白い庭で

 

トムリス・ウヤル

(訳)小原 智博


側のベンチにおとなしく座っていた少女は、突然母の秘かな桎梏から逃れた。校庭の向う端まで、番人小屋のあるあたりまで、走った。頭を柵の外にだし、見た。

濃い霧が空にたちこめていた。校門の前のスィミット売りとポアチャ売りが昼休みを待っていた。朝からずっと。

まず一台のトラックが通りを過ぎた。続いて肩に十枚づつコートを着込んだ洋品店の見習いが、つぎに紙を運ぶ人夫がトラックから荷を下ろした。

騒音や罵り声、警笛の音が次々に聞こえてきた。

外の騒音にも関わらず学校の中では、屋根の縁に止まっていた一羽の鳩が、その銀の羽も静かに、白い庭を見下ろしていた。

ひとしきり遠くで蛇口から落ちる水滴の音を聞いた後、白い羽をはためかせ、曇りない空の一片へ、空と平行に流れゆくような大通りへと向かって飛び立った。

 

――水晶の沈黙とは、たぶんこれなのだろう

 

いま校庭には、霜の降りた無人のベンチのほかには、鳥のいない時計台があった。葉を落とした一本のマロニエ、生徒のいないバスケットコート。どの季節にも変わらない梢高いプラタナス。

霧から成長した雲は、ある時は群をなしひとつになり、ある時はポツンと離れようとしながら新たな形へと変化していった。休むことなく。

 

一時太陽がその最後の努力をもって雲の間から抜け出たが、空にただ自身によく似た太陽の影を描くことしかできなかった。

すでに季節が変わっているにもかかわらず、木の葉は、校舎の壮大な正面にからみつき続けていた。音もなく。葉は、透明なこわれやすい黄色の先端と抵抗を諦めない濃い葉脈で、巧みにらせんを描き校舎の正面を覆っていた。小さなそよ風にも影響を受ける力ない葉は、時々ふるえ、枝からぷつりと切れ石畳に積もっていった。壁のわきには早くも枯れ葉の積もった山が出来ていた。足音を柔らかくする枯淡な色の山だった。

少し前の太陽の最後のかがやきで、それらも一瞬燃え上がったが、やがて気難しい赤さにまた閉じこもった。

――ざくろの花は一年ごとに!

少女よ、柵から外を眺めているがいい。ギョズテペの昔日の庭では、いつも少女たちが見慣れている一本のマロニエ木のが、葉にその時期の高貴な太陽の光を吸い込んでいた。

その時、ぜんまいが緩み、螺旋が開かれ、幻想が記憶のくぼみから下に濾過された。

突然一本の忍冬(すいかずら)が、内に秘めていた柔らかい芳香を秘かに外へ漂わせた。

 

ギョズテペのその庭には、マロニエの傍に井戸があった。その底無しの深さが目を奪い、眩ませる井戸であった。井戸の側にも無限に空へ達するような一本のサクランボの木があった。

少女は忍冬が咲く窓から外を眺めていた。見たものは、まずマロニエ、そして井戸、次にサクランボの木だった。

 

マロニエが自由に枝を伸ばした空き地で、井戸とサクランボの木は、ともに、深遠から成長しつつあった。命の内側で秘かに成長し、それ故、命を、耐えがたく、それでいて美しいものとする、二つの顔を持つ「死」の象徴のようだった。それははるか遠くにあるにもかかわらず、具体的で、計測できる深さをもっている。

少女はそれらを見るとき何故だかいつも鳥肌が立つのだった。琥珀色の時間の破片へと逃げ込み、目を閉じるのだった。しかし目を閉じても、太陽に焼けたまつげの前に、深遠から沸き上がる黒い点の数々が押し寄せた。

それにストーブがあったのだ、本当は。居間の真ん中に。そしてストーブの傍の長椅子には大小様々の、色とりどりのクッションがあった。

日が早く暮れる季節には母と父、そして少女はそのストーブの回りにへ集まったものだった。食事のあと母が食器を洗うとき、父は時計をいじっていた。時計に数珠や小さなベル、ガラス玉などを重りにして吊るした。すべての時計が一分づつずれて鳴りだすようにしようとしていた。

のっぽの振り子のじいちゃん時計、カッコウのついたおじさん時計、部屋の入口にあるおばさん時計、すべてが一分づつずれ、それぞれの個性、それぞれの音色で時間の過ぎたことを知らせたものだった。

父は地震や、不意の風から時計を守るため、時計の周りにガラス窓をはめさせた。正確な時間を知るためにではなく、部屋を、そして家を暖かくする一種のまじないをかけるために。時間には関係なく、むしろ、時間をだますために。

