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安藤直美さん (1989年卒業)
                                              

*プロフィール
1994年、ミズーリ大学コロンビア校ジャーナリズムスクールにて修士号取得。1996年、ジョージタウン大学現代中東事情センター修士課程中退。2000年、在京サウジアラビア大使館勤務の傍ら、NPO法人難民支援協会(JAR)の理事を務める。2002年5月、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)ガザ本部広報室、2004年4月より10月まで同機関の渉外部勤務。

なぜ紛争地で働くのか

私が在学当時はまだ最初の湾岸戦争勃発の前の時代であり、一般の人の中東への関心は今程高くなかった。語学にはあまりうだつのあがらない私であったが、指導教官の藤田教授の中東事情の講義の中でパレスチナ難民が書いた本を教材に使っていたことがその後の私の人生に大きな影響を与えた。私が在学中にパレスチナにおいて最初のインティファーダ(民衆蜂起)が勃発したことや、エドワード・サイードの「イスラム報道」等の翻訳本が当時出版されだしたことも影響した。数年後には米国において日米の中東報道分析のテーマでジャーナリズムの修士号取得。パレスチナ難民という人道問題からその他の国難民や移民問題にも関心を持ち、帰国後は日本国内における難民問題を取り扱うNGOの活動にも参加した。関心を持ち続け、何らかの努力をしていれば機会は訪れる。

2002年5月私はガザに本部があるUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の広報室で働くことになった。それはすでに第2次インティファーダが激化している時であった。

何故ガザのような紛争地で働くのか、東外大在学中に持った難民への関心は今から考えると非常にナイーブなものであったかもしれないが、その当時の感情が自分の中での源泉となっている。現地のことに関心があるのが相手に伝わるとたいていの場合、快く迎えられそしてこちらのことにも関心を示してくれるものだ。仕事以外でも現地の人と交流を持ったり、私的な時間で可能な限り現状を知るためにパレスチナの様々な場所を訪れた。

関心が強ければ、仮にその当事国に自分が身を置かなくてもできる仕事や活動はたくさんある。が、私は自分の目で現状を確かめ、それを外の世界に伝えるという仕事を望んだ。  

治安が不安的な状況で果たして自分がどれ程巧みに仕事をこなし、また現地での対応ができていたかはわからない。しかしパレスチナで働いたことは私にとっては東外大在学中から抱き続けていた関心を職業という形で実践することであり、かつ今後私の中における関心をさらに深くさせるものであった。また異文化に身を置くこと、さらには平和な日本人には想像することすら難しい現地の状況に身を置くこととは、単に他への知識ではなく、自分とは何か、どう感じどう考えるか、何ができるか、などを常に考えることでもあった。