思い出の金曜日注1

『アナトリアノート』から

 

レッシャト・ヌーリー・ギュンテキン

(訳)桜井 圭太


私の父は軍医だった。そのため私は子ども時代をアナトリアの小さな町で過ごした。 

学校はあまり好きではなかった。だから授業から抜け出してはモスクに行き、隅にある棺置き場に何時間も一人で座っていたり、死体を洗う台の上に鉛筆で鳥や船の絵を落書きしていた。

教室は子どもたちのざわめきや杖やびんたの音で騒然としている。そこで行われるコーランの読み方、文法、そしてオスマン・トルコ語の授業。そんな「楽しい」授業の時には、私は窓から外を眺め反対側にあるミナレのてっぺんに視点をあわせ、そして早く金曜日が来ないものかといつも考えていた。

私は算数はからっきしダメだった。クラスでも一番できが悪かったろう。しかしそれがこと金曜まであと何日、あと何時間という計算となると、私ほど頭の働く生徒はクラスでは他にいなかった。日曜を終え月曜が過ぎ、金曜日の近づきとともに、私の中の喜びと胸の動悸も高まってくるのだった。もう木曜日にでもなったらば!私は普段とは全く別の子どもだった。笑顔で協調的でまじめな生徒に変わったのだ。

では、それほどまでに待ちこがれた金曜日が、私にくれた楽しみと喜びとは何だったのだろう?

金曜日、私は朝早く目を覚ます。季節は冬、空はどんより曇りがち、雨もしとしと降っている・・・ 私と同じ年頃の子どもたちは裸足で恰好もぼろぼろ、向かいにあった城壁からすべりおりたり棒遊びに夢中だ。その向こうでは前に降った雨のせいで、ちょうど池のようになった溝に船を浮かばせている。ときおりここでは海戦ごっこもおこなわれた。板やブリキで造った船が両側から放たれる。両側から子どもたちは石や土を投げ、それぞれ敵の艦隊を沈めようと争うのである。岩が投げ込まれた時には!まるで魚雷の爆発したかのようにあたりに水が飛び散り、敵の戦艦のみならず子どもたちの顔や目、そしてせっかく着てきた金曜日用の晴れ着まで泥だらけ・・・・まあここまでくると、あとはつかみ合いの「戦争」が始まる。

ただ叩いたり蹴ったりというのはこの海戦ごっこに限ったことではない。あの頃はどんな遊びでもそうだったのである。

さあ私の話をしよう。私も外でみんなと一緒に遊びたかった、しかしいつもまるで篭に入れられた鳥のように、彼らを窓からただ眺めるだけだった。なぜなら私は、彼らと遊んではいけないといわれていたからである。それは私が、彼らから悪いことや悪い言葉遣いを学ぶことを親が厭がったからである。しかし学校に行くと彼らがいる。ましてや彼らは私のいい友達だった。あの墓のそばの学校という一つの鍋で、親の心配もよそに私は一緒にぐつぐつと煮られてしまっていたのに。でもそこまでは親は考えなかったようだ。とにかく私が帰宅後、彼らとともにいるのを厭がったのだ。第一あの日のけがのことを両親が忘れるはずがない。ある日私は親の目を盗んで石合戦に加わったが、口に大怪我をして帰ってきた。私は三日間ものあいだ口もあけられず、食事の時には哺乳ビンでミルクをすすり、壊疽の危険にも晒された、そんなあの時のことを。

***

昼御飯がすぎると父の部下の仕事も終わり、わたしは彼の手をとって外にでるのだった。雨がぽつぽつ降っているが、もし雨が降らずに石が降っていたとしてもそんなことは構いやしない。行こう、わたしにはお楽しみの場所があったのだ。

大きなモスクの前には棺を置くための台があるのだが、この季節になるとその上に必ず一、二個棺が置いてあった。私が死んだ人のことを知っていたかどうかなんて関係ない。ただ私たちには少しでも心を楽しませ、興奮させてくれるものが必要だったのだ。またこんな風に葬式に加わるということ自体、そもそも宗教的によい行いでもあった。

棺のそばにはいろいろな男たちが歩いている。私たちがもっと早く出かけていれば、家で行われた出棺式の様子を見られたのだが残念だ。しかしここでだって時々泣きあったり、大声をあげたりする様子を見ることができる。私たちはそれを見て気の毒だと思う。そして死者がどのように死んだのかをまるで物語でも聞くように聞く。そのあと子どもも、兵隊も、先生もみんなで一緒にぞろぞろと行列をなして墓地に向かう。そして死体が墓の穴におろされる時には大人たちの足の間から死体がまとっている白い死装束を何とかして見ようと頑張る。そしてやっとタルクン注2の番である・・・・

死者が墓地に入るや否や、尋問のために天使ミュンキルとネキルがやって来て、杖で死者の頭を押しながら尋問するという。そしてタルクンを読むイマーム注3は、この尋問に応える死者に対し、答えを密かに教えるためにささやく。まるで私たちが授業中当てられた生徒に、密かに答えを教えるのに似ている。時々天使に棒を喰らった死体が痛い痛いとうめくことや、恐ろしくなったイマームが二、三歩後ろに下がるということを、友達や宗教の授業の先生から聞いて私は知っていた。

遊ぶことも許されず、楽しみもなかった子どもにとって、これより鮮やかなドラマなどあっただろうか?