少女は長椅子で母の湿ったワンピースに頭を置き、眠る前に時計一つ一つに聞き耳を立てたものだった。しかししばらくすると驚いて飛び起き、耳を母の膝にきつく押しつけ、外から家に降りかかってくる容赦ない生活のあれこれを聞かずにすませるために、琥珀色の、内面の沈黙へと逃げこむのだった。

ある晩、少女は長椅子に母が見当たらなかったことを覚えている。クッション、カバー、すべてがあるべきところにあったが、母はいなかった。それ以後、二度と帰ってこなかった。死は、長椅子の上の空白、それだけだった。死には、魔法的な、人を酔わせるような側面などないことをその日知った。死は、あるものが突然その場所からいなくなること、しかし同じチクタクいう音が続いてゆくことを意味した。

少女――三分のあいだ中年の婦人の過去と重ね合わせられていた少女――は、兄が校舎から出てくるのを見、駆けてきた。そして戻ってきてベンチのさっきまでの場所におとなしく座った。

メフリカ先生は、琥珀色の沈黙を叩く外の世界の話し声を聞いた。

「いくらかかった?上げたお金は足りたかい?」母親が聞いた。

息子は恥ずかしがった。「五百リラかかったよ。」

母親は息子の顔をすぐには見ずに、財布のなかの小銭入れから旅費を選り分けているようにみえた。

「アリーのお母さんは四百リラって言ったのに............」

「でももう一冊本があるらしいんだ。ドイツから来るんだって。お金は前払いで渡したし、僕の名前もノートも書いてもらった。だってちょっとしか送ってこないみたいだから。」息子はあわてて言った。

その表情にはあからさまに問えなかった質問の気恥ずかしさがあった。「僕何かいけないことしたの?」

しかし急に彼は優しい笑い声に自分を委ねた。

「ねえ、お母さん、どうかしちゃったの?」

彼女は息子をきつく抱きしめた。自分の体温を彼の上で測るかのように。そして、いつまでも抱きしめていた。

あまりに心からの、友情すら感じさせる抱擁だったので、一瞬母子は同い年になったかのようだった。

少女は遠く取り残されていた。

「私も本見ていい、お兄ちゃん?」少女は言葉をはさんだ。

「いいけど絶対汚すんじゃないよ。」母親は言った。「お前も大きくなってお兄ちゃんみたいによく勉強する子になるんだよ。」少年に目配せをして、「お前にも本やノートを買ってあげる。クレヨンだって何だって買ってあげる。」

「この本があるよ。」少年は自信を持って言った。「中学では、ずっとこれらの本を読むんだって。学校が終わるまで。」

「その日まで死なないで元気でいればね。」

 

――その婦人がそこから立ち上がること、子供たちと一緒に校庭から出ること、坂を下りるとき突然よろけること、胸をつかんで地面に倒れること。死は、たったそれだけのことだった。

 

母親は、傍らのベンチに座っている身ぎれいな夫人に――たぶん教師だろう。手にノートを一冊もっていた――、少し説明しなければと思った。

「遅れてきたもので。」と、礼儀正しく言った。「他所から新しく来たものですから。息子の転校にちょっと手間取りまして。」

メフリカ先生は琥珀色の沈黙から現実にもどった。そして一年の間ずっと油やプロパンガスや粉石鹸を買うために一緒に並ぶことで身につけた、隣の奥さんの声で彼女を慰めた。

「大丈夫ですよ、奥さん。毎年、遅れてくる子はおりますから。すぐ他の子達に追いつきますよ。」

「わかりませんよ。」母親は言った。

不安そうに空を見た。

「私ども学校など行ってませんので。」

そして彼女に親切に話しかけてくれたこの都会人らしい教師に、とてもとても重要な秘密を漏らすかのように身を乗り出した。

「コウノトリたちもずっと前に渡ってしまいました。そう、ずうっと前に。」

 

どの台詞がより前のだったのだろう。

何故ならその瞬間、携帯ラジオからニコラキのサズの音が音高く聞こえてきたから。

サズの音が大きくなるにつれ、胸の深いところで忘れ去られていた、指の先で待っていた、瞳の淵にたまっていた、ある澱が溶けだし、表面ににじみ出てきた。

まずメフリカ先生の背に、一年の間失われていた、ぶ厚い過去を背負った七月の太陽が照りつけた。

エレンキョイのある春の夜............。蛍の火以外に光はない。一人の若者と手を取り合って海へ真っ直ぐ歩いている。そしてしばらく立ち止まり、あり得ないものを見るかのように空を見ている。その時には彼と一緒に見ているが故にまるでありえないことのように感じられたエレンキョイの春の空。

