声を出して、話していた。あたかも、もう一人の誰かがいて話しかけるように:

――行くんだ。行って僕は、その村を見つけるんだ。僕がそこに行ったことを、誰も知らない。僕は行くんだ。行くんだよ、ホントに。僕は羊飼いになる。畑仕事をするんだ。たとえ母さんが僕を捜そうとも。捜したいだけ捜せばいい。誰にも僕は見つけられない。見つけられないよ。えっ、僕が村を見つけられなかったら?見つかんないんだ!僕は飢えて死ぬ。死ぬさ。

暖かい秋の日が射していた。岩を、プラタナスを、枯れ葉を光が舐めていく。大地が瑞々しく、てかてか輝いていた。1つ2つ、秋の花が大地を切り裂いて、まさに芽を出さんとしていた。水仙の花がきつく香っていた。香りはじわじわと広がっていた。山は水仙香る秋になっていた。

1時間だろうか、それとも2時間だろうか、どれほど其処にいたかははっきりしない。が、日は傾いて山の向こうに沈んでいった。何故かその子は、独り言をやめて我に返った。かれらが後ろから来ているのを、突然思い出した。慌てふためいた。しかし太陽の方を一瞥することも忘れなかった。陽はいまにも沈もうとしていた。これからどこに行かなきゃならないのか? どっちへ? 彼には分からなかった。岩の間に細い羊道が続いていた。その道をたどって走り始めた。岩があろうが、灌木や、石があろうが走り続けた。疲れはとれていた。時々、立ち止まってちらと後ろを見るが、又すぐに走り始めた。

足を交互に回して、全力で走っていた。この道を走ってるときに、朽ちた木の上にいる、ちっちゃなトカゲに目を留めた。彼は何故だかそれを喜んだ。だがトカゲは、彼を見るや木の陰に逃げ去った……。

よろめいて立ち止まった。頭がクラクラした。目の前が暗くなった。辺りの世界は独楽のように回っていた。どんなに揺れたことか!手や足も震えていた。後ろを振り向いて、また走り出した。さっと目の前に1羽の山ウズラが飛び出した。山ウズラの羽ばたきにびっくりして後ずさった。実のところ、どんな小さな音を聞いても、驚いて飛び退くほどだった。このため心臓はずっと狂ったようにドキドキしていた。絶望したかのように、また後ろを振り返った。血が汗のように滴っていた。膝に結んだ紐がほどけていた。地面にぺたんと尻餅をついた。そこは小石の散らばる山の斜面だった。酸っぱい、心地よい自分の汗の臭いがした。甘い花の匂いも鼻をくすぐった。目を何とかして開けた。頭をゆっくりとこわごわ起こして斜面の下の方を見た。日が沈もうとしていた。影はながくながく伸びていた。下の方のぼんやりと見える中に土の屋根が見えた。うれしさのあまり心臓が飛び出しそうだった。煙突から煙りも出ていた。煙はゆっくりと、ゆらゆらと立ち上っていた。全くの黒い煙というわけではなかった。軽く紫がかった色だった。背後に、ひたひたと近づく足音を聞いた。くるりと振り向いた。左の森は真っ黒になって、闇が夕立のように空から降っていた。森は上へ上へと伸びていた。彼はまたつぶやき始めた、今度は大声で。森から逃げるように反対側へ急ぎ歩きながらも、ありったけの力で。

――行くんだ、言うんだかれらに……。行くんだ、言うんだ……。あなたに言うんだ……。あなたに、牧童になりに来たと。畑仕事をする……、刈り入れもするんだと。言ってやる、僕の名前はムストゥクだと。カラ・ムストゥクだと……。母も、父もいない……。アブディ・アーも関係ないよ。あなたの羊や山羊の群を追うよ……。あなたの畑を耕すよ。あなたの子供になる。なるさ。僕の名前はインジェ・メメドじゃないんだ。カラ・ムストゥクというんだ。お母さん、泣いたって知らない。いいんだ。不信仰者のアブディ・アーも僕を捜せばいい。僕はかれらの子供になるさ。

そう言うとかれは叫びながら泣き出した。暗闇が森に立ちこめてきた。泣きに泣いた。泣いたから、一人で、声を限りに泣いたからひどい気分だった。

斜面を降りているとき、彼の泣き声は急に止んだ。垂れる鼻みずを右の袖で拭った。袖がぐっしょり濡れた。

メメドが、人家の中庭へ着いたとき、ようやく闇が追いついてきた。向こう側に、更にいくつかの家屋の輪郭が見えた。ちょっと立ち止まった。考えた。この村が、例の村だろうか?門の前で長い顎髭を揺らした男が、荷鞍をいじっていた。顎髭の男は頭を上げ、中庭の真ん中につっ立っていた人影を見た。人影は、顎髭の男に向かって1、2歩踏み出して止まった。顎髭の男は無頓着だった。仕事に戻った。辺りが真っ暗になって何も見えなくなったので、男は仕事をやめた。立ち上がった。左へ振り向くと、さっきの影がさっきのままの所に突っ立っているのを見つけた:

――しっ!しっ!

と、言ってさらに、

――しっ!此処に何の用だ?、と言った。

――僕は、羊飼いになるんだ、おじさん。畑も耕すよ。どんな仕事もやるよ、おじさん、と人影は言った。

顎髭の男は、影の子の腕をつかんで中に入れた、

――来い、まず中に入れ、それから話そう、何もかも..........。

かすかに北風が吹いていた。メメドはぶるぶる震えていた。あんまりにもブルブルと震えていて、飛んでいってしまいそうだった。

――ストーブに薪を入れろ!子供が震えている。

老人は奥にいる夫人に言った。

――誰、この子?

夫人は驚いて尋ねた。

老人は返事した。

――神様が授けて下さったお客様だ。

――神様のお客様が、こんな格好をしてるとは知らなかったわ。

と言って、夫人は口元に笑みを浮かべた。

老人は言う。

――見ろよ、ほら!

 

<つづく.......>