みんながその場を立ち去った後も私はなかなか帰りたがらず、父の部下は私をなかなか墓地の外へ連れ出せなかった。私たちは糸杉の後ろや、石がおいてあるところに隠れた。そしてタルクンを詠むイマームを観察し耳をそばだてていた。当時は今のように弔辞をのべたりしなかったため、埋葬式は早く終わるものであった。

時には墓石の間を歩きつつ紙片に

「私が気の触れたナイチンゲールだったとき、この墓を見たことがある」

「不幸な母、と嘆き涙を流した」

といった墓石に書いてある一つ二つの章句を書き留めてから、墓地の外に出たりもしたものだった。

夕方まではまだ時間がある。小雨はまだ降り止まない。

私は父の部下と手をつなぎ、誰もいない路地を歩く。そうこうしているうちに私たちはポケットのお金でお茶を飲みに行く。カフヴェは人でいっぱいで、タバコの煙もいっぱいである。タヴラやトランプの音のせいでなにも聞こえない。この騒音の中で、木の椅子にちょこんと腰掛けて眠ってしまっている老人もいた。さあ、また通りにでるとまた雨だ。

しかし夕暮れは近づく。あんなに待った金曜日だったがなんなのだろう?いざその日になってみると、朝は次の日の土曜日の事が頭をよぎり、時間がたつにつれてつらさが増してくる。そして最後には耐えられないほどの苦しさで胸が張り裂けそうになってしまう。

父の部下の靴は鋲がついていて、歩いているとこつこつと不思議な音を出す。この音は私にとって、子供時代の金曜日のつらさを表す音となっていた。

金曜日の夕暮れには、夕方の礼拝へと向かう私と同年齢の子どもたちを見かける。もう少し大きい子どもたちは足取りも重く街と学校へと戻っていく。夕暮れの路地は兵隊の靴のあの不思議な音でいっぱいになる。遊び足りない人々を引っ張っていくかのように・・・

現在の私の中に、この時期のことがどんな形で残っているかはわからない。ただ今は私がまるで人生を逆方向に生きているかのように、あの頃よりも今の自分の方がもっといきいきとして、活発であるように思われる。

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今日の学校はもうあのかつての姿と違う。そこではかつてのように子どもたちが退屈しているということはない。しかしアナトリアの小さな街では、いやいや大きい街だって、新しく休日になった日曜日は、やはり昔の金曜日そのものである。

冬のアナトリアを旅すると私は見るのである。やはり霧に包まれていたある休日。泥だらけ路地で三人、五人づつの子どもたちのグループ。さらにこのなかにはカスケット帽をかぶった女の子たちも加わっている。あるグループは家畜小屋の扉にも、洞窟の入り口にも似た映画館の前にある15年前のアメリカの西部劇の広告写真の前でどうしようかと迷っている。

向こう側ではほかのグループが、泥の中にうずくまっている駱駝や、蹄鉄工の店の馬車輪を修理している車を引くトラックの周りに群がっている。もっと向こうでにはガスのボンベや穴のあいた買い物篭なんかをそれでサッカーでもするように蹴っていたりもする。そんな光景に加え、職を失い気が立っていたり何か腑に落ちぬ事でもあったのだろうか、喧嘩や騒ぎというものにも不足しなかった。そんなこんなで夕暮れは迫ってくる。街の中や寄宿舎へ戻る人々の群が見え始める。そのとき路地は、あの私が子どもの頃私を狂わせた軍靴の音、夜警の持つ杖の音のように歩道に響くあの重い音でいっぱいである。

私はこの音をとてもよく覚えている。家に帰るときあの音をならしていた子どもたちがどんなにつまらなかった一日を、そしてどんなに鈍い色の休日を過ごしてしまったかを私は知っている。

かつての金曜日が持っていたこの不幸な退屈、新しく休みになった日曜日注4はそうであってはならない。私たちは休日には必ずいきいきとして喜びを与えてくれる何かを考えなくてはいけないのである。

 

1.共和国の成立前まで、金曜日が休日で、日曜日は休日ではなかった。

2.イスラームでは、死後、裁判が行われ、その人の生前の行いにより、天国に行くか、地獄に行くかが決定される。その時の模範解答を葬られる前にイマームが死者に教える。それがタルクンである。

3.モスクの礼拝指導者

4.共和国成立(1923年)語、1925年に新暦が制定され、日曜日が休日となった。