サズの音が弱まった。弱まったがしかし影響は変わらなかった。あたかも乱暴な手が過去をかき乱し、目の前に乾燥したラヴェンダーの花をぶらさげたかのようだった。

音楽が放つ最後の光で、メフリカ先生は彼女自身の姿を見た。すぐ先の石畳の欠けた窪みにたまった雨水に浮かぶ幻に目をこらした。

細い紐のエナメルの靴を履き、傘を女王の杖のように携えた一人の婦人を、波打つ雨水に見た。格子縞の裏地のついたパステルカラーのレインコートと、羊毛の帽子と同系色の明るい絹のスカーフと、色あせた、しかし高価な香りとを一つにした細やかさがその婦人にはあった。実際には、彼女は鉤鼻で足の太い只の婦人に過ぎなかったのに。

見知らぬ女性たちや彼女の生徒たちと接していて突然感じられる、そして、その影響を彼女が受けつづけた女性的なものが、その婦人にはなかった。どちらかといえば絶え行く血筋の、若い世代には遠いものとなってしまった文化の守り手のようだった。

 

 

――いつも変わらない型でしか考えられず、共通の幻想へと逃げ込む、取り残されし者!エレンキョイという言葉から連想されるものを、エレンキョイから区別できぬ夢想家の一人!

 

一年ものあいだ煉瓦色の瓦礫の山や、枯れた木々や、ぬかるんだ道を通り抜け、どこともつながっていない駅の架橋をあるくことは、そして毎晩、悪夢の暗闇からもうこだまさえも残らない昔のギョズテペに、空っぽの家に、バターの包み、石鹸の粉、殺虫剤しかない家に帰ることは、その罰ではなかったのだろうか?

「大丈夫ですか、奥さん。どうしたんです?」

母親は立ち上がっていた。娘のオーバーのボタンを止めていた。

「大丈夫です、奥さん。」メフリカ先生は枯れた声で言った。

「それでは、私たちはこれで。」母親は言った。「またお会いしましょう。もしかすると、先生がうちの息子を教えてくださるかもしれませんしね。」

「お気をつけて、奥さん............。そうですね、もしかすると。」

 

暗い過去に向かって。道を急ぎ............。

一年前のことだった。

唇の上隅はまだ痺れてはいなかった。まだ、声も自分の声だった。

言葉と、表層下の意味とのあいだに乖離はまだなかった。

これから先、何年も、冬のはじめに、生徒たちに話をし、教え、そして外で起こり過ぎてゆく恐ろしい騒動や混乱から、そして死から彼らを守るはずだった。

彼らと語るはずだった。共に討論会を開くはずだった。

彼らが聞きたいことを聞き、言いたいことを言い、学びたいことを学べるように。

(ああ、孤独に陥らないように!)

去年のこの季節であった。

(孤独に立ち向かうように!)

去年のこの季節、討論会のあとだった。

(過去と文化の絆を失わないように!)

今あの婦人が子供たちと一緒に出ていった校門のところで立ち止まったのだった。そして彼女は見た。しかし自分の目が信じられなかった。

ムラトとセルマが――彼女のクラスの一番よくできる生徒であった――、ドアがきちんと閉まっていない車に乗っていた。手を振っていた。

「止まって!」メフリカ先生は叫んだ。「止まれって言ってるでしょ!」

 

――――車が坂を下りた。それだけだった。

 

「止まって!」

鞄を放り出し、駆け出した。

次に傘を放り出し、息を切らして。

車はすでに辺りにはなかった。

「何か聞きたいことがあれば私に聞きなさい、私に!」最後に聞いた自分の声だった。「私に聞いてって言ってるの!」

 

ベルがなっていた。

ということは二十分だ!せいぜい二十分!一つの全体を、一つの生を、そしてすでに二つに分けられてしまった人格の部分を、全てを、集めることに費やした時間は............。このたった二十分間に............。

これは一つの肉体の記憶だった。長かった。そして必要なことだった。

メフリカ先生は髪をなでつけた。ノートを、書きなぐった文字を、今日の日付を、今日の授業の題目を、見た。

――彼らが売りしものは 皆魂の産物

――彼らが得しものは 密やかな情熱

「つまり今日の主題は、はやり、『美と愛』*」

 

* 18世紀後半のディーワーン詩人シャイフ・ガーリブによる神秘主義的傾向の強い説話風の文学作品。