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松尾博文さん(1989年卒業)

                                       


*プロフィール
1989年日本経済新聞社入社。現在編集局産業部次長。



二〇〇三年四月九日午後、イラク・バグダッド中心部にあるフェルドース広場に集まった市民がサダム・フセイン大統領の像を引き倒した。興奮した市民に完全武装の米軍も加わる。イラク戦争の開戦から二十日、右手を掲げる独裁者の像がゆっくり崩れ落ちる様は、文字通り政権の崩壊を世界に印象づけた。

 私はその日、ペルシャ湾の島国バーレーンにいた。イラク戦争の取材拠点で翌朝の新聞記事執筆に追われながら、連日の睡眠不足から解放されることへの安堵感と、この結果がもたらすイラクの将来への不安が入り交じる複雑な気持ちでバグダッドからの映像に見入っていた。


 新聞社に入社後、二度の中東勤務(テヘラン支局、カイロ支局)を通じて、中東・イスラム世界を自分の足で歩く機会を得た。東はアフガニスタンから西はモロッコまで、多彩な文化や人々の間に身を置くことで、中東が刻んできた歴史に直接触れることができた。

 メソポタミア文明を育んだ二つの大河、チグリス川とユーフラテス川はイラク南部のクルナで合流し、シャトルアラブ川となってペルシャ湾に注ぐ。クルナはアダムとイブが禁断のリンゴを口にしたために楽園を追放されたとのいわれがある場所。今もそのリンゴの木とされる老木が残る。


 イラク戦争の開戦直前、老木近くの合流点に立つと、流れの両岸に立ち枯れたままのナツメヤシ林が広がっていた。林の向こうはイラン領。ここは一九八〇年代にイラクとイランが数t刻みで領土を奪い合った戦争の激戦地でもある。

 今、この一帯に世界中の石油会社が熱い視線を送る。なつめやしの下に手つかずの石油が眠っているのだ。「この前までロシアとフランスの技術者でいっぱいだった。次に来るのはアメリカか、それとも日本かい」。合流点に立つおんぼろホテルの支配人が物憂げに聞いてきた。人類誕生から石油まで、クルナには様々な記憶が凝縮する。

 フセイン政権が崩壊して三年半、残念ながら不安は的中し、イラクは米国が描いた安定とはほど遠い状況が続く。複雑な民族・宗派の対立が火を噴き、隣人同士が憎み合う内線寸前の状態にある。中東の気の遠くなるような歴史は決して「過去」ではない。延長線上にある「現在」に濃密に影を落とす。歴史の目撃者としてどう世界と接するのか、東京外国語大学はそのきっかけをつかむ場所だったと考えている。

(2005年秋記)